Only
やりすぎたか、と心中ひっそりと思いながらも、ラグナは早足で廊下を過ぎるジェナスをせっせと追いかけていた。
Only
予定より録音もインタビューも早く済み、さて久しぶりに二人での時間が過ごせると思ったのも束の間、終わり間際にラグナが差し込んだその内容は、相棒の機嫌を見事に損ねてしまったらしい。
収録が終わっても一度もこちらを見ようとしない仏頂面は、ラグナには無言のまま周囲に挨拶だけ済ませてさっさとスタジオを去ろうとする。
ジェナスが意図的に視線を合わせない時はひどく怒っているか、もしくは後ろめたいことがあるかのどちらかだ。この場合はもちろん前者であり、ラグナはさてどうしたものかと思案しながら、トイレへと消えていく背中を追いかける。
トイレに来たものの用を足す訳ではないらしく、 こちらをちらりとも見ないまま手を洗うジェナスを盗み見て、 気まずさに耐え切れず逃げ込んだのだと確信する。
ラグナはゆっくりと傍らに近づく。濡れた手を取り出したハンカチで几帳面に拭うその姿に思わず顔を緩めてしまうと、それに気付いたジェナスが初めてこちらを見た。
威圧を含んだその視線に、ラグナは少しだけ気後れしながらも普段通り肩をすくめて軽く躱
す。
「ンだよ、イイじゃん別に、ファンだってバレてもさ。せっかくだしサインでももらっちゃえばよかったんだよ」
ラグナの軽口にジェナスが不愉快そうに口を曲げる。 そしてまるで何かの呪文のように、低く抑え込まれた声で恨めしくぽつりとこぼした。
「……アツアツのスープ」
痛い所を絶妙に小突かれ目を逸らして頭を掻く。 じっとりと絡みつく視線に耐え切れず、ラグナは一際大きな声で言い返す。
「あーもう悪かったって! ったく、お前結構根に持つよな」
「……オムライス」
「分かった分かった! ほら、キゲン直せよ」
放っておけば延々と続きかねない恨み言を遮り、ラグナは傍らのブラウンの頭にそっと触れ
た。 宥めるようにつとめてやさしく叩いてから、ぴんと伸びる流れに沿わせて撫で下ろす。 その柔らかで温かい動作にジェナスの瞳が少しだけ緩みかけるが、何故かその心地良さをわざわざ払うように首を振られる。
「そういう、子供にするみたいなの止めろよ」
先程より棘は無くなったが、不機嫌な口調は変わらない。 加えてラグナの行動も気に入らなかったらしく、わざわざ子供などと形容してまで不満を訴えてくる。
そんなジェナスのへその曲げ方に、ラグナはじわじわと込み上げてくる感情を抑えられなくなっていた。 憮然とした表情で目を伏せるジェナスの顔を、わざと覗き込むようにしてとらえる。否応がなしにぶつかった視線に、これまたじれったく含みの有る笑顔を向けてやった。
「子供、ねえ?」
「何だよ」
「いや? ……分かってるくせにすっとぼけるんだもんよ。そういうトコ、ずるいよな。魔性ってヤツ?」
「何言って――」
ジェナスが言い終わる前に、無防備なその身体を引き寄せて腰を抱く。 芝居がかった動きは流石に少し気恥ずかしかったが、それどころではなかった。
近付いた距離を更に埋めるべく顔を寄せる。呆気に取られていた瞳が、至近距離で徐々に状況を理解し始める。 完全に我に返るその前にと、鼻先に軽くキスをした。
掠め取ったそれにジェナスがあっと小さく声を上げる。 そして漸く取り戻した冷静さを支え
に、腰に触れるラグナの腕を掴んだ。
「っ、おいラグ……!」
「ン? 何で照れてんだよジェナ。こんなの、子供にするみたいなの、だろ?」
「お前、何ムキになってんだよ……っ」
ムキになっている、そう言われてラグナは思わず唇を緩めた。 確かにそうかもしれない。想いを伝えて、行動に表して、言葉にするには憚られるようなことだってしてきたにも関わらず、子供にするそれといわれたことに対して。
けれどもう、そんなことどうだってよかった。元々はもっとシンプルな理由。
ただ触れて、近付きたい。そんな分かりやすい欲求だったのだから。
「……こっち見ろって、ジェナ」
「いや、だ」
「何で」
「分かってるくせに、聞くなよ」
「お互いサマだろ。な、頼むよ、ちょっとだけ。どうせキャンプに戻ったらまたいつも通り、だぜ」
背けられた顔をじっと見つめながら、ラグナは乞う。 それこそ子供じみた我儘だったが、こういったことにかけては殊の外奥手なジェナスはたじろぐ。
じっと間近で見つめ合うことすら未だ慣れないのだ。それを分かっているから、視線は意地でも逸らさない。逸らしてはやらない。
「……お前、ずるいよ」
無理矢理目を伏せて、ジェナスは注がれる熱から逃れつつ呟く。ささくれ立った空気は和ら
ぎ、彼の表情に浮かぶのは困惑だ。
ラグナはそっとその俯いた頬に触れる。小さく身じろぐ気配がしたが、それに反して腕を掴んだ手の力が抜ける。
「はぐらかしてばっかのお前よりはずっと、セイジツだと思うけど?」
「それは――悪かったよ、ごめん」
ジェナスが心底申し訳なさそうに言う。謝罪の言葉が欲しかった訳ではないが、緩み始めたジェナスについてはもちろん大歓迎だ。
頬に触れていた手を引き結ばれた口元まで滑らせて、ラグナはわざと突き放した口ぶりで言い寄る。
「素直なのは口だけかよ」
唇を撫でられる仕草と求める視線に、珍しくあっさりと思惑を読んだジェナスが睨む。
「なっ、こんなとこで出来る訳ないだろ!」
「イイじゃん、ちょっとだけ。かわいいオネダリってヤツだよ」
「お前のどこがかわいいんだよ!」
「あっ、ひっでえなあ。あーあ、うちのバディはオフレコになった途端つれないぜ」
触れていた手を離し、ラグナはあてつけがましく嘆いて見せる。誇張した言い分だったが、求めていたのは事実だった。
とはいっても、そう易々とジェナスが行動に移すとは思っていなかった。 誰が来るか分からないこんな場所で、こうして身体を寄せ合っていること自体、ジェナスにしてみれば気が気ではないだろう。
もっと言えば早く皆の元へ帰らなければと焦れてすらいるかもしれない。
真面目で、不器用。たまには力を抜けよと肩を揺さぶりたくもなるが、そんな気質も含めて愛おしんでいるのだから結局は折れるしかない。
ラグナは小さく笑って、抱き寄せていた腰を離す。久しぶりの熱と匂いが遠のいて物寂しかったが仕方ない。からかいこそすれ、困らせてやりたい訳ではないのだ。
いきなり離れていったラグナにジェナスが戸惑った視線をくれる。ラグナはもう一度微笑み、帰ろうぜと声をかけようとした。しかし伸びてきたジェナスの手がそれを遮る。彼はラグナの肩をがしりと掴んで、もう一度近づけようとするかの如く引っ張り出す。
「……ン、してくれんの?」
つんのめりそうになりながらも再度近付いたラグナは、また腰に触れてしまいそうになる手を叱咤しながら首を傾げた。
何も言わないジェナスの手が、肩を引く。ぎこちなく傾く顔をじっと見つめているが、視線はやはり伏せられたままだ。
「早くしねーと誰か来ちまうかもなー」
「うるさい、ちょっと黙ってろよ……!」
沸々と湧く期待と、それに混じる悪戯心で声をかけるがにべも無く跳ねつけられてしまう。張りつめた緊張の糸がラグナにも伝わってくるようだった。
そのたどたどしさに不意に叫び出したいほど愛おしさが込み上げてきて、自ら詰めてしまいそうになる距離を保ったまま堪える。
「――泣いてんの?」
「だ、誰が……!?」
「そんな緊張すんなよ、悪いことさせてるみたいだろ?」
ラグナの揶揄に食って掛かりながらも、ジェナスは離れようとはしない。息を吐き、腹を括ったと言わんばかりの真剣な表情を浮かべて目を伏せる。
徐々に顔が寄せられていく。下を向いていた瞳が一瞬ラグナを見て、そしてゆっくりと閉じられた。それと同時に唇が触れる。柔らかく、微かに湿った感触を自覚して全身がかっと熱くなる。
目を閉じる間もなく離れようとするのを咄嗟に遮って抑え込んだ。ふたたび触れ合った唇に暴れ出しそうな想いを込める。舐めて、噛んで、吸い付いて注ぐ。夢中になって触れ合う。
吐き出す息すら惜しくて、余すところなく内へ取り込もうと喉を鳴らす。肩を掴んだジェナスの手に力が入るが、構うことなど出来なかった。足りない、足りない、考えるのはそんなことばかりだった。
いつまでも続けていられそうなそれをやっとのことで終わらせ、ラグナはその名残さえもすくい上げるようにもう一度吸い付いてから離れた。 胸の裡がじわじわと温かく、痺れる感覚が消えなかった。濡れた唇のままジェナスが掴んでいた肩から手を放す。
ぶつかった視線に引かない熱が滲んでいて、その滴るような瞳にラグナは思わず抱きしめていた。
「ラグ……?」
「――イイな、なんかやっぱり。お前といるのが一番イイ」
こぼれた言葉があまりに切実な空気を纏っていて、ジェナスは言いかけた文句を押し留めるしかなかった。獣が懐くように首筋にすりつき、鼻先を触れさせる。
微かに吐き出された溜息の深さに、ジェナスが呆れたような、それでもどこか満足げに呟く。
「お前、相当俺のこと好きだよな」
「まーね」
「マリーさんに妬くぐらいには?」
「……妬いては、ねえよ」
「だったら、顔上げて見せてみろよ」
からかいを込めて促され、ラグナはのろのろと顔を上げた。眩しい程の意志の強さを秘めた瞳が、柔らかく向けられている。
少しの気まずさはあれど、お株を奪われてなるものかと見つめ返す。するとジェナスは小さく吹き出し、回した腕で背中を労わるように優しく叩いた。
「やっぱりお前、かわいいかもな」
「……いや、別にマジで妬いてるとかじゃねえからな? ただちょーっとイジってやろっかなー?っと思っただけで」
「ハイハイ、分かったよ」
ラグナの言い分を聞いているのかいないのか、ジェナスは楽しそうに笑ったまま、言い募る男の胸元に手をやった。撮影用の衣装を、スタッフの厚意でそのまま貰えることになったのだが、ラグナのそれは特に良かった。普段のイメージとはまた違う大人びた雰囲気に、ジェナスは少しだけ羨望を覚えながらも掌で撫ぜる。
「こういうのも似合うんだな、雰囲気が違って良い」
「キゲンは直っちゃったカンジ?」
「まあ、そうかもな」
素っ気ない返事だが、笑みは甘い。襟を正すようにジャケットに触れてくるジェナスの指を捕まえて、ラグナは肩を落として溜息を吐く。
「惜しいよなー、バトルが無けりゃこのままデートに連れ込めるのに」
ラグナの他愛無い拗ねごとに、途端に表情を引き締めたジェナスだったが、ふとあることに気付いて口を開いた。
「帰るまでは、もう少し二人きりだろ」
そのさらりとした口ぶりに、ラグナが固まる。しかし言った当人は事実を言ったまでだとでも言いたげなすまし顔で、ラグナは大げさに深呼吸をしてから嗜める。
「……ジェナ、口説くんなら先に言ってくれよ。心臓止まるかと思ったぜ」
「お前じゃあるまいし、口説いてなんかないけど」
「じゃあ素かよ! お前ホント、何つーかさあ……」
この状況でそんな風に言ってのけておいて、全くもって他意が無いというのだから始末に負えない。ラグナはいっそ苛立ちすら抱きながらも焦れていた。
この甘い男に何と言ってやったものかと思案しかけて、捕まえたままだった指に視線が向く。気付いた時にはその指先に口付け、ありったけの焦燥を込めた甘噛みを仕掛けていた。突き立てた歯が肌を押し、ジェナスの肩が派手に動く。
「っ、な、にすんだよ!」
「味見だよ! あーもうこれぐらいでセーブしてるオレに感謝しろよこの熱血タラシバカ!」
「えっ、はあ……!?」
思ってもみなかった行動にジェナスが声を上げるが、構わずそれ以上の剣幕で言い返す。言われた言葉が飲み込めず困惑するジェナスの指を、握り込んだままラグナは背を向けて振り返る。
「行くぜ、相棒」
とにかく一刻も早くこのあらゆる意味で都合が良過ぎる空間から離れなくてはならない。そう思ってラグナが引っ張っているのに、困ったことにこの男はさらに爆弾を仕掛けようと追い縋ってくる。
「いやその、さっきのあれは二人でいられるから嬉しいってことで」
「……分かってるから、外出ようぜ。そろそろ」
どくどくと激しく巡る血流を必死で落ち着かせながら、未だ戸惑いを浮かべる彼に訴える。 正しく自分の気持ちが伝わったかどうか、不安を抱えた瞳にほだされかけるが振り解く。とにかく外へ――外へ出て歩きながらなら、自分だって危ない衝動に振り回されずに済む。だから早く。
急く二人分の足音。握り込んだ手は、今だけそのままで。
「ラグ、あのさ、だから俺、お前のことちゃんと好――」
「あーいいっていいって! 後でゆっくり聞くからもう、とりあえずこの状況から抜け出させてくれよ!」
愛の告白を遮る日が来ようとは思ってもみなかった。ラグナは頭を抱えながら人知れず決意する。
戦いを終わらせ、必ず平穏な毎日を取り戻す。 早くこの、厄介な火種ばかりを撒いてくれる相棒と、気兼ねなく日々を過ごす為に。