Tell

 

 幸平、と呼び掛けられた声で振り返った。
 着替えを済ませて、エントランスで待つ皆の元へ向かおうとした矢先だった。
 すぐ後ろにいた彼の師――と、呼ばれることに些か抵抗を覚えている四宮小次郎は、小さなケースから 取り出した長方形の紙片を裏返してテーブルに置いた。
 見たところ白く何も書かれていないその紙に、 手にしたボールペンでさらさらと短く書き記
す。その様子を黙ったまま見るしかない創真に向かって、書き終わったそれを手にした彼が目の前に近付いてきた。
 差し出される、一枚の紙。
 どこか威圧感を含んだその動作に、促されるまま創真は伸ばした指先でそれを受け取った。
「何かあったらかけてこい。俺の時間さえ合えば出てやるよ。時差は忘れるんじゃねえぞ」
 少し厚みのある紙に記されていたそれは、携帯電話の番号だった。
 創真は並んだ数字をしげしげと眺めてから、何の気はなしにくるりと裏返してみた。表面は裏とは逆にシンプルな飾り文字が並び、四宮小次郎、SHINO'Sと続き、メールアドレスと同じように電話番号が載せられている。派手ではないが、品の良い名刺だった。
 もう一度紙を裏返す。
 そこに手書きで書かれた数字と表面の印字は明らかに違っていて、それは裏面の番号がごく私的なものであるということを告げていた。もっとも、そうでなければわざわざ裏に書き記したりする必要はない。
 創真は自然に吊り上がる唇をごまかすことなくにやりと笑って、ソファに置いていた鞄から自分のスマートフォンを取り出した。
 新しく開いた連絡先の項に名前、四宮先輩、師匠と連ねて打ち込み、書かれた番号を入力す
る。淀みなく一連の作業を終わらせて顔を上げると、その様をじっと見ていたらしい四宮と視線がぶつかった。
「――時間さえ合えば、だがな」
「うっす。ありがとうございます、師匠」
「師匠はやめろ」
 軽く頭を下げて礼を言う創真に向かって、四宮は実に素っ気ない口調で言い返した。
 言葉に丸みは無いが、 本当に苛立っている訳ではないのが混じった溜め息に滲んでいる。呼び名を正すことを半ば諦めかけているといった様子だった。
 創真は手の中の名刺を鞄のポケットへと滑り込ませて、スマートフォンにロックをかける。たった数桁、しかし寄せられた期待や信頼の証であるそれに、身が奮い起たされる気持ちだった。
 内に宿した向上心を更に燃やし、 清々しい鋭気に満ちた顔で再度、世話になったスタッフルームを後にしようとして、足が止まる。
 その場から微動だにしない四宮の、突き刺すような視線が、創真を未だその場に引き留めようとしていた。
「なんすか?」
「まあ、かけてこいよ」
「はい、何かあったらかけるっす」
 潜められた眉間に深く皺が刻まれる。 そこには今度こそはっきりと苛立ちが滲んでいたが、創真はそれが何を意味しているのか分からず首を傾げた。
「……違う、今だ」
「何がっすか?」
「今かけても構わねえって言ってるんだよ」
「今?何で今かけるんすか?」
 真顔で疑問符を並べ立てる創真に、焦れと怒りを混在させた四宮の顔が苦々しく引き攣っていく。 いっそここまできたらはっきりと告げるしかないのだといい加減四宮も分かってはいるが、それは四宮の性格上なかなかに困難な道だった。
 相手の求めていることを真っ先に推測する要領の良さがあるにもかかわらず、そこに私情――向けられる好意や特別な思惑が絡むとそれが途端に鈍くなる。
 わざと仕向けているのではないかと邪推されることも少なくないが、ひたむきに前を向こうとする料理人としての姿を見れば首を振らざるを得ない。幸平創真とはそんな男だった。
 一つ嘆息した四宮が、自ら踏み出した足を引き戻そうとした時、考え込んでいた創真の顔が何かに思い至ったように四宮をとらえた。
「あ、もしかして師匠、俺の番号も知っときたいってことっすか?」
 考えてみれば教えられただけで、こちらからは何もしていない。導き出された自然な回答に、創真はこれだとばかりに期待の光をその目にちらつかせる。
 その、一切取り繕おうとしないあけすけな言葉に四宮は咄嗟に言い淀んだ。
 暫しの沈黙の後、わずかに視線を下向きに逸らせて、 やがて小さく「時間かけやがって」と呟く四宮の声が創真の耳に届いた。
「なんだ、それならそうと早く言ってくださいよ。師匠分かりづらいっす」
 緩く笑いかけながら言う創真に山積みになる言葉をぐっと押し留め、四宮は早くしろと短く急かす。握ったままだったスマートフォンに触れ、真新しい連絡先を呼び出して発信する。少し離れたソファから微かに振動音がしたのを聞き取って、創真はその初めての通話を終わらせた。
 何となく、ばつの悪い沈黙が広がる。
 考えてみれば、この部屋を出てしまえば二人、当分向き合って話をすることなどないのだ。創真にとって、四宮の行動は非常に分かりにくいものだったが、そうするに至った思惑は分かる。というより、共感しうるものだった。
 通話の切れたスマートフォンを掲げ、男の眼前に液晶画面を向ける。
 何か表示されているのかと眉を潜める四宮の、訝しげな瞳に告げてみる。
「何かあったらかけてきてもいいんすよ?」
「……言ってろ」
 鼻で笑う口ぶりとは裏腹に、挑発的な言葉と視線を受けた四宮の表情は満足げだった。
 認めた相手が丸め込まれることなく、果敢に挑みかかってくる様を内心憎からず思っている。生意気、ガキ、そんな言葉であしらいながらも、注がれる視線を疎ましく思うわけではない。それどころか。
 普段通りの不遜な態度が戻り、上手くはまった意趣返しを思いながらも、創真はふとよぎった悪戯心を付け加えてやった。突きだしていたスマートフォンを鞄に入れて、その流れのまま顔を上げて、含みをもたせて笑いかける。
「俺は別に、何もなくてもいいんすけど」
「――かけねえよ、バカ」
 交わった視線に一瞬、種類の違う熱が混じって、すぐに解けていく。
 微かに笑った四宮に向かって今度こそ背を向けて、もう踏み入ることもない部屋を後にする。
 結ばれた繋がりにどんな意味があるのか、生まれるのか、創真にははっきりとはわからなかった。しかしそれは確かに何かの予感を引き連れていた。
 ポケットの中で擦れる小さな紙片の感触に、創真は一人笑みをこぼすと、背筋を伸ばして足を早めた。