期間限定WEB再録「結」より
すねごと/秋桐
近い、と思っていた。
いや、他にも色々と思うことはあったのだが、如何せんいい感じに酔いの回った頭では、そんな短絡的な考えが先だって浮かんできてしまうのだった。
秋山は再度近いなあとしみじみ思いながら、トイレの扉に押し付けたその男、桐生一馬の首元を見つめていた。
発端は、至極些細なことだった。
これまでも数度、皆で飲んでいたのだが、次はニューセレナ以外で集まらないかと話が持ち上がった。それならばと秋山が、自分の店であるエリーゼを提案したのだ。
エリーゼなら酒も自由に出来るし、何かと目立ちがちな面々を集めても支障はない。以前も集まったことがあったが、その時は成り行き上限られた面子だけだった。
だから今回は予め店長にその旨を伝えて店を閉め、気楽にやるつもりだった。結果それなりの人数が集まり、縁のある人間が入れ代わり立ち代わりと、想像以上に賑やかなものとなったのだ。
秋山は場の状況に気を配りつつその様を端から眺め、神室町という街の心地良さを改めて噛み締めていたところだった。
「どーも、お疲れさまです」
不意にかけられた声に秋山が振り返ると、そこにはよく目立つ青のジャケットを着込んだ若い男が、グラスを片手に立っていた。
「あれ、谷村刑事。最近忙しそうだから来ないかと思ってたんだけどな」
「オーラス跳満ツモったんで、もういいかなって思って」
「当然のように仕事の話じゃないのね」
「厳格な警察官だってたまには羽目ぐらい外しますよ。先輩に付き合うのも仕事ですし」
谷村はぬけぬけと言いながら、手にしたグラスを傾ける。
「伊達さんならちょっと前に帰ったけど。店も気になるからって」
「普段は気にする間もなくその店ででろっでろに飲んでるくせになあ。やっぱり場所が場所なだけに後ろめたかったんですかね」
「うちの店だしいいかなって思ったんだけど……配慮足りてなかったかなあ、俺」
「いい歳なんだしたまには健全な量で帰してやるのも配慮ですよ―それより」
当の本人がいないのをいいことに好き放題言ってから、谷村は秋山にぐいと詰め寄った。
まるで尋問されているようだと言いかけて、相手の職業を思い直し止める。
「桐生さんは?」
秋山はその勢いに頭を掻き、さっと辺りを見回した。
それらしい背中を探してはみるが、先程ちらりと見かけたテーブルにも姿はなく、首を振る。
「いないみたいよ」
「みたいよ、じゃないですよ。見てなかったんですか?」
「いや俺も何だかんだとバタバタしてたんでね……」
じとりとした視線を向けられ、秋山は思わず視線を彷徨わせた。
仕方が無かったのだ。色々と気を回していて、そこまで目がいかなかった。最後に見た時は馴染みのホストと飲んでいたようだったから、わざわざ水を差すこともないと思っていた。
しかし今そのテーブルにいるのは、この為だけにわざわざ錦栄町から足を運んできた品田だった。彼は野球の知識から名古屋界隈の近況、果ては錦栄町の風俗事情といった話題を、ライターらしい面白い観点から話して聞かせている最中だった。
「―平和ですね」
「まあ、それなりにはね」
「いや、俺が言ってるのはあなたのことですけど」
ぽつりと呟いた谷村に同意を込めて頷くが、それを間髪入れずに否定されて面食らう。
「何が?」
秋山は戸惑いを隠せないまま聞き返す。一方谷村はグラスの水面を見つめながら、ひとり言のように言ってきた。
「いや、そんなんだから福岡で変な若いのに茶々入れられるんだと思って」
「え、なっ……!」
突然のそれに秋山は絶句するしかなかった。福岡、若いの、で真っ先に思い浮かぶのはあの、すかした姿勢だが内面はやけに暑苦しい、武術古牧流の孫息子だ。その青年と秋山は多少、いやしっかりと面識があり、色々とややこしい会話をしていた関係でもあった。
それにしても何故この男、件の騒動の際なかなか連絡がつかなかったにも関わらず、そのことを知っているのか。
「……それ、どっから聞いたの」
「嫌だな、ネタ元売るなんてそんな無体なこと俺には出来ません」
谷村は真面目くさった表情のまま、そんな風に煙に巻いてくる。居心地の悪さをごまかすように、秋山は煙草に火をつけようとする。しかしガスが少ないのか、なかなか火が灯らない。
燻る火花に焦れていると、その様子をどことなく憐れむような目で見ていた谷村に、ライターを差し出された。黙って頷いてからそれを借り、秋山は一気に煙を肺へと送り込んだ。細く息を詰めながら溜まった煙を吐き出していると、ちょうどグラスを空にした谷村と目が合う。
「まあ、年下転がしはあの人の持ち味ですからね」
「―俺も大人しく転がされておくよ」
「何となくおこがましい気もするんですけど、間違ってはないんだよなあ」
ここぞとばかりにちくちくと差し込んでから、谷村は新しい酒でも調達するのか、辺りを見渡した。秋山もつられて視線を移すが、探しているその人の姿はやはり無い。
「―じゃ、桐生さん見つけたら呼んでくださいね。色々と積もる話もあるし」
「何か今日はやけに熱心だね」
「狙うなら今かなあと思いまして」
谷村はさらりと言うと、その整った甘い顔を存分に活かして、爽やかに笑う。
「援護射撃、みたいな」
「……本当、いい性格してるよ」
「秋山さんほどでは。俺はただ、同じ「年下」同士、仲良くしたいなって」
「あー何かすごい腹立つ! あれ? 谷村さんそんなキャラだった?」
秋山の文句も涼しい顔で受け流し、谷村は背を向けると、空いているテーブルへと歩いて行ってしまった。残された秋山は短くなった煙草を灰皿に押し付け、長い溜息を吐いた。
煽られた訳ではない。ない、のだが。
手を上げて、近くにいた店の人間を呼ぶ。暫くこの場から離れることを告げ、クーラーからいくつかの酒を指定し、持ってきてもらうように頼む。それだけ済ませて秋山は、店の奥を見つめた。中座して向かうところなど、 トイレぐらいしか思いつかない。秋山はゆっくりと足を踏み出し、その場所へ向かった。
水の流れる音が聞こえて、そこが無人でないことを確信する。磨き上げられたオフホワイトの床を歩き、秋山はトイレを覗き込んだ。すると手を洗っていた男がこちらを振り返って、驚いたような顔を見せた。
「秋山……!」
至極あっさりと見つかった桐生に向かって、秋山は柔らかく笑いかけた。
「ここにいたんですね。探しましたよ」
「声をかければよかったんだが、忙しそうだったから邪魔しちゃ悪いと思ってな」
「邪魔なんて滅相もない」
秋山の言葉に、桐生もほっとしたように表情を緩めた。
蛇口を閉め、濡れた手を備え付けの紙で拭く男の横にそっと近付く。
「帰っちゃったかと、焦りました」
少し抑えた声で秋山が言うと、手を拭い終わった桐生は俯かせていた顔を上げた。ぶつかった視線に一瞬息が詰まる。動揺を悟られたくなくて秋山は咳払いをしかけたが、それよりも先に桐生が口を開く。
「それはないだろう」
「いや、本当ですよ。もしいなかったらどうしようかと―」
「違う」
静かに、しかしはっきりと否定する言葉に思わず身構える。真正面から秋山を捉えた桐生は、まるで何でもないことのように言い放つ。
「お前に、何も言わずに帰る訳がない」
ぐらりと目の前が揺らぐ感覚を覚えた。今頃になって酔いが回ってきたかと危惧するが、もちろんそんな理由だけではない。
ああ全く、本当にこの人は。やり場のない感情が込み上げてきてどうしようもない。この場で大声でも上げたくなるような、そんなもどかしい衝動だ。この人の行動には幾度も敵わないと思わされてきた。だからといってそう毎度毎度易々と浮かれている訳にもいかない。
秋山はゆっくり息を吐き、真っ直ぐに向けられる視線を受け止めて言う。
「……酒、どうでした?」
「美味かった。良い酒ばかりだったな、大丈夫か?」
暗に店の懐具合について尋ねてきているのだろう。確かに少ない額では無かったが、そんなものは些細なことだった。それに、と秋山は一歩近付く。程良いアルコールに心地良く酔って、自然と普段より緩みがちになるその瞳を、じっと覗き込む。
「貴方のそんな顔が見られるなら、いくらでも」
囁いた声が、自分でも思った以上に熱を帯びていて秋山は苦笑する。浮かれまいと制御していた思考も、あっさりと脇に放り投げてしまったようだ。だってこんなもの、抑えろという方が無茶だ。そんな風に開き直って、驚いた様子の桐生に笑いかけた。
「―少し酔ったか」
桐生はふっと目を伏せ、頭を振る。それが照れ隠しや誤魔化しの合図であると分かりながらも、秋山はあえて指摘しない。
こぼされた溜息は熱く、漂う空気も次第にじわじわと濡れていく。求めているのは自分だけではない、そんな確信を持ちながら、秋山は少しずつその固い外壁を解いていく。
「嘘でしょう、全然そんな風には」
「じゃあ、どう見えているって言うんだ」
「俺の口からはとても」
「お前の口から聞きたいんだ」
伏せられていた瞳が秋山を再度捉える。鋭いながらも内包された熱に、また眩暈にも似たそれを感じた。
聞きたい、だなんて煽ってくれる。そんな瞳を晒しておいて、酔い以外にあるものなんて一つしかないじゃないか。
本当に何て目だ。いっそ舌打ちしたいような気分にさえなって、秋山は伸ばした手で頬に触れた。普段より少し高めの体温が掌に心地良い。その上触れた瞬間、桐生の双眸が心の底から心地良さそうに緩んで、もう駄目だと思った。だってこんなに露骨に引っ張られているのだ。理性や駆け引きなど全てアルコールで誤魔化して、秋山は衝動のままにその顔を引き寄せた。
「っ、く……!」
歯をぶつけないように気を付けながら唇を重ねる。最初から薄く開かれたそこに意気揚々と舌を差し入れて、秋山はぴったりと身体を寄せた。行き場を無くした桐生の背中が壁にぶつかる。靴が床を滑る音と僅かな衣擦れが、妙に響く気がしていた。しかしそれ以上に絡ませた舌先が生々しく濡れた音を立てて、鼓膜を揺さぶる。
ぬめる粘膜は熱く、アルコールの匂いが強い。ほんのりと桐生が口にした酒の味すら感じられる気がして、触れ合わせた舌もそのままに唇を味わうように食んだ。
柔らかく噛み付くのを繰り返して少し唇を話す。躊躇いがちに追いかけてきた舌には少し笑って、労わるように耳の下辺りを撫ぜた。
「……どう、するんだ」
熱い息と共に桐生が呟く。秋山は濡れた唇に視線を向けながら、重ねた身体を僅かに擦り付けた。
「もう、どうしましょうかね……」
「お前こそ酔ってるんじゃないのか」
「さあ、どうでしょう」
そう嘯いた所で、トイレの外から派手な歓声が聞こえてきた。場は何やら大層盛り上がっているようだ。もちろん主催として喜ばしいことだが、今の秋山にとってはごく私的な理由でも素晴らしいというしかなかった。
今暫く、このトイレに誰も近付かないでほしい。そんな至極勝手な願望が、図らずも叶いかけているのだから。
そうはいっても、実質問題こんな目につく場所に立ち尽くしている訳にもいかない。秋山は暫し逡巡し、桐生を見た。
酔いと、熱で混ぜこぜになった思考が揺らいでいる。そんな様子が手に取るように分かって、有無を言わさずその手を取った。
なだれ込んだのは、最奥に設置された個室だ。一番広くスペースが取られているそこに桐生を引っ張り、忙しなく鍵をかける。桐生は扉にもたれたまま秋山を見ていた。先程よりずっとその身を覆う壁が薄くなった気がして喉が鳴る。個室に二人きり、心を許されている証拠だと自覚して、堪らなく欲情する。秋山は再度身体を重ねた。
唇を軽く舐めて、そのまま顎に移動する。手は腰に触れているがそれ以上の動きはない。あくまで身体を密着させ、柔らかいキスを繰り返すだけだ。
「あつ、い」
少し上から降ってきた恨み言に、秋山は食んでいた首から顔を上げてその表情を伺う。眉根を寄せて控えめの声で囁く姿に、僅かな隙間も許さないとばかりにより身体を近付ける。
「後できちんと社員教育しときます」
「おまえが、だ……っ」
「ええ、分かってますよ」
わざとらしく天を仰いでから空調の話に取り違えて答えれば、焦れたように言い募られるのが堪らない。秋山は謝罪の意味も込めて少しだけ胸の辺りを浮かせた。やっと出来た隙間に桐生は大きく息を吐くものの、今度はそこに手が差し入れられてびくりと身体を震わせた。
「確かに熱い、ですね」
火照った胸に掌を当てて、秋山は囁く。シャツのボタンに指を引っ掛け、試しに一つと外してみる。秋山はその少し広がった胸元に唇を寄せかけた。しかし突然聞こえた物音に、屈んだ姿勢のままで硬直する。
「はーっ飲んだ飲んだー」
軽い調子のよく通る声が聞こえてきて、秋山と桐生は顔を見合わせた。喜々としたその男の声は見知った人間のものに間違いない。先程まで上機嫌で話をしていた男、品田辰雄だ。
秋山はひっそりと溜息を吐く。まさか本気でいける所までいってやろうと思っていた訳ではない。それでもあまりにあっさりと水を差されてげんなりとしてしまう。もう少しこの人の箍が緩むのを見たかった、そんな正直な欲望は未だ頭を擡げ続けて静まらない。
一方そんな秋山の不満を一心に向けられている男は、楽しげに鼻歌交じりで用を足していた。余程心地良く酔えたらしい。移動する足音の後、再度水の流れる音が聞こえて、手を洗っているのが伺える。漸くこの空間から離れようとする気配に、桐生がほっとしたように肩の力を抜くのを感じた。
水が止まり、また足音が聞こえてくる。近づいて来たそれはそのまま遠のいていく、と思いきや、何故かすぐ傍で止まった。
「―桐生さん?」
抑えつけた身体が僅かに身じろぐのが分かる。秋山はそれを宥めるように胸元を撫でた。いくら何でも、気が付かれた訳ではないだろう。そう思いながらも、奔る緊張感に身が固くなる。
「……あれ、もしかしたらーと思ったけど違ったか。失礼しましたー」
少し待って、けれど何の反応も無い扉に、のんびりとした声がかけられる。そのまま品田は今度こそトイレから出て行った。
離れていく鼻歌に強張っていた身体が緩む。桐生も溜まっていた息を深く吐き出した。
秋山は桐生の顔を見た。先程まで瞳にちらついていた熱が収まりつつあるのを感じ取る。まずいな、と思った時には、今度は逆に手を掴まれていた。
「出るぞ」
「え、いいんですか?」
「いいも何も……っ」
言いかけたその口に、秋山は咄嗟に唇を重ねた。舌は流石に含ませなかったものの、表面をじれったく舐めて辿る。じわじわと煽られる快感から逃れるように桐生は顔を背け、鋭い視線を向ける。
「っ……後で時間、作れるだろ!」
「酒と飯は一緒にしない性質でして」
「このっ……」
焦ったように手を引く桐生に向かって、秋山はわざと首を傾げてみせた。戸惑いを隠せないその表情に微笑んで、離れかけた腰を再度引き寄せた。開いたままだった胸元には唇を寄せ、熱い肌の感触を愛おしむ。
自分でも、らしくない強引な行動だと自覚はしている。煽られた訳ではないと言っておきながら、結局こんな風に場も何も考えず昂っているのだからどうしようもない。触れ合うのが久々だからなんて言い訳も最早通用しないだろう。
秋山は差し出した舌で忙しなく肌を辿る。もどかしいボタンを全て外して、辿り着いたベルトに手を掛ける。それでも前を寛げてしまうのはやはり抵抗を覚え、布の上から軽く触れるだけに留めた。力を入れず何度か撫で擦ると、伸びてきた手に肩を掴まれた。
「秋山」
静かな声に名前を呼ばれ、秋山は顔を上げる。真剣で鋭い視線に、少しずつ昂ぶり過ぎていた熱が引いていくのを感じていた。
「……桐生さん」
「何だ」
「この後、お呼び立てしても?」
頷いた桐生を見とめて、触れていた身体から離れる。らしくなかった興奮はひとまず収まり、桐生は安堵したように肌蹴られた胸元を整えた。秋山は少しのばつの悪さを思いながら息を吐く。すると桐生が掴んだままだった肩を優しく叩いてきた。
「―待ってる」
心地良い柔らかな声で桐生はそう言うと、外の気配を伺いながら足早に出て行ってしまった。悠長にしているとそれこそ目立って、誰かが探しにくるかもしれない。そんな風に考えたのだろう。
残された個室で一人、もう一度深く溜息を吐く。先走る衝動は収まったものの、代わりに込み上げてくるのは途方もない愛おしさだ。離れていったあの温もりが恋しくて堪らなかった。
個室の扉を開け、秋山は洗面台に立つ。流れ出す水で手を洗い、とりあえずこの場を収める立場の人間としての自分を奮い立たせる。冷えた指先をぐっと握り込み、全身に力を入れ直した。
「さて、行きますか」
誰にともなく呟いて、秋山は颯爽とトイレを後にした。
入れ替わり立ち代わりしていた面々も、時間を追う毎に落着き、次第に全体の数が減り始めた。
人もまばらになったホールで、秋山は後始末をし始めていた。清掃は明日やる為、手の空いたスタッフから帰宅するよう告げていく。
スタッフを帰し、少しの眠気を覚えながらも手にした酒を舐める。未だ残っているのは飲み過ぎてソファでぐったりとしている品田と、傍らで酒を飲む桐生だけだった。そう、いつの間にか谷村の姿も無かった。漸く見つけた桐生にあれこれと言い募るかと思いきや、実に落ち着いた様子で酒を酌み交わしていたのがついさっきの光景だ。そしてその妙な余裕に寧ろ焦燥を覚えていたのだが―いや、今となってはそれどころではなかった。
「品田さーん、起きてます?」
突っ伏した背中に近寄り声をかけてみるが、品田はよく分からないことを言うばかりだった。既にタクシーを呼んではいるが、これでは酔う前に言っていたホテルに着いても、部屋まで辿り着けるか怪しかった。
送っていくしかないだろう。秋山は溜息を吐いて、残っていたスタッフの一人を捕まえた。品田を送る旨を伝えて戸締りを任せ、出かける準備をする。丁度車の近付く音が聞こえて、ヘッドライトの明かりが見えた。
「じゃあ悪いね、後よろしく」
足元が覚束ない品田を支えて歩き出そうとすると、不意に寄りかかっていた重さが楽になった。
ごく自然に、反対側でその重みを受ける桐生に向かって、秋山は潜めた声で言う。
「あの、どこか店で待っててもらっても……車乗ったらすぐ連絡しますから」
桐生は黙って首を振った。そしてそのまま外に出ようと足を踏み出す。秋山は仕方なくそれ以上何も言わず、二人連れ立って品田をタクシーまで運んだ。
品田が滞在しているホテルに着くまで、それほど時間はかからなかった。
眠りこける男を何とか引き摺りだして、フロントに預けた鍵を代わりに受け取る。やっとのことで借りた部屋まで辿り着き扉を開けると、突然しゃんと背筋を伸ばした品田が勢いよく頭を下げてきた。
「ありがとうございました!」
スポーツマンのそれに似た勢いで礼をされ、呆気にとられる二人の人間を尻目に、品田はまたふらふらとしながらも部屋の中へ消えて行った。
漸く肩の荷が下りた。秋山は扉を閉め、桐生を振り返った。堪え切れない苦笑を浮かべるその人に笑いかけ、そっと部屋から離れる。
ホテルのエントランスを出た所で、秋山はどうしたものかと思案し始めていた。もうやり残したことは何も無い筈だ。記憶を掘り起こしながら、隣を歩く桐生を伺う。
すると丁度見られていたらしく視線がぶつかった。咄嗟に何か取り繕うことを言いかけたが、無意味だと思い直して止めた。それこそもう、体裁なんて必要無い。
「家に、行きますか」
それだけ告げて、秋山は走ってきたタクシーを止める為、足を早めた。
普段それほどまめに帰る訳ではない家は、散らからない代わりに物も大してない。
秋山はベッドに腰掛け、ぼんやりと煙草をふかせていた。一応傍らに酒は用意しているが、自分も相手ももう飲むことはないだろうと予想していた。
件の相手は風呂に入っていた。秋山と入れ替わりに入ろうとする桐生に、準備をするなら自分がと買って出たのだが断られていた。秋山は手持無沙汰のまま、立ち上る煙を見つめるしかなかった。
しかしどうも落ち着かない。別に初めてでも何でもないのに、この浮足立ち方はどうかしている。尤も、その理由の一つには思い至っていた。
何度か重ねてきた行為だが、こうやってその為だけに部屋に入り顔を合わせることは無かった。大抵どこかで飲み、その流れでの行為が多かった。もちろん、勢いだ何だといったきっかけではない。ただ、その後を予期しているのと、予定しているのでは似ているようでまるで違う。秋山はかつてない居心地の悪さを覚えながら、それでも待ち遠しい思いで煙を吐き出した。
風呂場から水の音が途絶え、近付いてくる気配を感じる。やがて姿を現した桐生に、秋山は黙って煙草の火を消した。
「桐生さん」
名前を呼んで、より近い距離に誘う。すぐ隣に座った桐生の剥き出しの肩に手を置くと、水気を含んだ肌がしっとりと吸い付いて来た。薄暗い部屋で、探るように下着だけを身に着けた身体に触れる。身を乗り出して唇を重ね、反応し始めた部分を擦れば、そわそわとした居た堪れなさなどはどこかへ行った。
「……いいですか」
問いかけというより宣言のようになったと思いながら、柔らかく撓むベッドに沈んだ。
普段よりずっと早い手順で、秋山は桐生の中に指を埋めていた。トイレの中での行為があっても、やはりまだどこか急く思いがあることを自覚する。
「う……っ」
指の侵入を深くすると、桐生が堪えきれずに低く声を洩らした。進め方は性急だったが雑に扱った訳ではもちろんなく、含ませたそこはとうに広がりきっている。
だから恐らく、痛みではない。それでも強い刺激にならぬよう殊更気遣いながら、秋山は桐生の上に覆い被さり、唇を舐める。
「桐生さん」
囁いて、視線を捕まえる。指が抜け出ていく感覚に、次の刺激を予感するように瞳が揺らいで秋山は頷いた。
しかし桐生が腰を浮かせかけると、それをやんわりと押し留めて告げる。
「後ろから、いいですか」
桐生は一瞬固まったが、ややあって意味を理解した。普段とらない体勢を強いているのだから無理も無い。それでも拒否はなく、そろそろと背中が向けられる。
しっかりと張りのある尻が目の前に突き出され、欲情の波がぐっと押し寄せてくる。掌で腰を撫でながら、秋山は育ち切ったそれにコンドームを被せた。指が抜かれて、湿らせる為の粘液を溢す穴に、塗り込めるようにして先端を触れさせる。
両手で腰を掴み、少しずつ中へ入っていく。先程までの行為と体勢のおかげで、それほど抵抗も無く侵入を許される。奥の奥まで入った所で、秋山は軽く腰を揺らめかせた。俯せた桐生の表情は伺えないが、苦痛のような声は聞こえない。
「あき、やま」
低い声が名前を呼ぶ。返事をしようと思ったが、心地良く中が締まる感触にそれどころではなかった。少しずつ、緩やかに動きながら、収縮する内部の熱を分け合う。
「秋山、」
焦れたようにもう一度呼ばれ、秋山は桐生の背中に覆い被さって身体を近付けた。首を逸らし振り返った桐生は熱い息を吐き出して、どこか嗜めるように言う。
「いい、から」
「は……」
「動け」
そう言ってまた中を締められ、秋山は思わず歯を噛み締めた。自制していた思いすら気づかれていた。思いのまま動いて、抉って、中に吐き出したいという願望。トイレで中途半端に触れていた時からずっとあったその欲情を、あっさりと見透かされて言葉も無い。
「本当、もう……あなたって人は……」
呟いた言葉に、自分でも分かる程欲が滴っていて苦笑する。秋山は桐生の腰を掴み直すと、浅い所にあったそれを一気に深みへ押し入れた。
「っ、あ―!」
思わず引き攣れた声を上げる桐生に構わず、がつがつと突き入れるように動く。引っ掛かりも無く滑る部分を、押し広げるように何度も擦り上げる。気持ちが良い、堪らなかった。欲が溢れて止まらない。焼き切れそうな興奮に背筋が震えて目の前が白む。
「桐生、さん……!」
込み上げる絶頂を逃がそうと名前を呼んだのが間違いだった。振り返った桐生の横顔を見た瞬間、普段のそれと重なって震える程の愉悦が奔る。秋山は息を吐いて射精を押し留め、ぐずぐずと中を圧迫する。回した手で張り詰めた桐生のそれを擦れば、荒い息に混じって呻くような声が聞こえる。
激しい動きのまま、絞り出すようにして擦り続けていると、桐生の腰がびくりと震えた。声にもならない掠れたそれとともに、掌に粘液がかかる。
後ろを向かされ、腰を上げられ、桐生は達したのだ。そう思うともう我慢がきかず、追い立てるように何度も腰を打ちつける。達したばかりの桐生の身体に構うことも出来ず、やがて秋山も勢いのまま、桐生の中へと吐き出していた。
二度目のシャワーを浴びながら秋山が思い出していたのは、案の定谷村との会話だった。
福岡の青年のことはともかくとして、いい年をしながらまだこれほどまでに躍起になれるのかと、多少の情けなさを覚える。いや、とかくあの人のことだ。躍起にもなろうというものである。理解し、何も言うべきでないと思ってはいる。思ってはいるがそれでも、全てを繋げておきたいなどと、願わずにはいられないぐらいだから。
腹に溜まる、感傷か何かわからない思いを水に流し、秋山は風呂場を出た。今度は先に入浴を済ませていた桐生の背中が、薄闇の中に浮かび上がる。
桐生はベッドに横たわったまま振り向かなかった。寝ているのだろうか。秋山は気を遣って確かめることもせず、サイドテーブルに置かれていた煙草を引き寄せる。
「っ、うわっ!」
すると不意に伸びてきた手に肩を掴まれ、引き寄せられるままにベッドへと沈み込んだ。桐生は突っ伏すように転がり込んできた秋山を支えて、ベッドの中へ入るように促した。もちろん、拒む理由などない。秋山は少々動揺しながらも桐生が空けてくれたスペースに潜り込む。向かい合った姿が何となく居た堪れなくて寝返ろうとするが、許してはもらえなかった。
「あの、桐生さん―」
「寝ろよ」
「え?」
やはり機嫌を損ねたのか。伺った秋山にかけられたのはしかし、温かく心地良い声だった。それには苛立ちなど一切含まれておらず、むしろ包み込むような愛情しか感じられなくて、秋山は桐生を見つめる。
「ここにいるから―な」
穏やかに紡がれた言葉に、秋山は堪らず目を伏せた。愛おしくて、心地良くてどうしようもない。そばにいる、今これ以上の幸福など有り得なかった。
秋山はふと思う。もしかして桐生は何かを察して、それで甘やかそうとしているのかもしれない。そんなことをしなくても十分だったのだが、この上なく嬉しいことに変わりはない。
眠気が意識をさらうまで、こうしてただ寄り添って、緩やかに流れる時間を楽しんでいたい。そんなことを思いながら、秋山は薄く目を開く。
目を閉じた桐生の口元が微かに微笑んでいる気がして、全てを―自分の些細な焦燥をも、見透かされているのかとはっとする。ああでも、今はそんなことより。
自身の拙い自尊心など傍らに放り投げて、秋山はその愛しい微笑みに口付けた。
愚者/渡桐
病院で目を覚ます感覚は、どうしてこういつも霞がかっているように思えるのだろうと一人考える。
人よりいくらか怪我の多いこの身体は、病室のベッドとも浅からぬ因縁があるにもかかわらず、だ。桐生はゆっくりとリクライニングベッドを上げ、身体を起こした。喉の渇きを覚えながら閉じられたカーテンを見る。漏れ出した光の眩さが、快晴であることを告げていた。
「桐生さん―桐生さん、おはようございます」
かけられた声に扉を振り返ると、一人の看護師が室内へと入ってきた。彼女は窓際へ歩み寄り、カーテンを引く。
途端に明るい日光が部屋いっぱいに差し込んできて、桐生はそれを目を細めて眺めた。
「良いお天気ですねえ。お加減はどうですか? 食欲は?」
「気分はそこまで悪くない。ただ―食欲はあまり無いな」
「そうですか、じゃあもう少ししたらお食事持ってきますね」
看護師は人好きのする笑顔を浮かべ、慌ただしく外へと出て行った。身体を再度ベッドに沈ませ、桐生は脇腹の辺りにそっと触れる。ガーゼのざらつく感触が痛みを生々しく思い起こさせるようで、吐き出す息が詰まる。
冷たい、雪の記憶。温かい血に塗れた身体が徐々に冷えていくその感覚は、未だ昨日のことのようにまざまざと残っている。終わりを覚悟していた。今までだって考えたことは幾度かあったが、そのたびに思い返したのは親しい人の姿だった。むしろそれがあったからこそ、生きて、戦ってこられたのだとはっきりと分かる。しかし、あの時は。
男が待つ場所に向かい、傷付き疲れ切った身体を抱え必死で仲間の元へ帰ろうとした。あの時桐生は本当に一人きりだった。それは偏に、自ら離れた少女の存在を、遠く感じていたことに他ならない。来た道を辿りながらも桐生が歩いていたのは、仲間へと続くそれではなく、死に繋がるただ一本の道だったのだ。
腹から手を離し、凍てつく記憶から意識を遠ざける。爽やかな太陽から遠く離れた、酷く物寂しい朝だった。
食事を終え、手持無沙汰にぼんやりとしているとノックの音が聞こえた。桐生の病室は東城会の関係で、ごく一部の人間にしか知らされていない。何人かの顔を思い浮かべながら返事をする。
「よう桐生、調子はどうだ」
「伊達さん」
伊達は覗き込むように桐生の病室を伺ってから中へと入ってきた。手にした二人分の缶コーヒーを傍らに置き、座るかと思いきや、身体を起こしていた桐生に近付きまじまじとその姿を眺める。
「傷は塞がったらしいな。顔色も前ほど悪くない」
そう言って何度か頷いてから、伊達は置かれている椅子を引き寄せた。腰を落ち着けると、強張っていた伊達の表情が少し和らいだことに気付く。何度か見舞いに来てくれているが、いつも桐生の様子を間近で見るまではこんな不安を滲ませた顔をしていた。自分が思っているよりずっと、心配をかけているのだろう。桐生は少しの居た堪れなさを思いながらも、黙ったまま頷くだけに留めた。
「だがあまり無理はするなよ。大体お前はいつも養生が足りないんだ」
間髪入れずに差し込まれた小言じみた言葉に、桐生は思わず笑みをこぼす。安堵と照れがないまぜになった物言いに、不器用ながらも優しさが込められているのがよく分かる。それに伊達の言うことも尤もだった。
入院して暫くの間は、溜まっていた疲れが堰を切るように溢れたようで、眠り続ける日が殆どだったぐらいだ。限界近くまで身体を酷使していたと言わざるを得ない。
伊達は持ってきた缶コーヒーを開けると、桐生に向かって差し出してきた。そして自分の分も開け一口含み、意識して間を作ってから口を開いた。
「遥は暫く大阪か。色々とごたついているようだが―まあ、信頼出来る人間がついているんだ、大丈夫だろう」
それほど昔のことでもないのに、伊達からその名前を聞いて、桐生は何故か強い郷愁のようなもの感じていた。
あの雪の降る道で、桐生は自分からその存在を遠ざけた少女の声を聴いた。少女は培ったものをステージに置いて、桐生の元へと走ってきたのだった。それからずっと、怪我と極度の疲労で眠り続ける桐生の側に、少女はいた。もちろん、全てが終わっていた訳では無い。彼女はその後の、それこそ気が遠くなるほどの事後処理を抱えてもいた。
桐生の意識がはっきりし始めて少し経った頃、少女は桐生に、暫く東京を離れることを告げた。傍らにはこれまでずっと、手助けしてくれていた人達がいる。だから心配しなくていい、おじさんは身体を治すことだけ考えていて。そう告げる少女の顔は、固い決心を秘めたものだった。離れている間にまた一歩、大人へと近づいていたのだ。今すぐに何も出来ない自分が恨めしくはあったが、桐生は少女に向かって頷いた。お前の言いつけはちゃんと守る、だからお前も、心配するな―そう言うと、隠し切れない不安を少しだけ滲ませていた少女の顔が和らいだ。約束だよ。以前と変わらない綻ぶような微笑みに、桐生はもう一度しっかりと頷いたのだった。
「―ああ、そうだな」
脳裏に焼き付いたその微笑みを思い出しながら呟く。その慈愛を含んだ優しげな声に、伊達はどこか感慨深げに窓の外を眺めていた。
それから暫くは、伊達の話す神室町の近況や東城会周辺の事情を聴いていた。東城会は立て直しに奔走しているが、まだトップの堂島大吾が入院している以上、本格的な調整には至っていないらしい。
周囲も似たような状況だった。特に関西、近江連合は内部の混乱が激しかった。先の一件で死期を早めた黒澤亡き後、 未だ完治には至らない勝矢の不在もあり、事実上八代目になるであろう渡瀬が主導権を握り動かしているものの、整理すべき要事は多い。東城会との盃についてもどう傾くにせよ、互いに持ち出せる余力は無かった。
神室町も落ち着きを取り戻しつつはあるが、やはりどこか活力に欠けていた。街全体が、それこそ疲弊しきっているように見えていた。人々も―例えば、スカイファイナンスの秋山なども、本来の生活にはまだ戻れていない。少し前に見舞いに来た彼は疲れた横顔を見せながら、しかしそれでも相変わらずの緩めた雰囲気で大丈夫ですと微笑んでいた。この街は強い、そこに生きる人々も。互いに口には出さなかったものの、恐らく同じような思いを抱えていたに違いない。
その去り際に桐生は秋山へ、遥への手助けについての礼も伝えた。大阪でだけでなく彼は、今現在の遥にも、色々と手を差し伸べてくれていると聞いていた。すると秋山は虚を突かれたような顔をして固まり、やがてふっと柔らかく笑って言った。
「お礼はいいですから、早くよくなってください……って、もしかして聞き飽きちゃいましたかね?」
でも、みんなそう思ってるってことですから。それだけ言って病室を出た男に、桐生は一人頭を掻くしかなかった。
「じゃあな、何かあったら呼んでくれ。あんま無理すんじゃねえぞ」
再度念を押すように言ってから、伊達は空き缶を手にして立ち上がった。忙しい合間を縫って、何度も様子を見に来て話をしてくれる存在に、桐生は改めて感謝の言葉を口にする。
「ありがとうな、伊達さん」
言われた伊達は煩わしそうに眉を顰め、手で払う仕草を返してきた。聞き飽きていると揶揄された先の言葉だが、水臭いと言葉にもしない向こうはいっそ「言い飽きている」といった所だろうか。そのまま結局何も言い返すことなく、伊達は部屋を出て行った。
再び静けさが広がる病室で、桐生は深く息を吐いてベッドへと身体を沈めた。見舞いに来る人間はそう多くない。恐らく今日はもう誰も来ないだろう。軽く目を閉じ、身体の力を抜く。眠る訳では無いが、少し休もうと思っていた。―その時だった。
「あ、あの、本当にこちらの病室で……?」
「せやから、ちゃんと了承済や言うとりますやろ。ほな、失礼しますで」
扉の向こうから、焦った様子の看護師の声と、それに重なって低い、威圧感のある男の声が聞こえてくる。洩れてきたその声を、どこか聞き覚えがあるように思いながらも、思い出す前に扉が叩かれる。
「―どうも、ご無沙汰しとりました。桐生はん」
桐生の返事を待たずして中へと入ってきた男は、かけていたサングラスをゆっくりと外す。
そして近江連合次期八代目に相応しい威厳に満ちた声で、そう言い放った。
唐突に現れたその男、渡瀬勝に桐生は驚きながらも、先程感じた既視感の訳に思い至って納得していた。記憶に残っていたのは確かにこの男の声だった。特徴的な関西弁を操る、昔気質の気迫を背負った男。秘められた闘気は静かながらもじりじりと燃え、対峙しているだけで、あの屋上での闘いを思い起こさせる強さがあった。
「桐生さんその、こちらは……」
扉の近くで立っていた渡瀬の背後から、看護師が恐る恐る顔を出す。戸惑いを含んだその眼は、渡瀬のことを尋ねているのだろう。面会に来る人間は限られているが、その詳しい事情は伏せられている。そしてその許可の有無がすぐに連絡されるとは限らず、普段目にしない姿を見て、看護師もどうしたらいいかわからないといった様子だ。
どちらにせよこのまま立ち尽くされていても厄介だ。桐生は身を乗り出し、看護師に向かって声をかけた。
「大丈夫だ、聞いている」
「あっ、そうでしたか。失礼しました、じゃあ、私はこれで」
桐生の返事に、看護師はほっとしたように頷くと、一礼してあたふたと扉を閉めた。彼女がこの場から去るのを暫し待ってから、漸く立ったままの男へと視線を向ける。
「渡瀬……お前どうやってここへ来た」
「お加減どないですか。顔色はそない悪ないみたいですけど。ああ、これよろしかったら」
渡瀬は桐生の問いかけを気にすることなく言いながら、手にしていた紙袋を傍らに置く。まるで九州で初めて会った時のように煙に巻かれ、小さく不安が過る。今はあれ程冷静さを失ってはいないが、あの時以上に、状況は異質だった。
「取りましたよ、許可なら。わざわざ間に人立てて、堂島の耳にも入れるようにしました。気になるんやったら確認してもろたらええですわ」
濃くなった警戒の空気を敏感に感じ取り、渡瀬は肩をすくめながらそう言った。そうまで言われては桐生も引き下がるしかない。これまでの相手との接触で、そのある意味分かりやすい気質は十分に伝わっていた。細かい謀略を好むような男ではないし、今この状況で、軽率な行動にでる程浅慮でもない―しかし。正当な手順を踏んでここへ来ているのは分かったが、その理由は分からない。突然桐生の病室に、しかも単身手土産を持ってまで訪れるなど、何か深い意図があるのかと勘繰るのも致し方ない。
桐生は密かに身構える。そしてその意図がどんな内容であるか、聞き出す為に口を開いた。
「それでお前は、何をしに来たんだ」
渡瀬の目がふと、呆気に取られたように見開かれた。何を言い出すのか分からない、そんな表情を浮かべながら、渡瀬はまるでそれが当然のことのように言う。
「何しにて、見舞いに決まってますやろ」
今度は桐生が、何を言われたのか分からないと途方に暮れる番だった。見舞い、確かに病室に来る理由としてはこれ以上ない程に自然なものだが、何故この男が。桐生は混乱する頭を抱えながら、言われた言葉を繰り返す。
「見舞い……?」
「そう、見舞いです。いやもう、何をいきなり言われるんか思うた」
あっけらかんとそう言われ、桐生はむしろ戸惑っている自分がおかしいのかと自問する。いやしかし、この状況はどうしたって異常だ。
もちろんこの男とは少なからず因縁があるが、それにしたって何の用も無く見舞いに来られるような間柄でなかったことだけは確かだ。
やはり何かある筈だ、そう思って伏せていた顔を上げると、存外近くに立っていた渡瀬に見下ろされていてはっとする。
「何だ、やっぱり何か……!」
「ああすんまへんなあ、この椅子、使わせてもろてええですか。えらい病院の中で迷うてしもて、足がしんどくて堪らん」
指差された簡易椅子に、桐生は唖然としながらも頷いていた。
「東京っちゅうのも、たまに来るとええもんや。ゴミゴミ小うるさい街なだけやと思ってましたわ」
窓の外に目を向けて、渡瀬が不似合いな程のんびりと呟く。桐生は拭いきれない違和感を思いながらも、それをどう言葉にすれば良いか分からないままだった。仕方なくそれとは別に、気になっていた疑問を口にする。
「大丈夫なのか、こんな所へ来て」
渡瀬の瞳がゆっくりと桐生を捉える。言外に含まれたいくつかの意味に、どう答えたものかと見極めているようだった。
「お察しの通り、あまり長居は出来ませんな。近江はがたついてます。勝矢も、戻ってくるにはまだ時間がかかる。それにいくら今はお互い身内のことで手一杯で構うてられへんとはいえ、ここは東城会の息がかかった病院で、あんたはその四代目。何の理由もなく、いやいくら理由があったとしても、なかなか大手を振っては来られへんでしょう」
「それなら何故―」
「せやから、見舞い言うてるやないですか。それが理由です」
核心に迫りかけた所でまた躱され、桐生は押し黙った。渡瀬は頑なに見舞いだと言うが、どう考えてもそれだけだとは思えない。本人も自ら口にしたように、組織の再編に忙殺される身の上、立場としても非常に際どい存在の筈だ。あまりにリスクが高過ぎる。
纏まらない考えに沈む桐生に向かって、渡瀬は何故か突然手を伸ばしてきた。桐生は咄嗟に身を引きかけるが、しかしその手は近付くことなくベッドの手すりにかけられた。どこか、彷徨うような手つきだった。
「傷は」
「……え?」
「傷は、どないですか。痛みは」
藪から棒に、それこそ普通の見舞いのように問いかけられる。渡瀬はじっと桐生の顔を見ていた。サングラスを取り払った素の瞳が、力強い眼光を持ってして身を苛む。何故か責められているような錯覚に陥り、桐生は思わず正直に答えていた。
「痛みはもう、大したことは無い。傷口も塞がった」
「ほな、もうそれほど時間はかからんと?」
「ああ、ただ疲れが溜まっているらしい。医者と周りが十分な休息を取れと」
「そらご尤もや。こんな時やないとなかなか休まれへんのでしょう、ここは皆さんの顔立てて、ゆっくり養生したらんとな」
交わされる会話は、本当にただの見舞いのそれだった。
桐生はごく自然に返答しながら、段々と当初の違和感が薄れつつあるのを自覚していた。渡瀬の言葉の裏に、後ろ暗い何かは見えてこない。男はそういったことを好まない性分ではあったが、やはり立場上気にせざるを得なかった。しかし結局、そんな要素は透けてこなかったのだ。
ただ淡々と、渡瀬は特に意味もない雑談をするばかりだ。会話の端には、桐生の身を案じてさえいるような言葉まで出てきた。―男の真意が分からない。問いかけても恐らくまた、煙に巻かれてしまうのだろう。
桐生は気付かれぬよう小さく溜息を吐いた。それならばもう気を回しても仕方がない。少なくとも渡瀬がこの部屋を去るまで、完全に気を抜かなければ良いだけだ。
「さあ、そろそろお暇せんと。桐生はん、ワシ行きます」
「……ああ、そうか。すまなかったな」
考えている間に渡瀬はそう言って立ち上がった。ベッドの傍らに立った男は、その目をふっと眇めて告げた。
「また来ますわ、桐生はん」
あまりにさらりと言われ、つい反応が遅れてしまった。桐生は思わず乾いた声で聞き返す。―また? すると渡瀬は使っていた椅子を傍らに寄せ、事もなげに言った。
「大阪東京なんてすぐですわ。こっちも大阪ばかりに籠ってられまへんしな。いっぺん許可貰たんやから、二回も三回も同じですやろ。もし何か言われたら桐生はんからよろしゅう言うといて下さい」
「お前、本当にまた来る気か?」
「ええまあ、その内に。安心して下さい、一人で来ますんで」
抑えていた混乱がまた顔を出しているが、問い詰める余裕を与える気は無いらしい。桐生は半ば思考を放棄して、去っていくその背中をただ目で追う。
「ほな桐生はん、お大事に」
サングラスを掛け、そう言い残した渡瀬が出て行った扉を、桐生は暫し呆然と見つめた。徐々に目の奥が疼くように痛んできて、再度ベッドへと倒れ込む。
渡瀬の、あの鋭利な剥き出しの瞳が脳裏に焼き付いているようで、桐生はそれから逃れるように今度は眠るつもりで目を閉じた。
渡瀬勝の突然の訪問から二週間が経った。しかし桐生の周辺で、特に何か変化があったとはいえなかった。
渡瀬が現れてすぐ、東城会の人間が様子を伺いに病室に訪れたことはあった。しかし会話は双方が、その経緯の確認をしただけに留まった。事実確かに渡瀬は東城会へ連絡を入れており、その面会に見舞い以外の一切の他意が無いことをはっきりと告げていた。未だ病床で臥せる大吾としても、端からそれを蹴りつける訳にはいかない。だから一応はそれを認可したものの、思った以上に渡瀬の行動が早かったという内容だった。
そのまた来る、と言われたことについても、明言された前提がある以上、本当にただの見舞いなのだとしたら何も言いようがない。東城会としても、これ以上踏み込むべきか判断をつけかねるといった様子だった。
もし何かお困りでしたらお知らせください、そんな儀礼的な言葉だけ受け取ってその場は終わった。そしてその翌日、やってきた伊達に桐生は、迷いながらもその経緯を伝えた。伊達は少し考えるような素振りを見せたものの、さほど警戒心は抱かなかったようだ。渡瀬という男の度量の広さは、伊達も承知しているのだろう。
「向こうから来てるんだ、お前がどうこうすることはないだろう。それに案外、話が盛り上がるかもしれんぜ?」
そう茶化してまでくるのだからよっぽどだ。結局伊達との会話でも新たな不安要素などは生まれず、桐生は多少気を緩めてそれからの日々を過ごしていた。
そして二週間後、その驚きも薄れかけていた頃に、そのノックは響いた。
「どうも、桐生はん。意外と早うなりましたわ」
現れた渡瀬は病室へ入ると、律儀にサングラスを外してから桐生の近くへ歩み寄った。持ってきた見舞いの品を置き、椅子を引き寄せて座る。何の後ろめたさも見せないその堂々とした所作に、最早桐生も口を挟む気にならなかった。
「本当に来たのか」
「言いましたやろ、また来ますて。その後、変わりは無いですか」
訊ねられ、桐生は黙ったまま頷く。その表情をじっと見つめていた渡瀬の瞳が、僅かに見開かれた。
「そらよかった。如何せん離れとりますさかい、様子がなかなか伺えませんでな。気を揉んどりましたわ」
「何がだ?」
「何てそら、桐生はんの様子ですがな。見舞いにまで
行った人間の状況くらい、気にしたってええでしょう」
「それは……まあ、そうだが」
きっぱりと言い切る渡瀬に、桐生もただ頷くしかない。そんな桐生から視線を逸らし、目を伏せた渡瀬がぽつりと呟く。
「よかったですわ―本当に」
こぼされたそれは、何でもないただのひとり言だ。
しかしその、溜まった息をふっと吐き出して、安堵したように纏った空気を緩ませる姿に、思わずじっと見入ってしまった。やはり渡瀬の言葉に嘘偽りはない。義理堅く、人情に厚いこの男は、桐生のその後を本当に案じていたらしい。そう、何となくではあるが感じ取った桐生は、今度はまた違う意味合いで居心地の悪さを感じていた。
真正面から直球で気遣われ、どう反応していいものか考えあぐねているのが本音だった。しかし広がる沈黙に余計その戸惑いを助長されるようで、とにかくこの妙に真面目くさった空気を変えようと口を開く。
「今日も一人か?」
「もちろん」
「大丈夫なのか」
「一人いうても、近くまでは来とりますさかい、大丈夫です。ぞろぞろついて歩いとったら逆に目立ってしゃあないですし―ワシかてたまには羽伸ばさせてもらわんとな」
「羽を伸ばそうとしてこれじゃ、それこそやってられねえだろう」
「……そら、ワシが決めることですがな」
そう突き放すように言うものの、渡瀬の態度はどこか面白がっているようだった。けれど言われたそれが何を意味するのか掴めず、桐生は眉を顰める。
「あんたの顔見に来るも来ないも、ワシの意思っちゅうことです」
渡瀬はそういうと、至極楽しそうに目を細めた。どこか親しげな雰囲気さえ纏った男に、また居た堪れない思いを抱く。こんなまるで、旧知の友人のような空気を漂わせていて良いのだろうか。渡瀬と桐生は一度は拳を交えた間柄で、色々とあったにはせよ、元は敵対するもの同士だった―いや、本当にそうなのだろうか。
「それに―東城会四代目の病室へ、若いもんをそう簡単に上げたりは出来やしまへんからな」
そう言って唇を緩める渡瀬をよそに、桐生はふと渡瀬に初めて会った時に言った言葉を思い出していた。
「自分が東城会に戻ることはない」桐生は己の影を追う渡瀬に、そうきっぱりと告げていた。今も揺らぐことの無いその意思だが、渡瀬はそれを聞いて理解を拒む反応を見せていた。桐生に考えを改めさせるべく、半ば頼み込むような真似までしてきた。それから先の一件があり、話はそれきりだったが、桐生はどこかでまだ、渡瀬が己の東城会への復帰を待っているのではないかと考えていた。
この突然の訪問に、残り続けた違和感の一端はそれだった。しかし渡瀬の様子を見る限り、その気配は感じられない。
渡瀬はただ礼儀として、桐生一馬という個人を見舞いに来たのだ。肩書上は確かに東城会四代目だが、それも過去の話。そして桐生自身に戻る意思はない。渡瀬の目に映るのは、東城会の関係者であるが、「今」の人間ではないのだ。
思い至った結論は、桐生を納得させるだけの論理性を持っていた。未だ僅かに残っていた危惧を取り払う。理解は出来た。そしてその内容は、桐生にとっても望ましいものだった。相手の自分本位な理由からとはいえ、絶対に起こり得ないことを乞われ続けるのは居心地が悪い。漸く納得したのなら、これ以上最良な結末は無い。
―そう、嘘偽りなく思っていた。しかしほんの少し、心の隙間に割り入るように、冷たい何かが過るのを感じてもいた。
明確な言葉にして表現することは出来ない。しかしその冷たさ、危うさだけは確かで、一筋のそれは瞬く間に桐生の心を凍てつかせた。
「さてと、ほなそろそろお暇しますわ。忙しのうてすんまへんが……桐生はん? どないかしましたか」
「……いや」
突然表情を強張らせ、口調にも固さを覗かせる桐生に、腰を浮かせかけていた渡瀬の動きが止まる。桐生は渡瀬を見たが、意図的にその瞳から視線を外した。なるべくそこを見ないように首元を見つめていると、何を察したのか渡瀬は、鼻を鳴らして小さく笑って見せた。
「桐生はん、そんなに知りたいんやったら教えましょか。ワシがここへ来てる理由」
不敵に笑う渡瀬には、迷いも不安も全く見えなかった。その姿がどうしても目に痛くて、桐生は耐え切れず顔を伏せる。見ていられない、見たくない、そう思った。そして押し殺した声と共に首を振る。はっきりした拒絶では無かった。けれど思った以上に、声は鋭く冷えていた。
「……いや、興味がねえ」
「さいですか。そら―残念や」
渡瀬の声にも、温度は感じられなかった。落胆と、何故だかこちらの方が突き放されているような印象を抱かせる、空しさだけが滲んでいた。しかし渡瀬はそれ以上何も言うことはなく、まっすぐに扉へと向かっていく。それでも扉を押し開きかけた所で、振り向かないまま一言だけ呟いた。
「また今度、言うてもええんですか。桐生はん」
桐生は顔を上げ、背を向ける男に向かって告げる。
「―悪いが、もう遠慮してくれ」
その言葉を聞き、渡瀬は黙ったまま病室の外へと出ていった。
桐生はまた暫く、そのまま男が出て行った扉を見ていたが、やがて扉に背を向けるようにベッドへと身体を委ねた。
感じていたのは、確かな虚無感だった。これで良かったのかは分からない。それでも、生殺しのようにどろついた感情を暴かれ続けるよりはずっと良いように思えた。
目を閉じ、眠りを呼び寄せようと試みる。しかし瞼の裏に蘇るのは、渡瀬とのあの闘いだ。桐生は逃れていた感情を認め、自覚していた。それでも口には出さない。出してはならないのだ。
自分の影を追わない渡瀬に、桐生が一人、落胆していたことなど。
重く沈む気分に引きずられること無く、桐生の体調は徐々に回復していた。このままいけばもうそれほど、時間をかけることなく退院できるだろうというのが医師の診断だった。
見舞いに来てくれる人々は皆その回復を喜び、安堵した笑顔を向けてくれていた。しかしその中に、渡瀬勝はいない。
結局あれから、渡瀬が桐生の病室を訪れることは無かった。看護師に言って、面会自体を断るようにしている訳ではない。桐生の伝えた言葉通り、渡瀬は自ら足を運ぶことを止めたのだろう。望んでいた結果だ。あの流れのまま渡瀬に付き合っていたら恐らくその、後ろめたい感情が露わになるのも時間の問題だった。それは己が決めたことの手前、絶対に避けなくてはならなかった。理解はしている。それでも―
桐生は自分の中で沸々と煮える感情を心の隅へと追いやる。いい加減もう、歩むべき道を決めなければならない。いつまでも過去の幻影に囚われていても仕方がない。分かっている。自分を支えてくれた周りの人達、そして今も大阪で奮闘している少女の為にも、引き摺られるものは遠ざけなくてはならない。
桐生は深く息を吐き、日の落ち始めた窓の外を見つめた。そして傍らに置いてあった携帯電話を取り、そっとベッドから下り、病室を出た。
丁度夕食時の為、ロビーは閑散としていた。桐生は電話が可能なスペースの椅子へ腰掛け、手にした携帯電話で番号を呼び出す。
何回目かのコールの後、少し抑えがちな少女の声が聞こえた。
「おじさん? どうしたの、何かあったの?」
「いや―今大丈夫か」
「うん、平気……どうかした?」
心配そうな少女の声に、桐生は何と言ったものか迷っていた。ただ余計な不安だけは抱かせてはならない。そう思って、殊更はっきりした声を心掛ける。
「別に、何があったって訳じゃねえんだ」
「そう? なら、良かった。退院、もうすぐだね。私ちゃんと迎えに行くから」
「―なあ、遥」
込み上げる、山ほどの後悔を必死に飲み込んだ。謝罪も言い訳も、今更言った所で何もならないことくらいは、分かっているつもりだった。それでも、こぼしてしまいそうになる。誰よりも心配をかけたくない、その人には。
「おじさんは、おじさんだよ」
何も言っていないのに、その少女は何かを察したように呟いた。電話の向こうであの、花が綻ぶような笑顔を浮かべているのが、見ていなくても分かる。
「きっとみんな、そう思ってる。それに―どんなおじさんでも、私にとっては大切な、たった一人の人だから」
そうしてまた、その少女の一言に救われる。桐生は深く息を吐き、熱くわだかまる思いを押し殺して言う。
「……ありがとう、遥」
「おやすみ、おじさん」
息が詰まるほどにやさしい声を聞き、桐生は電話を切った。
月が隠れた、暗い夜だった。消灯まではまだ時間があったが、桐生はもう既に眠り込んでいた。おやすみと言われたままベッドへ入り、驚くほどあっさりと寝付いてしまった。静かな病室に、桐生の寝息だけが聞こえている。
不意に、小さくノックの音が響いた。しかしそれは桐生の眠りを妨げることは無かった。ノックの主は少し待ったものの、やがて返事を待たずにそろそろと扉を開けた。入ってきた人物は、微動だにしない桐生の姿を見て一瞬足を止めた。しかし微かに聴こえる寝息に気付き、足音を立てないようそっと傍らに忍び寄った。
椅子を引き寄せようかと迷うが、物音を気遣って止める。結局眠る桐生を見下ろすように立ち尽くして、男は焦れたように溜息を吐いた。そして行き場の無かった見舞いの品を、傍らに置こうとした。するとそのサイドテーブルには先客がいた。開いていない缶コーヒーの缶が二つ、堂々と胸を張るように鎮座していて、すぐにその意味に思い至る。滲むのは、強い焦燥感だった。
明るい照明の元、眠り続ける桐生の顔を、男はじっと見下ろしていた。かけたまま忘れていたサングラスを取ったところで、まるでそれを感じ取ったかのように、眼下の桐生が呻く。
「渡瀬……?」
まだ目をしっかりと開いていないにも関わらず、微睡みから覚めた桐生は、見下ろす男の名前を呼んだ。呼ばれた男―渡瀬はそれを見て、その強い眼差しの瞳を、どこか遠くを見るように細めた。
「どなたか、見えとったみたいです」
そう言って、傍らの缶コーヒーに視線を移す。桐生は緩慢な動作で身体を起こし、渡瀬が示すそれを見た。恐らくは、一番よく見舞いへ来てくれているあの男だろう。そうあたりをつけた桐生の些細な変化に、渡瀬は吐き出す息だけで笑う。
「よう眠ってはったから、起こさんかったんでしょう。優しいお人やな」
口調にちらつく、僅かだが剣呑な空気に、桐生は思わずその顔を見返す。寝起きでまだはっきりとしない頭が、思考をぼやけさせる。ただそれでも、今になって突然現れた渡瀬の行動の不可解さは理解出来ていた。
射るような鋭い視線が桐生を苛む。未だ立ったままの渡瀬は、桐生から目を逸らすことなくゆっくりと口を開く。
「まだ興味、ありませんか。ワシが来とった理由」
渡瀬の顔が近付く。照明を背にした男の顔がくっきりと、陰影を濃く浮かばせる。薄い色の壁を無くした剝き出しの瞳が、桐生に迫る。
聞きたくないと思った。男の口から告げられる、過去の自分への礼賛など何も。聞けば全てを置いて離れようとする決意が、また揺さぶられてしまう。曝け出されてしまう。男との間に生じた距離に言い知れない喪失感を抱く、浅ましい本心が。己の「今」を認めさせたい、おこがましい欲望が。
桐生は逃れるように身体を背けようとした。しかしそれを許さないとばかりに、渡瀬の手が桐生の肩に触れる。軽く抑えるように乗せられたその手が、掴みかかるのを堪えるように指を握り込む。低く唸るその声が告げる。
「あんたに惚れとるからです、桐生はん」
それは本当に、思ってもみない言葉だった。混濁する思考が更に掻き乱される。言葉としての内容は分かるのに、その脈絡の無さに頭が追い付かない。
いや、これは本当に、脈絡の無いことなのだろうか。それが言葉通りの意味なのか、それとも何か他の意図を含んでいるのか、これでは判断のしようがない。全てにおいて足りない言葉の先を探るべく、桐生は渡瀬の顔を見上げた。しかしそれを遮るように、面会時間の終了を告げる院内アナウンスが鳴り響く。
「……時間や、ほな行きます。これでほんまに最後ですんで、どうも失礼しました」
「渡瀬」
肩から手を離し、矢継ぎ早にそう言って出ていこうとする渡瀬の背に呼びかける。しかし渡瀬は背を向けたまま、振り返ることは無かった。そのままの姿勢で男は、ゆっくりと首を横に振る。そして静かな声で―いっそ懇願するような声音で、呟いた。
「……はよ、出てきてください」
そうして閉じられた扉から出て行った渡瀬が、桐生の目の前に現れることは遂に無かった。まるで嵐か何かのように現れ、そして去っていった男のことを、桐生はずっと、考えずにはいられなかった。
渡瀬が残した、唯一のもの。手土産と一緒に入れられていた一つの電話番号が、桐生の頭の隅を埋め続けていた。
高層ビルの光が、夜の闇に燦々と煌めく。
どことなく翳りを見せていた街―神室町も、本来の姿を取り戻しつつあった。桐生一馬はその街中に一人立ち、ぼんやりと煙草をふかせていた。
ほんの少し前、桐生は漸く入院していた病院から出てきていた。退院の折には言っていた通り、大阪に行っていた遥も付き添ってくれていた。その後のことはまだ、しっかりと考えてはいない。遥とも話が必要だったが、彼女は柔らかく笑って桐生を押し留めた。まだ自分も整理がつききっていない、もう少し時間を置こう。そう言って首を振った。いずれにせよ神室町とはまた、それなりの別れになるだろう。そう思って一人、こうして訪れていたのだが、理由はそれだけでは無かった。
捕まえたタクシーに乗り、電話口で告げられたホテルへ向かう。さほど待たせることなく電話に出たその男は、少しも迷うことなく会う場所を指定してきた。大阪まで出向く必要があるかもしれない。そう頭に置いていたが、男が指定したのは都内にあるホテルだった。
丁度近くまで来ていた―その言葉の、真偽を疑う気には最早ならなかった。
最後に交わした会話、言われたあの言葉を、聞かなかったことにしても問題は無かった。退院した以上、それまでの見舞いに対する理由も、これからの意味も、必要無くなる。そして恐らくもうどうあっても、この先男と再会することは無いだろう。それが自然の流れだった。
しかし桐生はそれを覆し、男が待つ場所へ向かっている。「惚れている」と口にした男。意図する内容がどういうものであっても、正面から向き合おうとした男から、もう逃れたくなかった。
桐生が認めた男、渡瀬勝というその存在から、もう。
辿り着いた目的の部屋のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が細く開いた。来訪者の姿を確認したのだろうか、そんな筋違いの危惧がふと過る。
顔を出したその男―渡瀬勝は、桐生の姿をじっと見定めるように眺めた。普段使いのサングラスは既に無く、剥き出しの視線が刺さる。渡瀬は扉を大きく開くと、一言も発さないままに桐生を迎え入れた。
最上階に程近いその部屋は、都内の夜景が一望出来る素晴らしいロケーションだった。部屋の広さも申し分なく、奥にはツインのベッドが備え付けられている。
しかしその絶景が伺える大きな窓には、今はカーテンが引かれていた。ルームランプは全て灯され、部屋の中は煌々と明るいものの、どことなく閉塞感が漂っている。
「本当にもう、身体は大丈夫なんですか」
窓に近い方のベッドの傍らまで進んだところで、渡瀬が低く呟いた。顔は見えない。
「ああ、おかげ様でな」
相変わらず、向けられたままの背中に言う。渡瀬はゆっくりと振り返ると、驚くほど真摯な目つきで桐生を捉えた。
「桐生はん、あんた―ここへ何しに来たんや」
探るような、それでいて既にその答えを、知っているような曖昧な空気を纏っていた。桐生はそれに惑わされることが無いよう、はっきりとした口調で言い返す。
「お前が呼んだんだろう」
「せや。それでもあんたにも用があった筈や。せやなかったらそんな、息詰まるような顔なんぞせんでええでしょう」
そう揶揄されるような表情をしていた自覚は無かった。けれどある種の決意を秘めていたことは確かで、一つ溜息を吐き、言葉を繋ぐ。
「……俺は結局、この道から足を洗えてねえ。お前が来て、それをまた改めて思い知らされた。物足りなかったんだ、お前が俺を、過去の人間として扱うのが」
「あんたはそれを、望んでたんやないんですか」
「そうだ、俺はそうあればいいと思っていた。そうでなければ困ると。それでも―お前と闘って、向かい合った時の記憶がいつまでも、俺の頭の中にはあった」
「だから突っ返したと? それ丸ごとを遠ざける為に」
「……ああ。そうだ」
吐き出した心情が、生々しく身体に絡みつく。未練に満ちた己が、紐解かれて男の前に曝されていく。暴かれる、闘いに飢えた身。一度はぶつかりあったその存在に追いやられることなど耐えられない。しかしそれは同時に許されない。矛盾をはらんだ自己の一部が、うず高く眼前に積み上げられていく。
渡瀬は一歩、桐生に近付いた。そして徐に胸倉を掴み上げる。その手荒い仕草とは反対に、渡瀬の顔はそれこそ苦しげに顰められていた。近付く瞳の奥には、苛立ちと焦燥がない交ぜになって滲む。
「ワシはね桐生はん、あんたに―あんたにだけは、死んでほしゅうないんです。あんたの生きざまをもっと見たいと思った、知らん所で死なれるなんて堪らんのや」
まるで悲鳴のようだと思った。獣が上げる、悲痛な呻き。そんな風にも聞こえるその言葉越しに、渡瀬が抱えてきた思いがぶつけられる。
異なる極道だと告げられたその真意をずっと知りたかった。生き様と言った男が知らぬ所で朽ち果てるのを、どうして黙って見過ごせられるだろう。血に塗れた雪の記憶を思い出し、桐生は掴みかかるその手を握り込んだ。責められている訳ではもちろんない、それでも全てを投げ打っていたとは思われたくなくて、言葉を探す。
「俺は……俺を支えてくれていた人達の思いを、守りたかった」
渡瀬は目を眇めた。掴んだ手に力が入る。より強く引き寄せられ、息がかかる程の距離まで互いが近付く。
「せやったら、ワシにもその権利ください」
問い返す間もなく、渡瀬が告げる。
「あんたが生きる理由の一つにせえっちゅうことです」
乞われているのか、強いられているのか分からない口ぶりだった。桐生は目を伏せ、それを拒む。勝手な言い分を散々連ねたが、やはり根本は変えられない。振り返ることは出来ない。
「……悪いが、俺は東城会に戻る気は―」
「そうやない。まあ、それもワシの望んでることですが―こっちこそ、それだけやないんですよ」
掴み上げられていた手が不意に離される。しかし近付いた距離はそのままで、渡瀬は伸ばした手を桐生の首元へと回した。皮の厚い掌が、体温を分ける。
「あんたの生き様、生き方―近くで見たいいうんは、言うてもええでしょう?」
指先が柔らかく皮膚に沈み、滾る血流を確かめるように滑る。優しさすら込められたその動きに、桐生は渡瀬が告げたその意味に辿り着く。
「惚れたっちゅうのは、そういう意味です」
親指で桐生の顎を持ち上げ、渡瀬は呟いた。そして駄目押しとばかりに告げる。
「これやったら、ワシもあんたを見る。過去の人間やない、今目の前で生きる、あんたの姿を」
曝した無様を、丸ごと全て飲み込まれるような錯覚に陥っていた。戸惑いよりも先に、その恐ろしい程の自然さに怯える。どう考えても違和感や拒絶しかない筈なのに、その瞳がそれを、まるで正しいことだと言わんばかりに引き寄せる。咄嗟に身を引きかけたが、渡瀬の反対の手に阻まれる。差し込まれた足に柔らかく下半身を押され、よろめく。ぶつかった傍らのベッドへ手をついて座り込むと、その荒事を詫びるように渡瀬が覆い被さる。
「逸らさんで」
先手を打つように言われれば、彷徨わせかけた視線を目の前に戻すしかない。渡瀬は唇だけで笑うと、その手を桐生の頬に触れさせた。
「本当に、鋭いんかずれとるんか分からんお人や。過去も今も無い―ワシは一片たりとも、あんたを諦めたことなんぞあらへんのに」
あんたはあんたや。せやから今のあんたを、どうしようもなく矛盾したあんたを、ワシに見させてください。
愛の告白のようなそれは今度こそ、確かにその意味のまま、桐生の心に分け入った。
互いに言葉も無く触れ合っていた。引き摺り合うように衣服を剥ぎ、その下にある生温く血の通う肌を求めた。
掻き立てるこの衝動が詰まる所、愛なのか情なのかすら分からない。あるいはまったく違う感情なのかもしれない。いずれにせよ渡瀬は桐生を求め、桐生も渡瀬を欲した。互いが焼き切れるような欲望を持て余しながら食い合う様は、それこそ武骨な闘いを思わせた。
やがて身体をぶつけるしかなかった行為を経て、渡瀬が桐生の身体を探り始める。細かい手順など知る筈がない。手探りで肌に触れ、粘膜を辿る。勢いのまま突き立てた歯が痕を残し、力を入れ過ぎた手が骨を軋ませる。快感よりも痛みばかりが先立つのに止められない。荒い息を吐き桐生が呻くと、それに誘われるように渡瀬が顔を近付けた。
「……っ、なん――」
言葉を遮るように唇が塞がれる。何の前触れも無く与えられる行為に、背筋がみっともなく震える。剥き出しの肌が擦れ合い、湿った温度が境目無く溶ける。鋭敏な舌先から広がるように身体が欲情で満たされ、腰が重く痺れた。
固く育ち始めたそこを擦り合わせる。まとわりつく粘液が落ち、尻の間まで滴る。唇を離した渡瀬は、そのまま桐生の首筋を食んだ。そして互いの体液に塗れた下腹部へ指を滑らせる。桐生は拒まなかった。荒れ狂う欲望を早くどうにかしたかった。
太く筋張った指が押し込まれ、喉が反る。身じろぐ身体を押さえつけるように首元を再度噛まれ、上擦った声が洩れる。渡瀬は焦れたように舌を打つと、桐生から身体を離して立ち上った。放り出していた鞄の中から徐にコンドームを引き摺り出す。桐生はそれを半ば呆然と眺めていた。
「……細かいんですわ、これでも結構」
あまりに自然に出てきたその袋を見つめる桐生に、渡瀬はどこか居心地悪げに言う。確かに少し意外ではあったが、最早気に留める余裕もなかった。
封を切ったそれから滑りを取り、濡らした指を潜り込ませてくる。込み上げる吐き気をも伴わせる圧迫感に息を吐く。そろそろと抜き差しされる歪な感覚が苦しい。それでも何とか視界を塞ぎその責め苦に耐えていると、押し広げていた指が抜け出ていく感触に目を開ける。
薄い膜を覆い被された渡瀬のそれが、広げた部分に擦り付けられる。渡瀬はもう一度桐生の身体へと圧し掛かり、仰向けの状態から膝を立たせる体勢へと変えた。尻が丸ごと曝されるその姿に、流石に居た堪れなくて顔を沈ませる。それが余計にあられもない様を煽って、渡瀬は堪らず擦り付けていた一部を強引に含ませた。
「う、……ぐ、あっ……!」
押し入られた苦しさに桐生が喘ぐ。息を吐く間もなく飲まされ、腰が逃げを打つ。もちろんそれは圧し掛かる渡瀬によって躱され、動くことも出来ない。引き攣れる肉の感覚。しかしそれ以上に中へ中へと侵食するその熱さに慄く。内臓を押され、粘膜を抉られる。悪寒にも似た震えが走ってどうしようもないのに、興奮はじりじりと熱く高まっていく。
全てを収めた渡瀬が、背後で深く息を吐く。桐生の萎え切った部分に触れながら、反対の手で俯く顎を捕えて上げさせる。
「熱い、なあ……桐生はん」
耳元を撫ぜる声と共に、内部に収まるそれが熱く脈動するのをはっきりと感じ取る。握られたそこは徐々に固さを取り戻し、先端を湿らせる。渡瀬、と堪らず洩れた名前に滲むのが、懇願か恐れかも分からない。ただそれすらも渡瀬には興奮を煽る材料となるようで、緩やかだった動きが一気に激しくなる。
「見せて、下さいや……」
熱い息に混じり、渡瀬の声がする。顎を支えていた手が唇に触れ、指先が口内へと入り込む。桐生は堪らずそれに噛み付いた。腹の底で燃え盛る鋭利な欲望を込めて、その指に歯を立てる。貪り、貪られる。互いの身体を隙間なく犯して果てようともがく。薄暗くも眩暈がする程の愉悦に、何もかもが黒く塗り潰されていく。
「あ……っ、ぐっ、う、わた、せ……!」
搾り取るように擦られ、せり上がってくる快楽の波に捕まる。まずいと思った時にはもう遅く、包み込まれた手の中にぬるつくそれが吐き出される。達した直後で痺れるように重い腰を抑えつけられ、声も出せない。はちきれんばかりのそれが内部を圧迫する。固い骨がぶつかり合い軋む。圧し掛かる男の存在が苦しい。苦しいのに貪らずにはいられない。こんな方法に及んでまで互いを認め合おうとする愚かさに目が眩む。投げ出されるように一気に上り詰め、やがて全ての感覚が降下していった。
無意識に腹へと手が伸びるのを、渡瀬はじっと、気遣うように見ていた。
傷など開くわけがない。痛みだって、とうに無くなっている。それでも万が一と考えずにはいられないような、散々な有様ではあった。乱れ、汚れきったベッドから離れ、シャワーを浴びた身体のままもう片方のベッドに腰掛けていた。渡瀬は閉じられていたカーテンを開け、すぐ傍の椅子へと腰を下ろす。闇の中に煌めく光を追いながら、その横顔がふと感慨深げに呟く。
「東京へ来るんも、暫くは無いやろなあ」
その言葉に、桐生は無意識に顔を上げていた。驚いたような、予期していたような、複雑な感情がない交ぜになる。その葛藤を察したように、窓を向いていた渡瀬が振り返る。
「せやかて桐生はん、東京にはおらんのでしょう。これからどないするにしても」
逆に問いかけられるように言われて、桐生は押し黙った。確かに東京に留まる可能性は低いだろう。しかしその、向かう理由が殆ど自分にあると間接的に言われればどうしたって言葉に詰まる。先程の行為を含めた所で、戸惑いは拭いきれない。
男との関係は歪だ。渡瀬が燻らせる煙草の煙を追いながら、桐生も自らのそれに火をつけ、問いかけにもならない言葉を吐き出す。
「お前は……」
「ワシはそら、大阪です。大阪から、あんたのこと追っかけとりますよ」
「どこへでもか」
「そらもう、どこへでも」
単なる言葉遊びだった一端を捕まえられてやり返され、思わず笑みがこぼれた。煙草を銜えた渡瀬の唇も、緩く弧を描く。先程の荒れ狂う波のような空気は去り、今はただ、笑ってしまうほどの穏やかなそれに包まれていた。桐生は唇から煙草を離し、煙と共に抑えきれない笑いを吐き出す。
「―馬鹿馬鹿しいな」
「阿呆ですよ、最初から。アンタも、ワシも。だからワシはあんたのこと、引き摺り出したかったんや」
渡瀬が立ち上がり、近付いてくる。手にした煙草をベッドサイドの灰皿へ押し付け、桐生の目の前に立つ。
男は存外優しげな手つきで桐生の頬に触れる。引き寄せられるかと身構えるがそうではなく、逆にその顔が近付いて囁く。
「覚悟、しといて下さい」
何を、と問いかけることはしなかった。恐らく言った当人も、その意図の行く先を理解している訳ではない。不確定な未来の中、今日のこんな出来事すら、あっさりと埋没させてしまえるような脆い世界だ。だからこそ渡瀬は告げた。手をかけたその身を、逃がすことは無い。過去にはしない。どんな形であれ、いつかは必ず落とす。そんな思いを込めて。
「ほな、暫しの別れを」
「ああ―」
日が完全に昇る前に、渡瀬は東京を離れるべくホテルを出た。桐生もそれを見送り、まだ薄暗い外へと足を踏み出す。
暫しの別れ―そう言った言葉が、現実になるかどうかは分からない。もしかするとこのままずっと、再会することなく過ぎていくのかもしれない。それでも未練は無かった。
「生きる理由にしろ―」思い出されるのは、渡瀬が言ったその一言だ。その言葉がある限り、男は桐生を心に留める。桐生も、恥じぬ生き方をと心に決める。
それはどこまでも愚かな追いかけ合いだった。交わらない平行線を強引に結び、繋ぐ。しかしそれに悲観することは何もない。桐生は渡瀬が去った方向を見つめる。
今も昔も無い、そう言って全てを暴き、受け入れた男の顔を目に焼き付ける。そして一夜、まるで血を分けたように交わった男の言葉を深く、心に刻みつけて思う。言わなかったその一言を、思う。
―覚悟なら出来ている。だからいつかまた行く道が、寄り合う時が来たのなら、その時は。
白み始めた空を仰ぎ、眩さに目を覆う。そして桐生は渡瀬が行った道に背を向け、もう二度と振り返ることなく歩いて行った。