哀しき瞳

 

 久しぶりに顔を見たその人は、以前よりずっと、どこか愁いを帯びた瞳をしていた。

哀しき瞳

 向かってくる人間を次々と薙ぎ倒す。どれも力量差を感じる程では無かったが、何分数が多過ぎた。
 眼前の顔に踵を叩きつけ、背後の気配に向かってそのまま足を回し蹴り飛ばす。勢いのまま壁にぶつかる様に細く息を吐くが、すぐさま横から拳が飛んできて身を逸らす。 少し数が減ったと思った傍から新たな刺客が現れて、秋山は弾む肩を苛立たしく思った。
 ここで倒れる訳にはいかない。走り込んできた勢いのまま、タックルをしかけようとする足を払うと、地に伏せたその背後にグレーの背中が見えた。
 数人に囲まれ、しかしそれを物ともせず拳一つで弾き飛ばし、胸倉を引き寄せ地面に叩きつける。投げ出された足を掴み周りごと振り回し投げ捨てるその様は、ただの気迫だけではない何かに満ちている。 喧嘩慣れ、そんな言葉では説明出来ないような闘気。それはその人が幾多の闘いに向かい、その度何かを護ろうとし、そして失ってもきたことを表している。
 その背はこの街の伝説と呼ばれる男そのものだった。そしてその瞳は、少し前のそれとは全く違っていた。
 苦しげに伏せるその人は、銃弾を浴びているのだと聞いた。しかし起き上がった男の所作は、それを一時忘れさせようとしているのではないかと思う程しっかりとしていて、秋山は何も言えなかった。
 顔を見るのは本当に久しく、秋山は何度かその横顔を盗み見た。すっと伸びた顎は以前より、少し鋭さを増した気がする。
 そして何よりその真っ直ぐな瞳にちらつく愁いに、目が離せなくなった。 身体の傷だけではない、その人の心には、安い言い方をするなら隙があった。
 そしてそれはきっと、その人と何かしら繋がりがあった人間なら誰もが気付いてしまう。
 大阪で行動を共にした少女を思い出す。彼女の言葉の端々に、その人のへの言い表せない程の深い想いがあるのを感じた。そしてその度、その人を思い出していた。
 互いが苦しみながらも離した繋がりは、強く、何物も寄せ付けなかった独りの男を確かに飢えさせた。そしてその満たされない想いが、今追い詰められ、その瞳にすら溢れ出している。
 欲しいと思った。人を惹きつけてやまないその人の、ちらつく隙間。そこに入り込んでしまいたいと。
 否、隙間なんてやましいものではなく、もっとずっと、深く――

 明日のその時をニューセレナで待ちながら、秋山は己の行き過ぎた感情に整理をつけようとしていた。 冴島は出ており、品田は日本ドームの図面を眺めながら何事か思案している。
 少し離れた所に座った秋山は、煙草に火をつけ深く腰を落ち着かせた。 桐生は、カウンターに腰掛けている。肘をつき、組ませた手に額を押し付け目を閉じているが、眠ってはいないようだった。
 冴島と話した後、男の瞳は変わった。僅かに伺えたその愁いが隠され、男の本来の、真っ直ぐなそれへと変わっていたのだ。
 帰ってきた男の顔を見て秋山はそれを確信し、同時にやはりどこまでも良い男だと思った。
 強さを湛えたその横顔に思わず見惚れる。無理やり逸らせた視線に、気付かれてしまいそうな程に。
 変わった瞳は、その人が自分達を信頼すると決意した証なのだろうか。そうであったなら、これほど満たされることも無い。
 けれどその気持ちに相反するように、強い感情に揺さぶられる。丸ごと全て、欲しい。貴方が孤独を思わずにいられない時があるのなら、それを全て自分がすくい上げてやりたい。 指先を焦がしそうな程短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
 久しぶりに会い、男の持つ魅力にまた引き付けられた。男の心の拠り所だったその人に近く接したことで、全部を分かった気になっていた。
 それだけなのかもしれない。それだけなのかも、しれないのに。

 秋山は深く息を吐き、感傷を追い出した。来るその時を思い、気持ちを締め直す。ちらりと見えたその横顔に律儀に目を止めてしまう自分を、忌々しく思いながらも。
 肩で息をしながら、新たに向かってくる敵に向き直る。何度目かのその男は、先程の秋山の蹴りを受けてもまだ堪えないらしく、不敵な笑みを浮かべていた。
 背後で同じく荒い息を吐き、堂島大吾かららしき電話に出たその人の声を、一言も漏らさぬようにと聴く。
 暴れる獣のように敵を組み伏せながらも、苦しげな息をしているのに、気付かない筈が無かった。けれど秋山は何も言わない。
 ただ行くべき場所が出来たその人を向かわせる。そして己も相対してきた男との決着をつけ、街を、人を守らなければならない。
 秋山の言葉に、桐生は逡巡し、しかし応じた。秋山は息を吐き、眼前の敵を見据える。そしてその耳に、一言。
「頼んだ」
 零された一言に、思わず笑ってしまいそうになるのを抑える。 ああ、貴方はきっと知らない。貴方に、貴方という人に背を、何かを任されることが、どれほど俺の気持ちを揺さぶるのか。どれほど、俺を強くするのか。
 大切なものを手放し、揺らぎながらも、もう何もいらないと貴方は突き放すかもしれない。
 けれど全てが終わり、もう一度その人と対する時が来たならば、きっと告げてしまうだろう。 ――貴方を俺にください、と。
 息を吐き、金井を見据える。そして今度こそ、意識を全て相手へと向ける。 言葉一つでより一層、心が強く、奮い立つ気さえした。

  漸く金井と決着をつけ、各地の極道に頭を下げられる中煙草を銜え、その人を思う。 強く、孤高で、けれど甘い。思い出されるのは盗み見た横顔ばかりで、秋山は思わず苦笑しながらも、その瞳ははっきりと瞼に焼き付いている。
 貴方があの、どこか哀しい瞳を見せる時があるのなら、傍にいたい。
 気障ったらしい文句だと笑いながらも秋山は、きっとそれを口にしてしまう自分を知っていた