封をした夜

 

 永洲へ戻ると聞いて、思った以上の衝撃は無かった。

 整理し切れていないと思っていた心中は、それでもその事実を容易に飲み込んだ。 あらゆる経緯を加味し、悩み、選ばれたその決意に、何か言葉を添えることはいっそ暴力にも思えた。だから黙ったまま頷くことが出来た。

 ただ一つだけ、彼に願った。神室町を離れ、永洲街へ戻るその日。最後の一夜を。 自分に、与えてくれないかと。

 久しぶりに降り立ったその地は、変わらず人に溢れていた。親しみの薄い言葉に、嗅ぎ慣れない匂い。知らない場所であるが故の疎外感と気楽さには覚えがあった
 その街を、彼と並んで歩く。 病み上がりの無理なスケジュールを強引に抉じ開け、夕方頃駅に着いていた。 夜に向け賑やかになる街の喧騒とは裏腹に、言葉は少ない。
 ぽつぽつと彼が話すこの街のことを、夕日に目を細めながらただ聞いていた。彼の、声を。

 日は傾き、夜が近付く。酒を飲むかと誘われたが断った。 表面上は彼をこの地へ送りがてら、内密な話をするというのが理由だった。
 駅に戻れば付き従う人間が待っている。否、そんなことが言い訳にもならないのは承知していた。要らない言葉がこぼれ落ちてしまうことが怖かった。けれどそれも、そのまま口には出来ない。
 隣を歩く彼の、すっと伸びた首筋を見ていた。 そこに通う血がもう少しで途絶えかけたのだと思うと、その度身体が冷える気がした。自分のことを棚に上げてもそう思ってしまうのは、相手も同じだ。分かり切っている。 今はもう、彼が息をし、並んで歩いているだけで良かった。 そこに歯を立てた感触も、舐め上げた温度も、遠い記憶だった。
 それこそ最後の夜だというのに、どうしてその身に触れようと思わなかったのか、自分でもよく分からない。服を剥ぎ、圧し掛かり、背に昇るそれを眺めて浸らなかったのか、考えても答えは出なかった。 ただそれはきっと、彼を失う事実を正面から受け止めるのに邪魔だったのだ。 温かい身の内に触れ、溶かされてしまえばまた引き摺り込んで、引き摺り込まれてしまう。互いの為にならない暗がりに。

 騒がしい飲み屋街をあてもなく歩いていると、前から近付いてきた男性が大きな声で彼を呼び止め、親しげに話しかけてきた。 聞いてはいたが、その様子からすぐ察せられた。
 彼がこの地で世話になったという上司は、東京からの来客であると紹介された自分にも、朗らかに接してきた。これから向かう飲み屋に行かないかと誘われ、彼が断わる。
 来客はもう帰る所だ。そろそろ駅に向かわなければいけない。その事実に一瞬、目の前の夜が深くなるがすぐに遠のく。上司は残念そうに肩を落とすと、それなら会社の車を使ってくれと言い出した。 戸惑う彼に、上司は快活に笑って見せる。戻ってきたんだろう、なら自分が手を貸さない理由は無い。
 懐の大きさがひしひしと伝わる様子に、彼も柔らかく微笑んだ。揃って礼を言うと、上司は照れたように胸を張り、足早に去って行った。
 今度は是非ご一緒に、そう言い置くのは忘れずに。咄嗟に返した笑顔に、曇りは無かった。


 もう良かったか、と運転席のドアを開けた彼が聞く。あまり深く考えず、それに頷いた。彼が勤めていた会社まで歩き、許可を得た車に乗り込んだ。
 少し戸惑いながらも、助手席に深く腰掛ける。いつぞやは客と運転手だったが、今は違う。彼も制服を着てはいないし、勤務中でもない。自然と言えば自然だった。
 シートベルトをして、彼がエンジンをかける。滑るように走り出した車は慣れた様子で道路へ出て、そのまま走り出した。 駅までそれほど距離がある訳ではないが、それなりに道は混んでいた。彼が静かにブレーキを踏み、停止線で止まる。 歩道を歩く楽しげな人々を眺めて、息を吐いた。
「……大吾」
 ラジオもかからない静かな車内に、彼の声が響く。 思わずバックミラーに目を向けるが、彼は窓の外を見ていた。そして広がる静寂。呼びかけたはいいが、彼も言葉を失っているようだった。やがてふっと息を吸う気配がしたものの、タイミング悪く信号が変わり車は走り出す。 息の詰まる思いで、見つめていた鏡から視線を外した。
 会話の無い車は淡々と駅へ向かう。信号に捉まる度唇を湿らせるのに、言葉が出てこない。彼の乾いた手がシフトレバーに伸びるのを、ただ目で追いかけていた。
 その手に、何度救われただろう。再会し、落ちていた自分を奮い立たせたのもその拳だった。守り、傷付き、そして紛れもなく自分を、愛おしんでくれた手だ。
 何度愛しただろう。何度思っただろう。
「桐生さん」
 伸ばした手で、一度だけ触れてしまった。もう触れることも無いと思っていた彼の体温に。すぐに離れようとした指を、彼が引き止めた。
 絡められた温度に喉の奥が詰まる。
 探していた言葉ではなく、押し込めていた感情が溢れ出た。
「桐生さん」
「ああ」
「しっかり食べて……寝て下さい」
「そっくりそのまま、返すぞ」
「身体を、大事に」
「お前もな」
「桐生さん」
「ああ」
「桐生、さん」

 ハンドルを握る手が痛い程軋んでいる。見なくても分かる。
 同じように膝の上握り締めた手が、痛みを覚えているから。
 好きだと言った夜を思い出す。あの時もこうして、固く握り締めていた。すぐ傍らにある終わりを、あの時は思いもしなかった。 思うことから、目を背けていた。
 傍に居続けられる訳が無かった。それでも想っていた。離れても繋がりが解けてもなお、ずっと。 それももう終わる。終わってしまう。叫び出したいのを堪えて、あんたが消える未来を思って、掻き毟りたくなるのを堪えて。幕を引く。指を離す。
「ここでもう、結構です」
 ロータリーを入ってすぐの所で、車は停まる。彼は徐に後部座席を振り返ると、いつの間にか置いてあったビニール袋を掴んだ。そしてそのまま、目の前に差し出してくる。
「大したものじゃなくて、悪いが」
 そう言われた袋の中に透けるものを見て、込み上げるものを強引に飲み込んだ。受け取った袋は少し重く、中の缶は温かかった。車に乗り込む前、会社の中へ消えていった背中を思い出す。
「いただきます」
「ああ。……じゃあな、」
「はい。ありがとうございました――鈴木さん」
 彼の肩が、視界の端で小さく動く。 瞳は見られなかった。それでも最後にとバックミラーに目を向けた。 彼の真っ直ぐな瞳が、そこにはあった。
 鏡越しに視線がぶつかる。彼の唇がゆっくりと言葉を繋ぐ。別れを告げられる。
「――お元気で」
 引き攣れた声で言い残し、掴んだ袋を握り締めて車を降りた。振り返ることなく真っ直ぐ駅へ向かう。 ただ黙々と足を動かし、ホームで待っていた迎えと合流する。
 滞りなく、何の障害も無く新幹線は走り出す。 詰まったスケジュール、溜め込まれた要務。考えるべきことは山ほどある。暫く秘書と話し込んだ所で、喉の渇きを覚えた。 自然に手が貰った袋に伸びる。指先が缶に触れた。
 時間を置いて、当然ながら温かだったそれは冷え切り、冷たいアルミの質感だけが肌を刺す。
「会長?」
 声を掛けられ、初めて自分が硬直していることに気が付いた。トイレに行くことを伝えて席を立ち、個室へ入る。 立ち尽くしたまま、冷えた指を血が止まるほどに握り込んだ。
 離れていく距離、埋まらない隙間と、冷めゆく缶の熱が重なる。二度と温めることのできないそれは、そのまま彼との絆に繋がっていく。

 後悔は何も無いのに、思い出されるのは遠い過去ばかりだ。
 焦がれていた背中、拳を交えた瞳、やさしい手、温度。
 吐く息が熱い。目頭が疼いている。押し寄せる感情の波に、息を忘れて爪を立てる。
 二度と交わらぬ道の先、あなたが歩むその先にはどうか、温もりが満ち溢れているように。 最後にもらった夜に別れを告げ、呼ぶことの無い名前と共に閉じ込める。
 自らが歩む道以外にもう、何も見なくていいように。


/封をした夜