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思い出されるのは言葉だった。顔でも、声でもなくて、言われた言葉の一つ一つを巻き戻すように辿っていた。
そうして思い知る。きっと自分は何よりも、あの男の言葉にすくい上げられていたのだと。

 酷く寝つきが悪かった。
目覚めるとぐっしょりと寝汗をかいていて、身体全体が言い知れない倦怠感に包まれていた。
まだ外は薄暗く、もう一度眠ろうと横になったが眠気は下りてこなかった。仕方なく目を閉じて物思いにふける。
 その内また意識を手放すだろう。そう思って身体の力を抜くものの、どこかピリピリとした神経の昂ぶりを覚えていた。
 頭痛ではないから予知のそれではない。
 言うなれば漠然とした不安。まるで子供のようなそれに自分で戸惑う。どうにかその違和感を逃がそうと、両手を握り込んでは開く。指先は冷えきっていた。
 ぐっと握った手に力を込める。すると横から伸びてきた手が、それを押し留めるように重なってきた。
「眠れないんスか」
 低い囁きに頷くと、男はそのまま手を掴んで引き寄せ、ゆるく指先を絡ませた。並んで寝転ぶ僅かな隙間に、繋がった手が滑り込む。男の手はぬるい。
 ――引っ張り込めそうな気がするから。いつだったか同じように、半端に目が覚めてしまった夜、寝ぼけた男はそう言っていた。
らしくない物言いが珍しくて目を見開くと、途端にだらしなく笑って誤魔化す所はいつも通りだった。
 しかしその時はそれだけで終わらせず、これまた珍しく重ねて男は言ったのだ。
 ――本当に引っ張り込めたらいいんスけどね。
 その妙に真面目くさった言い方が耳から離れなかった。思わず頷いてしまいそうになるよう な、そんな引力を持っていた。
 徐々に温められていく指先を思いながら目を閉じる。既に隣からは寝息が聴こえている。
 そのいっそ清々しささえ覚える深い寝入り方に、本当に引いて行ってほしいと思いながら微睡む。
 思うだけで、言葉にはならないそれを。

 時が経つのは早いもので、気付けばもう高校卒業まであと少しの所まで来ていた。
 就職か進学か、はたまた全く別の道か。人生の分岐点を目前に控え、周囲は皆どことなくそわそわと浮き足立っていた。
 ――彼と、その男を除いて。
 君たちの可能性は無限である。壇上で熱弁を揮う教師の言葉が、留まることなくすり抜けていくのを感じる。
 無限とは大きく出たものだ。産まれたばかりの赤子ならまだしも、少なくとも十数年は人生を生きてきて、少しの選択肢も狭まっていないというのは流石に無茶だろう。
 奮起させる為とはいえ、そんなあからさまな台詞が届くとは思えない。高い目標と無謀は違 う。
 尤ももし、もし本当に可能性が無限だったとしても、それ故に必ずしも向上心が刺激されるかといえばそうではない。
 有り余る可能性を秘めながらも、自己の未来をはっきりと見据えられない彼はただ、流れ込んでくる膨大な雑念を聞き流していた。
 先の話などする性質でないのはお互いさまだから、卒業後どうするのか、はたまたどうなるのか、全てが宙に浮いていた。
 両親は特に何も言わない。大方のことを認めてしまえる寛大さと、それ以上の愛情を持った二人は、自分で決めなさいと静かに背中を押してくれている。
 厄介な兄の話ではないが、このままもう少し学んでいくのもいいかもしれないと思い始めていた。学ぶと言っても、勉学とは少し違う。
 高校生活の三年間で、自身の考え方が大きく変わったのを彼は自覚していた。一番の変化はやはり人との関わり方だろう。
 幼い頃からその異質な力を持て余し、うんざりする程人の嫌な部分を見てきた。
 それを消化するには結局すべて投げ出して、離れた所で見ているしか無いと思っていた。
 ――今までは。
 自分の力が通用しない異次元の存在、こちらが開かずとも自分から受け入れようと躍起になる人間、力でもどうにもならない程の強運。
 それらすべてから逃れようと振り回して、振り回されている内に三年が経ってしまった。
 面倒で億劫、意味が無い。そう考える暇も無いぐらい、立て続けに押し寄せる人の思いに、次第に慣れてしまっていた。
 慣れだけなら、まだよかった。挙句唯一その素性を知る男と関わり、おおよそ友人関係とも呼べない程の仲になってしまったのだから居た堪れない。
 口を開けば女性と下半身の話しかしなかった男が、戸惑いながらも徐々に自分に対する執着心を認めていくのは、正直見ていられなかった。
 筒抜けなのを理解しつつも制御出来ない、あるいはしようとしないのだから余程重症だったのだろう。
 結局男が言葉にする前に先んじて問いかけてしまった。お前はどうしたいのかと。
 男は表情に困惑を滲ませながらもあなたのことが気になると返した。何が、と重ねて言いかけたのを遮られる。全部が気になる。
 真摯な視線と必死ささえ感じさせる物言いを茶化したかった。
 普段からそう貫いていれば、なびく女性もいるだろうに。しかし言わなかった。早い話、全部が気になると告げた男に自分自身、興味を引かれていた。
 多数の女性に向けられていた視線が、自分をとらえて離さないことに嫌悪より好奇心が勝っ た。
 気になり始めていた。
 特殊だ異質だと自分から距離を置いていたくせに、始まりは笑ってしまう程単純でありがちだった。
 それでも緩やかに始まった関係は途切れることなく続き、彼もそこに含まれる情を理解し始めていた。つまるところ、居心地が良かった。
 相変わらず女性がいれば反射的に目を向ける男だったが、逆にそれが追い込まれなくて良かった。世間一般の恋や愛は理解は出来ても体現出来ない。
 だからそれを求められても彼には返してやれないし、自分もそうあって欲しいと願っている訳ではなかった。
 全てを知りながらも何一つ知らないアンバランスな彼にとって、男の気安さは相性が良かっ
た。
 このままの関係性なら、繋がっていくこともあり得るのかもしれない。そう漠然と思い始めるくらいには密接になっているのだと思い返していると、並んで歩く帰り道で突然男が口にした。
「卒業したら、どうするんスか」
 時折そのことを考えているのは伝わってきていたが、言葉にされるのは初めてだった。何せそんな真っ当な話、重ねるが顔を突き合わせてするような柄ではなかった。
 斉木は一瞬の間を置いて首を振った。まだ決まっていない、そう受け取った男が次に考えたことに、思わずじっとその顔を見てしまいそうになった。
「学校、行くことにしました。実家継ぐんでその関係の。今世話になってる寺からは出て、まあ家からも通えるんスけど、ついでに部屋借ります」
 先に足を止めたのは男だった。数歩遅れて立ち止まり、振り返る。
夕焼けの赤を横から浴びながら、男は低い声で告げた。
「一緒に住まないっスか」
 流れ込むあらゆる感情の中で、男が言った言葉がはっきりと存在を示している。
 彼は自分が今どんな表情をしているか全く分からなかった。察するのと、言葉にされるのとでは違う。思っているだけなら見て見ぬ振りも出来る。
それを分かっている男が口にすることに、どれほどの思いが込められているのか、考えるまでもない。
 環境の変化を理由に断つことだって出来た。続くかもしれないと気ままな未来を想像しながらも、その現実的な選択肢だって念頭にはあった。
 いつ破綻するかも分からない。華やかな大学生活の中、魅力なんてそこらじゅうに転がっているだろう。
 本当に全てが億劫になった時、自ら去る心積もりはずっとしてきたが、生活の共有まで立ち入ってしまえばそれにも多少の制約がかかる。
 そう、あらゆる建前を考えていたが、根底にあるどうしようもない怯えに斉木は気が付いていた。否、それはもっとずっと前から存在していた意識だった。ただ埋没させていただけだ。
 恋も愛も、おおよそ一般的な感情は何も知らないのに怯えだけがあるのはきっと、他人を失いたくないと感じているから。
 これ以上踏み入ってそれを強くしたくない。素っ気ない自分でいたい。近付くのも離れるの も、ただ怖い。
「斉木さん」
 名前を呼んで男が近付いて来る。思わず身を引いてしまいそうになるのを堪えて立つ。向かい合った男は笑っていた。
「斉木さんがいたらほら、家事とか余裕じゃないっスか。だからね、住んでくださいよ」
 斉木はいつかの男の言葉を思い出していた。
 引っ張り込めたらいいと呟く男の真面目くさった顔と、今の笑顔が重なる。相手の心中が分かるからこそ、こんな拙い口車を理由にしてしまう。だから男はそれを分かって腕を引くのだ。
「帰ってきてください」
 穏やかな、それでいてどこか請うような言葉だった。
「帰る場所にしないと斉木さん、いつでもどこへでも行っちゃえるんスから、どっか行っちゃうでしょ。ちゃんと鍵開けて、帰ってきてください」
 場所を用意するから。待っているから、待っていてくれと。

 どこかへ行くならむしろお前の方だろう。
 僕はもう、そうそうどこへも行けやしない。

 家賃光熱費電気水道は折半、その他諸々は適宜。
 おおまかに決めたルールの中で、慣れない二人暮らしは始まった。
 宣言通り仏教系の大学に進んだ鳥束と同じくして、斉木も借りた部屋からそれほど離れていない大学へ進学した。
 進学を決めた要因はいくつかあれど、男の存在も大きかった。自分の前では照れがあるのかそれほどはっきりとは見せなかったが、将来を見据えた男はそこへ繋がる学校に真剣に向き合っていた。
 そんな姿を間近で見て、学ぶことについて興味が出てきた。学生生活自体にも好意的な印象を抱くことができたのは、紛れもなく今までの人間関係があってのことだといえた。
「たーだいまっス」
 間延びした声と共に、玄関のドアが開く。
 斉木さんちょっと、と呼び立てられる気配に迎えに行けば、男は大量のビニール袋を下げていた。
「家帰ったら檀家さんのところからの貰い物だって大量に渡されて……なんか野菜とか肉とか色々」
 どうします、と訊かれても困る。
 差し出されるビニール袋を覗き込めば、確かにかなりの量の野菜だなんだと詰め込まれてい た。
 これだけの量となると、すぐに腐るものばかりではないとはいえ溜め込むのも憚られる。冷凍庫の占有率も馬鹿にならない。
「どーします何か作る……あ、鍋しません鍋!?」
 なべ、と思わず口が動く。
 キャベツ、鶏肉、鍋に入れても問題のないものは間違いなく一通り揃ってはいるが、今の季節を顧みての提案だろうか。
 額に汗を浮かさせている男の顔を見つめると、からりと明るく笑われて頷くしかない。
 ――居間の冷房を一度上げて間に合えばいいのだが。
 レシピを検索して見様見真似で作った鍋のような水炊きのようなそれは思った以上に美味かった。
 ただやはり初夏の鍋物は厳しかったらしく、エアコンは一度どころか二度下げた状態で稼働している。
「やっぱりカセットコンロ買っといてよかったっスね」
 一番初めの買い出しの際に、男が必要だと言って買ったのが目の前にあるそれだった。
 ふうふうと汗を流しながら食べている姿を見る限りあってよかったのかと思わなくもないが、男は満足げだった。
「あ、斉木さんうどん」
 空になった斉木の取り皿を見て、男が手を伸ばしてくる。どうしてもうどんが食べたくて全体のバランスも考えずいきなり二玉ほど入れたのだが、煮立ったベストの頃合いで器へと入れられた。
 気を遣われている、と思った瞬間それを打ち消して思われているのだと考え直した。いつもの習慣に近いそれだ。
 男の言葉を受け入れて生活を共にし、これ以上ないほど時間を共有しているにもかかわらずふとそんなことを考えてしまう。
 それはシンプルでしかしながらいつまでも自分の根元に居座り続ける厄介な感覚だった。
 愛情というものがよくわからない。いや、理解はしている。
 両親が注いでくれるのは紛れもない家族の愛情であるし、例の厄介な兄も、形はどうあれそんな思いを込めていることはわかる。
 友愛、親愛、そんな感情は理解できる。しかしそれが唯一の他人に向けられる感情、恋慕の類いを含むと途端に見失ってしまう。
 異性の裸体に見飽きて、根本に存在する肉欲が曖昧になった結果なのかもしれない。急速にぼけていく視界の中で、差し込まれるのは男の言葉だった。
「何か家族みたいっスね」
 言った瞬間、男自身も愕然としていた。言われた斉木はといえば同じように食べる手を止めて固まるしかない。
 いや今オレ何。混乱する男をよそに、斉木は男の空になったグラスに目を向けた。
 テーブルに置かれたペットボトルを持ち上げ、麦茶を注ぎ入れる。満たされたグラスに、男は一拍置いてから手を伸ばして、一息で中身を飲み干した。は、と吐き出した息が乱れている。
 目が合って、笑ったのはどちらかが先だったか分からない。ただごく自然に、触れ合った唇が熱かった。

 一度だけ、そんな男が不安を口にしたことがあった。
 その日は男の帰りがバイト先の飲み会で遅く、斉木はといえば読みかけのミステリの面白さに没頭していて、同じように眠るのが遅かった。
 秋の夜長、のんびりと読書をするにはうってつけの季節だった。
ソファに身体を丸め、ラスト二十ページの怒涛の展開にもどかしくページを捲っていると、玄関の鍵が開く音がした。
 近付いてくる気配と思考。水、とこぼれた単語に台所へと向かい、水切りに伏せてあったグラスを取り上げてミネラルウォーターを注ぐ。
 薄暗い廊下を明かりもつけずに歩いてくる男は、水の入ったグラスを持った斉木を見とめた瞬間、ぐらりと身体を傾がせた。
 近付いた斉木が咄嗟にその身を支えようと腕を伸ばすと、熱を持った掌が背中に触れた。
くる、と思ったのが既に来た後だった。そんな訳のわからない感想を思いながら強く掻き抱かれて唇を吸われる。熱くアルコールに塗れた舌が口内を滑り、何度も覚えさせられた感覚が瞬時に引きずり出されていく。腰の辺りが浮く、あの感覚だ。
「っ、……やべ」
 男が顧みる前に気をやっていたのでこぼすことはないが、握り込んだままだったグラスの行方は気になる。
 身体が離れた瞬間グラスを取り上げて、男は一息で中の水を飲み干した。ありがとう、と囁かれたそばからまた奪うように口付けられる。
 空になったグラスを玄関横のチェストへ置いて、本格的に男の身体が伸し掛かってきた。覚束ない足取りのまま抱え込むように抱き着かれて後ろへ下がる。
 柔く唇を噛まれて思わず身を捩ると、晒された首筋にぬるりと舌が這った。とっくに察していた男の思惑をはっきりと読み取り、斉木は男を支えながら玄関マットへ腰を下ろした。間髪入れずに押し倒してきた男が手を取り、指を絡めてくる。掌とは反して指先は冷えていて、それに何故か少し動揺した。
「さいきさん、」
 覆い被さる男の顔は暗闇の中更に影をつくってはっきりとしない。ただその声が熱を持っているのにもかかわらずか細げで、斉木は右手の指だけ解いてその頬に触れた。
男の呼吸が一瞬だけ詰まる。
「……っ、ごめ、いたいっスよね」
 押し付けたフローリングの硬さに怯える男を抱き寄せる。左手の指は強く結んだまま、片手で触れる背中が離れていかないよう強く抱いた。
 痛みなどどうにでもなると言えば男の方が酷く傷付いた顔をするから、あくまで今ここでこうして触れていたいのだと伝えるように労わる。何ならこの場で抱かれたっていい。
言葉は何もなくても、男の心が何かに揺れていることは分かった。特別な力などなくても、それぐらいは分かる。分かるのだ。
 抱き締める力を少し緩めて、身を委ねる意志があることを伝える。いまだ動こうとしない男の鼻に自分の鼻先を触れさせると、その拍子に男は押し倒していた身体を引き上げ、向かい合った状態で座らせた。伏せられていた顔が斉木に向けられる。
「すんません、何か……斉木さんいるかな、って思って……顔見たら安心、して……」
 酔いの所為だけではない、要領を得ないつたない物言いに、斉木はもう一度男の身体を抱き締めた。熱を持った耳に唇を押し付け、大丈夫だと繰り返した。男は何が、どうしてとは口にも頭の中にも出さず、ただ頷いた。
「ただいま、斉木さん」

 決して広くない1LDK、それでもすべてはそこにあった。
 無理矢理押し込んだ小さなソファに腰掛けて片手間に家事をする。
 テレビを観ながら積まれた洗濯物を折り畳む。面倒なルーチンワークも、頭で念じるだけで指ひとつ動かすことなくこなせる。
 けれど何となく味気無さを覚えて、わざわざ手を伸ばして畳んでみた。
 洗い上がりのタオルからは陽向の匂いがする。実家で使われていた洗剤とは違う種類のようで、その合間に、慣れない香りがしている。
 気まぐれにキッチンにも立ってみた。
 料理なんてそれこそ、高校の調理実習以来だ。それも自分から興味を持ったのは甘いものの時ぐらいで、他の作り方なんてまるで覚えていない。
 見よう見まねで作った料理――カレーやパスタといった簡単なメニューにも、男は大層喜ん だ。
 美味いっス毎日食いたいっスと何度も繰り返して笑った。同時に流れ込んでくる寸分の違いもない思考につられて笑えば、それが何よりも尊ぶべきことのように男は優しく目を細めていた。
 家族みたいだと言った男に嘘は無い。いつだって嘘は無かった。
 ただこの世界はままならないことや息苦しい何かにまみれていて、それは時に正直であるものを手酷く傷付ける。

 夜風に冬の気配が混ざる、秋口の頃だった。
 時期としては少し早いが、何となく食べたくなって鍋の用意をしていた。少しは手慣れた包丁使いで野菜を刻み、こだわりなくあれこれ入れていく。じわじわと煮たっていく鍋の音をぼんやりと聞くのが好きだった。
 連絡通りの時間に扉が開いて男が帰ってくる。
 おかえり、とかけた声に対する返事が少し遅れて、玄関まで様子を見に行こうとした。――行こうとした、ものの、不意にひやりとしたものを感じて立ち止まる。
 案の定、顔を出した男の表情は強張りきっていた。
 目が合って、男は微笑む。その笑みに何の意味もないとしても、この男は絶対に自分に向かって笑うのだ。
 近付いてきた男は、斉木の体温を確かめるように手を取って握り込んだ。
 軽く息を吸い込んで、何でもない話をしようと男の唇が動く。動いて、しかし止まった。眉がぐっと寄せられる。こちらが泣きたくなるほど、悲しい笑みだった。
「――こういう時、隠しておけないのはちょっと、辛いっスね」
 言ってしまえば、要は心ない噂がすべてだった。
 二人で買い物をしているところを見かけた大学の知人がその話を別の人間にして、尾ひれがついた話が拡散された。元々恋人がいると公言していたし、家に友人を呼ぶことも無かったから邪推は容易に広まった。留まることのない噂は伝染し、やがて男の寺にかかわる檀家の耳に入っ た。
 檀家から話を聞いた寺の主――男の父親は大きな動揺を見せなかった。ただ力と声の大きい檀家の一部はあからさまな嫌悪感を隠すことなく、ことあるごとに寺に向かって余計な口を出してきたという。筋違いなのは相手であり、こちらは何も後ろめたく思うことなどないのだと父親は男を諭したが、はっきりとした対応方法は見つかっていないようだった。
 ――このままだと、斉木さんも、みんな。
 きつく掴まれた手首に震えが伝わる。
 殊更明るく言おうと努めているが、押し殺せない感情が指先から洩れ出していた。
「……恋人なんて、いないって言えばよかった」
 飯作ってくれるって言ったら惚気んなって言われたんスよ。自分から訊いといて酷くないっスか?
 そんな風に甘ったるく笑っていたお前に、自分は確かにゆるされていた。
「あんたにだけ、斉木さんにだけ、好きって頭ん中で思ってればよかった」
 口にする必要なんてなかった。声にしなければよかった!
 ぜんぶオレのエゴだ。
 悟ったような声と裏腹に心は喚いている。泣いている。バカだった、オレは本当にあなたを。
「言葉なんて、要らなかった」
 そんなことを言ってほしくはなかった。
 けれど今それを口にしても、綺麗事にしかならないのが分かっていたから黙っていた。
 それでも斉木は男が言った、待っているから待っていてくれという言葉を拠り所にしていた。
 そうやって男が笑うから恐れなくなった。それがすべてだった。
 すべてだったのだ。
 吹きこぼれる鍋の音に紛れて、男の小さな声がぽつりと落ちた。
「ごめん」
 謝罪の言葉は、唯一要らないものだった。

 別れは二人で決めた。どちらも互いに責任を負わすことのないよう話し合って、翌日には部屋の解約と引っ越しの準備を進めた。幸い転居先はすぐに決まり、男が先に出て行くことになっ た。
 ――いらないものがあれば持っていくんで。そう言ってどこまでも自分を気遣う男の顔は、酷く疲れていた。
 1LDKは瞬く間に空っぽになった。
 ソファも、流行りのパンケーキを焼くためだけに買った大きなステンレスのボウルも、酔っぱらった男が躓いて捲り上げたラグマットも無い。
 全て持って行かせた。
 何もかもが全てが夢のように思えるその潔さの中で、ただ胸の奥にぽかんと空いた穴だけがそれを事実だと告げていた。
 ものにこだわりが薄くて、二言目には斉木さんは何が良いっスかと口にする男。
 ストロベリー?チョコレート?迷ってるならもう片方はオレが。三つは駄目ッスよ食べ過ぎだから。
 そんな男が一つだけ選んできたのがそのカーテンだった。淡いレモンイエロー。
 暖色系のカーテンは部屋を暖めるから。モテたくて読んだ女性誌に書いてあったと茶化して。
月の無い、暗い夜でもきっとよく眠れる。一人の夜でも。オレがその手を引けない夜も。
目の縁が熱くなって視界が滲む。フローリングに落ちた雫は、絶え間なくどんどん溢れて止まらない。
 何もない部屋。これからはまた違う誰かが物や家具で埋める部屋。その真ん中で斉木は一人溢れる涙を持て余していた。
 頭ががんがんと揺さぶられる。レモンイエローがそれを宥めるようにはためく。
失ってしまった。初めて味わう、歯を食いしばらなければ耐えられないような深い喪失感に立ち尽くす。
 揺れるカーテンがある限り眠れるのかもしれない。それでも男はいない。かえってこない。好きだという言葉も聞こえない。心がみつからない。
 ひとしきり涙を落として、斉木は学んだ。一人で泣く時は傍らにティッシュペーパーがいる。
紙の一枚も無い部屋で仕方なく、服の裾で拭う。力を使う気にはなれなかった。
腫らした目元のまま引っ越し業者を待つ。やってきた広告よろしく精悍な顔つきをした男性は、斉木の散々な顔を見ても顔色一つ変えずに淡々と仕事をした。心を読む力など無くても、気付く人間は気付く。
 あの男と同じように。
 滞りなく荷物は運び出され、部屋は来たときと同じ空になった。カーテンも取り外され、何も残ってはいない。
 やってきた管理会社にキーを返して、エントランスから外に出る。
 眩しい秋晴れの空とは裏腹に、吹き込む風は少し冷たい。忍び寄る冬の気配に溜め息を吐いて歩き出す。
 濡らした頬に空気が刺さって痛い。
 突き刺さって痛かった。

 短い秋が終わって、冬が訪れる。次に春、夏。順繰りに滞りなく巡る季節に紛れて少しずつ、意識が霞んでいく。
 じくじくと抉るようだった鈍痛は次第に薄れ、ただ時折思い出したように、斉木の心を掠めていった。
 家に入った瞬間、デザートにスプーンを入れる寸前、食卓に着いた時、眠りに落ちる、微睡の合間。
 記憶の奥にしまいこんだその声が脳裏に響く度に、斉木は身体が軋むのを感じていた。それでも何度かそれを繰り返す内に、自然と込み上げる衝動を抑え込む術を学び始めていた。
 人間の順応性は高い。どんなことにもいずれは慣れてしまう。持て余す力に慣れ、冷えた頭でその事実を眺めるようになった自分と同じように。
 夏が終わり、また秋がきた。冷たくなり始めた空気に包まれながら鍵を取り出し、家のドアを開ける。
 ものの少ない、こざっぱりとしたワンルームだ。三和土で靴を脱ぎ、すぐ右手に備えつられた小さなキッチンで湯を沸かす。いつも通りのルーチンだった。
 ドリップバックをコーヒーカップにセットしているとふいにインターホンが鳴った。何者だろう、と意識する前にドアの向こうが透けて見えて印鑑を用意する。
 宅配会社は片手で運べるほどの軽く小さな荷物を置いて行った。送り主は実家からだった。
 開ける前に、中身は分かっていた。
 見覚えのある、淡い黄色の布。その色を目にしただけで、心の奥底に眠らせていた記憶が鮮やかに甦って息が詰まる。
 風に揺れる黄色に、焼いたパンケーキに乗った苺の赤。並べて洗濯物を干した青空。くすんだ視界が一気に開けるように色づいて、目を見開いた。
 忘れる訳がない、一つ一つの思い出が、眩しく瞬く。
 震えそうになる指で荷物の封を切り、添えられている文章に目を通す。実家の母からだったその手紙には、互いに引っ越し先を教えていない相手から、自分のもとへ送ってほしいと届いた旨が書かれていた。
 メッセージ等は見当たらない、薄いビニールに包まれたその柔らかい布に触れる。
 ほんの一瞬、素手で布に触れることも考えたがすぐに打ち消した。自分の心の思うまま、相手の思いを推し量りたかった。
 ――要らないから、手放した訳じゃない。
 言葉も確証も何もなかった。それでも斉木は相手と確かに心が通じた気がして、持ち上げたその布を丁寧に開いた。
 あの頃と変わらない、心地よいぬくもりを感じるレモンイエローが眼前に広がる。光に透けるそれはまるで、野に咲く花のようだった。
 緑の中に揺れる、黄色の花弁。新しい出会いと別れを連れてくる季節と共に花開く、菜の花のつぼみ。
 ――春が、近付いている。

 長くもあり短くもあった学生生活の締め括りを終え、斉木はのんびりと大学近くの土手を歩いていた。
 気候は暖かく風も無い。穏やかな昼下がりの一時に、こうして気ままに散歩できるのも、今の間だけだと思うと感慨深い。
 どうしたものかと決めかねていた卒業後の進路は、母校とはまた別の大学職員という形にひとまず落ち着いた。
 特殊な力を持っているという状態は変わらず維持されているし、兄などは色々と言いたいこともあったようだが、最終的にはやはり自分の決定を尊重していてくれている。
 斉木自身取り違えそうになっていたが、世の中において自分が知っていることなどほんの少しにしか過ぎないのだ。
 生まれ持った力の為、すべて理解していると、ともすれば驕りを抱いてしまいそうになる。あるいは、力などなくとも思い込みや直感でそういった考えに至ることもあり得る。
 しかし「事実」を知ることと、その向こうにある心や感情を理解することは根本から違うの だ。事実はある一つの側面でしかない。
 そうやって多角的に物事を見る取っ掛かりを学問から得たことで、その機会を得んとする学生の手助けになればと考えるようになった。
 もちろん、元を辿ればそれだけではない。そんな四年間を過ごそうと思ったきっかけ、高校生の頃の様々な出会いの中で、特別色濃く残る、その顔。
「斉木さん!」
 ついに聞こえた名前に、足が止まる。
 一瞬固まって、弾かれたように振り返った斉木は――露で湿った草に革靴をとられて、大きく身体をよろめかせた。
「ちょっ、斉木さん!?」
 もちろんそのまま土手を滑り落ちるなど、斉木に限って有り得ない。そんなことは呼びかけた相手だって承知している。
 それでも男は真っ先に斉木の元へ駆けてくる。揺れた手を握り、力を込めて引き寄せてくる。当然のように。
「――マジで引っ張ることになるとは思わなかったっスよ」
 言葉が出てこない。あの時、眠りの縁で垣間見た男の微笑みと、引き寄せられ近くなった距離で見る今の笑顔がすんなりと重なる。
 近付いてきていることも、呼びかけられることも予期していたのに、それでも信じられなかった。
 もっとも、力とは関係ない、感覚的な部分で希望として抱いていたのも事実だった。春の訪れと共に、再び淡い黄色がたなびくことをただ、期待していた。
「卒業、おめでとうございます」
 そう言って笑う男に、そちらもおめでとうとやっとのことで口にする。
 着なれないスーツ姿の斉木と対照的に、男は普段着だった。一足先に式を終えていたことは、説明されるまでもなく伝わってきている。
 言うべき言葉は依然見つからないままだった。ついその場から後ずさりかけて、握られた手首に力が込められるのを感じた。
 伺うように斉木は目の前の男を見つめた。男は視線を逸らさなかった。
「……筋は通したつもりっス。家の息子として学校出て、違う寺で勉強します。学生はきっちり卒業して、胸張って生きられるようになります。オレの向き合い方で、檀家に納得してもらえるように」
 手首を掴んだ手が、今度は指先を握り込む。決して強い力ではないのに、簡単には離れない、強い結びつきを感じた。
 それなりに人が行き交う往来で、男は自分の気持ちをためらわず言葉で、そして行動で表し た。
「言葉なんていらないなんて、そんなことなかった。オレはあの時ちゃんと言葉にして説得したんスよ。あんたと一緒にいたいって」
 熱く込み上げるものを感じて喉が熱を持つ。覚えのある感覚に視界がじわりと滲んだ。経験則から慌ててポケットを探るが都合の良い布は入っていない。けれど零れ落ちそうになったそれ を、男の指先が拭っていく。
「言ったでしょ、帰る場所にするって」
 聞いた。確かにその言葉は、ずっと心の中にあった。
「物質的な場所じゃない。オレがそばにいることが、斉木の帰る場所になればいいんだって、やっと気付けた」
 斉木さん、と呼ぶ声が聞こえる。唯一無、二のその声が、何度でも斉木をすくい上げて離さない。
「帰って、きてください」
 あの時と同じ言葉に、斉木は再び頷く。何度も頷いて、そして今度は自分から、男のあたたかな手を握り返した。

 決して広くない1LDK、その部屋は少しずつもので満たされていく。
 新しいラグ、新しい家電、新たな生活と共に増えていく中で、変わらないものもある。
 ひとつは、柔らかな色のカーテン。淡く風になびくその黄色は、布そのものが変わっても色味はきっと変わらない。
 そしてもうひとつは。

 慣れた手つきで鍵を差し込み、扉を開ける。待ち構えたように部屋の奥から顔を出した男が笑って言う。
 いつだって変わらないその言葉に斉木も応える。この先も、何度でも。


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