秋山×桐生 R-18「夢には程遠い」 本文サンプル

 

 雨季に差し掛かった熱い日の夕暮れ、男は額に浮く汗を掌で拭いながら車のドアを閉めた。

 少し前に動かなくなったエアコンは都合よく復帰することなどもちろんなく、押し黙ったまま送風口をたださらしている。
 安物買いで選んだのはやはり失敗だった。今度こそはあのよく出回っている日本製に買い替えてやろう。
 数週間前に思案していたことを再度反芻して、男は足早に空港へと向かう。
 出迎える筈だった便は既に到着しており、無事入国手続きを終えたその人物はカフェテラスで一服していた。
 目に留まった顔は事前に受け取っていた写真に写っていたそれと同じだったが、衣服は印象的だったスーツではなく、派手なシャツと細身のパンツ姿だった。
 日本人――それもそこそこ金回りが良いと伺える風体。ただラフな出で立ちとは相反して、観光客にはどうやっても見えなかった。
「どうも、初めまして」
 目が合った男はその日本人に近付き、日本語で挨拶する。控えめな笑顔を返したその人は、すぐさま立ち上がってこちらの挨拶でそれに応えた。

 男がこの仕事を始めたのはもう八年ほど前のことだった。
 元々電気部品のメーカーに営業として配属され、仕事の関係で学生時代から得意だった語学を深めていった。日本語を覚えたのもそのタイミングで、取引先の紹介で会った日本人女性と交流したり、簡単な現地ガイドを引き受けたりと縁があった。
 営業成績自体は悪く無かったものの、会社自体に魅力を感じていた訳ではなく、貯金が目標額に達したのを機に会社を辞め、学んだ語学を活かして今の仕事――所謂便利屋を始めたのが八年前だった。
 業務内容は国内での手続き代行、移住の手伝い、観光ガイド等多岐に渡る。
 利用者も法人、個人を問わず、ある程度の無理も料金と状況を加味して引き受けることが多かった。
 そんな中でも一際特殊だったのが今回の話だ。ある意味では胡散臭ささえ感じる相談を受けた理由はいくつかあった。その中の一つが、仕事内容に余る料金に加えて、相手の真剣さが伝わる文章だった。
 仕事柄あらゆる人間を見てきた。性別、職業、国籍や宗教といった様々なものを飛び越えた人間と接してきて、人を見る目には自信があった。
 相手との間にはあくまで事務的なやり取りしかなく、感情的なものは何一つ見えなかったが、その言葉の端々から隠し切れない真剣さが滲んできていた。いわばその強い思いに、応えたいという気持ちがあったというのが、一つの理由だった。
 助手席に座るその人の横顔を盗み見る。暑い車内に文句一つ言わず、男はまっすぐに前を見据えている。
 市内を通り抜けた車は、裏路地の小さなビルの前で停車した。

 事務所といっても個人事業主で何かと出歩いていることが多い為、その部屋は殆ど自宅代わりと言ってもよかった。
 簡素な作りの階段を上がり、灰色の妙にしっかりとしたドアに鍵を差し込む。
 開いた扉の先にはこれまた簡素な部屋が広がっていた。ソファに机、備え付けの家電。必要最低限の機能を持った家具が、必要最低限の数だけある。
 唯一事務所らしいオフィス机の前には、珍しく人が立っていた。
「待たせたな」
 男が声をかけると、背を向けていた人間はゆっくりと振り返った。ブルーのカラーシャツとチノパン、日に焼けた精悍な顔つきの男は、夕日に目を眇めながら首を振った。
「よろしく頼む。何かあったら俺の電話にかけてくれ。――じゃあお客さん、メールで伝えた通りなんで、よろしくお願いします」
 少し後ろで控えていた客の男は、声をかけられて足を踏み出した。視線は先程の車内と変わらない。まっすぐ前を――ブルーのシャツを着た男を見据えている。
 視線の先にいる男は、その眼差しをただ受け入れていた。便利屋の男は利用者と同業者の顔をちらりと見て、部屋を後にする。
 ドアノブに手をかけ、外へ出る寸前、伝え忘れていたことを、同業の男に言い置いてから。
「日本から来たアキヤマさんだ、よろしくな」
 多種多様、あらゆる仕事を受けてきたが、とりあえず時間を貸せという内容は初めてだった。
 アキヤマと名乗るその日本人から初めて受け取ったメールは至ってシンプルだった。現地に行く予定があるのでそれに合わせて時間を借りたい。金額はこちらの相談に応じる。
 先に触れた通り怪しい話ではあったが、やり取りの中で信頼できる相手だと判断して引き受けた。
 仕事の進め方や基本的な形態をあらかた説明したところで、軽い世間話になった。自分が仕事を始めた経緯を話し、同じようなサービス業らしい相手の仕事についても聞く。
 小さな事務所だという相手の言葉を受けて自分も一人でやっていると返すと、アキヤマはあくまで世間話という体を崩さず、同業者は多いのかと尋ねてきた。
 規模にもよるが似たようなことをしている人間はそれなりにいる。そんな自分の答えに、例えば日本人も、と続けて問いかけてきたアキヤマの返事を見て、男は何となく察するものを感じ
た。
 それこそ規模や内容を問わなければ、他にも該当する人間ないし組織が見つかるだろう。ただ男の脳裏には一人の日本人が咄嗟に浮かび、おそらくアキヤマが求めているものがそこにあるのだろうと見当付けていた。

 彼と初めて会ったのは五年程前のことだった。
 たまたま仕事の関係で立ち寄った観光客向けの通りで、相手はちょうど手に入れたばかりの財布を持ったスリを締め上げていた。
 余程悔しかったのだろうが、他国でスリに遭いわざわざ捕まえに行くなど通常では考えられない。相当腕に自信があるのか、あるいは考えの浅いうっかり者か。
 人だかりの中からちらりと覗いた姿は強面かつ屈強で、おそらく実力行使に出た理由としては前者だろうが、それにしても異質なことは確かだった。
 どこからともなく聞こえてきた会話によれば、盗られたのは自分の財布でなければ知り合いのものでもない、ただ通りすがりの観光客のものだったと分かり更に驚く。男はつい足を止めてまじまじと彼の顔を見てしまった。
 老けて見えるが実年齢はそれほどでもなさそうだ。アジア系の顔立ちながら彫が深く、鋭い目つきはどうにも観光客らしくない。
 一体何者なのだと伺っていると、うっかり彼と目が合った。男は一瞬戸惑ったが試しとばかりに大きく口を開いて話しかけてきた。――これから、どうするんだ。
 彼はいやに迫力のある瞳を丸くして男の顔を見つめ、とりあえず警察か、と唇を動かした。訊かれても困ると内心苦笑しつつも、予想した通り日本人だと判明して、仕方なく彼に歩み寄る。
 話しかけたのだから、もう少し面倒を見てやろう。幸か不幸か、彼の扱う言語には覚えがあ
る。そうやって知り合ったのが始まりで、それから約五年にもなる付き合いが始まった。
 殆ど身一つでやってきた彼の生活や、住まいの確保を手伝ったのは紛れもない男だった。何をそこまで親切にと我に返らないこともなくはなかったが、日本語の慣用句―乗りかかった船だという認識は終ぞ男から離れなかった。
 彼は彼で言葉こそ怪しいもののその腕っぷしの強さを買われて男の紹介から始め、いつの間にか同じような便利屋稼業に似た仕事を始めていた。
 初めて稼いだ金はといえば最初の利用料や相談料だといって有無を言わさず押し付けられた。仕方なく正規の金額を受け取って、それ以降は同僚のような世話を焼く同業他社のような、そんな奇妙な関係を続けている。
 しかしながらどれだけ月日が経とうとも、その人物は彼としか言いようがなかった。
 手続き上彼の名前らしきものを目にすることはあったが、男は一度も彼を名前では呼んではいなかった。大体が『あいつ』や『お前』で事足りるし、顔見知りになった人間もあの人やあの男の人といった呼び方をしていた。そもそもその名前すら本当のものかは分からない。
 おそらく、いやほぼ間違いなく、彼には複雑な事情が存在する。しかしながら男はそれに立ち入る必要性を感じなかった。
 仕事上、事情を抱えて渡航してくる人間もよく見てきた。よくあることだと言ってしまえばそれまでで、明日その身を見なくなったとしても驚くことではない。
 ただ驚きはせずとも少しの寂しさを覚えるだろうとは思う。そんな程度には親しみを覚えているのも事実で、だからこそ不用意な物言いは避けたかった。
 男が望んでいる今の状況を、わざわざ土足で踏み込んで、あまつさえ壊してやるようなことはしたくなかった。

 そう考えていた中に舞い込んできたアキヤマの依頼は、男にとって当初持て余す案件以外の何物でもなかった。
 もちろん先に触れた通り、アキヤマ自身の至極真剣な言葉も思うことはある。ただ不必要に立ち入らないと決めているのはどちらかといえば仕事における方針のようなもので、当然ながら彼以外の人間にとっても同じことだった。
 核心はないものの、おそらく彼の触れられたくない部分に係る日本人との接触を、容易に受け入れて良いものか。仕事、偶然、言い訳になる建前はいくつかあった。しかしながらどこをとっても男の中には後ろめたさが残り、暫く思案した者の結局本人に訊いてみた。
 ――日本からの客で、とりあえず身体を貸してくれと言われてるんだが、俺の手が空かなかったら回してもいいか。
 ――相手がいいなら、俺はいいが……俺に出来る内容なのか。
 ――詳しく聞けてはいないんだ。だがまあサービス業をやってるらしいし、多分仕事の下見か何かだろう。歳は四十代で名前が――
 アキヤマ。
 告げた瞬間、彼はゆっくりと瞬きをした。まるでそう告げられるのを心のどこかで予期していたような表情に、男は自分の想像がそれほど的外れのものではなかったのだと悟る。
 一瞬責められるかとも思ったが彼は何も言わなかった。もし都合が悪いのなら、そう言いかけた男を遮って、彼は男に一言一言を噛み締めるように繰り返した。
「俺でいいなら、俺は構わない」

 お前で、ではなく。きっと相手はお前がよくて、その為に海を越えて来るのだと。あの時差し出がましく言ってやればよかったかと、男は未だに考える。
 上ったばかりの階段を下りて、すぐ前に停めていた車に乗り込む。短い時間でも熱気がこも
り、焼けつく暑さの中で煙草を取り出して咥えた。
 ――少しの寂しさを覚えるぐらいには親しみがある。だからこそ、彼にはこれ以上の後悔を積み重ねてほしくない。
 乗りかかった船を自分で漕ぎ出す気かと自嘲して、男は汗を拭いながら咥えた煙草に火をつけた。
 
 不意に鳴り響いた機械音が沈黙を割く。
 それを合図に、止まっていた時間が動き出したのを感じた。おそらく、二つの意味で。
アキヤマは深く息を吐き出して、ポケットから取り出したスマートフォンに目を向ける彼を見つめた。
 俯いた顔には見覚えがある。最後に見た顔と同じ表情だ。いや、違ったかもしれない。何度も反芻した筈の記憶は曖昧で、目の前の存在以上に勝る印象など残っていなかった。
スマートフォンから顔を上げた彼は、もう一度ゆっくりと顔を上げた。視線は揺れない。静かに 凪いだ水面のような瞳が、ただじっとアキヤマの真意を探り続けている。
「久しぶりだな」
 言葉に続きかけた『名前』をぐっと押し留める。もうこの世にいない筈の名前を呼ぶことはできない。たとえここが彼の生まれた地から遠く離れた異国であったとしても。
 アキヤマの呼びかけに彼は嘆息し、やがて静かな声で問いかけた。
「何しに来たんだ、伊達さん」