Magie

 

 しなやかな手がナイフを操る。指先から細やかな糸が紡がれるように、食材が彩りを増していく。
 魔術師と呼ばれる男の手はまさに魅惑と神秘に満ちていた。彼の前では何物もそのマジックにかけられるしかなく、人々はただ魅了され感嘆する。
 そう、彼の目の前に曝されれば最後、抗う暇など与えられない。食材も――人も。

Magie

 連れて来られた一室で、彼は物珍しげに辺りを見回しながらソファへ腰かけていた。日本にいる間だけの住まいは簡素で、必要最低限のものしかない。
 それでいてその全てにどことなく、主の気に掛けるセンスが光っているようで、その人らしいと笑いがこぼれた。
「何だ」
 いつの間にか近くにいた部屋の主に、不機嫌そうな声で尋ねられて振り返る。
 手にしたグラスをテーブルの上に置くと、彼は眼鏡の奥の瞳を鋭利に細めて思惑を探ろうとしてくる。
「――いや、何つーか、四宮先輩だなと思って」
「あ? 何がだ」
「部屋の感じとか、空気とか。あと何か、匂いみたいなのが。四宮先輩がいるんだなって」
 彼の答えに、ふと射るような視線がより鋭くなった。その微妙な変化を敏感に感じ取る前に、男はすっと彼の隣へと座ってきた。
 足が触れ合う程の近い距離に深く腰掛け、背凭れに体重をかける。ほんの一瞬、自然な動作で回された腕に、肩を引き寄せられる。まったくもって無駄の無い、絵になる姿だった。
「……口、開けろ」
 相変わらずの尊大な物言いだが、少し潜められた声には妙な甘さがある。
手つきも、言葉も、普段とそれほど変化が無いように見えるけれど、端々に滲むのは馴染みの薄い柔さだ。
 だからこそそのほんの少しの緩みに誘われるように、従順に口を開いてしまう。 伸びた指が顎に触れる。滑らせながら何度か撫ぜられ、親指と人差し指が唇をとらえる。間の抜けた姿のまま放置されて居心地が悪い。
 焦れを察したのか、男が笑いを込めた吐息をこぼす。からかうように唇を抓まれ、思わず非難めいた視線をくれてしまう。また笑う気配がした。
「堪え性が無いな」
「……先輩の手が遅いんじゃないっすかね」
「時間をかけて汗をかかせるからな」
 憎まれ口をそつなくかわして、彼は開かせた唇に人差し指を含ませた。下唇の内側をぬるりと辿り、支えた顎を上向せる。さながら、吟味するような仕草だった。
「舌出せ」
「は……?」
「いいから出せよ」
 有無を言わさぬ口調に躊躇いながらも舌を出す。犬のようなその様子が滑稽で嫌になるが、そうさせた張本人は至極満足気だった。
 添えられた指が舌に触れ、思わず身じろぐ。その隙を逃さず僅かに緩められた唇が近付く。息する間もなく絡めとられる。
「……っ、ん……!」
 一息で飲み込まれたそれは、同じように尖らせた舌に迎えられる。呼び込まれた先は男の支配下だ。存分なもてなしをと言わんばかりに丁寧に噛まれ、吸い付かれる。
 顎と肩、二点を捕えられ身を引くことなど到底出来ない。燻っていた熱が上がる。与えられる真新しい快感に脳が焼ける。
「う……っ、は、あ……」
 一度唇を噛まれて漸く解放される。熱くこもった息を吐き出して見上げた男は、やはり取り澄まされた表情のままだった。
 それでも触れ合せていた部分だけはしっかりと濡れていて背筋がざわめく。男は眼鏡を外し、丁寧に畳んでからテーブルに置く。そして今までの手つきとは正反対の荒っぽい所作で、眼前の年下の男をソファへ押し付けた。
「ちょっ、先輩……なんなんすか!」
「落ち着きの無いガキに合わせてやってるんだ、感謝しろ」
「んなこと言ってるけど、単に先輩の方が限界なんじゃ――」
 言いかけた言葉は、腹の辺りに触れた手の感触で遮られた。殊更ゆっくりと動く指の動きに喉が鳴る。先程の行為で煽られた熱を、的確にその身へと馴染ませる動きに、最早身体の全てを知り尽くされているような気さえしてくる。あながちそれは、言い過ぎでもないのかもしれない。
 見下ろす男の視線は冷たさと熱がない交ぜになっている。そうはっきりと分かってしまう、剥き出しの瞳に曝されて、逃れられる訳がない。
 最初のキスで、否、部屋に入ったその瞬間から、既にその術中に嵌っていた。むしろもう、その背に敬意以外の感情を抱いた時から、ずっと。
 葛藤が少なからず伝わったか、男は首元を緩めると、息を飲む程の生々しい艶を含んだ笑みを浮かべて告げた。
「確かにきてるがな……お前の方も出来上がっているだろう?」
 自信に満ちたその言葉は確かに、否定する余地もない。何故ならそう仕立て上げたのは全て、この男の手だからだ。
 そんなことは互いに分かり切っている。それでも何となく素直に肯定出来ずに固まる。どうしても何か言ってやりたくなる。料理と同じだ。やられっ放しは性に合わない。
「どう、っすかね。確かめてみればいーんじゃないっすか」
 男は唇を吊り上げると、不意に曝された首筋に顔を埋めた。表情が伺えないまま、唇が薄い皮膚に触れる。
 むず痒いようなそわそわとした感触に堪えていると、軽い口付けの後に小さな声が聞こえた。
「……どうにも眠りたくないらしいな、幸平?」
 押し殺した低音にじりつく欲と、重ねられた名前に血が滾る。その瞬間止まっていた動きが全て再開され、瞬く間に手が衣服を乱していく。
 あとはもう、されるがまま熱に浮かされるしかない。料理を挟まない以上、この年上の男に翻弄されるしかない。ただそれでも、その手つきに所々混ざる焦燥に、彼もまた一人の男としてここにいるのだと窺い知ることができる。煽り立てる仕草はさながらマジックだが、根っこの部分は結局の所本能のぶつかり合いだ。
 その唯一の対象である彼は小さく笑い、与えられる感覚に意識を向けていく。
「先輩」
「……何だ」
「こうしてる時の先輩何か、いいっすね」
 思ったまま口にしたそれを聞いて、埋められていた顔が持ち上がる。男は至極複雑な表情を浮かべたまま、へらりと笑う唇を塞いで黙れと甘く囁いた。

 ――見上げてくる瞳に耐えられず顔を背けようとするが遮られる。最初と同じ、顎を掴んで捕える様に、また剣呑な視線を向けてしまう。
「……そうだ、それでいいからこっち、見てろ」
 皮肉を言われるかと思いきや、存外柔らかくそう返されて戸惑う。しかし間髪入れずに内部を強く圧迫されて反射的に背が反り返った。
 男は膝に乗せた身体を揺さぶりながら、裸の胸元に唇を寄せる。
「ん……っ、あ、あ……っ」
 決して激しくない緩やかな動きだったが、先が読めずに振り回される。頭を振ってどうにかやり過ごそうとするものの、顎をとられている所為でそれも出来ない。
 男の視線がじっと刺すように向けられているのも、正直堪らなかった。それでも解放を請うべく視線を合わせると、男は何故か苛立ったように舌を打ち、唇を重ねた。
 次第に上り詰めていく気配に息が上がる。体液と汗で滑る身体に縋って、縋られる。込み上げる欲に薄く目を開くと、こちらを見る瞳と真正面からぶつかった。

 その瞬間、一際強く追い上げられ、衝動のままに熱を吐き出す。それからすぐに下腹部に広がる違和感に、中で膜越しに達したのを感じる。
 自分と、相手と、全てが曖昧になる飽和した空気の中で、どこかひりつくものを感じて男を伺う。向けられる視線に苦々しさを一瞬滲ませた男は、それを誤魔化すようにもう一度口付けた。 恐らく、いや絶対に、本人の口から聞くことは無いだろうが一つ、察したことがある。 手慣れた所作で陥落させるその人にも弱点は存在する。
 例えば、真正面から見られることといった、魔法とはお世辞にも言い難い単純な仕草、だ。