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 夢だ、とはっきり分かっているのに動けないのが何より気に入らなかった。
 噛み砕き乗り越えた筈の過去に、しつこく執着していると揶揄されるようで不快だった。
 そう、これは過去の夢だ。明かりの消えた自慢の店、その中で一人積み重なる悪評、負債を抱えて、苛立つ自分。向けられる落胆、失望、そして――敵意。
 美食の一等地に単身乗り込み、腕を上げる若き異国人を容赦なく吊し上げる不穏な感情。
 職人は孤独だ。しかしそれでも培った技術、磨き抜いたセンスには、誰しも信頼を寄せるものだと思っていた。その時までは。
 近付く、仄暗い悪寒。耳の奥で広がる声は、幻聴ではなく、自らの迷いの声だ。
 信用ならない。切り捨てるしかない。職人は孤独、分かっている。分かりきっている。
 耳鳴りがする。
「……っは……!」
 呼吸すら忘れたような閉塞感の中で目を覚ました。締め上げられた喉が広がり、急速に視界が開けていく。
 薄闇の中何度か瞬きをする。そうすることで初めて、暗がりに慣れた瞳が見下ろしてくる人間の顔を認識した。
「……なん、だよ」
 絞り出した声は、思った以上に拒絶をはらんだものだった。
 しかし彼はそんなことを気にも留めず、ただただ様子を伺うように、仰向けの顔をじっと見つめ続けている。薄く開いた唇から、抑えられた声が洩れ出した。
「何か寝苦しそうだったんで。変な夢でも見ました?」
「……何でもねえよ。いいから早く寝ろ」
「いやでも」
「何でもねえって言ってるだろうが」
 怒気を帯びた神経質な声が夜の静けさを裂く。
 流石に臆したのか、言葉を飲み込む気配に、気まずさと言い知れない無力感が押し寄せてく
る。
 聡い男は自らの葛藤すら気付いているのかもしれない。それが堪らなくもどかしかった。
 思いを寄せ合い、背中を預け合ったとしても、四宮は前を行く者だった。常に邁進し、その様を見せていなければならない。
 それは自身の料理人としての矜持であったし、四宮を慕う彼に対しての至上の愛でもあった。だから過去を省みて乱される自分を見せている現状に歯噛みしていた。
 それでもささくれ立った思いを言葉にして発露する免罪符にはならない。
 四宮は身体を起こして黙っている彼の頬に手を触れようとした。
 しかしそれを遮って、彼は浮きかけた四宮の身体を再度寝具へと押し付け、肩を掴んで横向きにさせた。
 空気に触れた背中に、彼が極めて自然に張り付く気配がする。 乾いた彼の体温が、汗ばんだ背中の熱を奪っていく。
 寝起きの体温をすっかり下げてしまうくらい、夜気に身体をさらして四宮を伺っていたのだ。
 途端に息の詰まるような愛おしさを覚えて、後ろ手に彼の手を捕まえて身体の前で握り込む。火照った身体と、冷めた身体が混じり合い、やがて心地好い温度に変わっていく。そんな当たり前の事実が少しずつ、四宮の心を凪いでいく。
 無理に言葉にしないのは一人の料理人として、四宮に敬意を表しているから。そしてもう一
つ、向けられる真摯な愛情を受容しているから。
 歩み寄り、歩み寄られた存在が、今は程近い傍らにいる。他人がいるから――傍らにお前がいるから、安らげる。前を見据えられる。
 言葉にしていないのに、それに応えるように絡んだ指に力が込められて、四宮はゆっくりと目を閉じる。
 行く先の見えない暗闇は、穏やかな夜の色に変わっている。
 昔の夢はもう見ない。結んだ手と導かれるのはおそらく、まだ見ぬ未来への開けた行路だ。