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アベル・ブロンダンにとってその男はあらゆる意味で異色の存在だった。
学生の身分が終わったと同時に単身渡仏、それ以前の渡航経験はあくまで観光の域を出ない程度だという。もちろん滅多に無いとまでは言わないが珍しい経歴であることは確かだった。
その特殊性の根元は蓋を開けてみれば単純明快だった。
遥か遠い小さな島国、自国の文化と異国のそれをある意味では無秩序に、しかしある意味では柔軟に取り入れるその国に存在する、食の頂。
トオツキといえば食に携わる者はもれなく頷き、それを生業にせずとも少し詳しい者であれば興味深く目を光らせただろう。
国を問わず多種多用な食文化に精通するその組織の影響力は、料理を提供する場である飲食店のみならずもっと広範囲のサービス――リゾート、サロンは当然ながら、更には高品質かつ安定した食材を得るための農場、漁業船舶関連等多岐に渡る。
どんな時でも求めるものを用意する流通経路も独自のそれであり、輸送手段の確保もさることながらそれら全てを組織力の一言で賄えてしまうとんでもない現状には、莫大な資産とコネクションの存在が誇示されていた。今や食の舞台でトオツキの名は無視できないものであり、同時にその頂点に立つナキリの名も海を越え世界に轟いていた。
アベルも足を踏み入れたこともないその国から届くトオツキの話は聞いていたし、Nakiriint'lの文字も実際に目にしていた。
一方で確かな事実とはまた別に、トオツキに関する話題はおおよそ冗談のように聞こえる内容も多くあった。あの広大とは言い難い国土の3%を所有しているだとか、ナキリを冠する一族には常人の数倍にも及ぶ鋭敏な味覚、嗅覚を有するものが立ち並び、一説によるとそれは古くから受け継いだ伝説の血によるものだとか、そんな話だ。
そんな話の中でもアベルが人知れず興味を惹かれた話があった。
首都にそびえ立つ一つの学び舎。並の者では卒業どころか進級さえもままならないという、料理を学ばんとする学生にとっての最高峰。
トオツキが自ら手掛ける料理学校、果たしてどんな授業が行われているのか――考えを巡らせていたアベルの前に現れたその、特別な男の存在こそが、そのまま答えの一つになっているともいえた。
コジロウ・シノミヤ。トオツキで得た経験と主席卒業というアドバンテージを携えて、彼はアベルの前に立っていた。
「アベル・ブロンダン――四宮だ」
白と木目色で統一されたホールで、アベルは初めて彼と対峙した。
改装されたばかりの店舗は趣がありながらもその選びぬかれた外装や調度品に洗練された気品を漂わせていた。
クッションが厚い革張りの座面と角ばったクラシカルなデザインの背凭れ、椅子一つ取っても客への気配りと空間へのこだわりが見てとれて、興味深く視線を巡らせていると調理場から男がやって来た。
実際に顔を合わせたその男は想像より遥かに若かった。東洋人は若く見えるとはよく聞くが、肌は健康的に張り髪の艶も良く、予め聞いていた実年齢より三つは下に見えた。しかしながら頼りないとは言い難く、立ち振る舞いは堂々と堅実で、太めのフレームに嵌ったレンズの奥から覗く双眸は冷静に眼前を射抜き、現れた料理人の資質を見定めんとしていた。そして何より、抑えた声で紡がれるフランス語が驚く程流麗だった。あまりに自然に名前を呼ばれて、アベルは無意識に背筋を伸ばし、唇に笑みを浮かべてそれに応える。
「よろしくお願いします、四宮シェフ」
「聞いていた通り何を任せてもいいんだな?」
「ええ、そのつもりです」
愛想良く微笑んでいたつもりだったが目の前の男の表情はぴくりとも動かなかった。ただ気分を害しているという訳でもないらしく、四宮はちらりとアベルの手元に目をやってから小さく頷いてみせた。
臨機応変に力を尽くすからスタッフに加えてくれと、知り合いのつてから四宮に直接紹介してもらった経緯は勢いのみの結果ではなかった。
アベル自身は二つ星の店で数年仕事をしている。いずれはスーシェフにと言われていた中でその店を去ったのは独立心に燃えていた訳でも、店に愛想が尽きた訳でもなかった。ただ確実に何かが足りていなかった。そんなまとわりつく空気を感じ取っていた矢先、アベルは日本から来た気鋭の若手シェフが八区に店を構えるという話を耳にした。デュガリーの元で腕を磨いた若き才能、それだけではない。その根底には未知の過去が内包されている。トオツキの名、そしてその手から産み出されるかつてない可能性を秘めた一皿に、アベルは 一も二もな くSHINO'Sと銘打たれたその店の厨房に足を踏み入れることを決めていた。
とはいっても、アベルの意思にかかわらず四宮に決定権はある。にべもなくはねつけられる可能性を少しも思わない訳ではなかったが、予想に反して四宮は殆どそれが決定事項であるかのようにあっさりとアベルを迎え入れ顔を合わせた。予め伝えていた経歴がお眼鏡に適ったか、もっと別の何かが影響していたかどうかは判断がつかない。しかしながら会って話してみても四宮の口から否定の言葉は出てこなかった。
事務的なやりとりを交わし、会話が途切れたところで、アベルはもう一度整えられたホールを見回した。
テーブルクロスと壁の白さにはどっしりとしたトラディショナルな安心感がある。円形のダウンライトからこぼれおちる灯りできらめく筒状のガラスには、朱や黄色の水中花にも似た花弁が目にも鮮やかにあしらわれていて、テーブルに着く前から訪れるゲストを楽しませる。高級感がありながらもブナで仕立てられたテーブルや椅子には馴染み易さが滲み、ビストロとレストランを巧みに組み込んだような不思議な調和がそこにはあった。
絶妙なバランスで形成されたその空間は言わば彼の故郷――日本に対してアベルが抱いていたイメージそのものと言えた。伝統と革新、柔軟な発想で生み出される四宮の一皿をそのまま具現化したような店の空気に、アベルは四宮がただ八区で腕を揮う日本人シェフで終わらないであろうことをごく自然に予期した。
「素晴らしい店ですね」
媚は無く、純粋にそう思った。だが四宮は何も言わずにすっと片目を剣呑に細めてアベルを見た。まとう空気に若干の刺が混じったのを感じる。
やはり機嫌を伺っているように聞こえたのかと思いかけて思い出す。
――なかなか難しい男だよ、と何かを含ませて言ったのは、その男に口を利いてくれた張本人だった。難しい、とあえて曖昧な表現をする真意を計りかねてアベルは黙ったまま次の言葉を待った。気難しいという意味であるならば問題ない、そういった類いの料理人は多くいる。確固たる独自のフィロソフィーを掲げ、店全体に共有させる。その上で上手く噛み合わないことがあれば例えどんな些細なことでも妥協はしない。そんなこだわりに順応するのが難しいというのな
ら、アベルにはそれほど不安はなかった。研鑽は料理の腕だけではなく、キュイジーヌという集団を動かす力にも及ぶ。今までの経験からすれば気負うようなことは無いように思えた。
しかし男の口からは次の言葉は出ず、代わりにやや皮肉めいた苦笑いのみが返ってきた。その反応からアベルは、彼が言う難しさがもっと根本的な、彼が持つ本来の資質に関係しているのだと悟った。
とはいってもそれで考えが変わる訳でもなく、結果難しい男だという認識を覚悟に加えて、足を踏み入れたのだ。
「どうしてここへ来た?」
――何と答えるべきか。逡巡したアベルは結局取り繕うことなく本音を口にした。
「ジャポンから来たフレンチがどんなものになるのか、気になったからです」
「それだけか」
「いえ――ナキリの下で学んだという貴方が作る一皿に、興味を惹かれた」
尖っていた四宮の瞳が瞬く。率直な物言いが過ぎて逆効果かと思った瞬間、目の前の男はくるりとアベルに背を向けた。
「――ついてこい、ブロンダン」
明確な言葉は無い。しかしその背中に確かな信頼の兆しを垣間見て、アベルは自身にとって大きな変化となるその一歩を踏み出した。
慌ただしいディナーの時間が終わり、清掃が済んだ厨房にいるのは二人だけだった。他の従業員は既にスタッフルームで着替えや身支度をしている。
少し離れたところに立つ四宮は、何か考え込むような様子で手にしたメモを眺めていた。
自分もそろそろ着替えに行くかと動きかけると同時に、四宮が顔を上げた気配を感じた。――とどのつまり、それだけ彼のことを気にかけていたのだ。
「飲みにでもいくか」
「え、ああ――はい。いいですね」
いつものことながら唐突な誘いに抜けた声が出た。
些細な動揺をひとかけらも悟られたくなくて、普段より口調が滑り饒舌になる。
「どこにしますか?前回のブラッスリーも良かったですが、今日はワインでもいいですね。今皆を呼んできます。久しぶりですから、きっと喜びますよ。四宮シェフは何かご希望が――」
「ブロンダン」
背筋が伸びた。意図的に変えられた呼称はアベルの神経を末端から撫で擦り、奮い立たせる。
「俺はお前に言ったんだ」
「……え、あ、はい、シェフ」
「お前がどうしてもと言うなら止めない。が、俺はそんな気分じゃない」
そんな気分、と表現される気分がどんなものであるのか、アベルには何となく察しがついていた。
緩く弧を描く唇がお前の考えなどお見通しなのだと告げている。気付かれぬようにと様子を伺っていたその挙動が全て知られていたと思い至って、かっと体温が上昇する。
「分かるな?アベル」
oui、と震えない声で返すのが精一杯だった。
何度目かの訪問になったその家で、四宮が選んだワインを開ける。
白とダークグレーで整えられたアパルトマンはさほど広くはないが、いつ訪れてもよそよそしく感じない穏やかな空気に満ちている。
ダイニングの小さなテーブルに向かい合って座り、一口目を味わって飲み干したところで、伏せていた顔を上げた四宮が問い掛けた。
「迷っているならまだ間に合うが」
「……いえ、そんなことは」
意図せず躊躇いを含めた言い方をしてしまったが、アベル自身に迷いは少しもなかった。
異国の地−−足を踏み入れたことのない場所へ赴くことにもそれほど不安はない。日本語の勉強も興味深く、文化や歴史について知識を深めるにつれ、更に日本という国に関心が高まった。何より一人の料理人として、『SHINO'S
TOKYO』の看板と共に自分の培ってきた力を披露できる。この上ないチャンスであり、四宮小次郎という料理人に興味を抱いたアベルにとって、唯一無二の結果とも言えた。
「貴方に認められ貴方の生まれた土地で腕を奮う――これほどに満たされることはありません
よ」
「欲が無いな」
「――まさか」
しかしながら、突いて出た否定の言葉には自嘲にも似た響きがあった。目の前の男はそれを捨て置くことなく、目敏く拾い上げて唇だけで笑って見せる。
「……そうだな、物足りねえって顔だ」
「四宮さん」
首を振られる。添えられたnon、の短い否定に、かさつく唇を舐めてから囁いた。
「……小次郎、さん」
目を眇めた四宮の指先が軽くテーブルを叩く。操られるようにグラスを置いたアベルの手は、伸びてきた四宮の乾いた掌に絡め取られた。指の付け根を一つ一つ時間をかけてなぞられて、込み上げる切なさに呼吸が細く早くなる。注がれる視線に耐え兼ねて顔を伏せると、反対の手が顎を掴んで持ち上げてきた。再び重なる視線に
体温が勢いづけて上昇し、堪らずその蕩けるような熱を宿す瞳から眼鏡をそっと引き抜いた。
剥き出しの表情に見惚れる間もなく唇が重なる。キスの作法でさえこの人は無駄なく丁寧だった。軽く触れてから上唇、下唇と食み、緩んだ合間から舌を滑り込ませる。些細な味の変化を追いかける舌先が今はアベルの口内を官能的に這い回ることだけに集中している。快感に温まる指から取り上げた眼鏡をテーブルに離し、すり合う粘膜の感覚に耽溺していく。
「っ、ふ、……っ!」
テーブルを挟んだもどかしい距離に身を寄せれば、瀟洒だった仕草に火が点る。顎から首へと滑った掌が強引に引き寄せてきて、アベルはテーブルに腕をついてそれに応えた。
伝った唾液を指先で拭われるのを感じて舌先が震える。その些細な動きにすら自分でも驚くほどに感じ入ってどうしようもない。
「……っ、は、あ……っ」
焦れったいほど緩やかな動きで、粘膜を滑っていた舌が離れていく。
自らの濡れた唇を拭うその指は既にアベルの唾液で滴っていて、その仕草に意味など無い。ただ、アベルを煽る意図しかない。
「……アベル」
――欲が無い、などと。頷ける訳がなかった。
残る悔いがあると言えばただ一つ、そう簡単にはこの男の手に触れられなくなることであり、それはアベルが唯一渇望してやまないものでもあった。
湿った体温が残るベッドの中で、そういえば、と四宮が口を開いた。
「お前が気にしていた学園もあるが、そういうことか」
熱と汗が引いた素肌を、うつぶせにシーツへと押し付けていたアベルは、心地良い余韻に浸りながら身体を起こす。
ヘッドボードに背中を預けた四宮と目が合う。羽織っただけのナイトウェアから覗くみぞおちが官能的で、喉の奥が疼いた。
「理由は先程お話した通りです。……強いて言うならもう一つ、言い難いことがあるにはありますが」
「言えよ」
「俺が日本にいることで、貴方が故郷を思い出す度に、俺もその記憶にいることが出来る——踏み込めなかった貴方の空間に」
訊ねられるがままに答えた本音に、四宮は珍しく喉を震わせて笑った。
緩んだ目元と唇。心臓を鷲掴みにされるような切なさに息を飲んだアベルを、からかいを含んだ柔い声が包む。
「欲が無いなんて言えたもんじゃなかった。お前はとんだ強欲者だな」
「いけませんか」
眼鏡を取り払った剥き出しの瞳が、アベルを見つめる。熱を含む視線には、自分が抱く欲と似た火が宿っている。
綻んでしまう表情が恥ずかしくて舌先を上顎に押し付けて誤魔化す。しかしそれすらも四宮にはすっかり見透かされているようで、近付いてきた唇に舌ごと微笑を飲み込まれた。