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 電話が繋がらない。
 一言で終わってしまう事柄はしかし四宮の心に重く圧し掛かっていた。

  日を置いて二件。不在着信を残してようやく「すんませんまたかけなおします」とだけメッセージが来た。しかし一週間たっても携帯が鳴ることはなく、結局十日を過ぎたところで四宮からもう一度コールした。
 今度はすぐさま繋がった回線の向こうからはしかし無機質な女性の声で相手の電源が切れているか電波が悪い、そう淡々と繰り返されるばかりだった。無慈悲極まりない。
 苦々しい溜息を吐いて四宮は考える。
 パリの夜空の下アパルトマンの入り口で、街灯の白んだ明かりが その整った痩身を照らし上げる。
 物憂げに顔を伏せる姿は本人が思う以上に艶めいていて華がある。ボルドーのシャツが闇の中にくっきりと伸びたシルエットを浮かび上がらせて何とも官能的。
 そのままちょっとシャンゼリゼへ足を向けてバーやカフェへ立ち寄れば、たちまち甘ったるい視線を集めてねえわたしたちほんの少しだけ飲み足りないのなどと緩やかに絡めとられることになるだろう。
 それは思い上がった憶測ではなく事実に基づく経験則だ。 パリへ来た頃こそ実年齢より幼く見られていたが今は違う。
 8区に自らの店を構え数々客を虜にする男には持つものがある。見た目だけではない。人はそういった滲ませずにはいられない揺るぎない力に誘われる。
 しかしながら四宮が今欲しているのは賞賛の美酒でも淫猥に緩む唇でもない。
 遠く離れた地、日本。 そこで料理人として成長せんと奮闘する、若い男からの一本の電話だった。
 喧嘩、あるいはそういった予兆があった訳ではない。そもそもそんな重大な喧嘩をしかけるには距離も年齢も離れ過ぎている。
 如何ともし難い隔たりがあるからこそ、ベタついた関係を好まない四宮がこうして逐一電話を気にするまでに至っているのだ。
 最後に話したのは三週間ほど前、会話の内容は取るに足らない睦言だ。よく覚えている。
 軽く飲んだあとの夜で、休みの日の朝一番にかけてきた相手がいじらしくて構いたてた。滑りの良くなった唇でからかう。今日は出かけるのか? 妬いてほしいならもう少し頭使え――生々しく会話を思い返してみるがやはり心当たりは見つからない。
 一つ気がかりがあるとすればその後一緒に出掛ける相手を結局教えられなかったことだがい
や、それを思うのは流石に短絡的過ぎないか。
 恐らくは極星寮の先輩か極星寮の同級生か、いずれにせよその辺りだろう。もしくは寮以外の人間、いやもっと言うなら学園と関係の無い交友関係の可能性だってある。
 誰に対しても基本的にフラットな 姿勢を崩ない彼は、その裏表の無さを気に入られてあちこちに縁がある。四宮が未だ窺い知らないような間柄も存在するに違いない。
 二度目の溜息は夜の空気に揺蕩いながら混じり、鉛色の石の上へと落ちていく。
 まとわりつく夜気に奥歯を噛み締めて佇む。本当にバーにでも寄ってやろうかと動きかけてやめた。
 気乗りしない酒など時間の無駄だ。バッカスだって眉をひそめるに違いない。
 結局そのままエレベータで自室へと上がりながらなおも四宮は考える。
 全てはきっかけに過ぎないのかもしれない。小波のようにさざめく些細な危惧や憂鬱は積み重なって心を遠ざける。兆候。
 今までなら気付いた時にはもう遅いかもしくは、気付いていても目を背けてあえて そのままにしていた気配を、四宮は初めて肌で意識していた。
 鍵を開けて部屋へ入る。
 頭の隅で思い出そうと したそれはちっとも具体的なイメージにならなくて苛立つ。しかし当然だった。どちらかというと四宮はずっとされる方だったのだ。
 別れ話というものを。

 休みの日の朝とは思えない倦怠感にまみれた身体で目を覚ました。気怠さを引き摺ったままベッドから下りて、 顔を洗いに向かう。
 こめかみの奥にある鈍痛は酔いが残った日の翌朝のそれとよく似ていたがもちろん違う。
 眠りの浅さを拭い去るべく歯を磨いてから、コーヒーを淹れる。 香ばしい豆の香りが馥郁と朝の空気に満ちていく。
 多少和らいだ心持でダイニングに身体を投げ出し パソコンを起動してメールチェック。
 いつも通りのルーチンに落ち着きながらも、やはり四宮の意識はテーブルに置かれた携帯電話へと向いていた。
 コーヒーカップを持ち上げかけた指先が彷徨う。持て余されたバゲットを取り上げることもなく、その指はためらいがちにスマートフォンの液晶に触れる。ロックがかけられたままの画面は素っ気なく暗いままだった。
 それはたしかに、何の後ろめたさも無い関係性とはいえなかった。
 同性であり後輩、そういったあからさまな事象を抜きにしても引っかかるものはあった。憧憬と恋慕を混濁させた自覚はあるし、だからこそ誠実であろうとも思っていた。
 距離に時間、お互いが目指すもの。どうしたって埋められない空白は最早摂理といえた。
 どちらかが女であれば――あるいは、相手が相手なければ、寄せようもあるのだろう。喩え話にもならない戯れ言だった。
 それでもし少しずつ寄り合わせた。義務にならないよう不定期に電話で繋がり、よしない言い合いは避ける。
 決して高い温度の関係ではなかったが、それなりに良好な間柄だったように思う。
 意図せず言葉尻が過去形になり、四宮は苦み走った舌を誤魔化すようにコーヒーを含んだ。
 寄り合わせていた。仕事に明け暮れ新たな発見に情熱を注ぎながらも、思いがぶれることはなかった。
 自らが目指す更なる高みへ上り詰めようとするが故の専心だったが、結果的にそれがその背を追いかける相手への操ともなっていた。
 もちろんそれを知り得るのは当人だけだ。だから傍から見れば四宮は一切の欲望を削ぎ落とした実直なプロフェッショナルであり、その僅かな隙間を垣間見たいと思う女性が現れるのは至極当然といえた。
 四宮はその度に取り繕うことなくはっきりと、離れた土地にいる唯一の存在について明言してみせた。その潔く筋の通った物言いに、皆落胆を通り越して相手の詳細を伏せる四宮に興味を抱いた。人から寄せられる浮いた話もあったが、やはり誰もがジャポンに残された麗しの想い人について聞きたがった。
 故郷で待つ人の為誓いを立てあらゆる誘惑を遠ざける、コジロウ、きみってやつは名前に恥じぬサムライっぷりだな!
 感嘆と共に肩を叩かれ苦く笑いながら、四宮はその間違った認識を正すべきかと一人思案していた。曖昧な日本のサムライ観についてはこの際放っておくとして、誘惑を遠ざけているというのは正直疑問が残る。
 別に欲望が消えた訳ではない。上質な酒は脳髄を蕩けさせるし良い女の指はいつだって柔らかく繊細だ。
 そういった魅力を理解しながらも溺れきってしまわないのはただ一つ、それ以上に心地良い存在を知ってしまったからだ。
 何よりもただ今は猛然と自らの腕、そして構えた店を磨き上げたかった。そのスタンスを受容し、突き放さず、そのまま愛おしむことが出来るのが相手だった。
 何故なら相手も――幸平も同じだから。
 舌の根に絡むような甘さを感じて、温くなったコーヒーを一息で飲み干す。脳裏に過ったのはいつかの会話だった。しかし相手は待ち人ではない。
 とかく色恋沙汰に関して他人の進言や経験が役に立たないことなどこの男だって分かり切っている。
 そのくせ口にしたがる理由は最早一つしかない。ただの惚気だ。
 しかしその惚気という事実を本人がいまいち自覚していないあたり非常に性質が悪かった。あくまで愚痴だという体を一向に崩そうとしない。だからこそその時全くの別件でわざわざ電話をかけてきた水原を捕まえて犬も食わない話をし続けていた。
 面倒見の良さといえばたしかにそれも事実だ。
 何だかんだと言いながら放っておけない自身の性格については 十分に理解している。
 ただそこに愛情が含まれる分事態は少しだけ厄介になっていた。初めて築く関係性にプライドを保とうとした結果、思いやりがしばしば説教じみているようで、四宮は自分の感情の間で板挟みになっていた。という惚気だ。
 だったら名前でもなんでも書いておけばいい。
 書けるもんならそうしてるいやそもそもそんな安い所有欲じゃない俺はただあいつの気の緩み具合が云々。
 まるで口うるさい父親じゃないと言いかけて水原はやっとこのことでそれを噛み殺す。
「なんだか四宮父親みたい」
 が堪え切れなかった。
 父親だって? 冗談じゃない。言われた言葉が再び四宮の頭をぐるぐるとかしましく巡る。
 それならいっそ関係を白紙に戻して言われるがまま『師匠』と呼ばれていようかなどとまで考えてぞっとする。
 それはたしかに穏やかでどちらの心も痛めずに凪いでいくだろうけれど、ただの逃げであることに変わりはなかった。
 そんな選択肢こそ冗談じゃない。今手放したらきっと後悔する。たとえいつか離れなければならないとしても。
 スマートフォンから指を離して四宮は立ち上がった。シャワーを浴びるべくバスルームに向かいかけて、壁にかかった時計を一瞥する。
 短針は朝の時間を指し示し、急くことなく規則正しく進み続けている。
 融通の利かないやつだ。埋められない時間の差がやたらじれったく感じられて、四宮は筋違いの文句を吐き出した。
 離別にしろ決別にしろ別れ話にしろ、宙に浮いたままなのは気に入らなかった。
 流されるまま、時にはたった四文字の言葉を残して去られたこともある四宮からすれば驚くべき変化だった。

 あくる日の夜、ディナーが終わり自宅に戻る道すがら携帯を取り出す。時差を考えれば日本は早朝、出られない時間ではない。
 慣れた番号を呼び出してワンコール、出ない。ツーコール、出ない。忌々しい合成音声がちらついて舌を打つ。
 聴きたいのは誰だか分からない女の声じゃない。
 聴きたいのは。
「――もしもし」
 小石にでも蹴躓いたかのように四宮の足が急停止する。
 普段ならむしろペットたちの落とし物によって歩みを阻まれることが多いものだが、今の原因はもっとずっと愛おしいそれだった。
「四宮先輩?」
 鼓膜に染み入る日本語。聴けなかった呼び名。
 途端に言い表せない熱が込み上げてきて硬直する。身体を拘束するその情緒が堪らなかった。漏れ出しそうになる感情を飲み込んで、静かに聞き返す。
「お前、電話は」
 しかしその先を見失って黙り込む。
 離してはならないと分かっているのにやり合い方がわからない。こんな厄介な恋愛に応じたことなど無かったから。
 立ち止まった四宮を道行く人々が擦り抜けていく。誰かに見られていたら堪ったものではないと思いながらも、その自尊心を塗り潰すほどの焦燥に駆られて動けなかった。
 何を言えばいい、何を。
 名前すら呼べない固まりきった唇に気付いた訳でもないだろうが、電話の向こうのその男は一息吐いてから返事をした。
「すんません」
 思わず息を飲んでしまうような謝罪だった。
 プラスチックを握り込む四宮の指先がぴくりと動く。
 謝罪の言葉から始められる話など限られている。しかも相手の、創真の声は強張っていて言い知れない真剣味を帯びていた。四宮は言いかけた何かを押し留め、黙ったまま続きに耳を傾け
る。
「最初は本当にタイミングが合わなくて――そうやって伸びてる内に、なんかだんだん、先輩のこと考えてる時間が、」
 テンプレートを綺麗になぞるような別辞。
 忍び寄る薄ら寒い気配に喉の奥が締め付けられるように軋み、 いっそ先手を打ちたくなるのを堪えて待つ。
 余計な茶々を入れてはならない。腹を決めた相手が告げることから逃げてはならない。
 慕ってくる彼に恥じ入ることがないよう、そう思って背筋を伸ばしてきた。
 たとえ何が失われたとしても、「師匠」と呼ばれる前を行く背中だけは残しておかなければならない。
 たとえ 何が――恋が、失われたとしても。
「多くなって」
 え?
 聞き返した声は掠れて通らず、口の中でわだかまる。
 無くなったと、あるいは少なくなったと告げられる筈だった言葉が全くの逆で混乱する。
 乾ききった唇を湿らせ、 もう一度おい、と呼ぶが、創真は四宮の問いかけに立ち止まることなく、むしろ堰を切ったように留めていたものを吐露し始めた。
「多くなって――なんかすごい、 考えるようになって。だからその、なんていうか」
 珍しくはっきりとしない混濁した物言いだった。創真自身も口にしながら、自分の心情に戸惑いを覚えているようだった。未知の衝動を持て余し、どうしたらいいか分からないという混乱。
 要領を得ない言葉をそれでも伝えずにはいられなかった姿に、四宮は悟る。
 少年は聡いからこそ甘えるのが下手だ。分かった気になって欲しがるのを止めてしまう。いやもしくはわき目も振らずに走り続けて、ふと立ち止まった時に寂しさを覚えるのだ。それなら容易に想像できる。
 何故なら四宮も同じだから。
 眩い建物の光に目を細めて四宮は訊ねる。穏やかに、殊更柔らかく。
「何が言いたいんだよ」
 脳裏には日本の朝が蘇っていた。果たして今日の朝食は何を作るのか。彼の作る料理が無性に食べたくなった。
 生温い朝の空気の中、気怠く身体を投げ出す四宮をからかう顔。
 ゆきひらの特製朝食、今日は先輩が一人占めっすよ。
 今日はってことは、明日はどこぞの誰かが一人占めか。
 妬いてるんすかとにやつかれて何となくそのまま頷けば、この上なく嬉しそうな笑顔が返ってきた。
 作り甲斐があるってもんすね。そうじゃない、いやそっちだけじゃない。
 取り違えられたのがわざとなのか素なのか量りかねて結局飲み込んだ。遠く、鮮明な朝の記
憶。
「……食わせろよ」
 こぼれた言葉が意図する何かを悟ったのか、創真は何を、と聞き返すことなく呟く。
 だって先輩、フランスに。
 ――そうだな。
 互いに掠れた声で行き場の無い言葉を交わす。
 知らぬ間に臨界点を迎えた気持ちは吐き出すしかない。内に留めていたら絶対に決壊する。
 手放す、なんて言い分の半分は虚勢だ。
 解かれて手の届かない所へいく可能性を理解しながらも恐れている。
 年甲斐もなく溺れている。溺れようとしている。
 舌打ちしたい気持ちを堪えて四宮は顔を顰めた。
 何が白紙に戻すだ。一切の余白を許すことなく染め上げんとする狭量な心は今もなおたしかに存在している。
 息を吐き、 緩めかけていた意識をもう一度引き戻して声にした。
 距離も時間も飛び越えてまっすぐ、 日本にいる彼に伝わるように。
「……ぐだぐだ考えてんじゃねえよ」
 相手へ、そして自分へ向けた言葉だった。
「お前が甘えねえと俺も甘えられねえだろうが」
「……そういうもん、なんすか」
「ああ」
 そういうもんなんだよ。
 断言するように繰り返すと、電話の向こうでそうか、と呟く声がする。
 それでもだから欲しがってくれとは流石に言えなかった。しかしそういった四宮の逡巡に関して、何故かいつでも見逃さない相手は、やはり今回もあっさりとすくい上げてみせるのだ。
「やっぱりなんか、会いたくなるっすね」
 照れの無い、しみじみと呟かれた素直な言葉はどんな告白よりも胸を刺す。
 一切の躊躇いなく返した肯定はひどく子供じみて聞こえた。
 遠く海を越えて届く間に少しでも成熟していてくれと願わざるを得ない。まっすぐ伝われと念じたり我ながら身勝手だと、四宮は小さく笑った。
 せつなく張り詰めていた緊張が解けていく気配がする。耳を擽る声が近付いて、その身体もすぐ傍らにいるような気さえしてくる。
 吐き出した息は穏やかで温かく、往来に佇む四宮の背を宥めるように揺蕩っていく。
 背中に回される指先の感覚を思い出していた。
「……じゃあ、またかけます」
 創真の声が、遠く離れた現実を連れてくる。
 しかしながらその口ぶりは和らいでいて甘かった。
 甘えろと言った言葉にすぐさま応じているのが分かる。その清さにまた心を奪われているのだが、あえて言葉にはしなかった。
 短い返事をしてから、声が途切れるのを待つ。去り難い思いは、繋がりが切れると同時に心の内へ閉じ込める。
 通話の切れたスマートフォンを見下ろし、四宮はゆっくりと歩き始めた。
 パリの明かりが照らし出すその横顔は満ち足りていて迷いが無い。憂いを帯びた面差しもなかなかだったが、 自信と決意を湛えた表情はより魅力的で、また女性の心を惹きつけて離さないのだろう。
 しかしながら彼自身を惹きつけて離さないものはそう多くない。
 彼自身が、離そうとしないものも多くない。
 彼の頭の中には、いつだって故郷の国が存在している。
 そしてその中のある一つの繋がりが彼を奮い立たせ、そして時に――どうしようもなく、溺れさせているのだ。