Wishing

 

 歯を磨いていたら年を取られていた。
 今年こそはちゃんと祝ってやろうと思っていたのに、気が付いた時にはこれだ。
 口に入れていた歯ブラシを慌てて引き抜くが、今更焦ったところでどうしようもない。それでも口内に溜まった泡を吐き出し、手早く漱ぐ。
 別に初めてでも何でもないが、何度か巡ったその日を悉くおざなりに済ませてきている自覚はあった。
 とりあえずなし崩しに及んだり、そもそもそれほど気に留めていなかったり。
 どう扱っていいものか考えあぐねているとはいえ、流石に我ながらどうかと思う。だから今年こそ。そう思って待機していたその日を、まさか鏡に映った自分を見つめて迎えるとは。
 笑い話にもならないと少しだけ焦りながら、部屋にいるだろうそいつの元へと向かう。
 つい先程まで、買ってきた雑誌を広げていた筈のそいつは、糸が切れたようにベッドへ突っ伏して眠りこけていた。
 その様子に一瞬安堵するものの、やり場のない衝動だけが残ってうろうろとしてしまう。
「盾」
 我慢できず、つい名前を呼んでしまった。そいつはぴくりとも動かない。眠って、いるから。
 分かっていながら、確かめるように近付いた。俯せているから顔は見えない。
 黒く短い髪の毛を呆然と眺めて、触れた。起こす気なんて全く無いのに、身体が勝手に動いて抑えられない。
「……盾、今日、さあ……アレだろ、あの」
 指先で毛を弄りながら、歯切れの悪い言葉をこそこそとこぼす。
 いっそ起こして言えばいいものを、そう出来ないのは気まずさだけじゃない。
 口にすれば酷く単純な思いを、今更曝け出すことに恥じらいを覚えない訳がない。しかしそれでも、今年こそはと奮起した勢いを思い出して息を吐く。
 やはり動かないその頭に口を寄せて、どうしても掠れてしまう声で呟いた。
「おめでとう」
「……な、にがだよ」
 少しの間を置いて返ってきた声に、手を除けることも出来ずに固まる。
 眠ったままだったそいつの肩が震えている。笑っているのだと気付いた時には、瞳がしっかりとこちらをとらえていた。
「で、何が」
「いやだから……アレ、アレの日が」
「アレの日って何だよ」
「……誕生日、が」
 どこか楽しげに目を細めるそいつに、詰問されるように言葉を引き摺り出されていく。
 どうせ言うつもりだったから別に構うことはないが、余計な居心地の悪さを噛み締めさせられているようで癪だった。
 いつから起きていたのかなんて問い質したい思いもあったが、より墓穴を掘る気がしてぐっと留めた。
「ありがとな」
 それでもそう言って笑う顔を見て、そんな葛藤も紛れてしまうのだから単純だ。
 指で触れたままだった頭にふと気が付いて、何となくその髪に鼻先を埋めた。
 何だよ、と言いながらも拒む気配は無い。だからそのままでまた呟く。
「……大きくなっちゃって」
 思いの外固くなった言葉を、緩めようにそいつが笑う。
 暖かいシャンプーの匂いがする頭は、揺れながら朗らかに答えた。
「他人事みたいに言うなよ」
 笑い飛ばすような言い方が怖いぐらいに心の内を抉る。
 そうだな、と相槌を打つことすら忘れて、しがみつくように身体に触れた。
 色気も何もないそれにそいつは応える。回ってきた腕が少し長くなったように思えて、やはり単純だと苦く笑う。
「ありがとう」
 小さく呟いた言葉が重なる。
 それ以上はもう何も、本当に何も言うことが思いつかなくて、ただじっと、そいつの変わらない温もりに触れていた。