健全に不能

 

「誰も来ないッスから、ね? てか、斉木さんなら分かってるでしょ」
 言いたいことはたくさんあるが、とりあえずその息の荒い顔を遠ざけろ。
 そう思いながら、眼前に迫るそいつのにやついた表情から逃れるために顔を背ける。しかし狭い空間の中、身体をぴったりと寄せ壁際に張り付けられている為殆ど距離は離れない。 仕方なく僕は精一杯の反抗心を込めてその、忌々しい身長を使って囲い込むようにしてくる男の顔を見上げた。
「何スか? 嫌?」
 どこかからかうように訊ねてくるその男は、片足を意味ありげに僕へと擦り付ける。 当たり前だろういいだなんて言うと思ってるのか。そう言ってやりたいのに、触れている足の些細な動きが気になって仕方がない。
「ああ、嫌って訳じゃないんスね、よかったよかった」
 触れたり触れなかったりを繰り返していた足が、一際強く押し付けられて思わず声が出る。 それが嫌で目を伏せたいのに、いやらしい男がわざと覗き込むように視線を合わせてくる。 いっそのこと強引にここから飛び出してやろうかと身構えるが、ふと傍らの便器が目に入り、改めて状況を思い知って固まった。男は僕の戸惑いを察したかのようににっこりと笑うと、唇を寄せ先程より一層ひそめた声で囁く。
「一回やってみたかったんだよなあ、ここ」
 くだらないことだけはやたら器用な男はそう言うと、流れるような手つきで後ろ手に個室の鍵をかけた。 言い訳をするとこの日僕は非常に疲れていた。
 いつもの燃堂や海藤、その他様々な人間に絡まれ、疲弊しきっていたのだ。 今日はもう真っ直ぐ帰ろうと歩いていた矢先、僕はこいつに捕まった。普段であれば適当な会話をし、そのまま一緒に帰るなり何なりしていた筈だが――気付けば僕は、この男に何故か学内のトイレに連れ込まれ、個室に囲われる羽目になっていた。
 訳が分からないだろう。僕も全く分からない。いや、確かにいくつか会話はした筈だが、さっぱり記憶にない――
「……斉木さんが誘ったんスよ」
 耳に齧り付かれたことより、吹き込まれたその言葉に身体が跳ねた。僕の思考などお見通しだと言わんばかりににやつかれ、流石に居心地が悪い。
 株を奪われている、というよりその、妙な勘の良さが厄介だと心の底から思う。 いや、そんなことはどうでもいい。それよりこいつの言葉だ。
 誘った? 僕が? ――冗談だろう。こいつと違って僕には世間一般の節度も倫理観も備わっているのだ。こんな乱れたことを許す筈がない。
「疲れてるんスか? って聞いたら頷いて、癒されたいんスねーって言ったらああって言ったじゃないっスか。それで、ね」
 耳から離れ、含み笑いで僕に顔を寄せる男の馬鹿げた言葉に、徐々に会話を思い出していく。
  ――ああ、そうだな。確かに話半分でお前の言葉を聞いて、そんなことを返した気がする。それで、何故こうなる。
「そりゃあまあ、オレっスから」
 言葉と同時に唇を寄せられ、僕は無理やり顔を背けてやった。目当ての所に向かいそこなったそれは、行き場を失うかと思いきや、剥き出しになった首へと目標を変えてきた。 唇が触れ、柔らかい舌がじりじりと這う。生々しい感触が嫌で身体を離そうとするが、もちろん男がそれを許す筈がない。 暖かい物体が好き放題這いまわるのに顔を伏せたまま耐えていると、いつの間にか顎にまで伝っていた舌にとんとんと噛み締めていた唇をつつかれる。決して押し入ろうとはしない、誘い込むような仕草が本当に忌々しい。 そしてその仕草に、呆気ない程簡単に絆される自分自身も、だ。
 閉ざされたままの唇の間に舌を挟むように押し付けられ、ぞわぞわとした違和感に耐えられず小さく口を開ける。何の抵抗も無くするりと入ってきたそれは、我が物顔で僕の口内を占拠す
る。 時折唇をやんわりと噛んでくるのがこいつの癖だと、気付くくらいには繰り返してきた行為だ。繰り返してきたということはつまり、何だ。
 僕の反応も全て、いっそ機械的とも言えるぐらいに仕組まれ始めている、ということだ。
「う、あー……駄目だ、気持ちいい。斉木さんも気持ちいいっスよね?」
 飽きもせず唇を食みながら、切羽詰まった顔でこちらを伺う男の言葉はさらりと無視する。言わなくてもいいことを、――聞かなくても分かることを、わざわざ口にしたがるのもこいつの悪癖だ。 男は僕の無視をただただ良い方へと取ったのか、にやけ面のまま僕の首元へと顔を埋め
た。来るだろう舌の感触に身構えるが、男はあろうことかぐっと歯を立ててきた。思わず、不本意な声が出る。それも思った以上の音量の。
「だ、めっスよ。人が来たら分かるからって、そこまでノリノリになっちゃあ」
 張り倒すぞ。そう言ってやろうと無理やり男の襟を掴んで首から引き離すが、現れた切羽詰まった顔に僕は言葉を失った。
 これは、まずい。何がまずいか。この男――鳥束という人間は、こと性的な事象に関して呆れる程に積極的だ。言ってしまえばただのド変態な訳だが、いくつかのきっかけでその趣向が爆発し、それこそ手が付けられない程に暴走するタイミングがある。
 例えば、少し変わった場所であるとか。
 例えば、僕からこいつを誘った――いや、誘ったとも取れる状況であるとか。
 ――例えば、僕が俄然乗り気で、普段出さないような調子の外れた声を出したとか――
「……駄目っス。もうだめ」
 俯き加減で呟いたが最後、男は先程とは打って変わって、文字通り襲い掛かってきた。 手始めにシャツのボタンが外され、滑り込んだ手が思いつく限りの不埒な動きを仕掛けてくる。その間も唇は僕の顔や首に触れ、吸いつき、噛み跡を残していく。 下半身は隙間なくぴったりと貼り付けられ、反応し始めた一部を擦り合わせるように腰が揺らされる。と思ったら突然膝頭でそこを突かれ、喉の奥で泣き声じみた音が漏れた。
「にゃあ、って言った……? 今、そんな風に聞こえた」
 言う訳ないだろういい加減にしろ。睨み付けてやろうと顔を向ければ、視線が合う間もなく口付けられて息が出来ない。 過ぎた快感と息苦しさに頭がぼやけてくる。
 せめて密着し続ける下半身だけでも離したくて腰を引けば、回された右腕が制服ごしにがしりと尻を掴んできた。そのまま引き寄せられながら、布地の上からでも辿れる境を探られる。 くぼんだ部分をぐっと押し込まれて反射的に身体が反る。唇が離れ新鮮な空気が入ってくるが、男は荒い息のまませわしなく僕の身体に触れ、ベルトをいじり始める。
「駄目、なんスよもう……斉木さんがあんあん言うから」
 言ってない。そんなこと一言も言ってない。 ついに下着にまで入り込んできた手に洩れそうになる声を堪えながら、僕は唇を噛んで首を振る。
 暫く中でやわやわと触れていた手が、急に焦れたように下着ごと僕のズボンを引き下ろした。 あまりのことに言葉や動作が追い付かない。夕方の、まだ校内に人が山ほどいる時間のトイレ
で、情けなく下半身を全て晒す日が来るなんて、いくらなんでも突拍子が無さ過ぎる。
 僕は思わず周りの気配に意識を集中した。幸い他の人間のテレパシーはまだ感じない。
 聴こえるものと言ったら、思考と呼べたものではないそれ、気持ちいい好きだやりたい堪らないで埋め尽くされた、最早テレパシーとして機能しない鳥束のものだけだった。
「こ、んな濡らして……斉木さんほんと、もう。どうしてやろう」
 至極楽しそうに僕の下半身を眺めながら触れ、鳥束は熱のこもった溜息を吐く。僕はじわじわと込み上げてくる羞恥に、目の前の男を蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られていたが、それ以上に性的にブチ切れてしまった男の前では無力に等しかった。 正直な話慣らされ過ぎていたのだ。
 知りたくもなかった快感を覚えさせられたことで、意図しなくても次の行為を想像してしま
う。機能しないテレパシーよりずっと鋭敏にだ。 だからぐるりと身体を反転させられ、腰を突きだすような恰好にさせられたところで肩が震えるのは、焦りや羞恥や嫌悪を飛び越えて存在す
る、根本的な原因があるが故だったのだ。
「……なんかもう、暴走しちゃいそうなんス、けど……っ」
 とっくに暴走している男が呟きながら、ぬめりを帯びた指を差し入れてくる。本当にろくでもないことだけは手際の良い男によって、笑ってしまう程あっさりと開かれていく。 既に我慢がならないのか、男は指を埋めた上から、まだ衣服に包まれたままの張り詰めたそれをぐいぐいと押し付けてくる。ほんの先端ぐらいなら布越しにでも入ってきてしまいそうな感覚が生々しく、僕は必至で壁に縋った。
「あ、やべ、ひくっ、て。うわあ……駄目だやらせて、斉木さんやらせてお願い」
 いっそ清々しささえ感じる程の下種な台詞を吐いて、男は僕の返事を待たずに中へ押し入ってきた。 圧迫感に立ちっぱなしの足が引き攣れる。
 がくがくと膝が笑いかけるが、身体ごと抱え込まれるように張り付かれた。
 その所為で埋まっていたそれが根元までぴっちりと収まり、とんでもなく情けない声が漏れ
る。 普段ならここからだらだらとした動作が始まる筈だったが、今日のこの男はとことん切れてしまったらしい。男は指が食い込む勢いで僕の腰を掴むと、この場がどこか分かっているのかと問い質したくなるような勢いで揺さぶり始めた。
「あ、は、やばい、暴走してるオレ……っあー、でも駄目だ、斉木さんちゃんとテレパシー……っ気を付けといてください、ねっ」
 どこまでも勝手なことをのたまいながらも、男は激しい動きを止めない。ずり下がりそうになると強引に身体を持ち上げられ、肘や肩をしこたまぶつけた。それでも動きは止まらない。 限界まで張り詰めたそれが当人と同じように身勝手に暴れまわる。僕は身体も精神も同じように、その振る舞いに振り回される。
  ――最初からそうだった。僕を好きだと言った言葉にも、抱きたいと告げたその身にも、僕はずっと振り回され続けているのだ。
「は……こういうことしてる、時の斉木さん、オレすごい好きっス」
 流石に体力が持たないと思ったか、徐々にゆるゆるとした動きに変えながら、男がしみじみと呟いた。 僕はその言葉に自分がみっともなく動揺していることを知る。
 顔を見られたくなくて振り向かなかったが、男は背中を抱くように僕の耳元へ口を寄せる。
「だって心読んでも仕方ないっスもんね……オレやりたい好きだとしか考えてないし」
 柔らかく馴染ませるように動いていたそれが、一度強く押し込まれる。声は徐々に洩れてきていた。人がいないのが救いとはいえ、叫びたくなるような羞恥にだって耐えているのに、男はそれを嘲笑うように僕の内部を食らう。 かと思えば抜け出てしまうのではないというぐらい引き抜かれ、腰がはしたなく震えるのを感じた。
 意識と真逆の反応が憎い。憎い筈なのに、辛い筈なのに、止められることを想像するのは最早出来ない。
「訳わかんなくて戸惑ってる斉木さん見んの……すげー、好き」
 その言葉を合図に、また身体が壊れる程の強い波が押し寄せてくる。息が出来ない。刺さったそれがまるで生き物のように身体を揺さぶり、咽び泣くような声が止まらない。 それでも人の気配だけには気を張り詰めていなければならないのに、後から後から襲い掛かってくる快感が強すぎて頭が追い付かない。
「次、どこ突かれんのとか……っ、は、どんな風にやられんのとか全然っ、分かんなくてっ、焦ってて……すげー、いい」
 まるで今の表情すらもお見通しだというような口ぶりに熱が上がる。雑然としていた思考が快感一つに染まり、視界がちらちらと光るように弾けていく。
「きもちいーって、好きだって、考えて……他は要らない、から……っそれだけで、いいから。オレもそれだけ、だから……」
 うわごとのような男の言葉に、声にもならないような吐息が漏れる。先走ったそれを優しく片手で包み込まれた瞬間、今度こそはっきりと声が出た。 駄目だ、と思った時にはもう遅く、僕は殆ど触られないまま全てを吐き出していた。
 幸い男の手によって下を汚すことは避けられたが、それに息を吐く間もなく荒々しい動きが再開される。
「斉木、さん……っあ、く、さいき、さん……!」
 これ以上ないという程押し込まれた所で、どくどくと流れる感触を覚える。一瞬ひやりとしたが、手際も準備も良い男のこと、そのままで行う筈がなかった。
 ずるりと内部から抜け出ていく感覚の後、背後でごそごそと後始末をしているであろう気配を感じる。僕は身体を動かすのもおっくうで、暫く壁に手をついた情けない状態のまま呆けてい
た。 やがて背後から包まれるように抱かれ、剥き出しの下半身をせっせと処理される。
 されるがままの状態でぼんやりと自分の身体を見下ろしていると、身体中噛み跡やらぶつけた跡やらで大変なことになっていることに今更ながら気が付いた。
 下半身が終わると次にぐるりと身体を向かい合わせにされ、肌蹴ていたシャツのボタンを留められる。男は顔を伏せたまま黙々と僕の身支度を整えているが、全て終わらせてもまだ、僕の顔を見なかった。
「なん、スか……?」
 見られるのも気になるが、一度も目を合わせないというのも癪で、僕はわざと視線を外さず男の顔を見続けていた。 次第に無視できなくなったのか、男は恐る恐る僕を見る。その表情は先程の、興奮しすぎていっそ鬼気迫るものとは打って変わって、しょぼくれた捨て犬のようなそれだった。
 まあ、流石にやり過ぎたと反省するのも無理はない。結果的に一度も人は来なかったが、正直そんな次元の話ではない程の散々な状況だった。音や声もそうだし、いやそもそも端からとんでもないことをしでかしているのだから。 ――お前が?いや、僕たちが、だ。
 僕は節々が痛む右手を伸ばし、使い過ぎて紅潮している男の唇をつまんだ。そのまま下へ引っ張ると、間抜けな顔の鳥束は目を白黒させながら僕の言動を心配している。
 結果的に、乗ってしまったのは事実だ。だからもう、落ち込むな。お前が落ち込むのを見ていると、尚更事実を確認してしまって僕が居た堪れない。そんな思いを込めて唇を引っ張ってやるのだが、当然の如く伝わってはいないだろう。
 いやむしろ、伝えたいことはそれではなく。それだけでは、なく。

(混乱しかけていた思考は正常に戻り、僕の頭にはまた他人の、男の考えていることが流れ込んでくる。分かっているのは今の内だけで、またこの男の厄介な手によって僕は、振り回され、翻弄されるのだろう。 結局のところ伝えたいのはつまり、その事実が正直「嫌いでないこと」だが――それはまあ、別の機会だ)