Good night Good morning

 

 何の前置きもなく 差し出されたそれを、彼はただぽかんと見つめることしかできなかった。
向き合った男はその反応に眉を顰め、眼鏡の奥の瞳を不機嫌そうに細めて見せる。
「なんすか、これ?」
「見りゃ分かるだろ」
「携帯、っすね」
 男の手に乗せられた小ぶりのスマートフォン。まじまじと見てからそう答えると、瞳が一層きつく尖って突き刺さる。
 男は彼の目を真正面からとらえて、焦れながらもゆっくりと口を開いた。
「持ってろ。連絡先は入れてある」
「俺が? っつーか連絡先って……師匠の?」
 師匠、という言葉に何かを言いかけたが、男は結局諦めたように息を吐き、言葉を続けた。
「それほど遅くない夜なら出られる。時差は考えてかけろよ。履歴は確認しているが、見落としている可能性もある。手が空いたらかけ直す」
「いやちょっとあの、流石にこれは貰えないっすよ」
 まるでそれが確定事項だとでも言わんばかりに淡々と、それでいて有無を言わさぬ語気で言われて、彼は慌てて口を挟んだ。
 言葉をそのまま受け取るなら、男は彼に電話をかけさせる為だけに携帯を渡そうとしているらしい。 いくら相手が社会人――それも遠く離れた地で活躍する、一流のプロフェッショナルだとしても、そこまで甘えていい訳がなかった。 その厚意自体が喜ばしく、愛おしまずにはいられないものだからこそなおさらだ。
 そう易々とその土壌に乗り上げ、絆されるのが嫌だった。拙くてもいい、子どもの意地だと言われても構わない。彼はどんなに些細な事象でも、気持ちの上では対等でありたかった。
 しかし男は彼の葛藤など想定済みだった。その泰然たる佇まいを一切崩さないまま、淀みの無い口調で彼の心中をすくい上げる。
「誰がやるって言った。預けるだけだ。もちろん、壊したり無くしたりたら弁償させるからな」
 だから黙って受け取れ。そう言って男は未だ動かない彼の手に、携帯電話を握らせる。 手に収まった剥き出しのそれは固く、ほんのりと温かかった。
 体温が残るほど強く、しっかりと掴まれていた事実には、男の強い意志と僅かな照れが見え隠れしていた。彼はその感触を確かめるように力を込め、暗い液晶をじっと覗き込んで呟いた。
「これ、かけていいんすか」
「よくなかったら渡さねえよ」
「どこにでも?」
 問いかけの意図を探るように鋭い視線が刺さる。 やがて男はふっと息を洩らすと、唇だけを緩めて笑って見せた。
「――好きにしろよ」
 安い煽りには乗らないといった顔だ。 彼はその笑みに潔く降参するしかなかった。握り締めた繋がりを鞄の中へ入れて、出せなかった本心をそのまま口にする。
「んなの、かけられないっすよ――四宮さん以外」
 呼ばれた名前に男が目を細める。相変わらずきつい眼差しだったが、緩んだままの唇がそれに何とも言えない甘さを含ませていた。
 伸びてきた手が彼の耳元に触れる。指の背で柔らかく、擽るように撫ぜられる。彼はまるで手懐けた獣にするような行為に少しだけ構えながらも、その手つきの優しさに、心地良さを覚えずにはいられなかった。

 そんなやりとりの後、四宮小次郎は戻るべき場所へと去って行った。彼も別の場所で目まぐるしく忙しい――充実した修行に励んでいた。
 そして、数週間が過ぎた頃。全ての現場が終わり、学園へと戻る日の早朝、彼は自分のものではない電話を弄びながら外を歩いていた。
 朝の少し冷えた空気を肺いっぱいに取り込んでから、ロック画面を解除する。 渡された時から一度も触っていなかったそれは、デフォルトのデザインのまま、彼を待っていた。
 適当にスライドさせてから電話機能を起動させる。唯一の連絡先を躊躇うことなく選んで、待つ。人気のない静かな公園に、葉擦れの音と、無機質な呼び出し音が溶け出していく。
「――ユキヒラ」
 五回ほど繰り返された音に少しの焦りを覚えた頃、名前を呼ばれた。耳慣れないかさついた声が、浮き上がった心に覆い被さる。
 彼は手にした電話を耳元へ押し付け、その声に意識を集中させた。
「すんません、寝てました?」
「 ……いや」
 否定をそのまま受け取れない彼がどう返したものかと黙ると、男はそれに気付いて言葉を続ける。
「部屋で休んでいた。座っていたが、数分意識が飛んでたらしいな」
「なんか、申し訳なかったっすね」
「そんなことはいい。スタジエールが終わったか」
 男は相変わらず察しが良い。否、むしろそのタイミングを計って予め待っていたのかもしれない。
 流石に些か自意識が過ぎたかと頭を掻いて、彼は照れ臭さを滲ませながら答える。
「うっす。全部終わりました」
「その様子だと、俺の店の名に傷付けるようなヘマはしていないらしいな」」」
「見てきたみたいに言うんすね」
「声を聴いてりゃ分かる。少し上擦ってるだろう。よほど得るものがあったか」
 そうだ、と言いかけてふと彼は留まった。確かに気分は高揚している。疲労ももちろんある
が、それ以上の充足感に浸った身体は軽い。
 早く学園へ戻り、更なる高みを目指して学んだ全てをぶつけ合いたい。そんな気概に満ちている。しかし――今のこの高ぶった思いは、それらとはまた別の要因によってもたらされたもののような気がしていた。たとえばそう、声だ。少し前に聴いたその声をまた聞こえている。その主と電話で話している。話すことに、浮かれている。
 彼は筋道立てて考え付いた結果、結びついた自分の感情に硬直し、それから湧き上がる行き場の無い羞恥に拳を握り締めた。
「……幸平? どうした」
 訝しむ男の声がまた名前を呼ぶ。海の向こうの彼の地は夜中だ。低く抑えられた声が湿った夜気を運んでくるようで、彼は背筋がざわめくのを感じた。
 頭上には爽やかな朝の風が流れ、小鳥のさえずりまで聞こえてくるというのに、妙な空気に捕まって体温が上がっていく。
「いやあの、なんでもないっす」
 絞り出した声で何とかそう返すと、男が息を洩らす音がした。どうやら笑ったらしい。その反応で恐らく取り繕った全てを見透かされているのだろうと彼は悟ったが、自分からあえて話すこともないとその思考を追いやった。
「ガキは大変だな」
 それでも結局揶揄するような言葉を向けられるのだからどうしようもない。しかしもちろん、やられっぱなしではいられない。
「……やー、でも大人も色々大変っすよね」
「まあな。しかしガキと違って大人はこなし方ってものを知ってる」
「なんかよく分かんないんすけど、本当にそんなのあるんすか?」
「知りたいか?」
 さらりと告げられた問いかけが頭を埋める。彼は一寸の間を置いて、心の隅で気にかけていた事柄を口にした。
「知りたいって言ったら、教えてくれるんすか」
 抑えられない興味と期待、そして少しの惑いが滲んで、思いがけず語尾が震えた。
 何も言わない男の息遣いだけがスピーカーから聞こえている。やがて男は溜まった息を吐き出し、押し殺した声で囁いた。
「早えよ、ガキが」
 粗暴なくせに甘い、その不可思議でアンバランスな口ぶりが、彼の鼓膜を揺さぶる。つられて嘆息する彼に向かって、男は言い聞かせるように言葉を重ねた。
「ガキに手を出す程俺もヤキは回っちゃいねえよ」
「そうなんすか? じゃあ、別によかったのか」
「何がだ」
「いや、やっぱり何か調べといた方がいいのかと思って、ちょっと」
 不覚にも、今度は男が言葉に詰まる番だった。 調べるというのはつまり、そういうことだ。
この先どういう手順を辿って、どういった形になるか。具体的に言葉にするには少々生々し過ぎるそれを、彼が思い浮かべたという事実だ。
 顔を出した少しの後悔を押し留めて、男は舌を打ちたい気分をぐっと堪える。主義に変更は無い。しかしながらそのいっそ恨めしい程の抗い難い引力に、男は初めて彼の知識欲を呪った。
「お前は本当に可愛げが――いや、違うな」
「どういうことっすか?」
「何でもない。とにかく、上にいけ。そろそろ切るぞ」
「あっ、ちょっと四宮先輩!」
 師匠でも、さん付けでもないその呼び方には、特別な郷愁感が宿っている。
 未だ繋がっているその電話に向かって、彼は最後に一言、言おうとしていた言葉をかけた。
「おやすみなさい」
「……ああ」
 通話機能を終了させ、ホーム画面に戻したそれを、彼は鞄の中へと入れた。
 何度か大きく息を吸って、一歩、また一歩と学園へ足を進める。少しずつ早くなる歩調に合わせて、彼の息が弾んでいく。
 とにかく、前へ。次第に高くなる太陽と競い合うように、彼は駆けていく。
 高揚はまだ続いている。留まることを知らない闘気と、離れた地で同じく戦い続けるその姿
が、心をとらえて離さないから。
 それでも、今だけは。男が少しでもその身を労われるようにと、彼は願う。忍び寄る闇が男をただ包む、そんな安らかな一日の終わりを告げる、夜が訪れることを。
 通話が切れ、鈍く光るだけになった画面を見下ろして、男は座ったまま目を閉じた。 耳の奥に残る、彼の声。その柔らかな声音が、そっと安らぎを呼び込んでくる。
 彼は今、昇ったばかりの朝日に包まれている。それでもおはようではなく、おやすみとだけ口にした――恐らくそれを言う為に、電話をかけてきたのだ。
 温かい湯に浸かったように身体が芯まで満たされていく。男は眼鏡を置き、心地良さの中で願った。安らかな夜を与えてくれた人、その背を押す柔らかな光が降り注ぐ、朝が訪れることを。


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