ロンググッドバイ
この夜が、並んで過ごす最後の時間になる。 ふと込み上げるその不似合な感傷を持て余して、四宮はうんざりしたように深く息を吐いた。
夜も更け、盛り上がるホールとは正反対に静かな厨房には、湯気を立たせる食材から湧き上がる音しかない。その微妙な変化を見逃すまいと、目を細めて見入るその男と
二人、料理の改良を続けている。 与えられた時間を最大限に使い、得られる全てを身にしようとする様は鋭く、研ぎ澄まされた圧を感じる。
しかしその瞳の奥は自らの知り得ないことに対する好奇心、何よりそれを探究出来る純粋な喜びに満ちていて眩しい。
盗み見ようとした視線を存外長く留めてしまって、向けられた相手が気付く気配を感じた。それでも彼はこちらを見返すことなく、手元に目を向けている。
取り繕うのも癪で、そのまま様子を伺う。言葉は無い。磨き上げられたステンレスに白い袖が映る。結局からかいそびれてしまったその装いもこれまでだ。そんな余計な思考がまた、漂う空気に行き過ぎた感情を運んでくる。
惹きつけられていた。滲んだそれが伝染したのか、はたまた別の要因か、何れにせよ向けられる視線に少しずつ、何かが混ざり始めるのも感じていた。
ただしそれは気配に過ぎない。執着とも、固執とも呼べるような、それでいてどちらでもないような変化。相手と自分にしか分からないような僅かな差異。
互いに求めるものを追いかけ、向き合った結果の、ほんの一時的な作用。しかし名前をつけてしまえば、決定的に根本を変えてしまう、情。
四宮は視線を彼から逸らし、調理を進める彼の手を追いかける。躊躇わざるを得なかった。進む道は交わることなく伸びているのに、どうして立ち入る気になれるというのだろう。言葉になど、出来る筈が無かった。その不相応な感情に重みを持たせてしまえば最後、欲してしまう。何から何まで。
しかしそれは叶わない。隔てる距離は遠く、立ち位置もまるで 違う。否、むしろ何より、とらわれるのが恐ろしかった。
たかだか15やそこらの男に気をやってしまうことに恐れを抱いていた。 既にそうはならないと笑い飛ばせる程余裕も無く、ほんの僅かな気の撓みで、引いた線を緩めてしまう予感すらあっ
た。 だから離れていてよかったと思う気持ちもある。物理的な距離はきっとこの、煮詰まった感情を薄めてくれる。
――それが本当に、一時の緩みであったとしたなら、なおさら。
繰り返した作業工程、アドバイス、その全てを身体に叩き込むように彼が息を吐く。時計に目を向けると、そろそろ朝日が昇る頃合いだった。
「もう朝っすか。最後の最後まですんません」
少し気を緩めた彼が頭を下げる。年相応の朗らかな笑みにつられて口角が上がるが、その言葉に気持ちを引き戻す。
「全くだ。せいぜいものにしろよ。半端な覚え方だったらただじゃおかねえ」
「うっす。でもホント、ここに来られて良かったっす、俺」
ボタンへと伸びる手を目で追いながら、四宮は次の言葉を待つ。
「一対一で、初めて先輩に出す料理が俺の、新しいゆきひらとしての最初の料理で、それに最後まで一緒に向き合えて――忘れようが無いっすよ、こんなの」
そう言って胸を張る姿に、追いやっていた感情が徐々にこぼれて溶け出す。
きっかけを与えられた、初めての男。 そう改めて告げられて、どうしようもなく心を乱されている。それを何でも無いことのようにさらりと口にする彼。
しかしその言葉の奥には、彼なりの四宮に対する思いが含まれている。だから四宮は外されていくボタンを黙って見届ける。
「……お前に日本を離れる気が無くて良かった」
それでも少しだけとやり返す。その意趣返しにも、彼は笑って返してみせた。
「俺は正直――ちょっと寂しいっすけど。四宮先輩が戻っていくの」
毒気の無い笑顔に見上げられ、流石に舌を打つ。 珍しく可愛げのある言葉だがしかし、今は焦燥を煽るものでしかない。
「てめえ、そこまで言って言わねえのかよ」
「先輩こそ」
「……本当に癖の悪いガキだな」
吐き出した苦味も、結局はお互い様だと己に戻ってくる。分かってはいたが口にせずにはいられなかった。
四宮は滞留する空気を一掃するように調理場を見回し、最後に彼の顔を見て訊ねた。
「やり残しはもう無いな」
料理に向けての言葉だったが、口にするとその端に拭い切れない憂いが滲んだ。彼は一度、ゆっくりと頷くと、躊躇うことなく背を向けた。
一歩踏み出しかけてふと立ち止まる。
「四宮先輩」
振り返った彼はやはり笑顔だった。その表情のまま、彼は小さく頭を下げて言う。
「本当、お世話になりました」
告げられる言葉には感謝と敬意しかない。しかしその、伏せていた顔がこちらを見た時、覚える楽しみを隠し切れない瞳と同じように、覗いた感情を見出してしまった。
「幸平」
一度だけ手を伸ばす。近付いてきた手に彼が何事かと身構えるが、そのまま垂れ下がった手首を掴み、指先を握った。
温かい体温が徐々に混ざるように伝わってくる。
「なん、すか」
「挨拶だ」
「挨拶って、四宮先輩こういうことするタイプじゃ……」
「うるせえ。ったく、ガキはガキらしくそのまま甘えとけ。妙な気使ってんじゃねえよ」
戸惑いをにべもなくはねつけて、少しの繋がりを保つ。掴んだ指をしっかりと絡めとる。
高みへと抗い続けるその手はきっとこれからも、なりふり構わず突き進んでいくのだろう。己のそれと、同じように。
「次は、言わせろ」
いつになるか分からない、ともすれば訪れないかもしれない未来を、それでも自然に口にす
る。
ただ一つ、今はっきりと確信したことがあった。この先どんな道を歩み、違えようとも、次に彼と顔を合わせた時は――きっと、何の遠慮も持ち合わせていないだろう。
今は離れてしまうこの指先を、引き結んで離さない。二度目はもう、離すことが出来ない。
「……じゃあ、その時までにはもう一つ、"師匠"以外の呼び方を考えときますんで」
「それを改める気はねえのかよ」
「やーそこはちょっと譲れないっすね」
「やっぱり可愛げがねえな」
「先輩は意外とそうでもないっすよね」
「黙れ。お前覚悟しとけよ、この俺のスケジュールを抑えたんだ。相応の人間になってなかったら承知しねえ」
「うす! ――荷物、まとめてきます。ありがとうございました、四宮先輩」
彼の言葉を合図に、繋がりを解く。失われていく体温に悔む心は無い。 あるのはただ一つ、上り詰める頂への道だけだ。
突き放し合った背を互いに向けて、夜は終わる。 子供じみた繋がりはけれど、忍び寄る喪失を埋める。もう振り返ることはない。 前を見据えて歩く。
その行く先にいつかまた、寄り合う日をおぼろげに思いながら、四宮は背中越しに扉が閉まる音を聞いている。
ロンググッドバイ/ふたたび見えるその日まで