水鏡

 

 私はその日、いつもより遅い下校時間に焦りながら一人帰っていました。
 日は完全には落ちていませんでしたが、辺りは薄闇に覆われ、少し不安を抱いていたのです。あまり遅くなると家族――特に兄が、過剰と言える程心配をするので、それも私の足を急がせる誘因の一つでした。
 その女の子も一人でした。私は彼女を見た時、何となく不思議な感覚を覚えました。何が、と具体的には言えません。だけどその子を見て何故か、気持ちがざわめくのを感じたのです。

水鏡

「あっ、あの、えっと……あなた、」
 正面から歩いてきたその子に、私は思わず声をかけていました。 それは本当に咄嗟の行動で、何か理由があったかと言われれば言葉に詰まります。
 だから私は内心自分の行いに混乱しながらも、どうにか取り繕わなければいけない。そんなことを考えていました。
 声を掛けられた彼女は、少し俯き気味だった顔をゆっくりと上げました。その顔は涼やかで、細いフレームの眼鏡が彼女の凛とした魅力を際立たせていました。
 彼女は私をじっと探るように見ました。突然呼び止められたのだから無理もありません。人通りもそれほど多くない中、それでも抵抗なく立ち止まってくれたのは思うに、私と彼女が着ている制服が同じものだったことが一番の理由でしょう。
「あなた、その……PK学園の、生徒……よね?」
 言ってから私は、何て下らない質問をしたのだろうと後悔しました。案の定彼女は何も言いません。本当に、私にあるまじき失態です。
 ――いえ、それを言うなら今日の私は最初から、らしくない行動をしていました。知り合いでも、見覚えがある訳でもない同じ学校の女生徒に、突然声を掛けるなんて。それもただ、何か不可解な感情を覚えたという理由だけで。
 私は必死に次に続く言葉を探してしました。彼女の瞳は、未だ私を見続けています。やがて彼女はふっと視線を逸らすと、黙ったまま頷きました。心なしか、彼女を覆う拒絶を含んだ空気が薄れたようで、私はそれに心からほっとしました。とにかくこれ以上、おかしな行動をする前
にと、私は何でもない風を装いながら彼女に微笑みかけます。
「突然ごめんなさい。あなたも一人で帰ってる様子だったから、お互い気を付けましょうねっ
て、それだけなの」
 少し違和感は残るものの、私はそれに構わずきっぱりと言い切りました。彼女はちらりとこちらを見ると、私の言葉にもう一度小さく頷きました。その反応に、私はまたざわりと波立つ感覚を覚えました。 言葉にならないそれは、既視感にも似ています。けれど私は彼女に見覚えはありません。私はじっと彼女の顔を見ました。
 伏せがちの瞳が何かを思い出させます。やがて私ははっとして声を上げそうになりました。私が想起したもの、覚えた不可思議な感覚、それらを繋げる人物の顔が頭に浮かびます。私は何故か彼女に――通りすがりの、名前も知らない女の子に、その人と似た何かを重ねていたのです。
「斉、木……」
 こぼれた名前に、私は慌てて口を閉じましたが、彼女は私に鋭い視線を向けてきます。私は促されるように勢いのまま、気付けば言葉を続けていました。
「あ、あの、違うの。知り合い……友、達に少し、雰囲気が似ている気がして」
 彼女の静謐な瞳に、私は覆い隠した言葉をも見透かされているような気さえしていました。 けれど彼女は相変わらず黙ったままでした。私はもう全てが恥ずかしく頭の中もぐちゃぐちゃで、居ても立ってもいられない思いでした。 何でもいいからこの場を離れてしまいたい、離れてしまおう。思っていたその時です。黙っていた彼女の表情にふっと、笑みのようなものが浮かんだ気がしました。彼女は私に向かって会釈だけすると、動けない私をそのままにすれ違い、去っていきました。
 私はぼんやりと、その場に立ち尽くします。 見間違いかもしれない。そう疑ってしまうようなささやかな変化でしたが、その笑顔はどこか、包み込むような暖かさを抱かせるものでした。私はじわりと胸の内が熱くなるのを感じます。懐かしいような、切ないような、奇妙な感覚でしたが、とても心地良い温もりでした。
 私は彼女に別れの挨拶をしていないと思い出し、振り返りました。
 けれどそこには誰もおらず、日が落ちた後の涼しい風が吹いているだけでした。 私は瞬きをしてもう一度目を凝らしましたが、前にも後ろにも彼女の姿はありません。火照った頬を持て余しながら、私は溜息を吐きます。
 さようならと、最後にそれだけでも伝えたかったのですが、仕方ありません。それに互いに同じ学校の生徒なのだから、また会う機会もあるでしょう。私は彼女の顔を思い浮かべようとしましたが、何故かちらつくのは彼の――ある彼の顔ばかりで、また頬が熱くなるのを感じました。
 私は小走りで家へと急ぎます。家族に心配をかけますし何より、今の様子を誰かに見られるのは、とても耐えられないことだと思っていたからです。
 次々に思い出される男の顔を払い除けながら、私は一目散に家へと駆けて行きました。
 その日のことは結局、誰にも言っていません。彼女のことを、誰かに尋ねることもしませんでした。
 そしてそれ以来、私がその女の子に会うことも、ただの一度もありませんでした。

 もしもう一度、彼女に会えたら。彼女の名前を聞いてみよう。私はそう密かに、思い続けているのです。
 彼に似ているようでどこか違う、不思議な魅力を持つ、その子に。 けれど何となく、それは叶わない気がしていました。
 確かに記憶にある筈の彼女の顔。けれど思い出そうとするとそれは何故か遠く、蜃気楼のようにぼやけて、霞んでいってしまうのです。
 もう会えないかもしれない。それでも私は彼女のことを、すべて忘れることはありません。
 彼女が返してくれた笑顔、それは忘れても、含まれていた胸を締め付けられるような優しい暖かさ。それが胸の中にある限り私は覚えています。あの不思議な女の子と、出会った帰り道のことを。