Taste

 

 送られてきたのは繁華街にある建物の位置情報だった。駅から程近く、アクセスが容易で分かりやすい立地のそこは、創真の想定していた店とは少し違っていた。
 そのままの流れでブラウザを開き、店舗の情報を表示させる。出てきたのは洒落っ気がありながらも、比較的開けた立地に即した店構えの飲食店だった。やはり思っていた空間とは違うようだ。
 その場所を送ってきた相手の思考を想像するに、例えばホテルのバーラウンジだとか、隠れ家的な店だとか、そういった所を指定してきそうだと考えていた。単なるイメージの話ではなく、今回の目的というか趣旨からして、そんな整えられた場を選ぶのではないかといった予想だった。しかしながら先述の通り、その仮定は見事に外れた。知り合って同じ時間を重ねて、そこそこに長い付き合いになっていると自負していたが、未だ知らない一面というのはあるものだなとしみじみ思う。
 想像とは違ったがもちろん不満という訳ではなく、むしろどんな時間になるのだろうと期待する気持ちが膨れ上がる。胸の奥が微かに疼くような興奮を覚えながら、とりあえずスマートフォンを手放してベッドへ潜り込む。久しぶりの日本の空気が肌に馴染んで何となくほっとする。
 帰国して慌ただしくホテルになだれ込んだため、寛げる自室のそれとは違っていたが、それでもすぐに眠気がやってきた。明日は明日であれこれ寄る所がある。そして夕方は、件の場所だ。

 荒れた天候で飛行機が遅れるかもしれないとの話だったが、それほど大きく時間がずれることなく到着の連絡があった。
 諸々用事を済ませた創真は、早々に指定された場所に着いていた。冬が近付く夕暮れは肌寒く、しかしながら人通りは日が落ちるにつれて多く賑やかになっていた。
 付き合いのある企業が開くレセプションパーティーに参加する予定があったため、ドレスコード一式も持ち込んではいたが、この日はカジュアルな服装だった。生地が薄めのアウターに少しだけ身震いしながら、店があるビルの前で待つ。
 やがて少し離れた道路にタクシーが停車し、背の高い男性が降りてくる。人波に沿いながらこちらへ近付いてくるその男は、贔屓目を抜きにしても注目を集めていた。それは彼が数々の栄誉を手にしたいわゆる著名人であり、それに対応したオーラを持っているという理由もあるだろうが、単純に良い意味で目立っていた。目を引く整った容姿もそうだが、すっと伸びた姿勢と堂々とした歩き方が自然と様になっている。一見してただ者ではないと思わせられる姿だった。
 相変わらず見つけやすい人だと思いながら、創真は手を上げてその人に合図する。気付いた男が創真の眼前で足を止めた。
 目の前に立つ男の瞳をじっと見つめる。何度相まみえても、真正面から向き合うこの状態にはいつも僅かな緊張があった。
「お疲れさまっす」
 ダークグレーのシンプルなジャケットに身を包んだ男は、軽めのブルゾン姿の創真を見て眉をひそめた。
「えらく軽装だな」
「日本の気候読み損ねました。時間見つけてどっかで買います」
 へらりと笑う創真にもの言いたげな顔をして、男は小さく溜息を吐いてからとりあえず行くぞと言った。何だかんだ構わずにいられない素振りが嬉しくて笑う。じわじわと直接顔を合わせている喜びが込み上げてきていた。
 少し前に会っているし、頻繁ではないもの連絡も取ってはいるが、やはり会えたら嬉しいと改めて思う。先輩であり、師であり、頂の先にいる料理人。そして唯一の人。自分の人生に深く入り込み、根幹にいる特別な人間。四宮小次郎。
 機嫌良く微笑む創真を見て、四宮も気が抜けた様子で気づかわしげだった目を緩ませる。眼鏡の奥の鋭い視線が柔くなり、伸びてきた手がそっと肩を叩いた。
 人目もある場所で大っぴらに触れ合うようなことはないが、相手にだけ分かるように滲ませた思いがくすぐったい。もっとあれこれ話したいと思う気持ちのまま、男が用意した場所へ向かうべくエレベーターに乗り込んだ。

 ビルの五階にあるその店は、思った以上にゆったりとした空間だった。敷居が高い訳ではないが、所謂大衆居酒屋とも言い難い、程よい雰囲気を持った店だった。
 予約されていた席へと案内される。店内は賑わっているものの騒がしさはなく、個室で区切られていることもあり落ち着いた会話が広がっている印象だった。
 店内の奥、行き着いたそこは店内でも広めの席のようで、L字型のソファとローテーブルが置かれていた。その奥には一面の窓ガラスがあり、テーブルに向かう形で座ると、ちょうどビルからの景色が見渡せる作りだった。賑わう繁華街の明かりを眺めながらのひと時は気取り過ぎないムードがある。
 なるほどな、と一人納得して、創真は勧められるがままに広い方のソファへ腰掛けた。
「腹は?」
「昼が遅かったんでそんなにはって感じっす」
「適当に頼むか」
 言いながら四宮は、おしぼりと水の入ったグラスの横に置かれた、フードメニューらしきものを片手で捲る。もう片方の手がその下に置かれていた冊子を取り、創真へ差し出してきた。
 受け取ったドリンクメニューをとりあえず開いてみる。ビール、ワイン、リキュールに日本酒。オリジナルカクテルと豊富な種類で見応えがある。最後のソフトドリンクまで一通り目を通したところで顔を上げると、斜め横の狭いソファに座った四宮と目が合った。
「決まったか」
「なんか迷いますね。種類も色々あるし」
「好きなもんにすりゃいいだろ」
「いや好きも何も初めてなんすよ、料理の素材と思ったら何となくイメージはできるんすけど、多分また違うと思うし」
 学び舎での研鑽やそれよりももっと前、実家で父親と厨房に立っていた頃から知識としては備わっている。
 香りづけや風味、コク、味の深み。どんな種類の料理でもそれ自体を使用することは珍しくなく、成分を飛ばしてはいるが自らの舌で覚えた記憶もある。
 しかしながらそれはあくまで素材としての一面であり、そのままを口にして味わうことなどなかった。というより、味わうことが許されていなかったのだ。
 この国の基準なら二十歳。成人を超えるまでは飲むことのできないもの。創真にとってアルコールとは、世間一般の未成年よりは多少知識を備えているものではあったが、料理の範疇を超えない程度に過ぎない。
 それが今日――正確には数日前、晴れて解禁されたという訳だ。

 誕生日を迎える前からある約束をしていた。いつだったか、眠る前に相手がグラスを傾けていた時だった。
 夢うつつの状態でベッドに転がりながら、何気なく創真は尋ねた。――師匠ってどんな酒が好きなんすか。どういうのが好きとかあるんすか。
 創真の問いかけに小さく笑う気配がして、それから四宮の声が降ってくる。――お前が最初に飲む時にでも教えてやるよ。
 何だってそう勿体ぶるのだと言ってやりたかったが、そのやたらと甘い声が耳に心地よくてあっさり丸め込まれた。
 目を開けようとするものの睡魔に勝てず、創真は微睡の中で何度も頷いた。伸びてきた手が額に触れる。微かに感じた葡萄の香りが胸を埋めて、暫くはワインに触れる度にその瞬間を思い出していたなと回想する。

 その約束の日がつまり今日であり、創真が初めてアルコールそのものに触れる瞬間であった。創真自身色々と予習というか頭に入れてきたことはあったが、せっかくあの日言ったとおりに事が運んだのだから、胸を借りてもいいのではないかと思う気持ちがあった。
 進んでいたページを戻して開き直す。並ぶアルコールを四宮に向けて、選択肢を渡した。
「師匠選んでくださいよ。おすすめとかないんすか」
 自分より知識も経験も豊富で、何よりあんな風に勿体つけてきたのだから、諸々語るようなこともあるのだろう。そう見当付けて、甘えるというよりは本当に胸を借りる気持ちで問いかけた。
 創真の言葉に、四宮の纏う空気が一瞬強張った。眼鏡越しの瞳がすっと尖った気がして、創真は何か気を悪くするようなことを口にしたかと戸惑う。しかしながらすぐに漂うそれが剣呑なものとは言い難いことに気付いた。怒らせた訳ではない。が、走った緊張感は何とも言えないもので、一方でどことなく身に覚えがあるような気もして少しだけ居心地が悪い。
「……一応テストもしたんで、めちゃくちゃ弱いってことはなさそうっす、けど」
 念の為試しておけと言われたとおり、パッチテストなるものも実行済みの旨も告げておく。確かに身体が受け付けないようなことがあればそれ以前の問題だった。
 創真の付け加えた言葉に四宮はじっと注いでいた視線を外して、メニューを受け取った。
「気になる酒とかねえのか」
 パラパラとページを捲りながらそう訊かれて、創真は少し考えて答えた。
「ワイン――とか?」
「……赤か白か。スパークリングもあるが」
「お任せで」
 ワインのページを開いた四宮が動きを止める。やがて顔を上げて、並んだ酒名の一つを指差した。
「とりあえずワインベースのカクテルでも試すか。俺も白のグラスワインにする。いけそうだったら少し飲んでみろ」
 頷く創真をみとめて、四宮はテーブルに置かれた呼び出しボタンを押した。程なくしてやってきた店員に決めた酒と、いくつか料理を注文していく。
 店員が去った後はといえば、どことなく漂っている緊張感を解すようにとりとめもない会話をした。好奇心のままに研鑽を続けて、そこで出会った人、もの、料理。感じたことや得た経験を一番に話したいと思うのも相手だった。そんな創真の思いに気付いているのか、四宮は創真の話に黙って耳を傾けてくれていた。
 程なくして再び店員が現れ、お通しの貝類をマリネにしたものを置き、二つのグラスを並べていく。一つは白のワイン、もう一つは赤色をしたカクテルでレモンの輪切りが添えられている。
 それぞれの名前を言い添えて店員が席を離れる。目の動きで促されるままにさっそく創真はカクテルのグラスを持ち上げた。四宮も同様にグラスを持ち上げ、互いに軽く掲げる。深みのある赤色の液体をじっと見つめて、向けられたままの視線を感じながら一口含んだ。
 アルコール特有の香りの奥に果実の芳香が混ざって口内に広がる。舌先に感じる刺激は想像よりもずっと柔らかくてどこか親しみさえ覚えた。――親しみ。そう、確かに親しみを感じる。妙に舌に馴染むこの甘みはきっと。
「……コーラ?」
 舌の上でパチパチと弾ける軽快な甘みは、子供の頃から慣れ親しんだ炭酸飲料のそれだった。問いかける創真の視線に四宮は頷くと、自身もグラスへ口をつけた。
「ベースにするワインの種類で変わるのはどれもそうだが、それでも入りやすい方だろう。だがまあ、無理はしなくていい」
「いや、飲みやすくてうまいっすよ。渋みが柔らかくなるんすね」
「少しずつにしろよ、いきなり進めすぎるな。完全に空きっ腹じゃねえからまだいいが、腹に何か入れながらにしろ。水も挟め」
 口当たりの良さについテンポを早めていたようで、眉を顰めた四宮がお通しに目を向けて水のグラスを引き寄せる。先ほども垣間見えた何だかんだと構いたがる節がちらついて、創真は思わず唇を緩ませる。
 とりあえず手元へ寄せられた水を含んで飲み干す。軽いながらもじわじわと喉を焼いていた刺激が一瞬すっと引き、心地良さに息を吐いた。まだ大きな変化はないが、喉にはアルコールの名残があるような気配がしている。
 続いてお通しのマリネに箸をつけたところで、注文した料理が運ばれてきた。スモークサーモン、オリーブオイルとバゲット、カプレーゼにパテといった軽めの食事が並ぶ。腹に入れながら、と言われた通りそれらを食べながら少しずつ飲み進める。同じ酒ではあったが挟む料理によって残る味わいが微妙に変わり、料理と酒という組み合わせの奥深さを創真は身をもって体験していた。頭に入っていた知識が感覚と共により鮮明になり、新たなインスピレーションの始まりを予期する。
 三分の二程グラスを空けたところで、四宮が様子を窺うようにじっと視線を向けてきた。気遣う瞳に大丈夫だと頷くと、四宮は手にしていたグラスをテーブルへ置き、そっとこちらに寄せてきた。波打つ液体と四宮の顔を交互に見る。
 黙ったままそれを持ち上げて、口をつけた。先ほどとはまた違う果実とすっきりとした芳香が広がって溶けていく。カクテルではないがさほど気にならない程度には飲みやすく、創真は思わず小さく感嘆の声を洩らしていた。
「爽やかっすね。甘みはあるけどさっぱりしてる感じで」
「メジャーなドイツワインだ。俺も久しぶりに飲んだが」
「頭には入ってたんすけどワインって色々あるんすね」
「ワインだけじゃない。ビール、ブランデー、日本酒――これから知ることができる酒が山ほどある」
 どこか感慨深げに言う四宮の横顔を、創真は黙ったまま見つめた。視線に気づいた四宮が徐に手を伸ばしてくる。
 自然な動作で掌が頭に触れた。優しい指がそっと髪を絡めて撫ぜていく。眼鏡の奥の瞳も柔い。創真はされるがまま動けなかった。
「……まだ直接祝ってなかったか」
「え、あ?」
「誕生日」
 ――おめでとう、と。
 囁かれた言葉に、アルコールでじんわりと熱を持っていた腹の奥底が、また少し温度を上げる。
 強い思いが込められた声が耳の奥で反響して離れない。数日前、電話で聞いたものとは違う、生の声が心を奪って離さない。
「ありがとう、ございます」
 掠れた声でそう返した創真を見て、四宮が微かに笑う。触れていた掌が離れ、その感触に名残惜しさを覚えたが、それを押し留めて自分のグラスに手を伸ばす。
 残っていたカクテルを全て飲み干したところで、先ほどの四宮の言葉が頭を過った。顔を上げた先の四宮は丁度メニューを眺めていて、創真の空いたグラスに目を向けて何か飲むかと訊ねてくる。
「日本酒とか、どうっすか」
「……冷酒で一合頼むか」
 程なくして、四宮が選んだ日本酒が運ばれてきた。徳利から注いで二度目の乾杯をする。一見すると水のようにも見える透き通ったそれを少しずつ、喉へ送り込んでいく。香りは強いがフルーティーな風味もあり、突っかかることなくさらさらと流れていくが、徐々に体温が上がっていくのを感じてもいた。
「……おー、すげえ」
「水挟めよ」
「調子に乗るといき過ぎるやつっすねこれ。後味もきりっとしてて……うん」
 新たに用意された水を飲み、また猪口へ口をつける。先ほどよりも明確にアルコールの巡りを感じていたものの、まだ思考には特に影響がなかった。
「で、日本酒を選んだ理由は?」
 同じように猪口を傾けて、四宮が問いかけてくる。相手も特に変化はない。相変わらずだが、この程度の量では顔色一つ変わらないようだった。
「この間会った人が日本酒好きで、色々話してくれたんすよね。コンクールのこととか」
「パリにも蔵はあるが……まあ、角打ちなら近い内に連れていってやる」
「角打ちって――ああ」
 四宮の口にする"角打ち"と、連れて行ってやるという物言いから、その内容を創真は察した。
「いいっすよね、九州」
 おそらくそれの意味するところは、都内の店ではなく所謂本場――北九州の店のことを指しているのだろう。角打ちが生まれた場所とされるその地域は四宮の生まれ故郷だ。
 彼のルーツ、もっとも根幹にあるともいえるテリトリーに招かれている。特別な関係になって暫く経つが、こうやって自分から内へと入れようとする仕草には何度も新鮮さを覚えてしまう。同時に、入ることを許されているという揺るぎない事実に、心が満ち足りていく。
 込み上げる高揚感を一人噛み締めていると、端から隠す気もなかった表情をやはりあっさりと拾われた。
「にやついてるな。そろそろ酔いが回ってきたか?」
「や、なんか、なんつーかすげえ嬉しくなってきて。師匠に酒選んでもらえて、初めて飲めて、よかったなって」
 思考に影響はない、と思ったが、発した声は若干上擦っているように聞こえた。言葉としても少しつたない気がする。もしかしたら表情もかなり締まりのないものになっているのかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、手元の猪口に向かって伏せていた顔を上げると、四宮がじっとこちらを見ていた。黙ったまま注がれる視線に一瞬言おうとしていたことを忘れかける。しかしながら何とか踏みとどまり、口を開いた。
「……いいっすね、ここ。メニューも色々あって、眺めもいいし。なんか俺、勝手にホテルのバーとか、そんなところに連れていかれるのかと思ってました」
「……ああ」
 広がる大きなガラス窓に目を向けながら創真が言うと、四宮も合わせてそちらを向く。いつの間にか日は完全に落ち切り、闇の中立ち並ぶビルの明かりや過ぎていく車のライトが街を賑わせていた。
「最初にそんな場所選んで気後れしたら意味ねえだろ。気楽に選べる種類があって、それなりに雰囲気もある店を選んだ」
「色々考えてもらって、ありがとうございます」
「俺から言い出したからな。それに……まあ」
 四宮の言葉が何かに躓いて止まる。その些細な突っかかりを見逃す訳もなく、創真は外していた視線を四宮へと戻した。
「親父さんを差し置いてる引け目も、無くはない」
 若干のためらいを含んだ声だ。
 言わんとしていることを推し量るのは容易だった。こうしてこの場を迎えるにあたって、四宮が真っ先に確認してきたことだろう。
「この間も言いましたけど、親父もやっぱ忙しくて当分無理そうだったんで、いいんじゃないっすかね」
 つい先日電話口で聞いた父親の声を思い出す。誕生日に合わせて酒を飲む機会を設けているがどうか、と問いかけると、父親は喜びながらも予定が立たないことを詫びてきた。詳しい経緯は不明だが、どうやら今は太平洋のど真ん中にいるらしい。船の都合でどうあっても暫くは動けないようだった。
 人のことを言えた口ではないが、自由にしているな、としみじみ思う。見聞を広めるためならどこへ行くのも躊躇わない。探求心をまっすぐに広げていくその姿は、言わずもがな自分にも繋がっている。
 だからこそ創真は特に引っかかることもなくその事情を理解する。互いに無事を祈り合い、また適当なところで改めて場を設けようという話をして電話を切った。遠慮も建前もない、相手を信頼しているからこそのやり取りだった。
「それにしても、本来なら俺から確認すべきだった」
「いや、そんな気にしてもらわなくて大丈夫っすよ」
 何だかんだ義理堅い男は呟くように言う。高いプライドはそれに伴う筋を常に自身へ求めている。彼の自信に満ちた態度はそういったぶれないという意思によって形成されているものだった。
 猪口を持ち上げ、四宮は残った酒を一息に飲み干した。完全に隣り合って座っている訳ではない微妙な距離であるにもかかわらず、吐き出される息の熱さがはっきりと感じられる気がした。
「……どっちにしろ、近い内にきちんと挨拶するつもりではいるがな」
 アルコールで僅かに熱を含んだ声がそんなことを言うものだから、創真はまじまじとその顔を見つめるしかなかった。言われた内容もさることながら、相手が自分と同じようなことを考えていたことに驚いていた。
 四宮が指しているのは言わずもがな、差し置いている、と表した父親のことである。きちんと挨拶、という言い方には誠実な響きしかない。その内容の詳細がなくとも全幅の信頼を置ける物言いだと思うし、元よりこの男が半端な行動をする筈もなかった。そしてそれはつい先ほど、四宮の故郷に触れた際に創真自身が考えていたことと重なった。
 もし了承されたなら、あのスタジエの時に軽い挨拶だけさせてもらった母親も交えて、一席設けたいと思っていた。示し合わせた訳でもなく、根っこのところで考えが繋がっていたことが、どうしようもなく嬉しい。
 好きだなと思う。時折噛み締めるように思うこの感情が、特別なものであると知ったのも、この男からだ。
「何見てる」
「や、べつに。なにも」
「嘘つけ」
 遠慮なく向けていた視線を揶揄されて少し言葉が遅れた。本格的に回り始めたアルコールの所為か、妙に語尾が甘ったるい気がする。少しだけぼやけた思考の中で、抗いようもなく創真は素直に答える。
「……師匠の顔、見てたんすけど」
「そんな目で、か」
 そんな目、と言われた目つきがどんなものか創真には分からない。否、正確には分からないがおおよそ想像はついた。
 身体の奥底から込み上げてくる、行き場のない熱が漏れ出ているのだ。目にも、声にも、態度にも。
「……あ」
 先ほどまで猪口を持ち上げていた指が、近付く。長く、それでいて華奢ではない男の指が創真の頬に触れた。指の背で頬を滑り、唇の端を意味深に掠める動きがむず痒くて、焦れったくて喉が鳴る。さり気なく拭われていく酒の雫にまた体温が上がった気がした。冷たく見えた指先が自分と同じように熱くて背筋が震える。
 こういった触れ方をされたのは初めてではない。ただ本格的に踏み込みそうになる気配が滲んだ瞬間、どちらからともなく距離を取っていた。そうするように決めていたのだ。
 ――解禁されたことと、いえば。酒だけではない。もっともこれに関しては二人の間でのごく私的な取り決めではあった。互いが納得した上で、一定の線を引いていた。
 軽いキスやハグではない、もっと先の行為。ベッドを共にするといっても文字通り添い寝以外の何物でもなかった今までとは、明確に違う、湿度の高い空気。唇の端に触れるだけだった指先がその奥、濡れた口内に入り込んでかき回していく――そんなイメージが、脳裏に張り付いて離れない。導き出された舌を絡めて、口にしたアルコールの残り香を混ぜ合わせたら、どんな。吐き出した息は先ほどよりずっと熱かった。
 ここは外で、どうにもならないというのに、膨れ上がる期待をやり過ごせない。流し目のように向けられる視線から目を離せない。隠せない欲情に酔った目と目が交差する。
「……まあ、今日は無いがな」
「っ、え、?」
 しかしながら、四宮の声は広がった空気を呆気なく霧散させるものだった。思わず気の抜けた声をもらす創真に、四宮はさも楽しげに唇を緩めた。
 熱を撹拌した指があっさりと離れて、頭をくしゃりと撫でていく。その仕草に先ほどまでの艶かしさはまるで無かった。
 お前今日大分回ってるだろ。そう言いながら四宮は水のグラスを押しやってくる。とりあえず大人しくグラスに口をつけて、創真は目だけでその思惑を探ろうとした。そんな創真の焦燥を悠々と見透かしている男は、目の奥にだけ色を残して言う。
「酔ってその気になるぐらいならいいが、そのタイミングになったらそれ以上は飲ませねえからな」
 触れていた指を自らの唇の端に寄せて、膝に頬杖をついた四宮が囁いた。
「この俺が、過度な酒なんぞ挟ませると思うか?」
 何との間に、と訊くのも野暮だった。
 今はもう直接触れているところは何もないというのに、先ほどよりもずっと生々しく夜の気配が漂う。揶揄を含みながらも眼鏡の奥の瞳は真剣で目が離せない。視線と言葉だけですっかりやりこめられて悔しい。が、それと同じくらい火のついた心を掴まれてどうしようもなかった。
 そんなことを言われて熱が引くとでも思っているのだろうか。思っている訳がないか。もちろん言葉に嘘偽りはなく、今日はここまでといった線を引こうとしているのは分かるが、それはそれとしてすべて見越した上で男は創真の反応を眺めているのだ。
 相手の思ったとおりにまんまと煽られている状態はやはり少しだけすっきりしない。衝動のまま押し付けた唇を柔く噛まれ、性急さを窘められているようなもどかしさを思い出して、創真はその記憶を振り払う。こんなことではいつまでも欲が収まらない。
 残っていたグラスの中の水を一息で飲み干す。冷えた液体が喉を滑る感覚で少しだけ思考がクリアになり、冷静さが戻ってきた。
「やっぱり師匠、優しいっすね」
 少しくらい、何か言わないとやりきれない。そう思って率直に称賛の言葉を向けると、同じようにグラスを傾けながら涼しい横顔で返される。
「優しいんじゃない。好きでやってる」
 何が、とはあえて問い返さない。
「……なるほど」
 完敗だった。最早何も言えない。いっそ清々しい思いで創真は隣の男を見つめた。初めてを共に味わうこの席でこれ以上の返答はない。焦げ付くような好意を相手も同じく持っている。そうはっきりと言われては大人しく頷くしかなかった。

 料理と酒を綺麗に空にして、店員を呼び会計を済ませて立ち上がる。足元にふらつきはなかったが伸びてきた四宮の手がさり気なく腕を掴んで支えた。目が合って、結局大丈夫っすとだけ答えて、創真は四宮と二人連れ立って店を後にした。
 外はすっかり夜の匂いに満ちていた。とはいえまだ夜更けには遠く、繁華街はこれからが賑わいだとばかりに活気づいている。先ほどまでは肌寒かった空気が熱を持った身体を程よく冷やしていく。
 深く息を吐き出す創真を一瞥してから、四宮は行くか、と声をかけて歩き出した。タクシーを捕まえるべく少し開けた道路まで出る。
 どこか覚束ない思考と、それにまるごと覆い被さるような何ともいえない幸福感が心地良かった。今夜はよく眠れそうだと思う。気持ちよく酔えたことももちろんあるが、得られたかけがえのない時間が胸の奥を温め続けていた。
 タイミングよく捕まったタクシーに乗り込み、火照った身体をシートに預けて力を抜く。程なくして車は四宮が告げたホテルに向かって走り出した。今朝まで創真がシングルユースで滞在していた場所だ。今夜は二名一室で取りなおしている。
 車の緩やかな揺れに身を委ねていると少しずつ眠気がやってきた。やはり初めてのアルコールに身体が慣れきっていないらしい。窓ガラスに頭を寄せて視線を浮かせる創真に、四宮の「寝ていい」という静かな声が降ってくる。気遣う心は嬉しかったが、勿体なく思う気持ちもあって素直に頷けない。
 曖昧な返事をする創真をちらりと伺った四宮は、黙ったまま創真の投げ出された手を引いた。足元に近い場所で、ぐっと力を込めて四宮の方へと引き寄せられる。意図が分からず戸惑いの視線を寄越す創真を横目に、四宮は不自然にならない程度のはっきりとした声音で言った。
「初めて酒飲めば眠くもなるだろ。いいから寝てろ」
「――そっちのお客さん、今年成人とかですか?」
「ええ、成人祝いに付き合わせていました。飲んでみたいと言われたもので」
「そうですか。うちのも来年なんですよ。いや、普段あまり飲まない方なんですが、祝い酒ってのは何かいいもんですね。あいつさえよければ、付き合ってもらいたいなあ」
 四宮の声をしっかり拾い上げた運転手との会話を聞きながら、創真はその意図に思い至って身体の力を抜いた。眠気に抗えない身体を投げ出すように、四宮に引かれるまま窓ガラスから四宮へ体重を移す。頬に触れる肩がいつもより熱い気がした。あくまで眠くて耐えられない、どうしようもない姿を保ちながら、熱を人知れず分け合う。
 眠気に襲われているのだから目を閉じなくてはいけない。それでも身を預ける存在の顔が見たくて、ごそごそと身じろぐふりをして視線を上に向けた。
 眼鏡の隙間から除く瞳は、その気配を察していた。横目で創真をとらえた四宮は、先ほどのように肘をつく様で唇に指をあてて、その下の含んだ笑みを覆い隠す。静かに、と窘めるようなそれがやけに官能的で、創真は思わずぎゅっと目を閉じた。閉じた視界の中、四宮の微かな笑い声が聞こえる気がする。
「まだ道も混んでないし、急ぎますね。がっつり寝られちゃうとお客さん大変でしょ」
 気遣う運転手の言葉に四宮は緩く微笑んで応えた。
「そうですね――なるべく早く、急いでもらえると」
 平然と話してはいるが、暗に急いでほしいのは創真だという意味をこちらに匂わせている。落ち着かない状態で狸寝入りを強いられている状況を労わっているのか、楽しんでいるのか、そのどちらもか。それでもそのぶれない態度に反抗心の一つも覚えないのは、身体をもたれさせた時に自然に回された手が、死角に隠れてずっと抱き寄せているからだ。
 重なり、混じり合う熱が心地良い。心臓の音さえ重なるような錯覚を覚える幸福を、これからもきっと重ねていける。二人で。
 胸を埋める確信を愛しみながら、創真は目を閉じて隣から伝わる体温を感じていた。

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