夜明けのコーヒー
とりあえず飲ませて引き込もうなんて、我ながらあまりにも芸が無さ過ぎる。
そう思いながらも結局店に連れ立って来てしまっているのは偏に、自分が少しアルコールを入れておきたかっただけだ。
傾けたグラスに反射する光に目を眇めるふりをして隣を見る。表情に変わりは無いが、どことなく纏う空気が普段より柔い気がする。
幾何かは酔っているのだろう。そう思った途端急に体温が上昇するような気がした。引かれた線が今どの辺りなのか、探るべく口を開く。
「今日は――ホテルでしたよね」
「ああ」
「明日は何時頃発たれます?」
「そうだな……昼には出たいが、明日の状況にもよるな」
――明日の状況。
といっても明日は戻るだけの筈だから、必然的にその意味は今夜、ホテルへ戻るのがいつになるかということになる。 秋山はもう一度グラスを傾けた。
明確な否定は今の所見えない。
だから胸を張ってけしかけられるかと言えばそうではないのだ。躊躇いなくその身を引き寄せられればどんなにいいだろう。
それを遮っているのは年だの、照れだの、そんなもっともらしくもみっともない理由ばかりだった。本当にどうしようもない。
グラスを置き、秋山はポケットに入れた煙草を引っ張り出した。
一本咥えてライターに近付け、ガスが少ないのかなかなか火の点らないそれに苛立つ。最早何に焦れているのか分からなかった。吸えない煙草か、煮え切らない自分か。
こういった関係になっていくら日が浅いとはいえ、初めてという訳ではない。確かに相手は密かに憧憬し、特別に見ていた人物だ。二の足を踏みがちになるのも当然といえば当然だが、そうはいってもそれでは話にならない。
秋山は冷静な頭でそう追い立てながら、店のマッチを貰おうと顔を上げた。
すると横からすっと伸びてきた手がライターを出す。点った火に促されるまま煙草を近付け、一息吸い込む。それから堪え切れずに隣を見た。火を差し出すため寄せられた身体に、肌がぞわりとざわめく。
「ありがとう、ございます」
「いや」
「――桐生さん?」
ライターは引き戻したのに、近付いた距離はそのままで少し狼狽える。
彼はふっと吐息を洩らすと、柔い視線のまま、秋山の顔を伺うように呟いた。
「それだけ、か?」
火の進んだ煙草を指で挟んだまま暫し固まる。
そうしてすぐその誘いに気が付いて、緩む口元を誤魔化すべく煙を吸った。照れどころかこの上なく気恥ずかしい状況になってしまったがもう、それはそれだ。
秋山は大して吸えなかったそれを早々に灰皿へと押し付け、吹っ切れた思いで隣の男を見つめる。
「変えましょう、場所。俺の家はどうですか」
「……そうだな。お前もその方が良いだろう」
桐生の言葉に秋山が首を傾げると、その男はどこか楽しげに、空になった自分のグラスを持ち上げて見せる。
「あまり、進まないようだったからな」
見比べているのは、半分程残った秋山のグラスだ。
酔いを求めていたつもりが結局、気もそぞろでそれどころではなかったらしい。流石に多少ばつが悪かったが、残った酒を飲み干して、秋山はそのまま腰を上げた。
「そうですね――今夜はこの辺で。あとはコーヒーでも飲みましょうか」
「コーヒーか」
「ええ」
含むような物言いはきっと、彼が産まれた頃に書かれた歌のことに思い至っている証拠だ。
それを飲むために朝まで帰してやれないというのに、安堵すら感じられる横顔がただ、愛しくて息を吐く。
立ち上った桐生に並んで店を出る。その間の僅かな距離すら今はもう、もどかしくて堪らなかった。
そのあまりの単純さに苦笑しながらも、待ち望んでいた朝を迎える為に二人、夜の闇を縫うように早足で歩いた。
/夜明けのコーヒー