成立しない感情

 

結局のところ、この人と自分が交わることなど無いのだろうと、彼は思う。

成立しない感情

 激しい運動に息が上がると、その都度止めようとすら思った煙草を、何本も灰にするぐらいには気が落ち着かなかった。
 持ち込んだ灰皿にこれでもかという程溜まった吸殻に溜息が出る。
 指で挟んだそれを揉み消し、ライターを傍らに置くが、数刻と持たない内に新たな一本を取り出し火をつけるのだから救いようがない。

 スカイファイナンスの真上、屋上の片隅で、秋山は大量の吸殻にただ埋もれていた。
 傍らには煙草とライター、缶コーヒーを入れたコンビニ袋。そして吸殻しかない。 夜の冷たい空気は肌に刺さるようだったが、室内にいるのは避けたかった。
 自分の鬱屈した思いが煙草の煙と共に、密室を漫然と満たすようで、まるで耐えられなかったのだ。
 新たに銜えた煙草の煙を大きく吐き出し、空箱を握り潰す。
 殆ど中身が残っていた筈のそれは、いつの間にかすべて吸い切ってしまったらしい。
 買いに行くには下に降りる必要がある。けれどこの一本が終わるまでに、待ち人が来ることを秋山は望んでいた。一度下に降りれば騒がしい雑踏に誘われ、今夜はもう、戻って来られないだろうから。
 そんなことをぼんやりと考えている内に最後の煙草も短くなり、うっかり指を焦がしかけ秋山はあっと声を出した。
 慌てて最後に一息とばかりに吸い込み、灰皿の端に押し付ける。 溜息か煙か分からないそれを深々と吐き出し、思わず終わったな、と呟けば何がだ、と問いかける声がして振り返った。
「桐生さん」
 名前を呼ぶと、男の顔つきが少し柔らんだ気がする。桐生はゆっくりと秋山に近付いてきた。
 階段を上がってくるその足音に気付いてはいたが、秋山は気付かぬ振りをしていた。腰を下ろそうとする桐生の為に、山盛りの灰皿を押し退ける。 その有り様を見て取った桐生が、申し訳なさそうに眉を寄せ口を開いた。
「すまない。随分待たせたか」
「いやそんな、俺が長いこと上にいただけですよ――傷の方は、どうです?痛みとか」
「ああ、大丈夫だ。心配をかけたな」
 やんわりと唇を緩ませる桐生から視線を逸らし、秋山はそうですか、と呟いた。
 実際傷の具合がどうであれ、桐生が大丈夫だと言うであろうことは分かっていた。何故なら男はことごとく自分を追い込み、必要以上に他人を頼ろうとはしない人だったからだ。それでもそのことを聞かずにはいられない。
 傷を負っていることを承知で、けれど何も言わず共に戦った。結果別れた先で血に塗れ、行き倒れていたと聞いた時は本当に生きた心地がしなかった。 この人を失うのかと心底怯えた。
 けれどそれは違った。なぜなら失う以前に、秋山が届いていると思っていたその手は、触れてすらいなかったからだ。
 秋山は何も言わない。伺うような視線を横から感じながらも、何も言えなかった。
 数日前に退院した桐生の傷は、きっと大分快方に向かっているのだろう。けれどもし、少しでも無理をしているのなら言ってほしかった。他ならぬ、自分には。
 それが桐生なりの気遣いであり、そして己の思いがエゴでしかないことも知りながら、それでも思わずにはいられないのだ。
 桐生が煙草に火をつけた気配がする。懐かしい匂いがして、溜息が洩れそうになった。
  その身を抱いた時に香る匂い。少し前にその匂いを知って、離れて、そしてまた今すぐ側に感じている。けれど、その先は。
 これからどうするのか、そんな話は一切しなかった。何度か見舞いに行き、二人きりで話すこともあったが、しなかった。出来なかったのだ。
 言ってしまえば、秋山にはそれを訊く勇気が無かった。そして己には、訊く権利が無いのかもしれないと悟りだしてもいた。
 再会した彼は、福岡にいたのだと言った。平然とそれを聞き流しながら、秋山は頭を強く殴られたような衝撃を感じていたのだ。
 大阪で遥と行動を共にし、事情をある程度察してはいた。しかし本人からさらりと吐き出されるその言葉に、最早隠しようがない程に動揺していた。
 知らなかったのだ。想い焦がれ、恋しく思うその人は今も沖縄の自然の中で、大切な人たちと笑顔で暮らしている。そう思っていた。
 けれどその人は親しい人に――自分にすら何も言わず、孤独になろうとしていた。
 如何ともし難い事情があったことは分かっている。素性などどこから漏れるか分からないし、万が一の時には遥に迷惑がかかる。けれどそれでも、自分でも驚くほど動揺した。 いつかこんな時が来るのではないかと、考えなかった訳ではない。
 いくら通じ合ったと思ってもそれは脆い理想で、いざとなれば己の手など解かれてしまうのだろうと。
 それは距離や、立場や、もっと根本的な問題ではない。男はあらゆる意味で人を引き寄せ、惹きつける性質を持った人だった。だからこそ、遠く感じる。
 どれだけ手を伸ばし落とそうとしても、龍は苦しみながらそれでも、届かぬ所まで高く昇っていくのだから。
「終わらせますか」
 秋山の言葉に、桐生の肩がぴくりと動いた。何を言わんとするか察したのか、桐生は黙って煙草の火を揉み消す。
 秋山は横目でその様を見届ける。引き結ばれたその唇に、噛み付きたいとさえ思いながら。
「……何を」
「ずるい人だ。分かっているんでしょう」
 お別れです――言ったものの、顔は見られなかった。見てしまえば、必死で取り繕った虚勢や体裁がきっと崩れてしまう。それだけは避けたかった。
 別れと言っても、時間を共にしたことの方が少なかったのだ。だから言葉にすると、どこかこざっぱりとしていて拍子抜けしてしまうが、それでも芯から冷えるような虚無感は消えない。
 桐生は何も言わない。沈黙が続き、秋山はまるで断罪を待つその時の様に身動ぎ一つしなかった。ぼんやりと、街の灯りに目を眇める。
 その時、ガツンと強い衝撃音が横で鳴り、秋山は思わずびくりと肩を動かせそちらに目を向けた。
「桐生さん――?」
 握り締めた拳を、コンクリートに叩きつけた音だった。 骨が軋む音が聴こえそうなくらい、固く握り込まれたそれに驚き慌てて手を伸ばした。
 そして逆に、その手首を掴まれ引き寄せられる。 至近距離で見た男の目は、いつになく揺れていた。秋山は、最早吸い寄せられるようにその頬に触れ、唇を寄せる。
 まずい、と思った。箍が外れる。けれど思った時にはもう遅く、秋山は気付けばその薄い唇を舌で強引に抉じ開け口付けていた。懐かしい匂いがする。
 そう思ったが最後、本当に理性が焼き切れてしまったようで、貪るような口付けを交わしながら凭れていた壁からずるずると滑る身体に伸し掛かる。
「秋山……っ」
「っ、くそ、ああもう知るか――!」
 吐き捨て、秋山は再度口付けた。桐生は驚いた様子で目を見開くが、唇も舌も抵抗は示さない
 むしろ積極的に絡ませてくるのは桐生の方で、それにどうしようもなく煽られる。 余裕の無いキスを何度か繰り返して、秋山は顔を離した。
 しかし密着させた身体はそのままで、そろそろと桐生の背中に手を回す。ぐっと力を入れてその身体を抱くと、己の背にも手が回り抱き締められるのを感じた。
 秋山は無言で背中に回した手を戻し、桐生のがっしりした胸元を確かめるように触った。少し開いたシャツの合間から指を差し入れると、びくりと身体を震わせた桐生が呻く。
「おい、秋山……!」
「黙って。最後まではしませんから」
「っ、最後までって――おい!」
 静止を求める口を塞ぐように口付け、指先を彷徨わせる。ボタンを外し、胸を肌蹴させると、冷気が沁みるのか桐生は小さく喉を鳴らした。
 傷があったであろう場所をちらりと盗み見る。塞がってはいるその部分にけれど息が詰まるような気さえして、秋山は首筋に顔を埋め軽く吸いついた。
「っ……」
 甘い吐息を噛み殺すその様が懐かしく、愛おしくて堪らない。
 鎖骨の辺りにも唇を寄せながら、更にベルトへと手をかける。
 屋外で、しかも真下には己の会社があり、加えて桐生の古くからの馴染みのそこには、彼の大切な少女さえいるというのに。けれど止められなかった。止められる筈が無かった。
 ベルトを緩め、チャックを引き下ろしそこに触れる。途端に桐生が身を捩って離れようとするが、身体をぴったりと密着させそれを許さない。
「あき、やま……っ止めろ……っ」
「黙ってって言ったでしょ……っ!傷、もし痛んだら言ってください」
「っふ……ッ……あ……!」
 剥き出しの耳を噛み、息と一緒に言葉を吹き込めば、桐生が身体をしならせる。その隙に反応を示し始めたそれにゆっくりと触れると、その快感に腰が逃げるように揺らいだ。 眉を寄せ、唇を噛み締め息を殺すその様は背徳的な色気に満ち溢れていて、じわりとした欲情が背筋をざわめかせる。ずっと見たいと思っていた表情がすぐ傍にあることに、浮かれすぎて現実味が感じられない。
 どうしてこの人はこんなに自分を狂わせるのだろう。自分の中にこんな、激情とも呼べるような激しい感情があったことに秋山は心底驚く。
 この人の全てが欲しくて堪らない。堪らないのに。
「桐生さん……」
 名前を呼ぶ声が未練に溢れていて苦笑する。目があったその人は快感に揺れる瞳で、しかし真っ直ぐと秋山をとらえた。
「……っ、呼ぶな……っあ……!」
「感じます? いくらでも呼びますよ……桐生さん」
「やめろ……っあ、う……っ、止めて、くれ……!」
「どうして」
 最早殺しきれなくなった吐息を手で塞ぎながら、桐生はかぶりを振った。
 動かす手を速めながら唇が触れそうな距離で囁けば、耐え切れないとばかりに桐生が口を開く
「離れ、られなくなる……っ!」
 切なさを滲ませたその声が、鼓膜に甘く響く。情けない顔をしているのが見られたくなくて、秋山は首筋に顔を埋めた。
 その愛しい匂いを感じながら、達するように動きを早くする。びくびくと震えるそれは限界が近いことを示していて、秋山は徐にポケットティッシュを取り出し片手で広げる。
「あきやま、あっ……、秋山……っ!」
「……そんなこと言って。また勘違いしちゃうでしょ……俺のもの、みたいで……っ」
 思わずこぼしたその言葉に反応するように、桐生が秋山の背を掴む。
 強引に背中を引っ張られ、秋山は埋めていた顔を桐生の目の前に晒す。
 目が合って愛しさに息が止まりそうになる。そしてその唇が、本当に息を止めそうな言葉を吐く。
「そうじゃねえの、かよっ……くそ……っ!」
「っ……出して、桐生さん。いいから」
 唇を食み、殆ど懇願のようにそう言うと、桐生のそれが大きく震える。一際大きく洩れそうになった声を丸ごと飲み込み、同時に吐き出されたそれを受け止めた。

 軽い後始末を終え、流石にそのまま下へ降りる訳にもいかずスカイファイナンスへ寄る。花はとっくに帰っていて誰もいないその部屋で二人、無言のまま向かい合い冷めきった缶コーヒーに口を付けた。
 怒鳴られるかと思ったがそうはならず、桐生は黙ったまま冷たいコーヒーを飲んでいる。流石に買い直してくると秋山が外へ出ようとすれば、有無を言わさない口調でそれを引き止められた。居心地の悪い思いを感じながらも、秋山も同じように喉に流し込む。
「すまない」
 ぽつりと呟かれたその言葉に、秋山は桐生をじっと見る。疲れた様子のその表情に申し訳なさが込み上げてくるが、逆に謝られてしまって言葉が無い。
「お前に何も――言えなくて。大事なことを、何一つ」
「そん、な……仕方ないじゃないですか、遥ちゃんのことを思ったらどうしたって……」
「……離れられても何も言えないと思った。だが――お前に言われて、自分でも驚く程動揺、した」
 まっすぐ見つめられ、そんなことを告げられれば秋山こそ何も言えない。桐生は缶コーヒーを置き、小さく溜息を吐く。
「勝手だな、俺も。全て分かった気になって、離れようとしたり追いかけたり……」
 自嘲するように言い、桐生は拳を固く握りしめた。秋山は黙ってその身を乗り出し、頬に触れる。
「俺を追いかけてくれたんですか、貴方が?」
「……ああ」
「――現金な話、それだけで舞い上がれる俺がいるんです。
 本音を言えば、もう少しありますが」
 秋山の言葉に桐生は小さく笑い、頬に触れるその手を掴んだ。指を絡められ少なからず動揺するが、その視線から外れるのが嫌で仕草には表さない。
「お前が欲しかった、ずっと」
 言おうとした言葉に似たそれを先に言われ、秋山は思わず口ごもる。しかしそれならば行動だけは先んじておこうと、唇を重ねる。
 何度も繰り返したそれがどこまでも心を満たして苦しい。
 明日にでも触れられなくなるのであろうその未来を思いながら、けれど手放すことなどどうして出来るだろう。
「貴方が欲しいです、ずっと」
 唇を離しそう囁けば、桐生は見たことのない表情で笑う。 切ない微笑みは胸を締め付けるが、今は何も言わない。それが、何を示そうとも。


 交わることの無い恋の終わりにはきっと、貴方のその言葉を思い返すから。