Not Ever

 

 こんな能力なんて要らなかった。そんな風に、何度も考えた。
 けれどここまで強く思ったことはない。――ただの、一度も。

Not Ever

 きっかけが具体的に何だったのかは思い出せない。気付いた瞬間そのあまりの突拍子の無さと虚しさに、知らない間に記憶を封印したのかもしれない。
 積もり積もったものが爆発した、そういう取り方も出来る。 ただそれが日常的に聴こえるそれの所為だったのは確かだ。
 意思とは関係なく、頭に直接伝わってくる声。他人の、口に出さない心の奥の話だ。 物心ついた時から当然の様に傍らに存在したそれを、殆ど無意識に聞き流すようになったのは当然の結果だった。大方聞いてもろくなことにはならない。
 他人を理解したいと思う感情は、あくまでその対象の深い部分を、自分では覗くが出来ないという前提からくるのだ。分からないから知りたい、知りたいから気になる。気になるから、好きになる。そういう過程が存在して初めて成立するのだ。
 だから僕にその過程は初めから無かったと言える。意図しようがしまいが、全ての他人の思考が流れてくるのだ。誰の心理も分かってしまう。自分以外の他人の違いなど些細なもので、そこに特定の感情を加えるとかそういう思考に発展する筈が無かったのだ。
 そう、無かった。知りたいと思うことなど無かったから、興味も無かった。無かったんだ。
 それは言うなれば、ノイズのようなものだった。相変わらず、肩肘を張って自分のイメージする姿になろうともがいているその男の、思考の一片に紛れていた。
 自身の振る舞いとは正反対に、そいつの中身はかなり内向的で、かつ繊細だった。素直でもあった。純粋ともいえた。そんな男のぐだぐだとした思考、居丈高に振る舞いながらも内心周りの様子を伺ってビクついている男の思考に、何かが紛れ込んだ。
 斉木はちゃんと話を聞いてくれる。優しいんだな
 ――そう、そいつは優しいと言った。誰を、他ならぬ僕を。
 ただまとわりついてくるそいつの話を聞き流し、漏れ出ている思考をも聞き流していただけの僕に、あろうことかそいつは、優しいと評価を下したのだ。
 見当違いの好意を向けられることは何度かあった。もちろんこの優しいだってそれと同じで、僕の態度を相手が勝手に良い方へ受け取っただけに過ぎない。ただしその見当違いの好意は、基本的に女性から向けられる、恋愛対象としてのそれが主だったのだ。 だから僕はほんの少しだけ戸惑ったが、すぐに思い直した。
 その男は今でこそ悪い意味で際立ったキャラクターを貫こうと必死だが、それに至ったきっかけは友達を作りたいとか、そういう理由からだった筈だ。
 人の縁だとかそれこそ好意だとかに過敏なのだろう。僕に何かと関わってくるのも、そういう関係性を求めているが故だ。
 その時僕はそんな風に考えを落ち着けて、顔を覗かせたその言葉をいつものように聞き流し
た。しかしそれからというもの、そいつの思考に時折覗かせる自分への評価を、何故か僕は聞き流さないようになっていた。

 斉木って何か不思議な感じでいいなあ、どうやったらあんなクールになれるかな
 あ、斉木が答えを書いてる。解くの早い、すごい
 斉木って目立たないけど、結構なんでもさらっとこなしてる気がする。器用なんだな
 うーん斉木に聞いてみようかな。斉木なら教えてくれる気がする。色々知ってそうだし、それに親切だしな

 止めてくれ。そう口にできたらどれだけ楽だろうか。 最初にそれを聞いてからというもの、何故か僕はそいつの僕に対する言葉を逐一、本当に馬鹿馬鹿しくなるぐらい一つ一つ、小まめに拾い上げてしまっていた。 そいつの素直というかいっそ無邪気な子供のような、いや寧ろ親鳥を慕う雛鳥のような真っ直ぐな言葉に耳が痛くなる。
 止めてくれ、僕はそんな出来た人間じゃない。友達だ何だと騒ぐのは勝手だが、そんなにあれこれ考えないでほしい。 僕は殆ど懇願するような気持ちでそいつの言葉を聞いていた。普段から洪水のように流れ込んできていたそれを、何だって今更、ある特定の人物のものだけ律儀にすくい上げているんだ。
 戸惑いはやがて苛立ちに代わり、僕は逆効果だと思いながらもその言葉の主を盗み見ていた。しまった、と思った時には遅かった。
 どうやら他人の思考に気を取られ過ぎて、自分の感情すら制御できていないらしい。滑稽にも程がある。 視線の先にいた男が、急にこちらを見たのだ。避けようも無く目が合う。次の瞬間、大きく瞬きをしたそいつは、ふっと視線を逸らした。
 ――ああ、思い出した。そうか、ここだったのだ。きっかけはここにあった。 何のことは無い、その瞬間僕は、抱くはずの無い感情をそいつに覚えた。 逸らすな、と思ったのだ。逃げるな、どうして。反射的に、しかし驚くほど強く、そう思っていた。 そしてそれを自覚した時、僕は敗北を理解した。何に負けたか自分でも分からない。
 ただ笑い出しそうになるのをぐっと堪えたことはよく覚えている。
 他人の全てを知り、特別なんてありえないと思っていた僕が、無意識に思っていたのだ。「どうして僕を見ないのか」と。
 心は分かっていた。「あっ斉木だ」それだけ。ただそこにどうして視線を逸らしたのかは含まれていなかった。それならそれでと以前なら何の感慨も無く流していただろう。それなのに僕はその先を――ともすれば本人でさえ気付かない部分を、咄嗟に知ろうとした。知り得ないことに、もどかしさを感じていた。
  それが俗にいう恋なのかは分からない。何しろ僕には持ち得ないと思っていた感情だ。ただきっと、例えば誰か女性に恋愛感情を向けられていたなら、今までと同じ通り聞き流していただろう。友情という前提があったこそ、僕はみっともなく混乱しているのだ。 逸脱している、と言い切るには僕自身友情というものを理解していない。
 そいつの気恥ずかしい程に純粋過ぎる言葉に、あてられたといえば整理もつくのだろうか。 きっかけはあっても、やはり深い理由は分からない。
 ただ僕はそいつを、海藤という同級生を何らかの意味で特別に捉え、意識をしていた。 それだけで済めば、どれだけ気楽だったか知れない。
 ただ、そうはいかなかった。
 相変わらず些細なことでも僕の態度や所作を好意的に取るそいつの所為で、僕は全く気持ちが落ち着かなかった。これではまるで秘めた初恋を持て余す少女のようではないかと、君の悪い思考に自嘲する。それでも、一向に事態は収まらなかった。 そいつに僕の本当の姿や、行動の真意を全て語ったらどうなるか、なんて不毛な考えにすら及びながらも、僕は次第に半ば居直りの体を取りつつあった。特別がどういう感情なのか、見極めてやろう。そんな風に思いながら、少し離れた所にいるそいつに視線を向けた。
 捉えたのはそいつと、近くに立つ女生徒だった。 認識した瞬間、ざわりと背中が粟立った気がした。それはあながち気の所為でもなかった。二人の会話はどうでもよく、伝わってきた心の声が僕にぴったりと張り付いた。
 海藤くんって、変わってるけどちょっとイイかも?
 最近よく話しかけてくれるなあ。この子優しいし、ちょっと好きだな……
 決まりきったパズルのように重なる二人の思考。僕は黙って立ち上がり、教室を出た。廊下を歩く。あれほど整理できなかった感情が冷え、頭は冴えきっていた。
 ただ、足を止めることは出来ない。 恐らく僕のそれは、友情では無かった。
 僕に向けられたことのないその言葉を聞いた時、僕はただはっきりと、落胆を覚えていたからだ。 理解できてよかった。これで訳の分からない混乱から解放される。
 有り得ないと思っていたことを体験した、それだけでも、人生に多少の張りが出たというものだ。本当に、それだけでも。
(こんな能力が無ければ聞くことがなかった、だから意識することなんてなかった)
(けれどもしなければそれこそなれていた?友達に、それかもっと、別の何かに)
 僕は自分の手を見た。ふつふつとわきあがる感情はもう慣れっこで、その抑え方も熟知していた。今までは。 初めて感じる揺さぶられるような思いが重たくて、
 座り込みたい。けれど目立つからできない。目立ってはいけない。

 こんな能力なんて要らなかった。そんな風に、何度も考えた。 けれどここまで強く思ったことはない。――ただの、一度も。