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誰もいない教室に立っていた。柄にもない感傷に浸っていた訳じゃない。ただ賑やかな輪を離れて、一人になりたかった。
この場所に訪れるのも今日が最後だ。そう思うとそれなりに思う所もある気がするが、やはり具体的に言葉には出来なかった。
近付いてくる気配と心の声に、面倒だから身を隠そうと思う。けれど何故か結局行動には移さず、僕は息を荒げて教室へと飛び込んできた彼女と鉢合わせた。
「零太!……あ、れ……?」
目に入った人影に彼女は喜々として声をかけたものの、それが目当ての人物でないことにすぐ気づき、小さく肩を落とした。
乱れた髪を手で整え、少し決まり悪そうに彼女が言う。
「ごめん斉木君、えっと……零太見てない?」
彼女の問いかけに、僕は黙って首を振る。彼女はそっかと呟き、滲んでしまった落胆を隠すように微笑む。
「探してるんだけど、見つからないの。一緒に写真撮ろうと思って。ほんともう、どこ行ったのかな――あ、ごめんね絡んじゃって。私行くね」
そう言うと彼女はまた慌ただしく教室を出て行った。余程会いたいのだろう。筒抜けの思考を放り出し、僕は他人事のように思う。いや、事実他人事だ。気まぐれに長居なんてするもんじゃない。思い直して、さっさと帰ろうと鞄を手に取った。
教室から出ようとした矢先、狙い澄ましたように入れ替わりにやってくる人間に気付く。今度は動けなかった。逃れたい、そう思いながらも自分は、ずっと。
「斉木さん」
かけられた声に、ゆっくりと振り返る。彼女が探していた男が、笑ってしまう程柔らかな笑みを浮かべていた。
「帰んないんスか?」
問いかけを、そのまま返すように見つめる。鳥束は笑みを崩さないまま言った。
「探してたんスよ、彼女」
そう、そんなことはもちろん分かっていた。男の――いや、鳥束のそれに限らず、他人の思考は否応が無しに僕へとぶつけられる。 そして相手はその事実を唯一知る同級生だ。だからこのやり取りも、殆ど儀礼的なそれに近い。男の思惑は読めている。そう、いつだって分かっていた。
「――って、言うと思ってるんでしょ」
鳥束の顔から笑みが消え、代わりにそんな言葉が飛び出してきた。僕は少し戸惑う。伝わってきた思考と、言葉が矛盾していた。
「すみません、斉木さん。オレずっと、嘘ついてたんスよ」
嘘。耳慣れない単語が頭を巡る。だってそんなもの、僕には通用しない。いくら言葉で偽ろうとも、僕には心の中が丸見えなのだから。
鳥束は真顔のまま、拳を握り締めている。
「オレね、あなたの前では隠してたんス。必死に、バレないようにって。馬鹿みたいに」
鳥束が近付く。一歩分、距離を縮められ、真正面から視線が合う。 出会ってもう随分経つというのに、この男をちゃんと見たのはこれが初めてのような気すらしていた。
「オレ、あなたが――斉木さんが、好きなんです」
僕はその理解出来ない言葉を、趣味の悪い戯言だと聞き流そうとしていた。 けれど、出来なかった。真摯な目、震える声。違う、そんなもので絆されたんじゃない。
堰き止められていた思いが、一気に溢れ出していた。感情が波のように押し寄せ、思わず耳を塞ぎたくなる。 好きだ、好きだ好きだ好きだ。稚拙で、しかしどこまでも真っ直ぐな好意が刺さる。
隠していたと言われた。だがそんなことが出来るのだろうか。ここまで切実な熱を孕んだ思いを、隠し通すことなど。
じゃあこの男は、当人の前で好きだという感情を隠し通し、あまつさえ他の――僕ではない別の人間と、付き合い別れてを繰り返していたとでも言うのか。
相手の考えを、全て分かり切っていたと思っていたのは自分だけだったのか。そんな、何故こんな、まどろっこしいことを――
「最後まで、嘘つきたくなくて。本当、勝手ですみません」
道を違う前に、一言だけでも真実を? 本当に勝手過ぎる。こんなのは理解できない。 そう、理解できない。
今や分かっていた筈の男の思考は全く読めないものとなっていた。卒業し離れる直前になっ
て、こんなに遠く感じるなんて。
「斉木さん、恋なんて有り得ないって言ってたっスよね」
唐突な言葉に、僕は混乱を投げ出すこともできずのろのろと反応する。 悟ったような笑顔がこの上なく不快で、でも口にすることなんて出来ない。
「女ばっかり追っかけてたオレが、男を……あなたを好きになるぐらいなんスよ。人の心なん
て、どう転ぶか分からない」
呟かれる言葉を遮りたかった。そんなことが聞きたいんじゃない。しかし言葉にするには、何もかもが足りなさ過ぎる。
「偉そうに聞こえるかもしれないけど、あなたにも、誰かを想うようになる日がくると思ってます。――来て、欲しいとも」
どこまでも勝手で、どこまでもお節介な男は笑う。誰かを、だなんて言ってのけて笑う。 いじらしく身を引いているつもりなのだろうか。それとも、そこまでの覚悟は無かったか。好きの間に差し込まれる心に、その答えは見つからない。
「じゃあ――お元気で」
鳥束は勝手を貫いたまま、ようやく取り戻した笑顔でそう言った。僕は何も言えない。言葉が見つからない。――違う、言葉はずっと前から見つけていた。ただそれを、口にする理由が無いと決めつけていただけだ。
背を向けた鳥束が離れていく。引き止める方法はいくらでもある。何にせよ、能力を使えば一瞬だ。 いや、そんなものを使わなくたって、男の歩みは止められる。
ただその唯一の簡単な方法が、僕にはずっと、ずっと遠かった。 分かっている、一言呼べばいいんだ。その、名前を。 けれど出来ない。出来たら苦労しない。呼び止める尤もらしい言い訳すら、取り繕うことが出来ない。
廊下の向こうへ鳥束が消えていく。そしてその思考も、僕を、好きだと言ったその心も、遠のいていく。 僕は立ち尽くしたまま床を見つめる。誰かを想うようになる、言われた言葉が頭の中を巡る。
来る筈が無いのだ、そんな日は。この先お前以上に好きな人間なんて現れる訳がない。そんなこと、超能力なんて無くても分かる。分かっているのに。
言えなかった言葉は宙に浮き、行く先を失って途方に暮れる。これでよかったのだ 、そう言い聞かせても、喪失感は消えない。
ゆっくりと顔を上げて、僕は誰もいない教室を後にする。後悔にもならない感情に蓋をして、一人歩いていく。
三年間の終わりを飾ったその日、僕は唯一の恋を、なくした。
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