Not for me

 

 全裸で立ち尽くす彼方がこちらを見ていた。
 いや、正確には全裸じゃない。上半身だけ肌を晒して、下は派手なハーフパンツ姿だった。これでもかと装飾が施されたそれは、股間から蛇の頭のようなものが垂れ下がっている。言うまでもなくとんでもない有様だ。
 しかし悲しきかな、そんな彼方の様相にも慣れ始めているのが現状だった。だからオレはいつものように嗜めるべく声を張り上げようとした。それなのに何故か、言葉が出なかった。彼方、とその名前を唇で形作ることが出来ない。オレはもがいた。彼方はそんなオレを少し離れた所からじっと見ている。ぴくりとも動かない。
 言葉を発せないオレに気付いたのか何なのか、彼方がふとこちらに向かって手を伸ばしてき
た。距離があるから触れられる訳ではない。それでも咄嗟に身じろぐ。
 彼方の手は所在無さ気にオレの眼前をフラフラと彷徨う。ピンと伸びた指先、普段のぶっ飛んだ行動の割には整った指先が、視界の端で揺れる。
 もう一度彼方、と呼びかけた。やはり声にはならない。オレは徐々に状況の異質さを理解し始めていたが、どうすることも出来ないまま彼方と向き合っていた。
 そんな中突然彼方がオレを呼んだ。
「田中さん」
 聞こえた声が紛れもなく彼方の声だったのでほっとする。尤も目の前のその男はどこからどう見ても蒼希彼方だったが、このおかしな状況の中ではそれすら曖昧に思えた。
 だからオレの名前を呼ぶその声が、聞き慣れた彼方の声であることに、自分でも驚くほど安堵したのだ。
 強張っていた身体の力を抜く。向けられる指先は変わらずそのままだったが、相手が間違いなく蒼希彼方であるならそれでいい。早く衣装に着替えろと嗜めなければならないものの、それは声が出るようになってからでもいい。本番まではまだ時間がある。焦ることは無い。蒼希彼方はここにいる。
「田中さん」
 彼方がまたオレを呼ぶ。その声に少し戸惑いが含まれているような気がするのは気のせいか。ああ、オレのリアクションが薄いから落胆しているのかもしれない。
 そうは言っても声が出ないのだから仕方がない。そう伝えようとしてまたその声が出ないことに蹴躓く。じわじわと焦りが込み上げてきた。本番はまだ先だが――いや、本当に時間があるんだったか?
「田中さん、危ないって」
 手を伸ばしたままの彼方が言う。危ない?収録時間のことか?確かに気がかりではあるがま
あ、それだってお前の今の姿を誰かに見られることに比べたらまだ――いや、そもそも比べるようなことじゃなかったな。どちらも凌いでいかなきゃならない。凌がせなければならない、オレはマネージャー、蒼希彼方のマネージャーで、オレは彼方を――
「田中さん!」
 頭がぐらぐらと揺さぶられて視界がぼやける。こちらを見ている彼方が遠ざかっていく。おい待て、とりあえずそれを脱げ。それからこっちの衣装に着替えておけ、オレは急いでメイクさんを呼びに行くから。その全てが声にならないまま、蒼希彼方が遠のいていく。そして次の瞬間、漸くオレは目を覚ました。
「……田中さん?」
 手を伸ばした彼方が、こちらを見ていた。先程とよく似た姿勢で、けれど服装は普段着で、何より距離がずっと近付いた彼方が、オレを見ていた。
 彼方の手には、オレがいつもかけている眼鏡が握られていた。そしてオレは事務所のソファに腰掛けていて、彼方はオレを、腰を屈めて覗き込んでいた。
 オレはまとまらない思考のまま、見下ろす彼方の顔を見つめる。彼方が小さく笑って言う。
「あ、起きた?田中さん、眼鏡かけっぱなしだったんで、何かしようかなと思ってたんスけど、顔に刺さりそうだったんで取っちゃいました」
  暴れ過ぎですよ、そう言った彼方の顔を見て、やっと意識がはっきりとしてくる。オレは投げ出していた手で彼方の首元に触れた。彼方の目が少しだけ見開かれる。
 そのまま彼方の顔を引き寄せ、自分の肩へと押し付けた。触れられる蒼希彼方の身体が、そこには確かに存在していた。
「……彼方」
 掠れてはいたが、声は何の抵抗も無く出た。やっと呼ぶことの出来た名前に、彼方がのんびりと返事をする。
 田中さん疲れてます? お前のおかげで色々とな。 それって何か意味深に聞こえるっすね。
 他愛の無い会話を繰り返して、オレは彼方の頭を引き剥がした。彼方から眼鏡を受けとり、かけ直す。その勢いのまま立ち上がったオレを見て、彼方がまた呑気に笑いかけてきた。
「何なら、オレが寝かしつけてあげましょうか」
 からかいを含んだ声にオレは鼻を鳴らした。冗談じゃない。マネージャーがアイドルに甘えてどうする。皺の寄ったスーツを整えて、オレはいつもの、何でもない顔で言い返す。
「……お前の寝相と一緒になって休まるかよ」
 ほらもう今日はオフだろうお前こそ明日に備えて早く寝ろ。そこまで一気に言ってやってか
ら、仕事を確認するべく開いた手帳で彼方を遮る。
 黙った彼方にそのまま部屋を出ていくのだと思ったのもつかの間、伸びてきた指がオレの手帳を引っ張り、強引に視界を広げさせた。
「田中さん、お疲れさま」
 気の抜けた笑顔が視界を埋める。労っているつもりなのだろうが、そもそもはお前の言動が原因だ。そう思いながらも、そのあまりの毒気の無さに脱力して何も言えなくなる。じっと向けられる視線にオレは小さく溜息を吐き、手にしていた手帳を机の上に置く。
「……お疲れ」
 オレの言葉に、彼方は満足げに笑い、今度こそ部屋から出て行った。オレは何とも言えない虚脱感を持て余して、結局もう一度ソファへ沈む。
 どうにも調子が悪い。以前は事務所で居眠りなどしなかった。蒼希彼方と仕事をするまでは、一度だって。
 引き摺られている。何に、とは言わないが、着実に引き摺られていることだけは確かだ。オレは縋るように組んだ手に額を押し付け、それこそ声にならない呻きを溢す。
 あってはならない。オレがアイドルである奴を甘やかすことはあっても、オレがあいつに寄りかかるなど、あってはならないことなのだ。 だから引き寄せるなと呻く。
 頼むから気を持たせないでくれと懇願する。妙な勘の良さと気まぐれでオレを、緩ませないでくれと一人喘ぐ。
 夢にまで差し込まれる彼方と、現実の彼方が重なって、そして苦笑する。我ながらなんて仕事熱心なのだろう。――そうでも思わなければ、やっていけない。
 疲れているのだ。家に帰って、早く眠ってしまいたい。
 そう思っているのに足が動かないのはただ一つ、慣れた一人の冷たい寝床に、どうしようもない侘しさを感じているからだ。
 頭に過る、奴の言葉から目を背けて立ち上がる。あの散々な寝姿を必死になって思い返して、甘ったれた想像をかき消した。