RUN

 

 肺がつぶれるんじゃないかと思っていた。 恥も外聞もかなぐり捨てて――いや、もともと大したものじゃないが、俺は夜の神室町を全力疾走していた。
 事件情報入電に反応しての現場急行、ではない。 もっとも、今のこの状況も、自分にとってはかなり厄介な事件ではあった。
 何せ俺を追いかけているのはあの――唯一無二の男、だからだ。
「はっ、くそっ、やっぱあの人化け物じみてるな――!」
 俺は息切れしながら細い路地を縫うように駆けていく。右に左に振りつつ走っているのだが、さすが相手も鬼の体力、元よりある場所を除けば神室町を隅々まで知り尽くしているといっても過言ではいないその人だ。その辺の人間ではまず逃げ切れないだろう。
 だがしかし、俺も一端の刑事だ。早々に負けを認める訳にはいかないし、俺には天下の宝刀が存在する。 その人ですらごく最近知った場所、ある地点まで逃げ込めば俺の勝ちは決まったも同然だ。
 一発勝負、頼んだ俺の両足よと言わんばかりに、俺はシケた博打で大穴に突っ込む時のようなハイテンションで突っ走っていく。 馴染みの雀荘の前を横切った辺りで、よく見る顔ぶれが走り抜ける俺の姿に気付き、手を挙げてきた。 稀に見る俺の勤勉さを称えたいのだろう。
 しかし後ろに迫るいかついヤクザ、もといヤクザっぽい屈強な男の姿に、駆け抜けた俺の背後でぎょっとたじろいでいる様が目に浮かぶ。
 俺は荒い息を何とか整えながら、角を曲がりスピードを上げる。
 もうすぐ俺の目指すポイント、逃げ切りの為の大事な地点へ辿り着く。勝ったか? いや、そんな安い前振りで転んだりはしない。 俺は殆ど全速力で距離をつくり、一気にゴールを目指す。見慣れた路地が近づき、ほくそ笑む。貰った役満、いや万馬券か。
「まーさよーしくん」
 まるでこの世のものとは思えないほど気味の悪い声に、俺の身体は本能で危機を感じ緊急停止した。 声のした方を思わず振り返る。遠のく大勝を思いながらも俺は、その人物に反応せざるを得なかったのだ。

「げ、伊達さん……何でここに、ってか何ですかいきなり気持ち悪――」
「……やっと追いついたぜ、谷村」
 苦々しく吐き出した言葉に被さるようにしてかけられた声は、俺の勝ちがあっさりと吹き飛んでいったのをはっきりと示していた。 背後に感じる気迫に振り返ることすら出来ない。そんな俺に向かっていやらしくにたにたと笑うその面倒極まりない大先輩は、日頃の鬱憤を晴らしたいとでも言わんばかりに胸を張る。
「いくら何でも短絡的過ぎやしねえか、谷村よ。お前さんが逃げ込む先なんざ、誰だって見当がつくぜ」
 伊達さんは数歩先に迫った亜細亜街の入り口を指し、満足げな表情でにやつく。 確かにぐうの音も出ない程の正論なのだが、いや、それにしたってそんなことを何故この人に指摘されなければならないのか。 俺は背後から向けられる熱い視線に気づかないふりをしつつ、伊達さんをじとりと見返す。
「……いや、だから、何で伊達さんがこんな所にいるんですかって」
「そりゃあお前さんの後ろにいるそいつにばったり会って、頼まれたからに決まってるだろう。なあ桐生」

 桐生、と掛けられた声に流石に無視を貫き通せなくなった俺は、ゆっくりと振り返った。 俺をまるで獲物を狩る獣のように追いかけていたその男、桐生一馬は、それこそ今にも喉元に喰らいついてきそうな目で俺を見ていた。
「すまなかったな、伊達さん。面倒をかけて」
「いいってことよ。コイツもたまにはガツンと絞られねえとな。その為だったら、俺は労を惜しまんぜ」
 人が口を挟めないのをいいことに、伊達さんはこれ程ないまでに爽やかな笑顔でそんなことを言っている。 今更ながら、不意打ちとはいえこの人の一言だけで足を止めてしまった愚かさを猛省する。 恥、いや本当にこれこそ恥としか言いようがない。
 苦々しい表情を浮かべる俺をこれまた満足そうに眺め、伊達さんは桐生さんに向き直る。
「よし、それじゃあ俺は行くぜ。桐生、あとは任せた」
「ああ、ありがとう。伊達さん」
 まるで一仕事終えた様子で、伊達さんは颯爽と去って行った。 全くもっていやらしいことこの上ない。完全に八つ当たりのそれを込めながら恨めしく伊達さんの背中を見送っていると、がしりと強く肩を掴まれ思わず背筋が伸びる。
「付き合ってもらうぞ」
 殊更ゆっくりと振り返った俺に向けられたのは、まるで有無を言わせない言葉だった。


 職務質問中の実直な警官Aか、汚職に塗れて絶賛不正行為の擦れきった刑事か。 今のこの状況は傍から見たらいったいどんな風に映るのだろうかと、下手なヤクザよりずっと恐ろしい男の真正面で思う。
 薄暗い裏路地、連れてこられたその場所で俺は、片隅に追い詰められるようにして桐生さんと対峙していた。 ああ、あともう一つ。健全な若者が謂れのないインネンで大ピンチ、という線もあるかもしれない。 もちろんそんなことを言えばどんな反応をされるか想像したくもないが、早い話そう見えるぐらい鬼気迫る表情だった。流石は俺の恋人。いや、うん、恋人、だ。
「久しぶりだな」
「あー、ハイ。です、ね」
 たった一言の挨拶なのに、何故こうもドスがきくのか。 もっともそれは完全に俺の所為ではあるのだが、それにしても物凄い気迫だなと他人事のように思ってしまう。
 まあ、それでも俺はそこまで臆したりはしない。恋人と言ったのは冗談でも夢でも妄想でもなく紛れもない事実で、俺はこの一回り以上年上のガタイのいい男に、心底惚れきっていたのだ。 そして相手も、俺に並々ならぬ感情を寄せてくれていた。
 その前提がある以上、どんなに俺相手に凄もうが、この人が真正面から真剣に見てくれている状況が既に喜ばしいし、ああやっぱりこの人いい男だなとか、そんな不純な意識が真っ先に浮かんできてしまうのだ。 もちろん相手が本当に怒ったり悲しんだりしてるときは違う。けれど少なくとも今の桐生さんのそれは、俺が引き起こした――言ってしまえば至極恥ずかしい、痴話喧嘩の結果だった。
「谷村」
「何ですか」
 動じない俺を何と思ったか、桐生さんは多少の苛立ちを含めて俺を呼んだ。 名前を呼ばれるのも正直久しぶりで、その心地よさを噛みしめている俺に、桐生さんの至極真っ当な問いかけが投げかけられる。
「どうして逃げるんだ」
俺は何と答えたものかと暫し逡巡する。 相変わらずの鋭い視線に、これ以上沈黙を押し通す訳にもいかず、恐る恐る口を開いた。
「――あーいやほら、反射といいますか。追っかけられると逃げたくなるもんじゃないですか」
「お前は追いかける側だろう」
 ごもっとも。
「それだけじゃない。いやむしろそっちはどうでもいいんだ」
 桐生さんはじれったそうに言い募ると、この人にしては珍しく、酷く狼狽した様子を見せながら言った。
「避けてるだろう、俺を」
 ――それもまさしくごもっとも、だ。
 桐生さんは何故か後ろめたそうな表情を浮かべて俺を見ていた。 気を許した人には何だかんだと甘いこの人のことだ。きっと要らない危惧や推測で、申し訳なさすら覚えているのだろう。 悪いとは思いながらもその様子は、俺の劣情を充分すぎる程刺激した。
 俺は大人げなく格好つけた態度を改めるように姿勢を正し、桐生さんを見つめた。
「子供みたいな真似して、すみませんでした」
「……いや、俺こそ悪かった」
「桐生さんが謝ることなんてないですよ」
 俺の言葉に、桐生さんは黙って目を伏せた。 その姿に俺は腹をくくり、言葉を選びながらぽつぽつと話し出した。
「逃げたのは本当、すみません。正直思わず、としか言いようがないんですが……」
「……どんな刑事だ」
「そこはもう、ご存じの通りです。
 ――で、まあその、別に避けていたつもりはなくてですね――」
 俺は一呼吸置くと、真剣そのものといった顔でこちらを見る桐生さんを見た。 言ってもいいものか。いや、いつかは言わなくてはいけない。
 いつまでも逃げている訳にもいかないのだから、言うしかない、が。
「……桐生さん、俺が何て言ったか覚えてますか」
「え?」
「あーその、最初に二人で飲んだ時ですよ。――俺が貴方に、言った時」
 言及するのは流石に俺の精神が持たずぼかしたが、相手は察してくれたらしい。 桐生さんは少し考える素振りをしてから、俺をまっすぐ見て言う。
「――正直言っても引かれて終わる気がしてますが、それでも俺は貴方とどうにかなりたくて――」
「すみませんいいです、あの、全部繰り返さなくても」
 うろ覚えどころか一言一句再現しかねないのを慌てて制止する。 今の素面の状態で、あんな酒やら熱やらで浮いた恥かしい文句を聴かされるなんてとてもじゃないが耐えられない。 というかまさかそこまで覚えられているとは思わず、問いかけた俺が予想外に狼狽える羽目になった。
 俺が思っているよりずっとこの人は、俺のことを見てくれているのだと、今更ながら痛感する
「その、どうにかなりたいって意味は伝わってますよね」
「――ああ。だからお前をこうまでして追いかけたんだがな」
「……すみません、俺貴方に見栄を張ってました」
 俺の懺悔に桐生さんはますます混乱したらしい。 話の続きを促すように無言で頷く桐生さんを見て、俺は最早やけっぱちの気分で告げる。
「どうにかなりたいってのは正しくなくて――つまり――どうにかしたいってことなんです」
「同じじゃないんだな」
「違いますよ。だって俺は――あんたを、抱きたいと思ってるんだから」
 言ってしまった。 人気は無いとはいえ、何もこんな街中の片隅で言わなくてもよかったかもしれない。 けれど俺をこんなにも真正面から見てくれるこの人に、逃げ腰になっているばかりではそれこそ合わせる顔が無い。
 俺は来る断罪を待つ心持で相手を伺う。言われたその人は一瞬目を丸くし――それから何故か、きょとんとした顔を見せた。
「それに、問題があるのか?」
「っ、え!?」
 拒否か戸惑いか、良くて苦笑いくらいだと思っていた反応がまさかのもので、俺は思わず大声で聞き返していた。
 桐生さんは俺の驚きにも、理解できないといった様子で首を傾げている。
「あの……問題っていうか、いいんですか? 俺年下ですし、体格も桐生さんよりは――」
「別にそこまで大きな問題じゃないだろう。それに俺は――そういう経験も無いしな」
「や、それは俺だってありませんけど……え、もしかしてあるとか思ってませんよね?」
「いや、そういう訳でもないが……」
 桐生さんは俺の問いかけを何故か曖昧に濁した。 冗談じゃない。まさか本当にそう思っていたのではないかと、末恐ろしい疑惑が頭について離れなかった。
 もしや、と俺は思い至る。 脳裏を過ったのは、あの胡散臭さにおいては右に出る者のいない、どこぞの金貸しの顔だった。
 妙に冴えわたる勘をお節介にも存分に発揮して、あの男は俺と桐生さんの関係をさらりと言い当てて見せていたが、もしかすると桐生さんにあらぬことを吹き込んでいたのかもしれない。 例えば酒の席で、酔いで多少は心の箍が緩んでいるこの人に、冗談の切れ端につらつらと、といった感じで。
 とんでもない男だ。許すまじ秋山駿。というか二人で酒の席とはどんないかがわしさだろうか本当に許すまじ秋山駿。
「谷村?」
「……桐生さん、秋山さんのいうことなんて真に受けちゃ駄目ですよ。あと男は大体下心しかありません」
「あ、ああ……まあ確かに俺にも心当たりはあるな」
 少々ずれ始めた会話を元に戻すべく、俺はとりあえず秋山さんに対する疑念を封印した。 苦い顔で押し黙っていた俺を気遣うように伺う桐生さんに、俺は精一杯の真面目な表情を向けて問いかける。
「本当に、いいんですね?いや、俺もそこまで拘ってるって訳じゃないですけど、いざとなった時その、抑える自信が無いっていうか」
「――ああ、いいぜ」
「押し倒しますよ? あ、あと俺実は結構マニアックなんで、縄とか道具とか使うかも」
「な、縄か……いや、お前がどうしてもと言うなら」
「冗談ですよ、普通です。普通……」
 不穏な単語にたじろぎながらも、俺の言葉に真剣に向き合ってくれるこの人に、行き場の無い感情が込み上げてくる。 やはり屋外で伝えるんじゃなかった。こんな所では、この人を抱き締めることも出来やしない。
「……俺、言って良かったです、貴方に。調子いいって言われそうですけど」
 心の底からそう思って、俺は桐生さんをしっかりと見据えたまま言った。 桐生さんも俺から視線を外さず、柔らかく表情を緩めて頷いてくれる。
「もうお前を追いかけるのはごめんだからな」
「反省します。――よかったら何か御馳走しますよ、お詫びの印に」
「勝ったのか」
「そういう時にしか出さないみたいに言わないで下さいよ」
 どちらともなく歩き出し、俺は桐生さんの隣に並ぶ。
 薄暗い路地を抜けていつもの喧騒に戻る前にと、俺は横目で桐生さんを伺いつつ口を開く。
「それにしても、あそこでまさか伊達さんが出てくるとはなあ。惜しかった」
「まあ、亜細亜街に逃げ込まれたらもうどうしようもなかったからな」
「――ああ、惜しいってそっちの意味じゃないですよ」
 突然立ち止まった俺に遅れて気づき足を止め、桐生さんは振り返る。
 その腕を掴んで距離を詰め、俺は胸に収めた邪な思いを、形だけ隠しつつ囁いた。
「名前。どうせなら貴方に呼んでもらいたかったんですけどね、一馬さん」
 駄目押しとばかりに調子に乗って初めて呼んでみたが、気恥ずかしさに正直どうにかなりそうだった。 それでも余裕のそれは何としてでも維持したくて、何でもない顔をして見せる。
  言われた相手といえば――掴まれた腕とその言葉に一瞬虚をつかれた顔をしてから、呟いた。
「それは悪かったな、正義」
「いやいいんですけど――っえ、えっ!?」
 あまりにさらりと言われてしまい、けしかけた俺の方がむしろ情けなくも動揺した。 桐生さんは素知らぬ顔で掴まれていた腕で逆に掴み返し、立ち尽くす俺をぐいと引っ張って歩き出した。
「で?どこに行くんだ? お前の行きつけか、正義」
「いやあの、ちょっ、桐生さ――」
 必死で縋る俺に桐生さんは俺の腕を離すと、くるりと振り返ってくれた。 表情は傍目には変わりないが、何となく視線を合わせようとしない所が、気まずさを隠そうとしている証拠だった。
「何だ」
「あの、それぐらいでもう、勘弁してもらえないですかね……」
 切実な懇願に、桐生さんはちらりとほっとしたような顔を見せた。 ちょっとした意趣返しのつもりだったらしいが、おそらくかなり自分でも恥ずかしかったと伺える。
  大の男が二人して今更なんだとも思うが、むしろ大の男だからこそとも言える。それでも少なくともこんな場所でやり合うようなものじゃない。
 俺は小さく息を吐き、じわじわと込み上げてきた羞恥に耐えているだろうその人に並んで歩き出す。
「――とりあえず、飲みますか」
「ああ」
 叫びだしたくなるようなむず痒い空気を感じながらも、共有しているのは紛れもなく、隣を歩くその人だ。
 そう思うだけで俺は舞い上がり、それこそ子供のように駆け出したくなる程、浮かれずにはいられないのだ。


/RUN (恋とは愚かな鬼ごっこ、なり)