俺以外見るんじゃねぇ
今日も今日とて、全くもって考えの読めないこの男は、部活中にも関わらず何故か自分を連れてどこかへ向かっている。
手首を掴まれ半ば引き摺られる様な形で、彼はただ周りの視線に耐えていた。 早い歩調に軽く躓いては恨めし気に前の背中を睨むが、もちろんそんな彼に気付く様子もない。
安形という男がこういう突飛な行動をする時は、大方何かしらの特別な理由があるのだが必ずと言っていい程それを口にはしなかった。
だからといって問い質せば答える訳でもなく、ただやんわりと笑って誤魔化してしまうのだ。だから彼はそういった安形が一番苦手だった。
恐らくは今回もその類である事は分かっていたのだが、それにしては些か行動が普段と違う、ように思えた。 何というか、僅かに苛立ちが垣間見えた気がしたのだ。
けれどやはり理由は分からない。
決して強い力ではないのに、拘束する手から逃れられる気は少しもしなかった。もとよりここまで来て逃げ出す意味も無かったのだが。
顔を上げた所にあったのは、何の変哲も無い男子トイレだった。
「……何で?」
思わず出た疑問にも安形は答える事なく無言でその手を引いた。段差で足をひっかけながら中へ入る。 丁度用を足していた生徒と目が合って、何となく気まずいような空気を感じた。
けれどそれとは逆にこっそりと安堵する自分もいた。
もし入ったそこに自分と相手しかいなかったら、 それこそ理由は言い表せないが酷く居た堪れなかっただろう。 一瞬緩められた手首を握る力が再度強さを増して、それに反応する間もなく歩き出す。
横目ですれ違う人影を捉えてはっと顔を上げた。一時的な安心をもたらした件の生徒が鼻歌を歌いながら手を洗い、そして出て行く。
つい呼び止めそうになって、その筋違いな感情にふと乾いた笑いが漏れた。
「何?」
微かな声を聞き取って、今日初めて安形が言葉を発した。それは抑揚の無いトーンで、そこから何かを読み取る事は出来ない。
「……な、何って、いや、つーかアンタこそ、何なんだよ」
「連れション」
「はあ?」
唐突過ぎる答えに声が抜ける。怖いぐらいに無表情な男が、彼のその声にふっと頬を緩めた。 纏う空気は初めに感じたものと同じ、ぴり、と張り詰めているのに、どうしてそんな正反対の表情が出来るのか。
言葉通りの意味と取る程、彼は安形を温く見てはいなかった。けれど動揺は隠せない。
「藤崎」
打って変わって優し過ぎる声音に肩が震えた。鼓膜を緩やかに震わせるその声は、彼が一番好きな安形の声だ。 誰に見られるか分からない状況で、それでも動かなかった。動ける筈が無かった。
頑なに手首を掴んでいた手が離れ、その骨張った指先がそっと頬に触れる。息が止まりそうだった。
「ああ、」
覗き込むようにして身を屈めた安形が笑う。
「見えてるな」
「な、にが?」
「俺が」
指が不似合いな程優しい動作で前髪を除ける。覗く瞳を見つめて、安形はやんわりと目を細めた。
淡白である筈の安形がこんな場所でするその仕草に、違和感を感じながらも熱は上がり彼は既に絆され始めていた。 どれだけこの男に、思えば最初からちらついていた考えだが、今改めてはっきりと自覚する。
けれど同時に纏わりつく鋭い雰囲気を思い出し、それは甘やかに緩みだしていた思考を奮い立たせた。
「藤崎」
再度呼ばれる名前に視線がかち合う。背筋を伸ばした男は、触れたその指で彼の顎を持ち上げた。 そのまま近付いてきた顔に咄嗟に目を瞑る。触れそうな所にある唇は、けれど触れる事は無く言葉を紡いだ。
「下らねぇ言い分だ、でも頼むから」
眼差しの強さに眩暈がする。逃げられる訳が無かった。ずっと、もうずっと前から。
焦げそうな安形のそれに触れて、いっその事そうなってしまえばいいと、切に思った。
名前を呼ぼうとした彼の口は、こぼされたその言葉で遮られる。彼の、好きな声で。
「俺以外見んじゃねぇよ」