My dear

 

 パリ八区に店を構える一流フレンチ、SHINO'S。
 その第一の支店であるSHINO'S TOKYOに招かれた彼らは、和やかに食事を楽しんでいた。
 SHINO'Sが持つ味の魔力は絶えずゲストを魅了し続け、用意された一級品のワインもたちどころに無くなり、場は十分すぎるほど温まっていた。早い話が、どんちゃん騒ぎだった。
 と、言っても流石にそこまで羽目を外している訳ではない。
 ただ客の一人である乾日向子の言動が多少怪しくなり、その取り澄まされた表情に少し赤みを帯びさせた水原冬美が、それを諌めているぐらいだった。
 ふわふわとした足取りの日向子は、貸し切りの店内を歩いて窓へと近づき、テーブルから離れたところで外を眺めている。するとこれまたほろ酔いといった様子のドナート 梧桐田が、同席する水原と関守平に目配せをしてみせた。
「そういえば本当なんですか? 四宮さんの話」
 潜められているようでまったくもってそんなことはない梧桐田の声に、二人は顔を見合わせ
る。
 関守は水原の反応を伺っているようだった。どうやら聞き覚えのある話ではないらしい。彼はこの場に置いて多少立ち位置が違うため致し方なかった。
 水原はおそらく梧桐田と同じ相手から、その内容を聞かされている。彼女は今度こそ抑えた声で呟いた。
「四宮に恋人がいるって話?」
 眉を上げる関守に、梧桐田が意味あり気に笑いかける。 アルコールで舌の回りが良くなったことを自覚し、恥じ入りながら、コーヒーに口をつけて水原は首を振った。
「私も詳しくは知らない。でも、そう聞いた」
「ほお……」
「やっぱり相手は背が高くて細身なパリジェンヌですか?」
「それが違うんですよ梧桐田シェフ!」
 ひそひそと言い合うテーブルに、突如鋭い声が分け入ってきた。
 思わずびくりと肩を震わせた三人が顔を上げると、しっかりと地に足を付けた日向子が、仁王立ちで佇んでいた。
「ヒナコ……! いつの間に」
 先程の緩んだ表情はどこへやら、日向子は悠然と微笑みを浮かべている。
 彼女は未だ赤らんだ顔のまま、しかし強い意志を秘めた眼差しでそれぞれの顔を見下ろした。
「SHINO'S本店スタッフさんによると、四宮先輩が親しげに電話をしている所を見たらしく、その時話していたのはなんと!――日本語だったそうです」
「ヒナコ……どうして君がパリにいるスタッフの話を……」
「それに日本語っていうだけでそうと決めるのもどうかと思うけど」
 梧桐田のもっともな指摘と、 水原の冷静な意見が次々に飛ぶ。
 最早言うまでもないが、そもそもの話の発端、四宮にそういう気配があると言ってきた張本人は彼女だ。
 しかし日向子が反応を示したのは後者の発言のみだった。一つ咳払いをした日向子は座ることもせず、淡々と話を続ける。
「……ではお伺いしますが、この中で最近四宮先輩と電話で話した方はいらっしゃいますか?」
 芝居がかった口調で訊ねて日向子は三人を見回し、返って来ない答えに満足したように頷く。
「と、なると私たち以外の誰かということになります。ご存じのとおり四宮先輩は人付き合いの苦手な人です。はっきりいって交友関係はそう広くありません。必然的に選択肢は限られます
ね。私たち以外で同等、いえそれ以上に親しい間柄。 はっきり日本語だと断定していることか
ら、訛りの強いお母さまは除かれます。ということはつまり!」
 一気にそこまでまくしたてた日向子の拳が、目の前で固く握り込まれる。
「――そういうことなんです」
 どういうことなのか。 やたら勢いはあるものの、正直説得力はまるでないなと、水原は思っていた。
 ところがあとの二人はそうでもないらしい。黙って頷く関守と、好奇心で瞳を輝かせる梧桐田は、既に日向子の言葉に納得し始めていた。
「なるほど……」
「いつからだと思う? ヒナコ?」
「おそらく、この東京支店のプレオープン時――前回四宮先輩が帰国した時ですね。開店準備に追われる裏で、決める所はきっちり決めてたんですよ!」
「流石は四宮さん!」
「あの時は遠月からのスタジエールも受け入れていたというのに……」
 スタジエール? その単語が何故か引っかかって、水原は首を傾げる。
 しかし明確に何がとは言い切れず、カップを持ったまま暫し考え込む。
 そうこうしている間にも、ようやく席に着いた日向子を交えた三人の会話は、密かに白熱しつつあった。
「今度はどうなりますかね?」
「日本とフランス――互いの心がよほど通じ合っていないと難儀だろうな」
「そうですよね……たまに帰ってくる四宮先輩を迎えて……って、ああ!!」
「どうしたヒナコ!?」
「そういえばさっき四宮先輩が、後でもう一人来るとか言っていた気が……それってまさか!」
「――何騒いでやがる」
 今度は関守と梧桐田、そして日向子が肩をびくつかせる番だった。
 素知らぬ顔でコーヒーを飲む水原の背後に立った男、SHINO'Sオーナーシェフ四宮小次郎は、
眼鏡の奥の瞳を不機嫌そうに眇めていた。
 一見すると取っつき難く、きつい印象を与える佇まいだが、もちろん誰も構えることはない。
そもそも今はそれどころの話ではなかった。
 慈愛すらこもった表情で、皆が四宮を見ている。その異質な状況に珍しく四宮が気圧されていると、ついに堪え切れなくなった日向子が立ち上がった。
「もう先輩ったら、水臭いですよ! 教えてくれたっていいじゃないですか」
「あ?」
「四宮さん、離れていても心は一つ――ですね?」
「ためになるようなことは言えないがともかく、仲良くな」
「何の話だ」
 矢継ぎ早に浴びせられる祝福のような――そうでないような言葉に、四宮は訝しげな視線を向けるしかない。
 空になったカップを置き、痺れを切らした水原は、困惑する四宮に一瞥をくれてから告げた。
「みんな気が付いてるのよ。今日来る人のこと」
 四宮の目が見開かれる。彼は宙を見つめて押し黙り、やがてどこか捨て鉢な口ぶりで呟いた。
「……目敏いな」
 観念したとでも言わんばかりのその態度に、空気が一気にざわめき立つ。疑惑が確信に変わった瞬間だった。
 下手に照れて取り繕おうとしない辺り、その真面目な思いが窺い知れる。水原は唇を緩めて問いかけた。
「で? そのゲストはいつ来るの?」
「もうすぐ来る」
「先にいただいちゃいましたよ?」
「いいんだよ別に。挨拶しに来るだけだ」
「挨拶……!?」
 さらりと事も無げに言う四宮に、驚いて声を上げたのは日向子だった。彼女は座ったままの水原の肩を掴み、焦りをぶつけるように揺さぶり出す。
 その反対では関守と梧桐田が、何やら顔を突き合わせて話し込んでいた。
「ど、どうしましょう水原先輩! 私心の準備が……!」
「落ち着いて。何も結婚しようっていうんじゃないんだから」
「しかしまあ、たしかに少し緊張するな……」
「どんな人なんでしょうね」
 うっとりと溜息交じりに、そのまだ見ぬ美貌への期待を募らせる梧桐田に、四宮の至極冷静な言葉が刺さる。
「どんなって、知ってるだろうが」
 水原に縋る日向子の手が止まった。関守と梧桐田も、虚を突かれたように四宮を見ている。
口火を切ったのは、やはり日向子だった。そのとんでもない新情報に、彼女は四宮に詰め寄るように顔を近付けて言い募る。
「私たちが知ってる人なんですか!?」
「ああ」
「いつ会った人なの?」
「いつも何も――」
「他に会ったことがある人はいますか!?」
「だからお前らと、ああ、うちの母親もいたな。大体あの時は――」
「お母さまにも会わせてるんですか!?」
「ヒナコお前、話聞く気ねえだろ」
「四宮、随分遅いようだが、迎えはいいのか? 一人で来るんだろう?」
「四宮さんはその人のどういうところが気になったんですか? 離れた土地でも関係を保つ秘訣は?」
「あーうるせえ! 知らねえよそんなもん幸平に聞け」
 まさにマシンガンの如く叩きつけられる言葉の嵐に、耐え兼ねた四宮が一際大きな声で言い放つ。
 途端に周囲は水を打ったように静まり返った。導き出された個人名に、皆の思考がきしみながら静止する。
「ゆきひら、って……」
 目を丸くした日向子が呟く。 その時ちょうどエントランスから扉が開く音が聞こえてきていたのだが、誰もそちらに気を向けている余裕は無かった。
 唐突に四宮の口から出てきた名前。水原はそれに繋がる一人の少年――先程スタジエールという言葉でも思い浮かべたその名を口にした。
「ゆきひらそうま」
 つられるように関守も口を開く。
「幸平創真」
「ユキヒラソウマ!」
「はい?」
 梧桐田の声に重なった返事に一斉に振り返る。そこにいたのはまさしく幸平創真その人だっ
た。
「遅くなってすんません。ご無沙汰してます、先輩方」
 創真はテーブルに近付くと、呆然とその姿を見つめるしかない遠月の先輩達に向かって頭を下げた。
 皆が混乱している中、四宮だけがまっすぐ創真を見ている。やがて少しずつ冷静さを取り戻した皆を代表して、日向子が創真に恐る恐る声をかけた。
「え、ええっと……幸平くん?」
「乾先輩、どうしたんすか?」
「……挨拶しにきてくれたの?」
「そっす。スタジエールの時は先輩方にもお世話になったんで。四宮先輩が帰国する のに合わせて皆さん集まられるって聞いて、お邪魔させてもらいました」
「あらそれはご丁寧に……そちらはみなさん変わりない? 恵ちゃんも元気かしら」
 創真ののんびりとした空気に引き寄せられ、和みかけた日向子だったが、他の三人から向けられる無言の催促にはっとして持ち直した。
 しかしながらそれ以上何かを言うのはどうしても憚られて、助けを求めるように振り返る。
 水原も関守も梧桐田も、その予想外の相手に戸惑いを隠せないようだった。
 これまでの経緯を含めて推測するなら当然、目の前にいる彼、幸平創真が四宮の相手、ということになる。
 日向子は迷いながら次に当人、四宮へと目を向けた。しかし四宮の表情は頑なに変わらない。創真も呑気に微笑んでいるだけで、その真意はこれっぽっちも伝わって来なかった。
 次から次へと疑問符が浮かぶその空気は、四宮によってついに断ち切られた。彼は小さく笑ってから口を開く。
「だから言っただろうが。会ったことがあるって。何を勘違いしたんだか知らねえがな」
 四宮の言葉は、それ以上の追及を遠ざけるものだった。
 確かに四宮から明言された訳ではない。勘違いだと言われてしまえばそれまでだ。ただ――それでも四宮と彼、幸平創真の関係性が、スタジエールを経て何かしら良い方向に転じたということは皆察していた。 ともすればそれは、心を許せる恋人の存在と同じくらい、四宮にとって尊ぶべきものなのかもしれない。
 彼らは視線を交わして頷き合う。そうであるならもう、余計な言葉は要らないだろう。
「良かったですね、四宮先輩」
 笑いかける日向子と同じように、皆微笑みを浮かべている。四宮は嘆息すると、普段通りの皮肉めいた文句を、普段より少し柔い声で口にした。
「何が良いんだか――な」

「意外っす」
 帰り支度をする皆の様子を四宮と創真は、離れたところで見守っていた。
 不意に呟かれたその言葉に、四宮は隣の創真を見た。見上げてくる瞳と視線が真っ向からぶつかる。
「四宮先輩はこういうの、言わなさそうだと思ってたんで」
 こういうの、とはつまり互いの関係についての話だ。先程は結局濁したが、彼らの当初の想像は決して的外れでは無かった。
 四宮の極めて私的な電話は創真と繋がっていたし、恋人と呼べる相手がいるとするなら、それは創真以外にいなかった。
「言って得するようなことは何もねえからな。だがまあ――」
 四宮は言葉を切って、彼らの姿を見た。日本のことを思い出そうとすると、ごく自然に彼らの存在が頭を過る。
 いつの間にかそれほどまでに、深いつながりを感じるようになっていた。
「あいつらには、と思っただけだ」
 親しみのこもったその言い方に、創真はじっと四宮の顔を伺う。鋭い視線が四宮に注がれて、彼はもう一度創真へと目を向けた。
「お前に言わなかったのは悪かった。だからやめた。――不満か」
「まあ、ちょっとだけ」
 笑ってはいるものの、少しだけ険のある口ぶりだった。 そのあまり見せない態度に、四宮が少なからず動揺していると、創真は視線を彷徨わせ、噛み締めるように呟いた。
「秘密、ってのもなんかいいなって。打ち明けられる先輩方に、正直妬いたっていうか」
 ぼやかれたその、あからさまなすねごとを聞いて、四宮はまじまじと創真の顔を眺める。
「……珍しく素直だな」
「先輩と同じっすね」
「言ってろ」
 照れ隠しの軽口には同じように軽口で応じて、密やかに笑い合う。
 心地良く広がる空気の中で、創真が殊更小さな声で囁く。四宮にしか聞こえないような、潜めた声で。
「声、直接聞けてよかったっす」
 電話越しではない生のそれは鼓膜だけでなく、胸の内を直接揺さぶる。四宮は改めてそれを愛おしむように目を閉じた。
 すぐに開いた視界に飛び込んできたのは、支度を終えた彼らの姿だ。四宮は創真の背後に手を回し、その背中を一度だけ叩いて彼らの元へ向かう。
 焦ることはない。互いの存在が隣にある以上、変わることはない。何があっても。

 殆ど同時に踏み出された右足に、最初に気が付いたのは水原だった。微笑む彼女を見て、皆表情を緩ませて二人を見守る。
 想像していた結末とは違ったが、皆がどこか思いやる気持ちに触れられる、そんな不思議な夜だった。