落日

 

付き合いが悪いのは特定の相手が出来たからだと面と向かって指摘され、誤魔化す気にもなれなくて苦く笑う。
 そら見たことかと何故か勝ち誇った顔をする男と、意外そうに目を丸くする男。そのどちらもが抑えきれない好奇心を滲ませていたが、鳥束は疑問に答えることなくじゃあまた、と会話を切り上げ背を向けた。
 一体どこのいたいけな新入生だ!今度ちゃんと報告しろよ!背中に向かってぶつけられる要望を叶えられる日はおそらく来ない。――おそらく、否、間違いなく。
 健気に残っていた桜を散らしたいだけ散らした長雨が終わり、風にはからりとした夏の気配が漂いつつあった。
 梅雨明けはまだ先だが、季節の切り替わりを思わせる気候は肌にも馴染み始めている。
 入学式以来盛んだったサークルへの勧誘活動も落ち着き、構内の様々な場所にいたビラ配りも今はまばらだ。右も左も分からない新入生をとりあえず抱え込んでおこうと躍起になっていた各サークルのメンバーは、今頃捕まえた新入生があらゆる事柄に目移りしようとしているのを必死で阻止していることだろう。
 なだらかなカーブを描く坂を下りる。すぐ近くが山という立地の性質上、この大学は平坦な道が少なく、歩いているだけでそれなりの運動になる。
 鼻の頭に浮いた汗の粒を感じながらも、鳥束は足を止めない。まっすぐ前を見据え、音楽を聴いているという訳でもないのにただざくざくと歩く鳥束の姿に、ちらほらと残るビラ配りも及び腰になる。結局一度も満足に差し出されることのなかったチラシを横目に坂を下りきり、そのまま開けたバス乗り場へと足を進めていく。
 講義の合間であるこの時間帯はバスを待つ人も少ない。列の先頭に立ち、呼吸を整えて、ズボンのポケットに滑り込ませていた腕時計の文字盤を見る。
腕にはいつも嵌めていなかった。本来それが収まるべき場所には連なる珠の輪が存在している。
 随分前から習慣的に付けているそれはいつの間にか無いと落ち着かないようになっていた。
 深い信心だと自負する気はない。ただ日々の暮らしに気取ることなく溶け込ませているという意識は、あらゆる信仰の入り口なのかもしれないとは思う。1年間受け続けた授業がもたらした些細ながらもたしかな成果だった。
 秒針を目で追う。10、20、30。2分程遅れてロータリーに滑り込んできた青い車両に安堵し、再度ポケットの中へ腕時計を戻す。目の前で停車したバスがゆるりとドアを開き、漏れ出した冷たい風が頬を叩いて心地良さに目を細める。鳥束はメッセンジャーバッグの肩紐を握り込んで車内に足を踏み入れた。扉から程近い窓際の席を選んで深く腰を落ち着ける。
 頭上の送風口からは絶えず冷風が下りてきていた。髪の間をすり抜けて届く風が頭皮から肌を冷やしていく。
 徐々に引いていく汗の気配に混ざって一瞬、妙な喪失感を覚えて、鳥束はひっそりと息を飲んだ。
 失うものなど何もない。むしろ自分は満たされに行くのだ。排気音と共に走り出していくバスに揺られながら、遠退いて行くキャンパスをわざと視界から外して前だけを見つめる。
 余計なことは考えるべきではないのだ。今はただ、これ以上大幅に遅れることなくバスが停留所に着いてくれることを願うしかない。普段なら少々の遅延など気にもしないが、今日この時だけは見過ごせなかった。金曜の夕方だけは。
 鳥束の期待通りバスは2分遅れのまま目的の停留所で停車した。足早に降り立った鳥束は念の為もう一度腕時計を引っ張り出して時間を確認する。
4時32分。買い物をする時間はある。学校帰りの子供たちがはしゃぐ公園に沿って歩き、角のコンビニへ立ち寄る。
 買うものはたいてい決まっていた。適当な飲み物と酒、惣菜、冷凍食品に菓子類。目についたそれらをカゴへと入れ、最後にデザートが並ぶ冷蔵ケースに向かう。
 ここでもお決まりの選択だ。期間限定商品を2種類と、定番商品同じものを3つ。限定物を2種類買うのは便宜上、自分と相手で分け合う為だ。たとえ最終的にどちらも相手に譲ることになったとしても。
 加えて同じものを3つ買うのは、今日明日明後日の3日分。どれも相手用だ。
冷蔵庫の上段にきちんと並んだプラカップが3つ、満足げに眺める子供っぽい顔を盗み見るのが楽しくてつい甘やかしてしまう。
 それを見越してわざと無防備に振舞っている節ももちろんあるのだろうが、こと好物に関しては全ての仕切りが緩くなる相手だから本当の所は分からない。いずれにせよ上手く乗せられている自覚は鳥束にも多少はあった。
 重く指に食い込むビニール袋を手にまた歩く。気温は幾分か下がったが日はまだ高い。コンビニで更に冷やされた身体がアスファルトの照り返しでまたゆるゆると熱に浸っていく。永遠に沈まないのではないかと思うような強い日差しにふと足を止めそうになる。
 ――無論、沈まない筈はない。日が落ち、月が上り、夜が訪れるから鳥束は歩いている。その場所へ向かっている。
 先程から乱れ続ける感情の原因に、鳥束は思い至っていた。小教室を出る寸前、声をかけてきた彼女。
 一般教養の授業で何度かグループワークを共にして、流れで酒を飲みにも行った。
 これからちょっといい?と問いかけるその顔は普段と変わらないように見えてどこか冷静な媚がちらついていた。
 崩れることなく整えられた化粧、人懐こそうな丸顔に似合う栗色のショートボブを揺らす彼女に向かって鳥束は迷うことなく首を横に振っていた。
 ごめん今日はちょっと、言い添えた言葉には罪悪感がまるで足りていなかった。自分で気付いたぐらいだから彼女にはもっとあからさまに見えただろう。事実いいよいいよと繰り返す彼女の笑顔は固かった。
 これが例えば昨日であったなら、返答の内容はともかく鳥束の対応はももう少しましなものだったかもしれない。しかしながら今日に関して言うなら鳥束にそんな余裕はなかった。正確にいえばそういった選択肢自体が存在していなかった。
 5時を少し回った頃、鳥束は漸くその部屋の扉の前に立っていた。学生向けのマンションは安価で戸数も少ないが廊下からしていつも騒々しい。
 ただ今は半端な時間の所為か部屋から漏れ出てくる声は聞こえなかった。
 階段から一番遠い角部屋、簡素な灰色の扉の前で鍵を取り出す。安い作りの扉に不似合いなティンプルキーを差し込んで捻る。
 音を立てて鍵が開いた瞬間、鳥束の脳内も綺麗に切り替わる。雑然としていた思考が霧散し、やがて一つに収束するのを感じる。扉を押し開いた。
「ただいま」
 後ろ手に扉を閉めながら声をかける。8畳のワンルームは三和土に立てば見渡せてしまえる程の狭さだったが人影はなかった。鳥束は靴を履いたままもう一度呼んだ。ただし今度は明確な動作を口にする。
「帰ったっスよ――早くこっち、来てください」
 鳥束の声を追いかけるように、何かが軋む音がする。恐らくスプリングが緩んでいるベッドだろう。ちょうど死角になっている辺りに置かれたベッドから降りて、近付いてくる。フローリングに擦れる靴下の足音、それに重なって聞こえる金属音が耳につく。
 カチ、カチ、カチンと不規則にぶつかり合う金具が告げている。
「ただいま、斉木さん」
 現れた人影の表情は見えない。差し込む西日を背中に受けている所為で暗く陰っている。しかし鳥束は相手が考えていることが手に取るようにわかった。鞄とコンビニの袋を差し出して空いている左手に受け取らせる。
「暑いっスね。冷蔵庫入れるもんはそっちっス。後で入れてください。あ、あーあそうか、こんな暑いならアイスとかにすればよかったっスよね」
 すんません気が利かなくて。そう言いながら自由になった手で両手首に結ばれる珠の輪を抜き取る。外したそれをズボンのポケットへと滑り込ませて、鳥束はもう一度彼の顔を見た。そして彼の、最初から塞がっていた右手に視線を落とし、呆れたように笑いながら両手を突き出す。
「……いいっスよ、やって」
 影が動く。伏せがちだった顔が僅かに上がり、左手がそっと鞄と袋を床に置く。
だらりと垂れさがっていた右手は鳥束の言葉に応じて持ち上がり、握り締めた帯状のそれを目の前の手首へと這わせ始めた。
 痛みは無い。柔らかい感触がマジックテープによって巻きつき、肌を締め上げている。異様な光景であるにもかかわらず生々しさは薄く、ちょっとしたリストバンドのように見えなくもな
い。
 両腕を繋ぐシルバーのリングフックが、自由を奪っていることを除けば。
 拘束を終えた斉木が息を吐く。ちょうど太陽が雲にかかり、伺い難かったその表情を露わにする。
 揺れない瞳が鳥束を真正面からとらえた。鳥束は小さく微笑んで、足をすり合わせて器用に靴を脱ぐ。
 突き出していた腕を身体の前へ下ろし、連れ出される囚人のような姿で、しかし卑屈さは微塵も感じさせない悠々とした笑みのまま口を開く。
「喉渇いたな――とりあえず、何か冷たいものでも飲みましょうよ」
 軽く頷いた斉木が鳥束の横をすり抜ける。伸ばしたその手が内鍵をかける音を聞き、耐え切れない震えが汗ばんだ背中を撫でていく。
 これでもう、誰もこの部屋から出ることは叶わない。腕を縛られた鳥束はもちろん、鍵をかけた斉木自身でさえも。

 発端は彼にあったとしても、それを口にしたのは自分だった。
 高校生の頃、知り合ったばかりの斉木はまだ人としてあらゆる面で硬かった。それは思春期特有の性質というだけではなく、彼が持って生まれた特殊な能力が大きく関係していたものの、その事実を知る者は未だ殆どいない。
 同じように人とは違う能力を持ち得ていた鳥束は、斉木楠雄という男の本質に触れ、利点ばかりでないその日常を間近で見ることによって、少しずつ彼自身が持つ魅力に落ちていった。
 諦観の姿勢は崩さないくせに酸いも甘いも噛み分けた大人ほど柔軟にはなれず、人並みに機嫌を損ねたり他人に構ったりする不器用さが好ましかった。
 それを指摘するとこれまた素直な子供のように、苦い表情を浮かべるのがまた好きだった。矛盾する自らの言動に悩む姿が愛おしく、そんな様を知るのがこの先も自分だけであればいいと願ってすらいた。
 純粋な好意に行き過ぎた独占欲が混ざる頃、めっきり合わなくなっていた視線が再度ぶつかるようになった。
 初めは看過しようとしていた感情にいつしか足首を掴まれ引き倒され、斉木は途方に暮れた顔をして鳥束の前にいた。
 僅かに戸惑いはあれど、転がり込んできたその身を無下にする気は毛ほども無く、鳥束は気の抜けた緩い笑みで彼を迎え入れた。
 愛し、愛されることが出来ると信じて疑わなかった。どういうものなのか分からないと眉を寄せるのなら分かるまで付き合うっスよと笑いかけてやった。
 よくある一般的なデートをして、思ったことは包み隠さず頭の中へ浮かべて口にもした。
別に今更後ろめたく思う必要なんて無い。どっちにしろ言葉にもするんだから、好きに読み取ってくれていいんスよいつだって。
 アンタのそういう細やかなところが本当に好きだ。だからオレはアンタに嘘をつかない。通じないからじゃなくて斉木さんを信じてるから。読まれて困ることなんて一つも無いから。アンタが好きだってことしかないから。
 アンタが好きだから。
 気兼ねなく周囲に言えるようなものでもなかったからひっそりとした関係だったが、すぐに終わることはなく1年続いた。
 1年と少し経ったとある日、斉木はまるで大きな仕事を終えたような顔をしていた。問いかけようとした口は近付いてくる斉木によって遮られた。
 黙って倒れ込んでくる身体を受け止めて、また何かを人知れず回避させてきた彼を抱き締め
た。
 それが初めて、鳥束が斉木に触れた瞬間だった。
 言葉は無いのに、何故か確信があった。本当の意味で斉木に受け入れられた瞬間であるとも悟った。事実高校を卒業し互いに別の大学へ進むようになっても関係は途切れず、静かに、穏やかに続いていた。
 続くと思っていた。

 瞳が切なげに緩んだ。手が触れた。吐く息が近付き、唇に触れられた。
 少しずつ明け渡されていく心と身体。それに満ち足りていく鳥束と対照的に、斉木は徐々に乱れていった。遠くを見ることが多くなり、彼にしては珍しく苛立っているのを隠さないようになった。
 鳥束は普段と変わらず斉木に接し、彼に対する思いもそのまま伝えた。しかし鳥束が柔らか
く、労わるように触れる度、斉木は道を誤ったかの如く呆然と立ち尽くして唇を噛んだ。ままならない何かに苦悩し、その責任を自分で負おうとしていた。
 そんな齟齬が1ヶ月程続き、やがて彼は苦しみをめいっぱいその顔に貼り付けて別れ話を切り出した。短い秋が終わり、冬の風が窓を打つ夜のことだった。
 彼を招いた部屋でコーヒーを淹れていた鳥束は、玄関先で立ち尽くしたまま入ろうとしない斉木を、廊下に併設されたキッチンから黙って見つめていた。
 愛想が尽きた訳ではないというのは、その顔を見れば一目で分かった。けれど返す言葉が見付からず、淹れかけのドリップバッグが滴らせる雫の音を、ただ他人事のように聞いていた。
 しかし斉木が身じろぐ気配と共に、振り返ってドアノブを掴もうとするのを予期して、鳥束は堪らず手にした電気ケトルを放り出してその手を掴んだ。叩きつけられたキッチン台が、派手な音を立てて大きく撓む。
 冷たい手首だった。体温などどうにでもなると彼は気にも留めていなかったが、その冷ややかな肌に触れる度鳥束はどうしようもない思いでいっぱいになる。つい癖で温めるように撫で摩った鳥束を、斉木は突き放さなかった。向かい合って手首を掴まれた斉木は、白くかさついた唇を僅かに動かして懇願した。懇願としか言いようの無い文句だった。

 こんなことはもうやめたい。

 言葉に反して、斉木の顔には後悔が満ちていた。伝えたそばから悔やむなど、どこまでも矛盾している。
 鳥束は波打つ心を必死に押し留めて問いかけた。どうしてやめたいんスか。何がアンタを追い詰めてる?オレじゃないなら教えて。
 言ったじゃないっスか分かるまで付き合うって。
 目を伏せていた彼は二度程深い息を吐いた。のろのろと上げられた視線が鳥束をまっすぐ射抜き、流れ込んでくる思考の波に鳥束は全てを理解した。
 ――いやだ。
 お前のことを考えるのがいやだ。
 お前のことをどうにかしたいと思う自分がいやだ。
 何をしてもされても満たされない。お前の言動一つ一つが気になって仕方がない。分かっているのに分からないのがいやだ。
 知らない欲が溢れてきて抑えられない。だからもうこんなことはやめたい。欲にまみれてしてしまいそうになる。
 何を、と低い声で問いかけても斉木は答えなかった。言葉にすることが困難なようだった。
 握り込んだ手首に力が入るのを感じて、鳥束は手の拘束を緩めた。そして自由になったその左手で今度は逆に、自分の手首を掴ませた。
 冷えた指が緩やかに巻きつく。そのあまりの馴染み具合に、自然と答えが出ていた。
「……じゃあ、縛りましょうか」
 瞳の奥の深いところを覗き込むようにして鳥束は言った。最初斉木は理解出来ないものを目にしたように目の焦点をぼやけさせたが、それに続く言葉と意図に気付いた瞬間、吐き出す息をそれとは分からない程細かく震わせた。
 もう一度、声にして告げる。迷いはなかった。
 縛ったらいい。ただしアンタだけじゃない。

 ――オレは心を、アンタは身体を。互いに差し出して縛り合えばいい。それならアンタだけが苦しむこともなくなる。
 愛し、愛されることが出来ると信じて疑わなかった。今でもその気持ちに変わりはない。
 変わったのは、その方法だけだ。

 言うならば彼は、酷く飢えていた。生まれながらにして全てを与えられ、そして全てを奪われたその飢餓は濃く深かった。
 言葉や約束ではどうしても満たされない。色付いたレンズの奥で折に触れては鈍く光る目がそう訴える。
 その際限無い渇望を末恐ろしく思いながらも、その飢えを引きずりだしたのが紛れもなく自分であることに、鳥束は震えるほどの愉悦を覚えずにはいられなかった。
 事実以前の彼はもっと平静でその心は湖畔の水面のように凪いでいた。良く言えば無欲で慎ましく、悪く言えば怠惰で奢っていた。
 その気になればいつだって掌握できてしまう他人の心を、恥も外聞もなく欲しがることなど有り得ないと高をくくっていた。
 一度知った他人との繋がりは斉木楠雄という人間を緩め、そして戒めた。理性とは別のところで働く衝動――嫉妬、不安、所有欲、肉欲愛情その他諸々押し寄せるすべてが彼の許容範囲を超えていた。
 そんな得体の知れないものから逃れるように背を向ける斉木を引き戻したのが鳥束であるな
ら、それを受け入れるのも鳥束しかいなかった。
 当然の帰結だった。
 少なくとも、鳥束にとっては。

 学生という立場上、すぐに全ての生活を投げ出せるという訳ではない。だから簡単なルールを決めて、彼らはそれに準じて行動した。
 始まるのは金曜の夕方、場所は鳥束の部屋。月曜日の朝、部屋を出る前に斉木が鳥束の拘束を解き、それが終了の合図になる。その間、お互い一歩も外出することなく過ごす。
 鳥束は四肢を拘束され、自由を奪われる。対して斉木は自らの意思を鳥束に奪われる。
 ただいまと言われても呼ばれなければ迎えに来られず、例え尿意を催したとしても指示がなければトイレに行くことすら出来ない。鳥束の意のままに従って動くが、その意思は拘束という行為の是非には及ばない。あくまで互いを縛るという前提の元成り立つように優先する。
 そんな条件が恋人同士で過ごす週末の時間に付随されただけで、あとは何も変わらなかった。痛みや苦痛を伴う行為は無く、言葉で精神を支配することも無い。自分の一部を相手に渡し、相手からも受け取る。見た目よりずっと穏やかな時間が、彼らの間には存在していた。

 玄関先で縛られたのには多少驚いたが、もちろん戸惑いはなく、短い廊下をまっすぐ歩き部屋へと向かう。
 壁に沿って置かれたベッドへと腰掛けた鳥束は、足元に転がっている二つの黒い物体に視線を落とした。両腕を繋ぐ拘束具と同じ形をしたそれは、それぞれにフックがかけられ、長いベルトと繋がっている。
 同じように腕のそれにもベルトを繋げ、ベッドの下にくぐらせれば、四方から手足を引っ張られるように拘束できるといった代物だった。
 そうなってしまうと拘束の度合いはなかなかのもので、ちょっとやそっとでは動けなくなる。もっとも、彼にしてみればこんなアダルトグッズに頼らずとも、鳥束を拘束するなど訳ないのだが、その力を持ち出すことを鳥束も斉木も良しとはしなかった。
 互いの意思と理性が均衡を保ち、成立させている戯れの空間だと認識する必要があった。あからさまな道具はその礎であり象徴だ。
 そう、すべては恋愛の中に混ざる戯れに過ぎない。いつでも終わらせることが出来る仮初の時間。事実がどうあれ、そう何度も確認することが、彼らの中に暗黙の了解として横たわってい
た。
 部屋に入ってきた斉木は、肩にかけていた鳥束の鞄を中心にあるローテーブルの横に置く。
 そして同じく運んできたコンビニ袋から中身を取り出す前に、ちらりと視線を正面の窓へ向けた。
 開け放たれていた藍色のカーテンが一瞬で閉ざされ、室内は布の端から洩れるぼやけた明かりのみになる。遮光率の高いカーテンは落ち切らない夕日からこの部屋を切り取ってあっさりと遠ざける。いつものように。
 指示はしていないが鍵を閉めることと同様に一連の作業であるから何も言わない。
 鳥束に背を向けた斉木は、袋から出したデザートを律儀に自らの手で冷蔵庫に入れ始める。その、僅かに弧を描いた背中を、鳥束は何も言わず薄闇の中ただじっと見つめ続けていた。

 他愛ない会話をし、食事をして風呂に入り眠りにつく。閉ざされた部屋の中で起きているの
は、本当に何も変わらない普段と同じ生活だった。
 ただ鳥束はその一挙一動を常に斉木に委ねる他なく、斉木もまた、思考以外のすべての権限を鳥束に握り込まれていた。
 鳥束が買い込んだ惣菜をテーブルに並べる。ようやく日が沈み、蛍光灯が温かく照らす室内でのんびりと食事をした。
 もちろん鳥束自身が両手を動かすことはなく、スプーンやフォーク、あるいはそのまま素手といった風に、斉木が手を尽くして甲斐甲斐しく食べさせる。大抵のことは問題なくこなす斉木だったが何故かこれだけはすんなりといかないようで、今日も眉を顰めながらパスタと格闘している。
 しかしながら苦労もむなしく、結局跳ねさせたソースで鳥束の頬を盛大に汚してしまい、相変わらずの惨状につい笑いがこぼれた。
 ばつが悪そうにティッシュを引き寄せる斉木に、緩んだ顔のまま鳥束は首を振ってみせた。
「たべて」
 拒否という選択肢を持たない斉木は一度目を伏せてから顔を寄せた。差し出される舌先がそっと頬に触れ、濡れた感触と共に赤いトマトソースを拭っていく。触れたのは一瞬だったが刺激は絶大で脳天からつま先まで快感が駆け抜けた気がした。
 どうやら斉木にも同じように伝わったらしく、顔は離れたのに薄く開いた唇からは未だ舌が僅かに覗いている。
 そのままがぶりと噛み付いて吸い上げて、というところまで想像したが実行はしなかった。代わりにまだ皿に残っているサラダへと視線を移し、レタスの山から転げ落ちているプチトマトと斉木の顔を交互に見る。
 求められていることを察した斉木の指が、トマトを摘み上げる。赤く熟したその実を挟んだ指先が鳥束の唇に近付き、
 そっと押し付けられた。開いた口の中にトマトを迎え入れるついでに、入り込んできた透明な手袋に包まれた指の腹を舐め上げる。びくり、と動いた指が抜け出ようとするのをまた首を振って制し、音を立てて吸い付いた。何をされるか分かっていて、今はもう抗う術すらも持たないのに、戸惑うような素振りを見せるこの男が心の底から愛おしいと思う。
 軽く息を吹きかけて指先を解放すると、斉木はじとりとした視線を鳥束に向けた。鳥束は素知らぬ顔でぷつぷつとトマトの皮に歯を立てて次はピザがいいと強請る。
 斉木にも食べるように言いながら差し出される薄いクリスプ生地に噛み付けば溶けたチーズが斉木の指を汚した。再度ぶつかった視線に悪びれず笑いかける鳥束に渋い顔を見せつつも、唇の端を緩めた斉木が指を向けてくる。
 一口でその指を飲み込み温かいチーズごと舐めしゃぶりながら鳥束はくつくつと喉の奥で笑った。甘過ぎるやり取りに脳が蕩けそうだった。

 戯れに満ちた食事が終われば次は風呂だ。ユニットバスは手狭で湯船に浸かることは殆どなかったが、シャワーは毎回欠かさなかった。
 もちろん鳥束は両腕を結ばれたまま服を脱ぎ湯を浴びる。腕を通さなければならない以上脱ぎ着の際には両腕を繋ぐフックが外されるものの、拘束具自体が肌から離れることはなかった。
ユニットバスの前の廊下で服を脱がされ、下着のみの姿になったところで、鳥束はふと尿意を覚えた。丁度フックも外れていてタイミングがいいだろうと、脱がせた衣服を玄関近くの洗濯機に運ぶ斉木に声をかける。
 洗濯機に衣服を放り込んだ斉木は鳥束の訴えに応じて戻ってきた。とはいっても彼がすることは特になく、扉を開ける手間を横着する鳥束に従ったのだと思った。
 しかし近付いてきた斉木の手は風呂場のノブに伸びることなく、何故か鳥束の手元に下りてきた。ぶら下がっていた銀のフックを取り上げて、また元のように腕と腕を繋ぐ。その間ぽかんと見守るしかなかった鳥束が我に返った頃には、既に扉が開かれ、斉木は背後へと回り込んでい
た。後ろから抱き込むようにして伸びてきた手が、下着のゴムへと引っ掛けられる。
 制止する言葉も、方法も思い付かず下着が引き下ろされる。あっさりと露出させられた性器は力なくだらりと垂れ下がっていて、腹の底にかっと羞恥の火が灯った。
 膝に下着を引っ掛けた間抜けな姿の鳥束を、斉木は構わずぐいぐいと押してくる。押されるまま浴槽に併設された洋式便器の前に立たされたところで、鳥束は斉木の意図することを正確に理解した。
「あ」
 指が、柔らかい性器を掴む。電球色の淡い灯りの下その様は殊更婬猥に映った。背中に感じる体温、耳の後ろを撫でる吐息の気配。否応がなしに煽られていく性欲とは裏腹にその指は握ることなくただそっと竿を支えて留まる。回された反対の手が下腹部を促すように強く抑え、堪えていたものが込み上げてくる感覚を覚えた。
「う、あ……っ」
 自らの意志に逆らって膀胱から尿道へと押し出されたそれは、やがてちょろちょろと気の抜ける音を立てながら便槽へと飲み込まれていった。
 少量で勢いもなかったが、鼻をつく匂いからはどうしたって逃れられない。鳥束は衝動的に利き手が洗浄レバーへ触れようとするのをやっとのことで抑えた。
 全身を包む快感とそれを上回るどうしようもない喪失感。未だぽたぽたと残滓を垂らして白い便器を汚し続ける鳥束のそれに、斉木はさも当然と言わんばかりに自然な動作で巻き取った紙を押し付ける。
 残った滴を吸い取った紙を捨てて、淀みない斉木の手は中途半端な位置で止まっていた下着を引き上げた。無意識に穿きたい、と考えたかどうかは雑然とした思考の中定かではなかったが、その直接指示していない行いを指摘する気にもなれなかった。
 何かを言わなくてはと言葉を探した。しかし探そうと思ってしまった時点で最早何もかもが遅く、戸惑うほどにあっさりと触れていた温かい身体が離れていく。
 その身を引き留める言葉すら持ち合わせない鳥束は、ただ黙って喉の奥に絡みつく唾液を無理矢理飲み込んだ。
 咽喉を突く酸味を帯びた刺激は溜まったものを無理矢理流し入れたからだと納得しかけて、未だ室内に饐えた臭いが漂っている所為ではないのかと思い至って絶句する。放置していた羞恥が冷水を浴びせるように鳥束へと襲い掛かり、居た堪れない思いで噛み締めた奥歯の隙間から息を吐く。鼻で呼吸など出来る筈がなかった。
 斉木の手はそんな鳥束を通り越し、シャワーのコックへと伸びる。温い水が徐々に温度を上
げ、小さなユニットバスを湿気で満たす頃、斉木は思い出したようにコックから鳥束へと指を滑らせた。
 つい先程、彼の手によって引き上げられた下着がまた脱がされていく。
 元々シャワーを浴びるつもりだったのだから当然の行為だ。ただ普段とは違う戯れに耽溺し、本来の目的を失念していたであろう斉木のらしくない不用意さに、鳥束は違和感を覚えずにはいられない。
 脱がせた下着を備え付けのラックに置いて、腕を捲った斉木は鳥束を浴槽へと入れ、熱い湯をかける。
 心地良い湯に打たれても、一度着せられた下着を改めて取られるその姿はやはり異様で、そしてひどく滑稽だと、脳裏に生々しく焼き付いたままだった。

 昂った熱がずるずると飲み込まれていく感触は、何度味わっても背筋が震える。限界まで広がった肉の輪に同じく限界まで張り詰めた身体の一部が締め上げられ、根元までふかく舐められ
る。
 挿入の衝撃で軽い絶頂を覚えながら見上げた視界には、日に焼けない白い肌が、薄闇の中陽炎のようにゆらめいていた。
 普段より多少、荒れた呼吸を繰り返しながらも、鳥束の性器を収めた斉木は間髪入れず緩やかに腰を動かし始めた。
 大きくはないベッド、全裸で横たわる身体の上で裸体が艶めかしくくねる。体勢の関係でセックスは自然といつもこの形だった。
 両腕を拘束された鳥束はその手で快感を引き出す術を持たず、ただ言葉と指示で互いを高め合っていく他ない。
 ――まだ咥えろって言ってないっスよ。ちゃんと自分も勃たせて、ほら。
 察しが良過ぎる相手の仕草は官能的だがルール違反だ。窘められた斉木は結果半開きの口のまま、先走りを滴らせて自慰をする羽目になった。
「……っ、は、すげ、ガチガチ。んな先っぽ濡らして……やっぱ自分で扱く方がいいんスか?」
 いやらしい問いかけにも貪る動きは止まらない。決して外されることのない眼鏡の奥、湖面のように凪いだ瞳は鳥束を見てはいるものの、どこか熱にぼかされていた。
 臆面なく快楽に溺れる様は見ていて堪らなくなるものがあるが、何故か今日に限っては物足りなさが勝った。鳥束は低く絞った声で斉木を呼び、決めごとに従って指示を出す。
「答えて。――チンコ、自分で弄る方が感じるんスか」
 根元まで咥え込んだところで斉木は擦り上げるのを止め、自重でよりふかく貫かれる感覚に喉を鳴らしながら首を横に振った。
 これもまたセックスにおける愛撫の一つで、答えさせれば満足すると思っていた。しかしながら鳥束の予想とは反して飢えは更に広がり、抑えきれない衝動を持ってしてやがて全身を支配した。
 再度動き出そうと腰を浮かす斉木を目で制し、再度奥まで性器を飲み込ませる。無意識か意識をしているのか判断はつかないが、下腹部には僅かに力が入っているようで、擦られなくても堪らなく気持ちが良い。
 それでも鳥束はその快感から逃れるように身じろいで腰を引いた。意図しない動きに困惑を滲ませる斉木に向かってまた尋ねる。
「オレが触る方が気持ち良い?」
 今度は答えて、と付け加える前に小さく頷いた。首を動かす瞬間内部がひくりと蠢き、それが事実であろうことがまざまざと伝わってくる。
 鳥束は強い充足感を覚え、それと同時にどうしようもなくうら寂しい思いも抱いた。心も、意思すらも明け渡し、ただ鳥束に溺れようとする様に、今更ながらひどく心が掻き乱される。
 斉木だけを苦しめるのではなく、自分も同じように締め付け締め上げられればそれでいいと思っていた。そこにあるのが愛や恋、そう名付けて呼べるものであるなら、何も変わらないのだ
と。
 ただこんな風に肌を重ね合わせていると、鳥束は渇いて空ろになる心を抑えきれない。やり場のない気持ちを添わせて慰めたくても、抱き寄せる手は自らの意志で戒められている。
 ――求められていたものは、本当はすぐそこにあったのかもしれない。隔絶された世界で酔い痴れるのではなく、その身に触れ、触れられて、少しずつ隙間を埋めていけば、あるいは。
 鳥束は頭だけを起こして、腹の上に置かれた自らの両腕を差し出した。力など入れなくても、他人の手があれば一瞬で解けてしまう拘束に、これからの自分たちを重ねて願う。
「斉木さん」
 視線が重なる。目尻に浮かぶ水滴が心の底から愛おしくて、すぐさま拭ってやりたいと指先が空を掻く。
「これ、取って。オレに触らせて、そんで――二人で一緒に、いきましょう」
 告げた声は慈しみに満ちていて、鳥束は改めて眼前の男を愛したいのだと自覚した。
 素直ではない。言葉も多くない。ただ根っこのところはお人好しで、愛されることを望んでいる――そんな斉木を、求めてやまないのだと。
 熱で蕩けていた瞳はしっかりと鳥束を見据えている。やがてそろそろと伸びてきた指が拘束具の繋ぎ目に触れ、チリ、とマジックテープが浮き上がる音がした。
 ――途端に、強い力で鳥束の手は押さえつけられ、体内に収められた性器もそれにつられて締め付けられる。突然の刺激に声を上げる間もなく、屹立した性器はぎりぎりまで抜かれ、再び深く含まされていく。
「っ、う、あ、あっ」
 一方的な動きに目の前で光が明滅し、鳥束は思わず喉を反らせて喘いだ。続けざまに激しく上下に擦り上げられ、熱が身体中を勢いづけて駆け巡る。
 時間を置いた所為で潤いが足りなくなっているのか、ぐちぐちと擦り上げる動きは引き攣れたようにぎこちない。
 快感と同じぐらいの息苦しさを斉木も感じている筈だったが、彼は更なる快楽を得ようと貪り続けるばかりだった。
 暴力的とも呼べる刺激の荒波に思考が次々に塗り潰される。きつく絞られる性器に痛みすら覚えながら、霞がかる視界の中で、鳥束は一心に視線を向け続ける斉木から目を離さなかった。
 責める訳でも、悲しむ訳でもなく、鳥束をただ求めようとする目。
 その目を見た瞬間鳥束は自分の愚かさを呪い、心に残る空しさを手放して微笑んだ。

 ――そして、訪れた月曜の朝。全ての戒めが解ける玄関先で、鳥束は訪れた時と同じように両手を突き出し、仮初の拘束から抜け出そうとしていた
 どことなく感じていた予兆とは裏腹に、斉木はあっさりと拘束具を解いてみせた。何か引っ掛かりを覚えながらも、鳥束はドアノブに手を伸ばし、外へ出る。
 朝の眩しい光が目を刺し、手をかざしたところでふと、隣にいない存在に気が付いた。
 振り返った先、未だ玄関先に立ち尽くしたままの斉木は、普段と変わらない、何も変わらない表情のまま、ただ鳥束の「言葉」を待っている。
 鳥束は叫び出しそうになるのをぐっと堪えて、歪な微笑のまま口を開いた。
「……行くっスよ、斉木さん」
 微かに頷いた斉木が近付いてきて隣へ並ぶ。一寸のずれもなく同時に動く右足が、今は末恐ろしくて堪らない。
 閉じ損ねた世界に終わりはなく、始まりもない。次第に日常に溶け込んでいくその拘束を、枷だと認識するものは誰もいない。
 少なくとも、彼ら以外は。


/落日