観たい映画があるんだ

 

 呼び出しは一回。相手は大抵それで来る。
 人を使っていた時もあったが、 苦い経験を経て今はポケベルを鳴らしている。揉めることもなく、気楽でいい。
 一歩引いてみれば容易く理解出来た。あの時は結局、そうやって何かしら人と交わることを求めていた。金や権力に群がる人間を侮蔑しながらも、他に方法を知らなかった。 あるとも思っていなかった。


 金曜の夜の劇場前は人で溢れている。 といってもまだ宵の口で 、学生の姿も見える。
 飲み屋の客引きが景気良く叫ぶ割引額を聞きながら、俺は学生服のポケットに入れた煙草に手を出しかけて止めた。
 待ち人はそろそろ来そうな気がしていた。

 予感通り程なくして、壁にもたれて立つ俺の目の前に、グレーのスーツと白い靴先がちらついた。
「またですか、若」
 相変わらず、代わり映えのしない文句が少し上から降ってくる。
 次もきっとお決まりの言葉だ。
「何で俺なんだ」
 いっそ様式美じみたそれには答えることなく、黙って壁から身体を離す。
 見上げた眉間にはくっきりと皺が刻まれており、実年齢よりずっと気迫に満ちた威圧感を抱かせる。
 しかしその見た目ほど取っつき難くないことを、俺は知っている。
「行こうぜ、桐生さん。今なら一本早く観られる」
 それだけ返して、有無を言わさず歩き始める。溜息交じりで追いかけてくる所までが、一連の流れだ。


 チケットを二枚、それと飲み物。いつも通り付き合わせて、座席へ座る。
 客の入りはそれほど良くはない。埋まって半分といったところだろうか。それでも、公開からかなり経過していることを思えば上々だった。

 蒸し暑さを覚えて、氷がこれでもかと入ったアイスコーヒーを啜る。
 まだほんのりと明るい劇場内は、 入ってくる人の気配で雑然としていた。手にしたままだったチケットの半券を、俺は何の気はなしに眺める。

 アメリカで製作されたアクション映画。二作目っていうのは殆どが 駄作なんだ――前の席の男が、随分とでかい声で講釈を垂れている。
 その知ったような口調が癇に障って足を上げたくなる。けれど実行はしない。
 後ろから蹴り付けたところでその不快感は無くならない。否応が無しに並べられ、比較される胸糞の悪さはどこまでも追いついてくる。それに隣に座る男がいる以上、ガキ臭い真似も素振りも見せたくなかった。
「若も飽きねえなあ」
 手持無沙汰に同じくアイスコーヒーを飲んで、その男が呟く。カップを掴む骨太の指は、まとわりつく水滴で濡れていた。
 俺はそれに目を向けた自分の胸中に何となく居心地の悪さを覚えて視線を逸らし、男の顔を見た。
「若はやめてくれって。大体飽きるも何も、毎回違うヤツ観てんだから関係ねえし。いいだろ別に。映画くらい好きに観させてくれよ」
「それはそうだが……俺が毎回付き合うというのもどうなんだ」
「一人でうろついて厄介事に巻き込まれたくねえんだよ 。うちのやつに絡まれるのも面倒くせえし」
「ならもっと早い時間を選ぶとか、他の年の近い奴を呼ぶとか――」
「そろそろ始まるぜ 」

 不毛な会話をさっさと切り上げ、スクリーンに集中する。男はもの言いたげに暫くこちらを見ていたが、やがて諦めたように息を吐き、前に向き直った。


 映画の出来はまあまあだった。照明がつき、緩んだ空気の中で、俺は大きく一息吐く。
 明るくなった途端早速始まる前の男の講釈にそれほど苛立たなかったのは多分、その前に見た隣の顔が、満足そうに和らいでいたからだ。
 口実半分とはいえ、せっかく同行させる以上、少しでも楽しんでもらいたいと思っていた。
 少しでも楽しんで、笑顔に――そこまで考えたところで、そのむず痒い甘さに気が付いて硬直する。

 座ったままざわめく客の中で動かない俺を、男が伺う気配がしている。
 俺は溜息と共に行き場の無い劣情を逃がして立ち上がった。掴んだ紙のカップに、不要な力が入って派手に歪んでいた。

 外は暗く、街にはいよいよ繁華街特有の喧騒が広がりつつあった。
適当に帰ると言う俺に構わず、男はタクシーを捕まえて一緒に乗り込んできた。
「結構良かったな」
「ああ」
 車内で交わす言葉には普段のような軽さはない。 無論、そんな風に意識しているのが俺だけだという事実を自覚はしている。
 それでも先程よりずっと狭い空間で肩を並べながらも、運転手という他人を挟んだ特殊な状況が、じわじわと俺の意識を混濁させていた。

 刻まれていくメーターに向けていた視線を逸らし、窓の外を睨む。
 速度を上げて遠のく神室町。光り輝くネオンから離れた薄暗いその路地で、俺は昔隣の男に弱い心をぶん殴られた。
 甘ったれて腐りかけた心の臓を捻り上げ、前を向かせられた。
 かっと燃え盛った熱は痛みと共に俺を蹂躙した。怒り、反抗、虚栄心。そんな感情の揺れは男の心からの言葉に身を潜め、張り詰めた糸を緩められ思わず涙を流した。
 
 あの時のことを思い出す度、 俺は普通でいられなくなる。
 自分自身が緊迫した状況であったにもかかわらず、俺の背中を押し出そうとした男。
 それこそ一つ間違えばあれから一生会い見えなかったかもしれない男。そんな事実が交互に俺を苛んで離さない。
 何としてでも男が認める男として向き合いたい。そんな言い知れない焦燥感に身を焦がしながらも、すんでの所で踏み止まっている。

 窓から視線を剥がして隣を伺う。すると同じように神室町を眺めていた男と目が合った。
 普段の鋭い目付きとは全く違う、どこかぼんやりとした視線が神室町から俺に移る。その時、 何とも言えない不安を覚えて息を飲んだ。

 あんたはここにいるんだろう、なあ。これからのあんたはここに。多分ずっと。

 そう問いかけたくなる衝動をぐっと押し止め、口の端で小さく笑う。つられるように笑い返した 男に頷き、深く息を吐き出した。


 家から少し離れた路地に、タクシーは緩やかに停車する。律儀に合わせて降り立った男に近付き、軽く頭を下げた。
「ありがとう」
「ああ」
「じゃあ、桐生さん。またな」
「――また、か」
 付け足したその言葉を、男は含みのある言い方で繰り返した。 暗がりの中でも、その表情が変化したのが伝わってくる。
「何で俺なんだ――本当に」

 呟かれた言葉と共に、戸惑いを含んだ唇が歪む。
 向けられているのは類はどうあれ、明らかな好意であるにもかかわらず、 鋭い視線がまるで入り組んだ路地に迷い込んだように揺れる。
 そう、これは明らかな好意だ。それがどんな性質のものであろうと、客観的に見れば俺がこの男を特別に好ましく思っているからという事実には変わりがない。
 そんな分かり切ったことにいつまでも気付かないこの男が忌々しく、そして同時にどうしようもなく愛おしかった。
「……また、だ。桐生さん。俺はあんたがいる限り呼ぶからな」
 はっきりと言葉にして告げる。男は未だ戸惑いを絡めた視線を向けていたが、やがて観念したとでもいうように首を振った。


 呼び出しは一回。相手は大抵それで来る。人を使っていた時もあったが、 今はポケベルを鳴らしている。
 その人との間に、他人を介在させたくなかった。

 劇場前で待つ俺は、やってきた男に言う。男はまた呆れたように、同じ質問を返す。
 けれど拒むことはしない。 その隙間に入り込む言葉を繰り返しても、何かが変わる可能性は低いかもしれない。
 それでも俺は止めない。逃げないことを教えたのはその人自身だ。
 少しずつ、許される限り何度でも、あんたが特別だと告げてみせる。何度だって。


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