奔る夜

 

 別に気取っている訳じゃないが、俺には分かる。
 例えばその日のお前のちょっとした間とか、視線の揺れ方。俺を呼ぶ声なんかで。
 ――いや、本当言うとその直感がどこから来るのか、俺も自覚出来ていないのかもしれない。それでもとにかく分かるんだよ、桐生。 お前が何かにもがいている、その気配が。


 熱い夜だった。空気はからっとしているが、気温の高さは尋常じゃなかった。
 その熱の所為か何なのか、俺は妙に神経をピリピリとさせていて、吹っ掛けられた因縁を適当にあしらうことが出来なかった。

 神室町の端、奥まった路地の一角で二、三人に殴られる。相手は本職じゃない、ただのチンピラ。
 クソガキに毛が生えたようなそいつらの憂さを込めた拳が、代紋をつけた俺の頬を抉り、溝尾に入り込む。
馬鹿な奴らだ。一時の高ぶりで相手を選ばず喧嘩を売ってどうする。そんな塞がった思考で生きているから、吹き溜まりで抱え込んだ膿を吐き出せずにのた打ち回る羽目になるんだ。
 時代は動き、金と欲望をはらんでそびえ立つこの神室町という街も大きな波に乗りつつある。今前を見据えずにいつ顔を上げるんだよ。

 俺は心の内で目の前の人間を嘲り、そして憐れんだ。
 口の中に溜まった血を吐き出し、向かってきた拳を掌で受け止める。 血走った眼と殺気に、殴りかかった男が怯む。
 ギチギチと音を立てて握り込んだ拳を放り投げ、俺は奴らに背を向けて歩き出した。
 呆気に取られていた男の一人が怒鳴り、俺に近付いてくる。しかし振り返った俺が一度凄みを利かせて睨み付けると、男は途端に委縮し、振り上げた拳を彷徨わせた。
 そうだ、そうしてろ。顔を上げないなら身の程ぐらい弁えておけよ。

 軋む骨に舌打ちながら路地を抜け出た。無駄な時間だったと心底後悔して、暗い夜空をうんざりと仰ぐ。
 そう、本当に無駄だった。俺は絶対に身を伏せない。この時代、この街、この代紋。一つたりとも無下にして堪るものか。

 痛みに火照る肌が熱い。眩いネオンにじっと目を凝らしていると少しずつ神経が静まり、血の気が収まっていく。
 しかし腹の底に滞留する不快感は消えなかった。叫び出したいような、駆けずって身体を苛め抜きたいような衝動に捕えられている。
 酒か、女か。とにかく別方向の刺激を与えて――そこまで考えたところで、頭を振る。そのどちらもが上滑りして生温かった。もっとこう、芯から握り込まれるような刺激でないと駄目だ。
 そう考えたその瞬間、瞼の裏で光が明滅し、ある種の確信を抱いた。痛む足も気に留めず、俺は停めてある車に向かって駆け出した。


「桐生! おい桐生起きろよ! 出るぞ!」
 安普請の借家、その一室の扉を叩きながら俺は叫んだ。はっきり確認してはいないが、騒ぎ立てながらノックするような時間じゃないことだけはたしかだった。
 それでも俺は構わず部屋の主を呼び続ける。程なくして勢いよく、苛立ちを込めて扉が開かれる。
 顔を出した男は、忌々しげに頭を掻きながら俺の愚行に向かって吠えた。
「うるせえぞ錦何時だと――お前、どうしたその顔」
「んなことどうでもいいんだよ。行くぞ、付き合え」
 未だ腫れの引かない俺の顔を見て固まる桐生。俺はその戸惑いを笑い飛ばして指に引っ掛けたキーを回した。俺の思惑を察した桐生が眉を潜める前に扉を全開にしてやる。
 分かってるよ。どうせお前も寝つけなかったんだろ。さあ行こうぜ。全部ぶっ飛ばして風にさらして。


「飛ばし過ぎなんだよ!」
「今更言うなよ!」
 開け放った窓から車に吹き込む風。その乾いた風が最高に心地良いのに、何故か俺たちは怒鳴り合っていた。
 理由は単純だった。首都高を駆け抜ける俺たちを追いかけるヘッドライト。何を勘違いしたのか、どこぞの走り屋が唸りを上げて車を猛追し、俺は額に汗を掻きながらアクセルペダルを限界まで踏み込んでいた。
 けたたましいエンジン音が風を切り、耳の奥でぼうぼうと遠く反響している。冷めた痛みがまたぶりかえしてきて、訳の分からない高揚と共に脳髄を掻き乱している。

 ダッシュボードの上を滑る煙草を捕まえ、勝手に引き抜きながら桐生が言う。
 今からでもスピード落として、普通に走りゃいいだろう。
 バカ言え、追っかけられたら逃げるしかないだろうが。俺の愛車が見てくれだけだって思われるのも気に入らねえ。
 メーターは既にフルオーバー。それでもお前はやれる筈だぜ。俺の身勝手な願いは届かず、追い詰める光が近付いてくる。

 なんかうまくいかねえな。いや、うまくいってんのかいってないのかも分からねえ。
 さっきのガキ共を馬鹿にした手前大きな声じゃ言えないが、俺たちだって前がどっちかなんて分かってねえのかもしれない。
 ただ目についた何かに喰らいついて踏ん張ってる。俺たちが顔を上げた所にいつだって立っていた、大きな背中を追いかけて。
「桐生!俺にも煙草くれ!」
「残念だな、これで最後だ」
「あ!?つーかお前自分のは!?」
「忘れた」
 この野郎!
 俺は素知らぬ顔で煙をふかす男に歯噛みし、大きく舵を切った。傾いた重心に桐生の身体も持っていかれる。
 半分残ったドアガラスに肘をついて耐えながらも、唇に挟んだ煙草は意地でも離さないとばかりに顎を引く桐生に俺は思わず笑った。
 お前はそういうヤツだよな。こうと決めたら梃子でも動かない。
 ヤニで誤魔化せなくなった痛みをまぎらわす為に声を上げながら、高速で伸びていく灯りに目を細める。
 たしかに今は俺たちもぶん回されてるだけかもしれない。でもいつか来る気がしてるんだよ、俺たち自身がステアリングを握って周りを引っ張って、その中心で肩組んで笑ってるそんな日がさ。
 だからその時が来るまでは、こうやって車ぶっ飛ばしてようぜ。予行演習ってヤツだ。お前が耐えかねたら迎えに行くから。
 大丈夫、お前の気分が俺には分かるんだ。それにお前がそういう時は、たいてい俺も同じ気分なんだよ。
「おい錦!お前どこまで行く気だよ!」
「んなもん後ろの馬鹿に聞いてくれ!」
 淀んだ空に星は無い。上等だ、だって夜は暗いもんだろ。見えねえっつうならハイビーム出して、灰皿のシケモク全部ぶちまけて燃やしてやりながらでも進もうぜ。

 あっお前今バカにしただろ? 分かるさ全部。真夜中に車転がしてても分かるんだよ。
 嘘じゃねえよ、気取ってもねえ。 ――いや、でもやっぱり正直ちょっとだけ、気取ってるのかもな。