好む心

 

 女の良し悪しは声だ。見た目も確かに良いに越したことは無いがどうとでも変わってしまう。言葉は軽く羽根のように移ろう。男と同じだ。

 京の人々に恐れられ、疎まれる新選組。その副長である土方歳三が一人、ふらりと訪れる店があった。中でも土方が特に目をかけている女の声は耳にやさしく、小煩くない。きんと突くような高鳴りなど一切無い、潮騒のようなそれだった。歳さん、と控えめに呼ぶ声、咽び喘ぐその時でさえも淑やかで、薄く開いた唇を洩れる吐息ごと、よく食んだ。

 件の女がその喉を痛めていることに、土方は早々に気付いていた。時折絡む、乾いた息の音。隠そうとはしているが、その尖りは徐々に滲み、その日は早く店を出た。
 あくる日の夜、時間を見つけ薬屋に寄った。
 勧められるがまま良い品だというはちみつを買い、店へと向かう。 出迎えた女の声は昨日より掠れていた。
 土方は黙って今しがた買ったはちみつを差し出す。気が向かなければ湯に溶くといい。そう言うと女は少し目を見開き、それからゆるりと微笑んだ。
「おおきに。ほんまにお優しい方」
 何も言わずに頷いて、土方は店を去った。薬屋の主人の言うとおりに効けばすぐによくなるだろう。それまでは、この店に来ることも無い。ささくれ立った息の音は、どうにも耳に馴染まなかった。
 ――優しいと、女も本気で思っている訳ではないのだろう。ただ土方が女を選ぶ理由まで察しているかどうかは定かではない。
  鼓膜を揺らす、ささやかな女の声。
 それが損なわれれば酒を飲む場に困る。眉一つ動かさない能面のような表情で、土方は夜の闇へと消える。

 店から去った三日後、屯所へ戻る途中店の前を通りかかったところに、顔を出した主人が駆け寄ってきた。男は遠慮がちに包みを差し出してくる。
 例の女から言付けられたとのことだった。
 ――お呼び立てするのは心苦しいから先んじてお礼まで。よくなりました、ありがとうございます。
 男から伝え聞いた女の言葉に頷く。効いたのなら何よりだ。
 男に向かって礼を言い、土方は帰路につく。手に余る品物よりも、女のその声で紡がれる礼が聞きたいと思っていた。

 自室に置いたきり忘れていた包みを、土方は夜になって思い出した。若草色の包みを開くと、中には白い薄皮の饅頭が並んでいた。
 近頃人気らしいそれはなかなか手に入らない代物だと聞く。しかしながら土方は手をつける気にならなかった。甘味はそれほど好まない。
 女はそれを知らないのだから致し方ないが、はちみつが要らぬ想像を与えた可能性を思って嘆息する。 包みを戻し、どうしたものかと考えていると表から人の気配を感じ取って襖を開けた。
 たった今屯所へと戻ってきたその男は土方を見て、少し驚いたような顔をした。
「斎藤君か、ご苦労だったな」
 土方が声をかけると、斎藤一は視線でそれに応えた。どことなく疲れが漂っている。羽織に汚れは無いが、立ち姿の僅かな乱れは、刃を合わせた直後のそれだ。
 志士か、賊か。いずれにせよ身を汚す程の相手では無かったことは確かだ。 そのまま自室へと入って行こうとする斎藤に、土方はもう一度声をかけた。
「斎藤君、少しいいか」
 思い出したのは、いつぞやの藤堂の話だ。 ある茶屋で斎藤を見かけた。あの厳めしい見た目ながら、茶と菓子を楽しんでいたという。
 そのほっと息を吐く穏やかな表情が印象的で、思わず眺めてしまった――斎藤なら、この菓子にも手をつけるかもしれない。
 土方の声に、斎藤が振り返る。表情に少しだけ緊張が滲んでいた。
 それもそうだ、こんな夜にわざわざ呼びつけられるなど、何か不穏なものを感じ取っても仕方がない。近付いてきた斎藤を、土方は自室へと迎え入れた。

 気を遣ったのか、入る前に羽織を軽く払って、斎藤は所在無さ気に立ち尽くしていた。土方は座布団を勧め、正面に座った。同じように座った斎藤に向かって、先程の包みを差し出す。
「貰いものだが、私はあまり好かない。良かったらどうだ」
 斎藤は土方の顔と、目の前に置かれた饅頭を交互に見た。そして何か探るように口を開く。
「呼んだ理由は、これか」
「ああ」
「何か、急を要する話があった訳ではないんだな」
「そうだが」
 きっぱりと言い切る土方の姿に、斎藤は複雑な表情を浮かべて饅頭に視線を落とした。 確かに異質な言動だとは思う。しかしそこまで戸惑われると、土方としても少々居心地が悪い。
 行き場を無くした貰いものを、ただより相応しい人間に譲ろうとしただけなのだ。といってもそれを更に言い募ったところで、余計に妙な空気を漂わせるだけだろう。手持無沙汰なまま、土方も饅頭を見つめる。
 男が二人、それもあの新選組の副長と隊長が向かい合って饅頭を見つめるその絵図は、当人達が思っている以上に奇妙なものだった。

 やがて広がる沈黙に耐え切れなかったのか、斎藤が躊躇いがちに動いた。手を伸ばし、一つの饅頭を取る。持ち上げられたそれは見た目よりずっと柔く、男の指は白い粉と皮に埋もれた。
「――いただくぞ」
「ああ」
 どこかぎこちない会話を交わして、斎藤がそっと饅頭を口に入れる。とろりと溶けるように噛み切られたそこから、上質な餡が見え隠れしている。
 斉藤はその味を確かめるようにゆっくりと咀嚼する。ふとその目つきが、普段より幾分か和らいでいるのに土方は気が付いた。 やはり好んでいるのだろう。いや、特別好物かは分からないが、少なくとも苦手ではないようだ。
  嚥下し、もう一度齧り付く。こぼれかけた餡をすくい上げ、最後の欠片を口に入れる。その一連の動作をじっと眺めていると、気付いた斎藤に訝しげな視線を向けられた。
「何だ」
「――いや、味はどうかと思ってな」
「美味い。あんたも食ってみればいいだろう」
「私はいい。口に合ったなら良かった。無駄にせず済む」
 表情を変えない土方に、斎藤は諦めたように息を吐き、懐紙を取り出して手を拭った。そしてふと真剣な視線を向けて問いかけてきた。
「何故、俺を呼んだんだ」
 斎藤の尤もな疑問に、土方は何でもないことだと言わんばかりに返す。
「君がこういったものを好いているのではないかと話に聞いた」
「誰に」
「平助だったか。君が茶屋にいる所を見かけたと」
 土方の答えに、斎藤は何故か困惑したような表情をしてみせた。間を持たせるように饅頭を見てから斎藤が言う。
「あんたにそんな気遣いをされるとはな」
「要らぬ世話だと?」
「そうじゃない。あんたはあまりこんな、目に見えたことはしないと思っていた」
「確かに、そうかもしれないな」
「気を悪くしたか」
「いや。君の戸惑いも尤もだと思っていた」
 率直な感想を口にすると、斎藤が小さく笑った。
 その珍しい様に、土方もつられて唇を緩める。
「まあ食ってくれ。残していかれても困る」
 そう勧められ、斎藤はもう一つの饅頭を手に取った。二つ目でもさっさと食べてしまわず、時間をかけて味わう辺り、本当に味が良いのだろうと伺える。
「結局二つとも手をつけたが、いいのか」
「疲れには甘味が効くという。酷使した頭や神経を休ませるらしい。食べなさい」
「それならむしろ、一人で頭を悩ませているあんたが食うべきだろう」
 さらりと言われたそれに、土方はまじまじと斎藤の顔を見た。おべっかを使うような性質でないのは見ていれば分かる。本当に自然に気遣われたのだと気が付いて一人頷いた。なるほど、これは惹きつける筈だ。
「私はいいんだ。……ああ、いや――」
 土方はぐっと身を乗り出した。半分ほど残った饅頭から、支えきれなかった餡が斎藤の指へと伝う。それを指先ですくい上げ、口に入れた。
 上品な甘さはくどくなく舌にやさしい。不意に贈り主の女を思い出して悟った。女は土方に好まれる理由に気が付いている。そう考えさせられてしまうような、丸く柔らかな甘みだった。
「品の良い味だな」
「――あんた、な……」
「ありがとう。少し試してみたかった。確かに、疲れには良さそうだ」
 混乱したように動きを止める斎藤に、土方はやはり表情を変えずに頷いた。
 斎藤は暫しそのままだったが、やがて思い立ったように首を振り、最後の固まりを口へと押し込んで立ち上がった。
「邪魔をしたな」
「すまなかった、戻ってすぐに」
「いや、美味かった。――ありがとう」
 それだけ言って、斎藤は部屋から出て行った。 舌の根にはまだ僅かに甘みが残っている。土方はその不思議とそれほど不快感を覚えない名残を思いながら、饅頭を食べる斎藤を思い返す。
 ――優しさなどではない。こんな多少のことで隊士の士気が高められるなら結構だ。新選組の力を保つ為にも、あの男の存在はまだ手放してはならない。
 しかし――こうも思っていた。甘味を譲るだけなら、自室へ入れる必要など無かった。その場で渡して、後は好きにさせればいい。
 その考えに向かわせず、目の前で食させたこと、その男が本当に甘味を好んでいるのか否か、興味を抱いたことについては、どう説明づけたものかとも。
「――気をやっているのかもしれないな」
 呟いたひとり言は、自室の静けさに溶けていく。徐々に薄れていく甘みを追いながら、土方は残された包みを折り畳んだ。