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瞳が印象的だ、と初めに思った。
秋の強い風が周りの木立を揺らし、それに合わせて赤く色づいた葉がぱらぱらと待っている。
しっかり整えられたテニスコートには、落ち葉など一つも無く、柳生はシルバーフレームの眼鏡を押さえてコートを踏みしめた。
無駄な力の入っていない綺麗な姿勢のまま、しなやかに身体が伸び、サーブが放たれる。 深めに入った打球を相手が返す。今度はコートの手前をすくうようにして入ってきた。
前衛の彼が少し強めにクロスへと返球すると、反応が遅れた相手の後衛が真正面に打ち返してきた。
感覚的にその球を捉え、身体を動かす。相手の二人を真っ直ぐに射抜く。
「ゲームセット。ウォンバイ柳生、仁王。ゲームカウント、6-0」
柳生のそれが見事に決まり、試合は終わった。 軽く息を吐き、相手と握手を交わしてコートを出る。体温の上がった身体に、秋風が心地良い。
「お疲れ、柳生」
後ろからかけられた声に柳生が振り向くと、彼、ダブルスパートナーである仁王雅治がそこにいた。
「お疲れ様です」
「調子よさそうじゃの。俺もなかなかええ感じや」
顔にかかる銀髪をかき上げながら、仁王は満足そうに言った。前髪がよけられ、仁王の、特徴的な目元がはっきり見える。
瞬間、心が何故かざわついた気がしたが、柳生はそれを顔に出すことなく、微笑んだ。
「ええ。このまま全国まで頑張りましょう」
不敗の帝王と呼ばれる立海大付属中テニス部で、ダブルス1という座を得てからもう一月が経
つ。
個々のプレイスタイルや実力を総合的に判断し振り分けられた結果、ダブルス、そして仁王雅治というパートナーを持つポジションを得た。
ダブルスは元々不得意ではなかった。 自分のスタイルがそれ程我を出すものではないことを自覚していたし、性格的にも大方のタイプの人間となら合わせられると柳生は思っていた。
仁王と初めて会った時、瞳が印象的だ、と思った。 明らかに人工的に染め上げられた銀色の長い髪を後ろで束ね、どこか飄々とした姿勢で前に立つ男は、どうみても自分と正反対の人間だった。
けれど、彼の瞳。普段は前髪で隠されていて見えないその瞳を真正面から見た時、柳生は、何故か咄嗟にどうしようもなく追い詰められた気になったのだ。
コート上の詐欺師、ペテン師。そう呼ばれる存在だと知るのはまだ先のことであるのに、彼のその、まるで獲物を狙い定めるような、全てを見透かすような瞳に、瞬間的に恐れをなしてい
た。
どうしようもなく追い詰められたように感じながら、しかし柳生は、それ以上に彼に興味を抱いた。 彼の瞳。その何かを捉えて放さない瞳が、何を追っているのか。
そんな思いを抱きながら、柳生は差し出された手を握り返した。
この組み合わせに疑問を感じた者は少なからずいたが、彼らの予想に反して、柳生と仁王のダブルスは急成長していった。
初めは知らなかった仁王のその、詐欺師と呼ばれるに値する、トリッキーでイリーガルなプレイスタイルに、柳生が憤りを覚えたのも確かだった。
元来の自分の性格上、そういったスタイルを良しと出来なかったのだが、何度か言い合う内に彼の中にある揺らがないポリシーを知ってからは、ある程度許容出来るようになったのだ。
少しずつ、確実に互いを信頼していくことにより、二人のダブルスはどんどん群を抜いていった。
そして一ヶ月前、王者立海の正式なダブルス1として、その地位を確実なものとしたのだった。
昼休み、借りていた本を返すために、柳生は図書室へと向かっていた。
途中桑原と偶然会った。会話の中で入院中の幸村について聞き、また皆で見舞いにいこうと言い合った。 そういえば、確か幸村が読みたがっていた小説があった筈だ。
図書室に入り、返却棚に自分の本を返してから、柳生はその小説を探し始めた。
これまでも何度か、本を借りて幸村に持っていったことがあった。買って持って行っても構わないのだが、それだと幸村は気を遣うだろうし、何よりそれを理由に見舞いに行けることが大きかった。
負けは許されない。王として君臨する以上、生温い考えで貴重な練習時間を無駄にしてはいけないということを、皆知っている。
けれどそれでも、そうして幸村と繋がっていることも、立海テニス部にとって必要だと同じく皆思っているのだ。
まだ早い時間の所為か、昼休みといえど図書室には誰もいない。図書委員もまだのようだっ
た。
探していた本は、新刊の所にあった。手を伸ばそうとして、ふと、横からの視線を感じて振り向く。
「仁王くん」
仁王は低い本棚に凭れ、こちらを見ていた。開け放された窓の所為で、瞳は見えない。
「偶然ですね。どうしたんですか? こんな早い時間に」
「それ」
「え?」
いきなり手元を指差されて、柳生は戸惑った。手には、幸村の読みたがっていた本がある。
「お前が読むんか」
「いえ……幸村くんが読みたがっていましたので、今度渡そうかと」
「やっぱり」
強い風が吹き込んで、仁王の前髪を揺らした。覗いた瞳の鋭さに、思わず柳生は息を呑んでいた。
何故か分からない。分からないけれど、どこか剣呑な、凍りつくような雰囲気が、そこにはあった。
「優しいのう、比呂士」
言葉とは裏腹に、口調は冷たい。 いつの間にか立ち上がって真正面にこちらを見ていた仁王
が、一歩、一歩と近付いてくる。
じりじりと追い詰められる感覚。まただ、瞬間思い出すのは、彼の瞳だった。
初めて会った時から、彼の強い視線が気になっていた。練習、試合、学校。幾度もその視線を見かけるのに、未だにその正体は分からなかったのだ。
気付くとあと一歩の所まで、仁王が近付いていた。
「仁王、くん」
「誰にでも優しいもんな、柳生は」
ふっと柔く微笑んで、それから驚く程冷たい、声で。
「めちゃくちゃ気に入らん」
ぞくり、と背筋が震える。射抜く瞳が何を捉えているのか。分からない。
「嘘」
凍てつく空気が一瞬にして和らいだ。近付けていた身体を離し、そのまま立ち去ろうとする。
「仁王くん!」
思わず遠ざかる背中に向かって柳生が声をかけると、仁王は存外あっさり振り向いた。
戸惑う柳生の顔を眺め、そしてあの、人を食ったような笑みで言う。
「比呂士」
「え?」
「いつから俺、おまえのこと名前で呼んでた?」
それだけ言って、彼は柳生の前から去っていった。 前に一度、他校との練習試合の時に、対戦相手の一人に試合後因縁をつけられたことがあった。
その頃は仁王とのダブルスもかなり成長しており、丁度二人で協力してトリックプレイを仕掛ける、という戦法を試していた所だった。
前々から、そういう些細ないざこざはよくあった。騙しにかける以上、対戦相手の恨みもよく買ったものだった。
試合はこちらの圧勝だったのだが、試合後に「スポーツマンシップに反する」と、負け惜しみに近い物言いで相手に詰られたのだ。
その時輪をかけて叩かれたのは、仁王でなくて柳生であった。 試合中から軽いテンションで、トリッキーな姿勢をとっていた仁王よりも、徹底して健全で堅実なプレイをしていた柳生の方
が、目に付いたのだった。
最終的に両方がトリックプレイを行っていたことに気付き、相手はそのていを表していなかった柳生を集中的に責め立てた。
彼らは立海ベンチ、自校のベンチ、そのどちらもから離れた所で柳生を捕まえた。何を言われるか容易に想像はついたが、柳生はあえて逆らわなかった。
「詐欺だ」「汚い」、彼らの語彙はそういったものだった。 柳生は、何も言わなかった。事実自分が納得してパートナーである仁王の提案したプランに乗っかったのであるし、彼らの言い分は尤もであると思っていた。だから何も言わずに罵倒を受け入れた。その時だった。
「詐欺師? それ言うんなら俺じゃ。相手間違うとるのう」
誰もいないと思っていた茂みから、いきなり仁王が現れたのだった。 仁王は驚く相手の二人に向かって、言った。
「こいつは俺のペテンに乗っかっただけよ。あんなセンスあるプレイ、考えられんのは俺くらいじゃけえ」
言い返そうとする相手を遮り、仁王は唇の端を吊り上げて不敵に笑う。
「汚い? 言いたいだけ言うたらええ。何としても勝ったらそれええんじゃ。ペテンだろうと何だろうとテニスはテニス。コートの上で負けたんならおまえらは既に敗者じゃ」
「なあ、よう覚えとけや、『仁王雅治』 おまえらが詐欺師言うんは仁王よ。常勝立海大付属ダブルス1の詐欺師。口で生きてる詐欺師に口喧嘩売るたあ、おまえら覚悟出来とるいうことじゃ
ろ」
一瞬伏せられた瞳が、柳生を見た。おまえらのこと何ていうか知っちょるか、仁王は言う。
「Under Dog(負け犬野郎)」
仁王の気迫と口に負かされ、相手の二人はすぐにその場を逃げていった。
一度柳生の方を後ろめたそうにちらりと振り返ってきたので、口外するつもりは無いという意味を込めて首を振った。端からそんなつもりは無かったのだ。
焦りながら去っていく彼らの背中を見ている仁王に、柳生は言った。
「仁王くん、英語は真面目に勉強されてるんですね」
「――は? 何でじゃ」
「さっき、わざわざ英語でおっしゃったでしょう。「負け犬」って。だから英語はしっかりやってらっしゃるんだと」
「……あー、あれな。ポーカーよ」
仁王は一度ぽかんとした後、そうあっけらかんと言った。
「言わんかったか? 俺テーブルゲームは大概やっとるんよ。それでポーカーの「テクニック」をつけんのに色々調べとったら、「Under Dog」って用語が……ってちょっ、柳生!」
柳生は仁王の言葉を待たずにさっさと歩き出していた。慌ててその後ろを仁王が追ってくる。
「言葉自体は一般英語らしいのう。それで調べて知って……柳生?」
「だからそんな変わった言い回しを……looser、などでもなく」
「ルーザー? おお、それも何かで聞いたことあるわ!」
足早に歩きながら、柳生は頭を抱えていた。珍しく知性的な面を覗かせたと思ったら、これまたいかさまからなるものだった。「テクニック」とやらも、聞く限り絶対に正攻法では無さそうである。
「ちょっと格好つけたかったんよ」
「……そうですか」
「柳生」
いつの間にか隣に並んでいた仁王が、真っ直ぐ柳生を見ていた。先程の品定めるような瞳では無いが、強く何かを求めている瞳だった。
「何で否定せんのじゃ」
何を、と問う気も柳生は無かった。はあ、と一つ溜息を吐いて言う。
「だってダブルスでしょう」
ダブルスだから、二人で勝利していくものだから、その試合の全ては二人で背負うものなの
だ。 それだけ言って、柳生は歩き出した。
仁王も隣を歩く。何も言わないが、この答えにきっと満足している筈だ。
(貴方が私を探したように)
あえて言わなかったその続きも、きっと相手は分かっている。
後にも先にも、仁王が文句をつけてきた相手にやり返したのは、その時限りだった。 彼も策士と呼ばれるに相応しい頭脳と判断力の持ち主なのだ。余計な火種を点ける行動は極力避けていたのだった。
それからも何度か小さないざこざはあったが、次第にそれらを言い負かすだけの実力が、確固たるものになっていった。
そうして勝ち続けていく内に、彼と、自分の間に揺ぎ無い「信頼」が築かれていくのを柳生は感じ取っていた。 コート上の詐欺師はあくまでコート上のものだった。
周りには悟らせないように飄々とした態度を取っているが、本来の彼が堅実で思慮深く、実はそれほど意地の悪い人物では無いことに、次第に気が付いた。
だからこそ、信頼出来た。そして勝てた。
未だにその何かを求める瞳の行方は分からなかったが、その興味以上の感情を抱き始めていることを、柳生はもう否定出来なかった。 言葉では片付けられない。
けれど、確かにそれは既に好奇心の域から逸脱していた。 何故なら、
「比呂士?」
「っ、は、はい!」
突然声をかけられて、柳生は現実に引き戻された。テニス部の部室。ロッカーの前で、彼は着替えをしている途中だった。
「どうした? 手が止まっているようだが」
話しかけてきたのは、「彼」では無かった。 柳蓮二の伺う視線から逃れるようにして、柳生は慌ててシャツのボタンを留めながら首を振った。
「すみません、少し考え事を……」
「そうか。ならいいんだ。鍵を任せても構わないか?」
「ええ、分かりました」
気付くと部室には自分と柳の姿しか無かった。他の部員は既に帰ったか、或いは残っている者もそう多くないのだろう。
先程の考えを頭から振り払う。比呂士。名前を呼ばれたことで、昼休みの記憶が蘇った。
(いつから俺、おまえのこと名前で呼んでた?)
(あの時、)
勝った相手に文句をつけられた時、あの時が、最初だった気がする。 ダブルスだと、自分が応えた後に、「比呂士」、と――
否、確信は無かった。自分がそうであって欲しいと願っているだけかもしれないし、何一つ確かなものは存在しなかった。
分からない。仁王のことが? いや、 自分のこと、が。
柳が帰って行った後、着替えを済ませて柳生は部室の扉に手をかけた。 その間入ってきた部員は誰もいなかった。やはり皆既に帰ったのだろう。
ぐっと押し開くと赤々とした夕日が差し込んできて、柳生は思わず目を眇めた。 その時だっ
た。 突然自分の力と反して強い力で扉が開かれ、誰かがその身を部屋の中へ滑り込ませてきた。よろける柳生に身体を押し付けるようにしてその人物は入り込み、前に立った。
綺麗に染め上げられた銀髪が、夕日を透かせている。
「仁王、くん……」
声と、彼が後ろ手に鍵を閉める音が、重なった。
「帰ったんじゃなかったんですか」
「お前を待っとったよ」
身体一つ分空間を空けるようにして、二人は立っていた。 異質なものを感じていた。それは或いは空気だとか、雰囲気だとか、そういった曖昧なもの以前に、柳生が何度も見かけたそれがあった所為だった。
瞳、だ。
「どうして、」
「お前が好きじゃから」
嘘だ。 直感的にそう思ったものの、言葉が出なかった。柳生はただ、動揺していた。何に。仁王の言葉に。
心のどこかで、彼に肯定して欲しいと思っていたのかもしれなかった。出会って、ダブルスを組んで、勝利していく内に。 底の見えない仁王を信頼して、信頼したいと思っている自分を、同じように思ってくれているという、証を。
周囲には見せない弱い部分や、甘さを含んだそれらを自分だけに見せている。そう思ってい
い。そう言われたかった。 ざわつく感情に答えを見出した気がして、柳生は
小さく息を吐いた。何のことは無い、単純なそれだった。 自分は、彼が好きだったのだ。
「仁王くん」
「ん?」
「貴方が好きです」
十中八九冗談であるはずのその言葉に、馬鹿正直に応えてしまっている自分を、愚かだと思った。
自分のそれは恋愛感情のものだった。今までの自分ならば信じられなかっただろう。けれど柳生は、躊躇うことなくその言葉を口に出していた。 詐欺師のペテンがコートを飛び出して、一寸柳生に降りかかったのかもしれない。否、それでも良かった。彼の唯一が欲しかった。ずっと欲しかったのだ。
仁王の表情は変わらない。唇が、微かに動いた。
「知っとったよ」
声が、部室に響いた。
「え……」
また言葉を失った。知っていた。仁王はそう言ったのだ。何故? 自分ですら数分前に自覚したことを、何故彼が知っているのだというのだろう。
不意に仁王の身体が動いたかと思うと、彼はじりじりと距離を詰めるようにして柳生に近付いてきた。何かが記憶の中で交錯する。昼間の図書館での会話だった。
あの時のように、仁王は柳生を壁際にと追い詰めていた。とん、と背中が壁につくのを感じ
て、柳生は息を殺した。
至近距離まで近付いた仁王に、身体ごと押さえつけられて動けない。
「おまえが俺のこと好きなの、知っとった」
「な、ぜですか……!だって、私は今……!」
「自覚した。そうじゃろ?」
食えないあの笑みを浮かべて、仁王は囁くようにして言う。堪えきれず柳生が身じろぎする
と、束ねた仁王の銀髪が首筋を撫でて、ぞくりと背筋が逆立った。
「知っとるよ。知ってて当たり前じゃ、そんなん……」
「仁王くん――!」
「だって、」
「だって俺が、ずっとおまえを欲しかったんじゃから」
一瞬で、全てを理解した。 柳生が仁王と初めて会った時に感じた視線の行く先。それから何度も見るようになった瞳。
その向かっているものを知りたくて、彼に興味を持った。その視線の先にあったもの。仁王が捉えて放さなかったものが、まさか。 まさか、自分であるだなんて。
「ずっとおまえのこと見とったよ。ずっと。俺を、俺だけを見るようにならんかと、ずっと思っとった」
仁王の瞳は、すぐ目の前にあった。 息が触れ合う程の近い距離に、あの瞳がある。それは柳生を捉えて、揺らぐことは無い。 出会った頃から。
その唇が、次の瞬間に「嘘」と呟くかもしれない。呟くかもしれないのに、彼に触れようとする腕を止めることが出来ない。 嘘と言って欲しい。言って欲しくない。相反する感情が混ぜこぜになる。
触れられたら嘘でなくなるのだろうか。否、その嘘ごと欲しいと思う。とんだ浅ましさだと、鼻で笑った。
彼が嘘と告げるまで、あと、幾秒。
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