真琴×京 R-18「unbalance」 本文サンプル

 

 自分にとっての人生における充実とはつまり、調和が取れていることだと真琴は常々考えている。

 勉学、趣味、仕事、人間関係。自らが必要だと思うものを選択し、それらのどれもが欠けることなく整った状態で存在する。過剰も不足もナンセンスだ。
 そういった感覚を常日頃から心に置いていた真琴にとって、現在の状況が所謂不均衡なものであることは由々しき事態であり、早々に解決すべき案件だった。
 しかしながらどこを正すべきなのか判断がつかなかった。例えば楽曲の調整において、アレンジをした一つのフレーズがしっくりはまらない時のような、どこに寄せればいいのか判然としない状態に似ていた。
 言ってしまえば、それが真琴にとって過剰なのか不足なのか分からなかったのだ。
 外的要因や自らの内面を見つめ直してもはっきりしない。考え過ぎなのか、はたまた実際に不足しているのか。つまるところそれは――

 ――真琴。
 名前を呼ばれた気配がして飛び起きる。そんな筈がないのに寝起きの覚醒しきらない頭で姿を探し、いないことを確認して僅かに落胆する。
 ベッドサイドに置いていた眼鏡をかけて、真琴は何とも言えない心持ちのまま立ち上がってカーテンを開けた。
 眩しいほどの陽光が身体を温め、次第に回りだす思考をしかしながら意図的に置き去りにして、頭を押さえる。
 一般論、あるいは客観的な数値が見たいと思った。それだけで現状に対する結論が導かれるものではないと、悟りながらも考えずにはいられない。
 とはいえそういった内容が記載されているといえば思いつくのは所謂女性誌の類で、その選択肢はどこかずれているような感覚も抱いてはいた。
 こぼれた溜息は我ながら何とも物憂げで、とりあえずコーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせようと思い直す。
 今日も授業が詰まっている。気になる書籍も読み込みたいし、恵まれた天候に誘われるがま
ま、しっかりとペダルを漕ぎたい気持ちもある。
 バランス、と心の中で繰り返しかけてふと、指が弦に擦れる感覚を思い出してまた引き戻された。
 確かに音楽も自分を構成する一つではある。丁度明日は練習日で、その後にはライブも控えている。
 ベースを楽しむ時間があることは喜ばしく、正しく充実しているといえるだろう。―ただそこには、件の如何ともしがたい要因が避けようもなく鎮座している。
 つまるところ、それは。
 ――京さん。
 声には出さず、一人胸の内で呼ぶ。
 おぼろげだった感情の輪郭が濃く色づいて、真琴は今度こそ頭を抱えた。
そもそも考え過ぎているから不足していると思うのか、客観的に見ても足りていないのか。経験が皆無だとは言わないが、こんな風に測りかねることなど今までになかった。
 ――恋人との、適切な距離感など。

 結局のところ一人で考え込んで結論が出るような話ではなく、言ってしまえば相手に相談する他にないことも、重々理解している。
「よっしじゃあお疲れ! 悪い、バイトで急に人が足りなくなったって連絡きたから先行くな」
「おう、お疲れ。気をつけて行けよ」
 片付けを終えたレイの声につられて皆が顔を上げる。見送る進の返事を受けて、レイは慌ただしくスタジオを出て行った。
 残った三人も程無く身支度を終えて、立ち上がった進がお疲れ、と声をかけてからレイに続いて帰っていく。
 荷物をまとめ、同じように立ち上がった真琴はふと、必然的に残っている筈のもう一人がいないことに気付いた。
 ――どれだけ意識をしていようとも、バンドというものを介している時は私的な感情を挟むことはない。いつの間にか姿を消していた彼に気をやれなかったのもよくあることではあったが、この日ばかりはそのままにしておけず早々に外へ出る。
 予想通り、少し離れた公園に彼はいた。
 冷たい夜風に身をさらしながら、京は黒く広がる夜空を見上げている。荷物を隣のベンチへ置き、立ったまま空を仰ぐその姿に、真琴は声をかけるタイミングを失っていた。
 こういった彼の、自分自身のペースで行動している姿を目の当たりにする度に思い知る。結局のところ自分は、本質的な意味では彼を理解していないことを悟るのだ。
 京の多くはない言葉から気持ちを汲み、歌に共鳴し、内包する芯の部分を感じ取って思いたいと願う気持ちは変わらない。変わりようがない――にも、かかわらず。
「……真琴?」
 名前を呼ばれただけで、これほどまでに鼓動が跳ね上がるとは思ってもみなかった。
 夜空に向かって注がれていた視線はいつの間にか真琴へと移っていた。
 何か言わなくてはと思うのに頭が働かない。やっとのことで京さん、と呼びかけると、安堵したように京の表情が緩んだ。
 心を許されているのだと、そう受け取れるその柔い微笑みに、冷えた身体の奥がじんわりと温まる。理解が及ばなくても、京自身が自分を選んで傍にいようとしている事実が喜ばしかった。
「すまない、何か用だったか」
「用といえば用なんですが……」
 正面切ってそう問いかけられるとどうにも言い出し難い。逡巡し、真琴は良ければ一緒に帰ろうと言いたかったのだと返した。
 もちろん無理にとは言わないし、一人でいたいというのならそちらを優先してもらって構わない。普段通りの、ともすれば淡々としているようにも聞こえるような口ぶりで告げると、京は一瞬視線をさまよわせた。
 困らせたか、と身構える真琴をよそに、荷物を持ち上げた京が近付いてくる。伺うように向けられる視線に了承を得たのだと確信して、真琴は京と連れ立って夜の公園を後にした。
 何とか帰路を共にはしているものの、言いたいことをすぐに口に出せるかといえば答えは否
だ。
 どうしたものかと考えを巡らせながら、ちらりと横目で隣を伺う。髪の間から覗く耳が少し赤らんでいて、真琴はちょっと待ってくださいと言い置いてから、脇道の路地裏に設置された自動販売機に足を向けた。
 温かいペットボトルの紅茶を買い、京の元へと戻る。本来なら自分の家で淹れたものを出したいところだったが致し方なかった。
「お待たせしました。どうぞ」
「……ああ、すまない。ありがとう」
 受け取ったボトルを手のひらで包み込み、京は微笑む。温まった指先でキャップを開けて、口をつけるところまで見守っていると、視線があからさまにぶつかった。
「……飲むか?」
「え」
 京の言葉と、差し出されたペットポトルに思わず気の抜けた声が出る。思ってもみなかった提案に対する動揺と、持て余した感情を抱える自分に対する焦りが押し寄せていた。