Good night my sweet

 

 どこかでその話を耳にした時も、取り立てて何も思わなかった。衝撃とか、痛みとかそんな感情とは無縁で、寧ろどうしようもなくほっとしたような覚えがある。
 それ以来その人間のことは記憶から消して過ごしていた。過ごして、いた。

 金曜日の夕暮れ、少しの雨。冬が近付き始めた気候は肌寒く、街の人通りはそれほど多くは無い。
 斉木は足早に通りを歩いていた。目当ての本は手に入れたし、少しでも早く帰りたい。頭の中では、相変わらず他人の思考が口々に喚いている。
 特別なことなど何もない、気怠い一日の終わりだった。 早く人ごみを抜けてしまおう。い っそのこと手近な所で、瞬間移動したっていい。
 足をより速めた所で、赤信号にぶつかる。くすんだ視界の中、忌々しくその赤色を睨む。ようやく変わった信号と同時に足を踏み出す。
 行き交う人の間を縫い、横断歩道を渡り切りかけたその時だった。男を、見つけたのは。
 真向いの店のガラス越しに、その男はいた。買い物を済ませ、にこやかに店員へ会釈をしている。
 店を出ようとする男に斉木は足を止めかけたが、点滅する信号に急かされるように駆け寄っ
た。 扉を開け、顔を上げた男と斉木の視線が重なる。男が口を開く前に、心の声が呼ぶ。斉木さん、と。
 そのカフェは混み合ってはいたが 、煩くはなかった。穏やかなピアノの音楽が聴こえる落ち着いた雰囲気で、これならいっそ、もっと賑やかな場所の方が良かったかもしれない。斉木はそんなことをとりとめなく考えていた。
「ご無沙汰っス、斉木さん」
 昔と全く変わらない口調で、鳥束は緩く笑った。見た目だってそうは変わらない。流石に服装は年齢に合わせて変わっていたが、声や顔、立ち振る舞いは以前のままだった。 斉木は小さく頷くと、男の顔から視線を外した。力の所為だけではない。何となく正視に耐えなくて、意味もなくテーブルに置かれたコースターに目を落とす。
 沈黙が間を満たしていく。 尤も、鳥束自身の思考は伝わってはきていた。ただそれも雑然としていて、ここお洒落な店だな、結構静かだ。そんな内容ばかりだった。
 いい加減その間が苦しくなった頃、見計らったように店員がメニューを運んできた。斉木はろくに見もしないまま、適当に目についたブレンドコーヒーを頼む。
 すると鳥束が心の内でゼリー、と思ったのが分かった。 思わず斉木が鳥束を見ると、目があった男は少しばつの悪そうに微笑んだ。無意識だったというその反応に、斉木は何ともいえず窓の外へ目を向ける。向かいからは同じものを、と声が聞こえた。
 店員が下がった後も、やはり沈黙は続いたままだった。当然と言えば当然だった。そもそも、話すことなど無いのだから。 この場にいるのは、やむを得なかったからとしか言いようが無い。 偶然再会した鳥束と斉木は、なかなかその場から動くことが出来なかった。互いに、次の動作を決めかねていたのだろう。結局いつまでも立ち尽くす訳にもいかないと斉木が歩きかけた時、鳥束が不意に口にした。
「雨宿りしませんか」
 その言葉が、全てのきっかけだった。

 互いに傘を手にしていながら、雨宿りとは随分と陳腐な理由だったと今では思う。ただその安っぽさや思い付きが何を思い起こさせるのか、深く考えるのは避けたくて、思考を閉じていた。
「元気っスか、斉木さん」
 脈絡のない言葉に斉木は鳥束を見る。男は別段居心地の悪さなど感じていないようで、唐突な問いかけも、どうにか会話を見つけたいとかそんな意図からきているものではないらしかった。 自分から誘ったのだから当然ともいえる。斉木は黙ったまま頷き、探る目で男を見返した。
「良かった。ほんともう、ずっと会ってなかったから……」
 まるで旧知の友人にでも言うようなその口ぶりに、斉木は心の中だけで呟く。鳥束は懐かしそうに目を細め、視線を彷徨わせた。
 「オレも元気でしたよ。しかしホント偶然っスね、買い物、とか?」
 ちらりと斉木の傍らにある紙袋に目を向け、鳥束は首を傾げて言う。返事をする前に彼は印字された書店の名前を見て、本っスか、と納得したように頷いた。
 合わせる訳ではなかったが、斉木も男の横を見る。素っ気ない茶色の紙袋とは違い、桃色の包装紙が、柔らかなフィルムに覆われている。中身が透けてしまう前に、視線を外した。
 男の思考が伝わる前に、店員がコーヒーを運んできた。立ち上る湯気をじっと見つめる。店員が一礼し去った所で、斉木はカップに口を付けた。熱い液体が、冷えていた唇に触れる。
「頼まれてて。――妻に」
 鳥束はコーヒーに手をつけないまま、真っ直ぐと斉木を見て言った。 妻。僅かな照れも含まずさらりと口にされた言葉を、斉木は舌をつく苦みと共に飲み込む。
 言葉で聞く前に分かっていたそれに、今更改めて動揺するような性質じゃない。 何と言ったものとかと少し考え結局、そうか、と気の無い相槌を返した。その間も、鳥束はじっと視線を向けている。
 ――当人から聞いた訳でもなければ、その思考から知った訳でもない。正直はっきりとは覚えていないが、人づてに耳にしたことは確かだった。
 学生の頃から奔放で、あらゆる意味で女性に積極的だったその男がついに、伴侶を得たと。
「やっぱり、聞いてましたよね」
 斉木はカップを見つめ、視線を合わせなかった。 黙って頷く斉木に、鳥束は独り言のように言う。
「ほんと、人生って何があるか分かんないっスよ……」
 斉木は視線を落としたままだったが、鳥束が何を見てそう言っているのか分かっていた。今日その姿を目にした時からずっと、真新しくきらきらと輝いている、左手指のそれだ。 しみじみと何かを噛み締める口調と思考には、柔らかい幸せが溢れている。斉木はカップをゆっくりと持ち上げ、コーヒーを飲む。
「結局オレも、寺継ぐことにして。別に父親は構わないって言ってくれたんスけど、まあまだ全然、勉強中で」
 もちろん、そんなことも斉木は知っている。鳥束もそれを分かりつつ、あえて口にしているようだった。 それこそ古い友人同士のように、お互いが知らない相手のこれまでを、擦り合わせるように会話をする。そのことに何の意味があるのだと、思いながらも斉木は、鳥束の話を遮らなかった。
「周りに色々迷惑かけながら、何とか」
 ――周りにも、あいつにも。鳥束が思い浮かべたその人が、言葉と一緒に思考として重なる。 本当に、よく出来た人なのだろうなと思う。
 わざわざ言葉にされずとも、考えを、読まずとも分かる。 寺という特殊な環境は尚のこと、この男に嫁いだ人だ。幼い頃から幽霊が見え、常人とは違う人生を歩んできたこの男に。 恐らく、鳥束自身も思う所は沢山あっただろう。女性には積極的だったが、それはあくまで、気軽に関われる範囲での話だ。深い所に入り込まれるのを、男は本能的に避けていた節があった。
 それに関して、斉木から言及したことはない。分かりあっていたなんて口が裂けても言えないが、多少なりとも似通った境遇ではあったから、何となく察していただけだった。 何れにせよその上で鳥束が彼女を選び、寄り合って生きていくことを決めたのだ。幸せと、呼ばずして何というのか。
 斉木は改めて今の現実を思い、そして実感した。残っていたコーヒーを飲み干し、鳥束を見
る。ほんの少し、その瞳を見つめる。
 ――最後に。 おめでとう。それだけ言って、斉木は鳥束から視線を外した。
 鳥束は何も言わない。思考も何故か混乱していて、おめでとう、何が? 何が――そんな意味不明な考えが巡っているばかりだった。
 何、考えて――
 散らかった頭の中、そんな考えが混ざる。先程までとは打って変わって、落ち着きを無くした鳥束の様子に、斉木まで混乱しかける。
 祝った言葉に、偽りなど無かった。当然だ、他人の幸せを願えない程、腐った人間じゃない。それが例え、――例え以前、友人を超えた関係であったとしても。
 混雑していた店内が少しずつ空き始める。外は相変わらずの天気だったが、日は完全に落ちていた。色とりどりの傘がガラス越し、慌ただしく過ぎていく。
 斉木はテーブルに置かれた伝票に視線を移した。波立っていた感傷が静かに引いていく。黙ったままの男は、身動ぎ一つしない。
 これ以上留まっても仕方がない。また絡まった思考が流れ込んでくる前に別れようと、斉木は伝票を手に取った。
「雨、止まないっスね」
 視線を向けると、鳥束は窓の外を見ていた。弱まるどころか激しさを増しつつある雨に、ガラスが煙る。
「斉木さん、雨宿りしませんか」
 もう散々しただろう。離れた掛け時計に目を向けて言い、斉木は机に手をついて立ち上がっ
た。すると冷えた手が、当然のように重ねられる。
 どうしてか、逃げ場が見つからなかった。
「知ってます? 斉木さん」
  冷たかった。それが指先か、それともそこに嵌る輝かしい輪の所為か、分からない。
 ただ一つ、確実に分かっていることがあった。次に続く言葉を、言わせてはならない。心の中だけで、留まらせておかなければ。
「今日の雨、朝まで上がらないんスよ」
 もう二度と、重ならないと思っていた視線がぶつかる。 衝撃は薄い。あるのは込み上げる懐かしさと、分かっていたのに言わせてしまったことへの、深い、深い罪悪感だけだった。

 人の少なくなった通りを歩いていた。雨の勢いは少し収まっていたが、それでもだらだらと降り続いている。 傘の幅以上に距離を取り、斉木は鳥束と並んで歩いていた。
 うらぶれた路地に一歩一歩近づくごとに、自分は何をしているのだろうと立ち尽くしそうになる。そして一方で、大した拒否も示さず、のこのことついてきた自分を認め、閉じていた思考がはっきりと顔を出していることを自覚しつつあった。
 再会した昔の友人と一杯。有り得ないが、そんな場面だったらどれほどよかっただろうとも思う。実際、傍から見ればそうとしか見えない筈だ。
 しかし斉木と鳥束は友人ではない。そして向かおうとしている場所も、居酒屋の類ではないのだ。
 寒いな。鳥束はずっと、そんなことぐらいしか考えていなかった。斉木は男の手元に視線を向けた。薄闇の中でも存在を示すそれに飾られた指は、洒落た袋をしっかりと握っている。 しかしその袋には、地面に跳ね返った雨粒がいくつも付いていた。斉木は思わず立ち止まる。 何をしようというのか。どこへ行って、何を。
 傍らの男にはただ一人の人がいる。男が行く所は自分の家で、なすべきことは、手に持ったそれを最愛の人に届けることだ。それ以外に、何が。
「……斉木さん?」
 立ち止まった斉木に気付いた鳥束は、少し離れた所で振り返った。斉木は辺りを見回した。人通りは無い。今ならこの場から目立たず、すぐにでも消えることが出来るだろう。 訝しむ鳥束に斉木は首を振り、傘を畳んだ。程なく消えられる。これでもう会うことも無い。もう二度と。
「斉木さん!」
 傘を放り出して鳥束は駆け出した。寺は忙しく、決まった休みなど殆ど無いと聞く。着る機会も少ないだろうに、せっかくの私服が濡れてしまう。指の、証も。
 斉木はそんな的外れなことを、曇る視界の中で考えていた。
「なっ、んで……なんで、」
 腕を掴み、鳥束はそれだけ言った。分かり切った疑問をまだ口にする男に、斉木はもう一度首を振った。 こんなことに、なるなら。きちんと別れているべきだった。
 高校を卒業し、行く道が違えたことで自然と失った繋がりに、こんなに情けなく追いすがる羽目になるなんて。 繋がりは無くなっても、思いはそう簡単に消えるものではないのだと、生まれて初めて思い知った。忘れたと、自覚していた男の記憶が、一目見ただけでこんなにも、生々しく蘇るくらいなのだから。
「斉木さん……オレね、忘れたと思ってたんスよ。今の、今まで」
 伝わる筈がないのに、鳥束は斉木と同じようなことを口にする。苦々しく微笑んだ後、鳥束は濡れて張り付いた斉木の前髪を、丁寧な仕草で払った。

 斉木さん
 言葉ではない。鳥束の思考が直接、斉木に語りかけている。
 これ以上、話せないから。でも思うだけなら、貴方にしか聞こえないから
 触れ合いそうな距離で、斉木は鳥束を見た。分かっていながら言わせたことを、ずっと後悔していた。けれどこれでもう、最後だ。
 あなたが、好きでした
  まとわりつく雨はきっと、涙を流していたとしても、それを覆い隠していただろう。けれど互いに泣いてはいなかった。そんな会話は元より、無かったのだから。
 斉木は畳んでいた傘を開き、鳥束に差しかけた。そして握られたままの、濡れきってぐしゃぐしゃの袋を取ると、元通りに姿を変える。落ちていた傘も近くに引き寄せる。
 鳥束は黙って、それを受け取ったが、ふとある推測を思って斉木を見た。
「斉木さん、力がまた強く?」
 斉木は一寸逡巡してから肯定した。時間と共に徐々に強くなりつつある能力だが、まだ何とか制御が出来る範囲ではあった。
 鳥束はそれにまた要らぬ言葉を口にしかけたが、斉木はそれを一瞥して制する。
「……じゃあ」
 さようなら。その言葉が続かない鳥束に、斉木はあえて補ってから頷く。 今度こそ傘を閉じ、身体が冷え切る前に移動を試みる。少し離れた所で斉木を見つめる鳥束には、もう視線を移さない。斉木は目を閉じ、視界を塞いだ。これでもう、見ずに済む。
 斉木さん
 聞こえた心の声はきっと、気の所為だ。何故なら目を開けたそこは自宅の風呂場で、その男の姿など、どこにも無かったからだ。

 濡れそぼった本を修復し、脱衣所で服を脱いだ。そのまま浴室へと入る。扉を閉め、斉木はぐったりとその場へ座り込んだ。肩が震えている。結局冷え切ってしまった身体を温めようとシャワーを出すが、それでも、立ち上がることは出来なかった。 座り込んだまま、ただ湯に打たれ続ける。
 思い出されるのは忘れていた、忘れたと言い聞かせた記憶ばかりで、こんなに泣きたいと思ったことは無かった。
 鳥、束
 すべてを投げ出し駆け寄る男の姿が、瞼の裏に焼付いて離れない。置いてきた、男の姿も。
 力があって、良かった。らしくないそんなことを、心の底から思う。あの場からすぐさま去ることが出来なければきっと、動くことなんて出来なかっただろうから。
 斉木はもう一度目を閉じた。やりなおした別れを、また胸の内で呟く。
 そして今度こそ危うい心が目覚めないように蓋を閉じる。そのきっかけはもう二度と、起こり得ないのだから。


/Good night my sweet