よるがみつからない

 

 耳元でずっと、さざ波のような音がしていたの。
 どこか遠いそれはでもとても現実感があって、私は眠りながらずっとその音を聞いていた。 それはやがてどんどんと近づいてきて、気付いたら波の音じゃなくなっていった。
 ごぽ、ごぽ、こもるような音が鼓膜を揺らして、ああわたしは沈んでいるんだって思った時に目が、覚めた。

よるがみつからない

 ぱちりと音がしそうな勢いで目を開けた。
 広がる薄闇はまだ夜明けがずっと遠い遠いことを示していて、私はもう一度眠ろうとするけれど、 覚め切った頭はそれを許してはくれなかった。
 寝起きとは思えないほど意識がはっきりとしていて、わたしらしくないと自分でも思う。 それでもきっと大好きな羽毛に包まれていたら、すぐに生温い眠りに落ちていけると信じて目を閉じる。 暖かいベッドはいつだってわたしを無条件に抱き留め、全てのことから遠ざけてくれる。
 けれど何故かその温もりは私を背中からじくじくと冷えさせ、耐え切れなくなってがばりと身を起こしてしまった。 軽く頭を振って、気だるい嫌な感覚を追い払う。
 黙ったまま何度か深い呼吸を繰り返していると、漸く少しずつ眠る前の状態に戻ってきた。 わたしは起き上がったまま目を閉じ、耳を澄ませる。しずかな夜のささめきが確かに聞こえて、ほっとした。 まだ眠れる、まだ。もうすこし。
 横になろうかとも思ったけれど、もう少し落ち着くまでと伸ばしていた膝を抱え込む。
 子供っぽい仕草は少し恥ずかしいものの、誰に見せるわけでもないのだからと一人言い聞かせた。 すると掛けていた薄いリネンのシーツがひとりでに引っ張られ、見せる誰かはいないけれどまるきり一人でもなかったのだと思い出す。
 わたしの隣で背を向けて寝るその人は、普段の寝姿とは打って変わって、小さく収まるように眠っていた。 隣のわたしを思ってのことだろう。
 けれどそもそもここは彼女のベッドであって、そこに横入りしたのはわたしの方だったのだから、そんな必要は無かった。
 それでもわたしを気遣うその様は、彼女がどれだけ人を敬え、そうして大切に思えるかをこれほどないまでに表している。わたしとは、真逆のそれを。
 気まぐれに、そしていたずらに、夜中彼女の元へ訪れ、ベッドへ潜り込む日があった。彼女は最初こそ厄介そうな表情を浮かべるけれど、結局いつも拒否はしなかった。
 疎そうに見えて、とかくわたしのことに関しては異様に敏い彼女だ。そういう時のわたしの僅かな綻びや隙間に気づいていて、わざとそんな態度を取ることを、もちろんわたしも分かっていた。
 言うなれば分かりやすい茶番、もしくは薄めきった様式美なのだけれど、わたしたちはいつだってそんな風にしてきた。 わたしがふざけた様で強請り、彼女はそれに顔を顰める。ありふれた姉妹としての、近しい片割れとしての、最初で最後の脆い線引きだった。

 わたしは眠る彼女の背中に、そっと自分の小指を触れさせた。じわりとした温もりが指先を伝わり、身体の奥底まで暖めてくれるようで溜息を吐く。
 彼女が眠っているところを見ることは少ない。
 大抵わたしより早く起き、わたしより遅く眠る彼女だったし、無防備な様を他人に見せるのを極端に避けていた。
 彼女は強がりも多いけれど、心の底から強くありたいと願っていることがよく伝わってきた。
 その強さは力だけでなく、気高く、優しく、少し危うげな彼女の、魅力そのものだった。そんな彼女を、わたしはいつだって見続けていた。
 散らかっていた思考が解け、だんだんと眠りへ近付いていく。 抱えていた膝を伸ばし、ベッドに倒れ込もうとしてふとわたしは、目覚めた理由を思い出していた。
 もちろんあれはただの夢だった。それでも夢にしては生々しく、そして単純だったような気がしてならなかった。 小さな波がぶつかって消えて、深い海に吸い込まれる音。
 たまに見る縁起の悪いそれなのだろうけれど、拭えない違和感に気分が悪い。 眠ってしまおうと身体を倒し、わたしは強引に目を閉じた。
 けれどいつもは安心する微睡みが、沈んでいく感覚を連想させてはっとする。ごぽり、と水の音さえ聞こえる気がして、名前を呼んでしまいそうになるのを顔を背けて必死で堪える。 少し待ち、のろのろと目を開けると、見慣れた背中が目の前に飛び込んできた。 わたしは思わずその、弓なりに丸まった背中にしがみついていた。
 そっと彼女の夜着を掴み、気付かれないように顔を押し付ける。暫くそうしていると、ゆったりと彼女の熱がこちらへと伝わり、今度は別の意味で息苦しくて堪らない。
 ぬるい体温が近づいて、混ざり合って。いっそのこと一つに溶け合えてしまえたらいいのにと思って、その無意味さを知って。
 わたしはシーツを引き寄せ、彼女に重なるようにして背を丸める。 水の音は未だ、ぼんやりと聞こえたままだった。
 悪い夢だと思ったその音はもしかしたら、全く別の暗喩なのかとふと思い、唇が、震える。
 こんなにも近い体温を持つわたしたちが引き合えるのは、ただ深い、海の底でしかないのかもしれない。 想像は途方もなく空しくて、けれど涙は出ない。
 それを言った時の彼女の、くだらないと笑い飛ばす姿を想像して初めて、喉が引き攣れるように痛んだ。
 でも結局、わたしは何も言えやしない。だから泣くことだってない。ないのに。

 押し付けていた顔を離し、わたしはもう一度目を閉じる。けれど分け合った体温が名残惜しくて、掴んだ手だけは離せないままだった。 波の音はゆっくりと遠ざかり、眠りの闇がわたしを包み出す。触れた右手が暖かくて、それだけでもう、何も言えないほどに幸せだった。
 目が覚めたら名前を呼んで、髪を整えて。心地よさそうに太陽を浴びる彼女の、からりとした笑顔に目を細めて。
 そんな光景を思い描きながら、彼女の隣で眠る夜は、こんなにも心を満たすのに。 まとわりつくように包むその夢は、ほの暗い甘美にわたしを誘って離れない。 繋がりを確かめるように手を握り込むけれど、そこには温もりなどなくて、身体を丸めて息を潜める。
 おちていくわたしに手を伸ばす姉の姿が、瞼の裏に映っては消えて。打ち寄せては囁いて。どうしようもなく、いとおしくて。

 それがただ本当であればいいなんて、許されない願いを抱き続けている。