弟の話

 

 浅い眠りの中でそのあまりにも優しい声が名前を呼ぶから、おれはまだ目を開けられずにい
る。

 数日前から発熱した身体は、薬のおかげでかなり楽になったものの、ぐったりと重い。
 季節外れとも言える全くもって中途半端な時期にひいた風邪だったが、普段のものと比べると結構大変だったようだ。 己の体調管理の甘さが悔やまれる。
 草野球の練習も出来ず、何をやっているんだと自分を叱咤したくなる。
 お袋が貼ってくれた、額の少し位置のずれた冷却シートを押さえる。じわじわと熱が吸い取られていくような感覚が心地良い。 時計を見ると夜中の2時を指していた。
 まだ朝は遠い。掛け布団代わりのタオルケットを引き寄せ、背中を丸めた。
 ぼんやりと部屋を見つめる。家の中は静まりきっていて、時折自分の吐く荒い息遣いが響い
た。 ふと隣の部屋とを隔てる壁を見た。勝利はもう寝ているのだろうか。
 耳を澄ましても、物音は聞こえない。
 何故いきなり勝利のことを考えたのかは分からなかった。もしかしたら眠っている間に昔の夢でも見たのかもしれない。そう思って考えてみるが、思い出せなかった。
 勝利。そういえば熱を出して以来一度も顔を合わせていなかった。 看病に徹してくれた母親はもちろん、自分にしては珍しく高い熱を出したと聞いて、親父も様子を見に来ていたが、勝利は見なかった。
 以前は、以前までは少しの熱でも何やかんやと言いながらも、心配してくれたのかよく部屋にも来ていた。けれど、今回は一度もない。
 単に忙しいだとかそんな理由もあるのだろう。別に特別過度な心配をして欲しい等と子供っぽい思いを抱いている訳でもなかった。 子供。そう、そうなのだ。
 もう自分達は小さな子供じゃない。
 目を閉じると、ゆっくりと意識が眠りの中に落ちていく。視界が滲む。熱で曖昧な思考の中、思う。 もう子供じゃない。時間は経ち、すべて変わっていく。
 小さな自分達はいない。あの頃とは、違う。 ――あの頃とは?あの頃と、何が違うんだろう。
 けれど考えがそこに行き着くよりも先に、眠りに落ちた。 意識が沈む寸前、ほんの少し前に、右手が何かを求めるように動いたけれど、その理由も分からなかった。

 頭がはっきりしない。これは夢なのか、現実なのか。明け方の浅い眠りを彷徨っているよう
で、酷く不鮮明だった。
 その中で、誰かがおれを呼んだ。有利、有利、ゆうり。それはどこか懐かしく、そして暖かな声だった。 この声をおれは知っている。右手が、何かに触れた。
 声が鼓膜を震わせる。優しく、優しく。 お袋とは違う。親父でもない。それじゃあ、それじゃあこの声は――
「有利」
 この声は。
「ゆーちゃん」
 おれを呼ぶのは。
「大丈夫」
 そばにいるのは。
「お兄ちゃんがいるからね」
 呼び返そうとした。けれど唇が動かない。目を開けて確かめたくても、それも出来ない。その声が、冗談みたいに優しかったから。
  口の中で呟いたのは、懐かしい呼び名。この夢から覚めたくないと思った。だからまだ眠っていたい。どちらが良かったのか、おれには分からないけれど。

 「あらぁゆーちゃん! 大分熱下がったわねえ。良かったわぁ、これならもう大丈夫ね」
 微熱程度の数値を示す体温計を見せながら、お袋は胸を撫で下ろしていた。
 窓から降り注ぐ日光が眩しい。ここの所天気は快晴のようだった。身体を早く本調子にして、練習に行きたい。
 朝食のおかゆを取りに行くと言ってお袋が部屋を出て行った後、何気なく扉を見つめる。
 明け方、薄らと記憶にあるそのことが夢なのかどうか、今は判断出来なかった。 それでもいいかと思い直して、乱れた髪をかき上げた。ふと、指先が額で止まる。
 昨夜から貼っていた筈の冷却シートは、まだかなり冷たかった。それを指で辿っていると、あれと思った。窓ガラスに自分の顔を映して、よく見直す。

 几帳面に、しっかりと真っ直ぐに張られているシートが、そこにはあった。