じゃあお疲れ、と田中さんが言う。
　オレはその時三割くらいの確率で、「田中さん、オレもうすぐ寝そうです」と言ってみる。 本当に眠たくて堪らない時もあるし、そうでもない日もある。
　 田中さんは大体三割くらいの頻度で、仕方ないなといった風に溜息を吐く。そしてオレを降ろしてから車を停める。オレは田中さんに連れられて部屋へと戻る。
　部屋の中へ入ったオレは、本当の所がどうであれ眠くて堪らないから床へと突っ伏してしま
う。そんなオレを田中さんは強い力で立たせて、自分は風呂場へ向かう。
　備え付けられているのが奇跡と言えるような簡素な風呂を洗い、湯を張る。そして放り出したままのオレの荷物を片付け、まとめておいてくれる。
　暫くして湯が溜まり、オレは田中さんに引き摺られるようにして風呂に入る。促されるままに服を脱ぎ、シャワーを浴びる。田中さんは擦りガラスの向こうに映ったり映らなかったり、忙しなく動いている。身体を温めたオレはシャワーを止め、丁度扉の近くにいた田中さんに声をかける。
　すると田中さんはやっぱり三割くらいの確率で、風呂場の扉を開けてくれる。 狭い風呂場の中で田中さんは無理矢理オレを座らせ、シャツとズボンを捲ってから中に入ってくる。オレは泡立てたスポンジで身体を洗い、田中さんはオレの髪をわしわしと洗う。
　どれくらい前からこんな風にしてもらうようになったのか、あまりはっきりとは覚えていな
い。いつだったか、その時は本当に寝惚けていたオレを田中さんが世話してくれた時、風呂場で眠りこけてしまったのがきっかけなのは確かだ。
　田中さんはアイドルのマネージャーらしく、オレの身だしなみにうるさい。普段身だしなみどころじゃないような姿を晒しているオレに対してでも、肌や爪のケアに関してまで口を出してくる。髪だってその一つだ。せっかく爽やかな良いイメージを抱かせるんだからと、適当に扱いがちなオレを遮り、こうして自分で洗い始めるようになってしまった。放っておくとろくなことにならない、そうぼやきながら、田中さんはオレの髪を洗ってくれる。
　そこには熱心なマネージャーと、意識の低いアイドルという関係性しかなかった。田中さんが意図的にそうしていることは分かっていた。田中さんは驚くほど真面目で意思が強い。それを嫌という程知っているから、オレもあえて触れるようなことはしなかった。けれど。
「田中さん」
　泡を流しきり、シャワーを止めてから振り返る。押し上げた眼鏡を頭に引っ掛けた田中さんと目が合う。表情に変化は無い。 着衣だって乱れていない。当然だ、田中さんはオレを洗う為だけに風呂場に入り、袖と裾を捲り上げただけの状態だったのだから。
　オレはそのまま手を伸ばして、田中さんのスーツが濡れるのも構わずに抱き締めた。乾いたシャツが、オレの身体に張り付く。
　次も、三割くらい。三割くらいのタイミングで、田中さんはオレを引き剥がさず、そのまま腕を回してくれる。三割に入らなかったら、身体を冷やすなと咎められ、湯船に入れられるだけ
だ。あくまでオレのことを気遣い、自分の服を厭うこともなく。
　オレは黙ったまま田中さんにしがみついていた。まだ動かない。普段よりずっと長い無言が続いて、オレがちらりとその顔を伺った時、田中さんの腕が動いた。
「たなか、さん――」
　田中さんはオレの肩を掴んで身体を離すと、それとは逆の手で頬に触れ、そのまま口付けてきた。田中さんの指が耳にかかり、地肌をやさしく撫でていく。
　その手つきとは裏腹に口の中を這い回る舌は粗暴で、オレは今までにないその勢いに圧倒さ
れ、立ち尽くしていた。狼狽える舌の先を柔く噛み付かれ、溢れる唾液を啜り上げられる。生々しいぐずぐずとした音に一気に体温が上がった。
　数えられる程度とはいえ、田中さんとは色々と、してきた筈なのに。こんな風に追い立てられるのは初めてだった。三割の中の、とんでもなく薄い所を引いてしまったのかもしれない。
「ちょっ……と、」
　唇を離した田中さんが、オレの顔を両手で包み込んで呻く。その先に続くのがごめんとか悪いとか、とにかく詫びる内容であることが伝わってきたから、何も言えなくなる。元より謝られる謂れなんか無かった。けしかけたのはオレだし、そもそもこういう関係である以上、ちらついた欲に手を伸ばすのは当然だと思った。オレだってそれを望んでいた。それでも、田中さんは謝らずにはいられない。オレが探り探り晒すきっかけを、三割という言い訳を伴ってでしか受け入れられない田中さんは。
　オレは何も言わずに回した腕に力を込めた。田中さんの身体が一瞬強張り、それでももう一度唇が寄せられる。今度はそれほど荒れた様子もなく舌が忍び込む。
　たださっきよりずっと、隙間なく身体が触れ合っていた。首の後ろを撫でる田中さんの手、そしてもう片方の手がオレの、剥き出しの腰に触れた。
　掌を大きく広げて撫でられる感覚に背筋が震える。そのまま田中さんは手を前に回して、反応し始めていたオレの性器をそっと掴んだ。指先で擽って弄ばれて、思わず顔を伏せそうになる。けれど田中さんはそれを許さず顔を上げさせ、何故か嗜めるように舌を噛んでくる。
　舌と腰、どちらも引くことを許されないまま触れられ、高められていく。田中さんがもどかしそうにオレの後頭部を引き寄せる。滑り始めた先端を塗りつけるように撫でられるのが堪らなかった。
「……いいか？」
　少しだけ離した唇で田中さんが言う。返事をする前にまた唇を噛まれるからどうしようもな
い。きっとこのまま出させてもいいかとかそんな問いかけだろうけれど、結局答えを聞かないまま手つきを荒くする辺り、やっぱりいつもの田中さんとは違っていた。
　手の中で膨れるそれを擦りながら、田中さんはオレの頭を強く引き、これ以上無理だというくらい舌を含ませてきた。口の周りどころか首筋にまで唾液が伝う。
　田中さんのシャツを握り締めてその濁流の快感に耐える。けれどそれも長くは続かない。
「彼方、」
　息をする合間に田中さんがそう呼んで、オレは堪らず背を逸らした。足元が覚束ない。それでも田中さんは口付けるのを止めない。出来てしまった隙間を埋めるようにオレを抱き寄せ、足を一歩踏み出してきた。田中さんのスーツのズボンが、震えるオレの内股を擦る。ふとその布越しに固く保たれた存在に気付き、腹の底からぞくぞくと欲情が押し寄せてきた。田中さんも何かが吹っ切れたのか、オレの内股に熱を持ったそれを押しつけるように掻き抱いてくる。熱く爛れたものが込み上げる。
　くる、と思った時にはもう遅く、声すら出せないまま、オレは全てを吐き出していた。

　激しい自己嫌悪の波に襲われながらも、田中さんはやっぱり田中さんだった。 余韻でふらつくオレの身体を気遣い、清め、服を着させて部屋へと戻す。
　そして風呂場を洗い、またオレの元へと戻ってきた。
　オレが濡らしてしまったシャツのまま、田中さんは所在無さ気に立っていた。除けられていた眼鏡を掛け、オレをじっと見据えている。
「……彼方」
「田中さん、オレの明日の予定ってどうなってました？」
　意を決して口を開きかけた田中さんを遮り、オレは問いかけた。田中さんは虚を突かれたような顔をしながらも、律儀に手帳を見て確認してから答える。
「朝はオフで、昼一で雑誌の取材が――」
「田中さんの仕事は？」
「……朝から事務所に」
「じゃあ、泊まっていっても大丈夫ですね」
　オレの言葉に、田中さんは目を丸くした。オレも何となくばつの悪い思いをしていたが、あえて目を逸らさず、呑気に笑ったままでいた。
　これは正直、どれくらいの確率で受け入れられるか分からない。何故なら今まで一度だってこんなことを言い出したことが無かったからだ。田中さんはオレを家に上げる　ことはあっても、オレの家に長く留まろうとはしなかった。それが恐らく田中さんにとっての、大事な何かだということも分かっていた。
　田中さんは押し黙ったまま、オレを真剣な目で見ていた。何割か、もしくはゼロか。少しだけ恐れを覚えながらも待っていると、田中さんは徐にシャツのボタンを外し始めた。咄嗟に身を引くオレに向かって、田中さんが激しく首を横に振る。
　落ちていたハンガーを拾い、田中さんは脱いだシャツを掛けた。そしてカーテンレールにそれを強引に引っ掛けて、裸の背中を向けたままぽつりと呟く。
「一晩で乾けばいいけどな」
　オレは噴き出しそうになるのを堪えて、放り出されていた自分のシャツを拾い上げて軽く振った。
「オレの服貸しますよ。田中さんがいいなら、オレは別にそのままでもいいけど。一緒に寝たら寒くないですし」
　振り返った田中さんが近付いてくる。オレの目の前に立って、田中さんは半裸のまま身体を屈めた。何となく身構えたものの唇に触れるものは無く、田中さんはただ戸惑う程やさしく微笑んだ。
「……風邪引くよ、バカ」
　その声の甘さにオレはひどく狼狽えて、手にしていたシャツを田中さんの顔面に押しつけることでそれを誤魔化した。

　どれだけ傍にいようと、田中さんの三割が十割になることは無いし、オレだってそうなって欲しいと思っている訳じゃない。 田中さんが引いたある線引きを強引に侵す程、無神経でもない。
　ただ無理をして気を張って、オレが許さない限り緩めようともしなさそうなその人にオレは、きっかけを晒し続けていたいと思っている。
　――と、言っても今日のことで、田中さんの意思が決壊する瞬間もあるのだと身を持って知
り、そんな必要も無いのかもしれないと思い始めてもいるのだが。
「彼方、しっかり磨けよ」
「……はーい」
　近付いてきた田中さんが、オレの歯磨きに口を出してくる。去っていくその姿をこっそりと振り返って眺め、ほくそ笑む。
「何だよ」
「いえ、別に」
　鋭い勘でこちらを見てくる田中さんには首を振る。そしてオレはそのシャツの、乳首に描かれた星に向かって笑いかけた。