猊下と次男

 

「眠れないの?」
 静けさが空気を満たす廊下で、その人の声はしんと溶け入るように響いた。
 ウェラー卿コンラートは足を止め、俯き気味だった顔を上げて後ろを振り返った。夜の闇に似たその黒髪に、ほんの一瞬胸が騒ぐが。
「……猊下」
 瞳を覆う薄いガラスに、ちらちらと灯りが揺らいでいる。 猊下、と呼ばれた男は微かに微笑んで、こんばんは、とあたかも自然な物言いで話しかけてきた。
「ごめんね、僕だよ」
「どういう意味ですか」
「いや」
 言葉を濁すその口ぶりに、コンラートは僅かな苛立ちを隠せなかった。
 双黒の大賢者と呼ばれる魂を持つ相手は、柔そうな外見とは裏腹に全くもって底の見えない人物だった。 この国で唯一魔王と肩を並べられる存在。賢く、聡明で、誰よりも真実を見通す力のある、その人。 ――けれど、
「どうしたんです、こんな時間に」
「きみと一緒。なかなか寝付けなくてね」
「……だからといって、お一人で。誰もお傍に付けずにおられるのは……」
「そうだね。でも意外だなあ、きみのその言い方だと、僕が夜中にうろつく事自体は、別に何でもないように聞こえるけど?」
 呑気な口調であるが、そこに隠された心理にコンラートが気付かない筈がなかった。
 彼、村田健はゆっくりと眼鏡を押し上げた。表情から感情を読み取る事は、出来ない。
「そんな事、」
「うん、分かってるよ。そんな事ないって。気にかけてくれているんだよね。魔王も、大賢者と呼ばれる者も、」
 そうです、とコンラートが続けようとした。けれど彼は、言葉を発する事が出来なかった。
「『渋谷有利』も」
 コンラートは目を見開いた。そして瞬時に悟った。この聡い男には、全て気付かれている。
「ウェラー卿?」
「……いえ、そうですね」
「大丈夫かい?酷く顔色が悪いけど」
「ええ……」
 膝を折ってその場に座り込みそうになるのを必死で堪えつつ、コンラートは口を開いた。
 名前一つでいとも簡単に呼び起こされる記憶が忌々しかった。次々に浮かんでくる主の顔を、やっとの事で振り払う。
「何かあった? よかったら僕に――」
「……あなたは、」
「うん?」
「あなたは、分かっていらっしゃるのでしょう?」
 村田は真っ直ぐ見つめてきた。再度訪れた沈黙が、二人の間を満たしていく。 たっぷりと時間を取って、彼は言葉を選ぶようにして話し出した。
「……分かっている、というのは正確じゃないと思うよ」
「誤魔化さないで下さい」
「誤魔化しているつもりはないけど、そうだね。きみの考えている事を推測する事は、出来る」
 彼は再度眼鏡を押し上げた。そんな些細な仕草にさえ心がかき乱される。コンラートは小さく舌打ちした。
「きみは、揺らいでいる」
「何にですか」
「渋谷有利と魔王に」
 端的なその言葉はしかし確実にコンラートの弱い部分を抉った。動揺を隠し切れない。それでも村田から視線を外す事はしなかった。冷たい空気が肌に刺さる。
「きみの忠誠心は固い。きみの思い、願い。その全ては『彼』の為のものであって、誰にも揺れることはない。けれど、それは本当に『彼』のものなのかな?」
「どういう……」
「きみは自分が仕えているのが魔王なのか、もしくは渋谷有利なのか、揺らいでいる。同一人
物? 確かにそうだ。 でもきみにとっては違う。きみは自分が引いたボーダーラインを必死で守ってきた。時には引き、時には入り込み。そんな事を繰り返して、きみは『彼』との関係性を築いてきた」
  酷く頭が痛かった。けれどこめかみを押さえれば、村田に気付かれてしまう。子供じみていたが、それだけは絶対に嫌だった。
 村田はどこまでも真っ直ぐな瞳で、コンラートを見据えている。
「けれどそれは揺らぎ始めた。きみは少しずつ自分の中の変化に気付いた。自分が本当に慕っているのは『誰』なのか、自分が本当に守っているのは『誰』なのか」
「……猊下」
「捧げた想いは、『誰』にだったのか」
「……俺は」
「ウェラー卿、」

「きみの心は、『誰』のものなんだろうね」
 ぐらり、と視界が揺らいで、コンラートは耐え切れず壁に手を付いた。 目を閉じると、フラッシュバックするように記憶が蘇ってくる。その全てに、彼がいた。
 今度はそれを振り払わない。次々に浮かぶ彼をただ追う。言い知れない感情がこみ上げてきて息が詰まった。
 ――有利、 口の中で名前を呼んだ。 すぐにでも返事が返ってきそうだった。けれど、彼はいない。 いないのだ。
「ウェラー卿」
 ゆっくりと目を開ける。村田の、やはり表情の読めない両の目が、こちらを見返していた。村田は少しも躊躇わず、口を開く。
「有利は、折れるよ」
「な……」
 こぼれた声は掠れていた。この男は、村田健という男は、どこまで聡明なのだろうか。 心を見透かし、悟り、しかし踏み込まない。
 いつも少し引いた所から、全てを見据えている。 その思いがどこから来るのか、何となくは分かる。しかし言葉にするつもりはなかった。
「有利は、折れる。それも容易く。きみよりずっと」
「何故そうだと……!」
「分かっている筈だよウェラー卿。いずれ臨界点がくる。彼は危うい。まあそれは、僕にも言えたことだけどね」
 自嘲気味に笑って、村田は一瞬遠くを見た。けれど視線をすぐにコンラートに戻して、言葉を続ける。
「その危うさは罪じゃない。むしろ、武器だと言える。けれどいつかは折れる。何度も、何度
も。そうなった時、揺らいだままのきみに、彼を助けられるのか?」
 真意だった。迷いの根源を突かれて、言葉が出ない。 心の内に秘め、誰にも明かす事はなかったのに、この男には全て気付かれていた。
 何故自分の思いなど構わず、彼の為にいてやれないのだろう。
 何故自分の迷いなど構わず、彼の背を押してやれないのだろう。

 有利、何故俺は、貴方の為に何もしてあげられないんだろうね。

 村田の瞳を覆うガラスに、揺れていたランプの火でさえ遠く感じる。 コンラートは目を伏せ、壁に付いた手を握り締めた。視界の端で、村田が動く気配がする。
「随分話し込んでしまったね、ごめん。そろそろ僕も部屋に戻るよ」
「……はい」
「それじゃあ、おやすみ」
 驚く程あっさりと会話を終えて、踵を返して歩き出す村田の背を、真っ直ぐ立ってコンラートは見つめた。 胸に抱えた感情は、このままどこかに埋没してしまえばいいと思う。 すくい上げて愛おしむことなんて出来やしない。出来やしないのに、自分は。 俺は、
「貴方を、おもいたくない」
 口に出すと酷く冷たいその言葉は、しかし少しも現実味を帯びなかった。