Future

 

 熱い湯を浴びて、程よく温まった身体を投げ出してベッドへ倒れ込む。
 洗ったばかりのシーツに頬を触れさせ、京は深く息を吸い込んだ。
 鼻腔を埋める寝具の香りは自宅のものとは違う。しかしながらそれと同じくらいに慣れ親しんだものだった。
 胸の奥がじわりと疼く。満たされるような、どこかもどかしいような不思議な感覚を覚えて、京はもう一度深呼吸をした。
 少しでも目を閉じるとそのまま深い眠りに誘われてしまいそうで、微睡みの縁の心地良さに沈みながらも軽く身体を浮かせる。ベッドサイドのチェストに置かれたスマートフォンを取り上げて、保存した動画ファイルを開いた。
 薄暗い空間に浮かび上がるロゴデザイン、確かに聞こえるざわめき。やがて光が中心へと差し込み、広いステージを浮かび上がらせる。
 音の洪水のような歓声、拍手。暗く見え難かったそこにはたくさんの人影が現れ、今か今かと待っている。何を、言うまでもない――
 一人、また一人とステージに現れた彼らは、手にした楽器とマイクと共に立つ。割れんばかりの人の声、音に応えるように、待ちわびていた音楽が鳴り響く。握りしめたその機器の感触が蘇るようで、京は熱を持つ掌でスマートフォンを持ち直した。求めていた音楽がそこにはあった。
 たった一人で歌う時とも、広くはないスタジオでバンドと合わせて歌う時とも違う。目の前の人々に生の熱を持った音を届けて、それと同じくらいの高い温度を持った歓声を受け取る。ステージに立っているのはこちらだが、一方的なそれではない。互いが互いに共鳴し合い、自分たちの音楽を通じて繋がっていく。言葉にし難い充足感が再び身体を包み込んでいくようだった。
 微かに開いた京の口から、満ち足りた溜息がこぼれ出す。求めていながらも、得られなかった場所。最高の時間だった。
「……京さん?」
 背後で扉の開く音がして、名前が呼ばれる。近付いてくる気配に京は動画の再生を止めてごろりと寝返った。
「寝てなかったんですね」
 ベッドの傍らで足を止めたこの家の主は、京と同じように湿った湯上りの身体で立っていた。緩い部屋着姿の彼が差し出すグラスを受け取って、少し身体を起こして中身を口にする。
 冷た過ぎない水が熱を持った喉を通り過ぎて心地良かった。ほう、と息を吐く京を見守ってから、ベッドの縁に腰を下ろして、彼ももう一つのグラスに口をつける。そのまま起き上がろうとしたが手で制されて、三分の二ほど残ったグラスを受け取られる。チェストの上にそのまま置いて、自由になった片手が大人しく寝転がる京の前髪にそっと触れた。慈愛とやさしさに満ちた、胸の奥が疼く触れ方だった。
「何か観てたんですか――ああ」
 手の近くに転がしていたスマートフォンに視線を向けた真琴は、停止した画面を京に見せられただけでそれが何かを察した。切り取られた一瞬は、丁度ステージの全体を映していたところだった。ギター、ベース、ドラム、そして中央に一人。静止画でもその時の熱狂がひしひしと伝わってきて、あの時の感覚が蘇る。それは真琴とて同じだったようで、見上げた顔が満足げに緩んだ。
「いいライブでしたね」
「ああ……楽しかった。心の底から満ち足りていくようで、全身が震えた」
 本当に楽しかった。ままならない状況でも、こうして音楽を分かち合えることに心から喜びを覚えた。この幸福はオーディエンスの力もさることながら、今回の場をつくり上げるにあたっての最大の協力者であり好敵手――ブレイストの力があってこそだった。
 彼らもまた自分たちと同じようにやりきれない思いを抱えながらも研鑽し、その全てをあの瞬間に注いでいた。まっすぐな情熱を訴えかけるその姿が同じ道を行くものとして眩く映り、それと同時に強く奮い立つ思いを抱いた。
 彼らが歌い続けるように、自分たちもまた歌い続けるのだ。この先、何があっても。
「またこうして、皆でライブができたらいいな」
 こぼれた京の声を聞いて、髪に触れていた真琴の指先が離れていく。遠ざかる心地良さに僅かに寂しさを感じていると、今度は京の指が絡めとられた。
「きっとできます。世の中は変わりますし、それに順応することももちろん大切ですが――変わらないものもある」
 一本一本を慈しむように絡めて握り込んだ真琴の、穏やかな声が降ってくる。
「音を届けたいと思う心がそこにあれば、必ず」
 ――なんて、少し気取ってみましたが、本当にそう思うんです。バンドと、あなたと一緒にいると。
 僅かな照れを含んだその言葉は、京の心の内に深く染み入った。変わらない心と、変えようとする自由な意思があれば、これからもどこへだって行ける。
 バンドと――真琴と、一緒に。
「そうだな……ああ、そうだった」
 自由な方の手を伸ばして、真琴を呼ぶ。京の意図を察した真琴は小さく笑って、手にしたままだったグラスを置いて向き直った。
 覆い被さるようにして身を屈める真琴の首に触れる。少し力を入れただけで、求めた唇はそのまま降りてきてくれた。
 触れるだけのキスを繰り返して、小さく口を開く。すぐに真琴の濡れた舌が入り込み、京のそれと絡み合った。お互いが口にした水の味を分け合うように、深く口付ける。
「ん……ン、まこと」
 離れた唇に軽く吸い付かれながら名前を呼ぶと、熱を持ったそれが顎に移動した。頬、こめかみ、そして耳。順番に落とされる口付けが心地良くて吐く息が震える。耳朶にあまく歯を立てられた瞬間、堪え切れなかった喘ぎがこぼれ落ちていった。
「あ……っ」
 艶めかしい色を含んだその触れ合いはしかしながらあっさりと終わってしまった。唇を離し、身体を起こそうとする真琴の首を、京は衝動的に手を伸ばして引き寄せる。
 抵抗はなく、そのままの姿勢で止まってはくれたが、眼鏡の奥の瞳は困ったようなそれだったあんなキスを寄越しておいて、素知らぬ顔なんてさせられる訳がない。
「寝なくていいんですか」
「まだ……寝たくない」
 ぽつりとこぼしたその訴えに、真琴が目を見開く。駄目押しとばかりに京は触れたままだった首筋に指を這わせた。しっかりとした骨の感触を指先で辿っていると、上から熱のこもった溜息が落ちてくる。窘められるかと思ったが結局そうはならず、真琴は開いた距離を詰めるように体重をかけてきた。
 口にせずとも、何を求めているかは伝わっている。それなりの月日を共に重ねてきた結果だ。
 明確な意図を含んだ京の指に、真琴の顎が触れる。顔を傾けて、甘えるように触れさせるその仕草に胸が疼く。もう一度、今度は少し諦めを含んだ溜息が落ちてきた。
「僕はもう少し忍耐というか、堪え性がある方だと思っていたんです」
「実際、そうじゃないのか。真琴はいつも理性的だと思っているんだが」
「……あなたにそう思われているならいいのか。いやしかしどちらかというと、あなたと一緒にいてこうなったというべきなのだから、それでいいんですかね」
 ひとり言のような口ぶりに何と応えたものかとその瞳を見つめ返す。しかし真琴は微笑みながら首を振るだけだった。濡れた唇を軽く吸われて、程近い距離で囁かれる。
「あなたが辛くないようにしましょう」
「ま、ことも、よくなってほしい」
「……その二つは必ずしも相反する訳ではないんですよ」
 苦笑いを浮かべる真琴に言いかけた言葉は、吐息ごと再び重なった唇に吸い込まれていった。

 段々と熱を帯びていく肌に触れる、硬い感触が気になってはいた。
 ただそれよりも余すことなく愛して高めようとする手や舌の動きに翻弄されていて、それどころではなかった。
 早々に衣服は全て床へと落とされ、清潔なシーツの上で肌を晒しながら喘いでいる。ぬるつく指が下半身を辿り、穴の縁を押し広げるように掠めていた。
 むき出しの性器はべたべたに濡れそぼっていて、今にも極まってしまいそうなほど興奮しきっている。否、実のところつい先ほど、既に一度達していた。
 真琴との行為は慎重かつ労りに満ちていたが、淡白という訳ではなく、じわじわと追い上げるように快感がこみ上げてくるのだ。深い絶頂を呼ぶそのやり方は時間をかける分なかなか引いていかない。高みへ上り詰めても快感の波が断続的に押し寄せてきて、京はそれに抗えたためしがなかった。
 求められるままに早々に達してしまい、それでもなお快感に震える京の姿を、真琴はじっと見つめている。自分は未だ直接的なことは何もされていないにもかかわらず、満ち足りた目で京を射抜く。
 もちろん京からの触れ合いを拒むことはなかったが、本質としては自分の手で乱れる京を求めているようだった。何度も重ねてきた行為の中でそれはずっと変わらない。
 ――感じて、それをそのまま見せてくれたらいいんですよ。
 そう言って求められればもう抗えない。それでも少しでも返したくて手を伸ばして、京は鎖骨に口付ける真琴の髪に触れた。
「……は、っあ……、っ……!」
 そのまま上へと滑ってきた唇が首に触れる。印象的な黒子の辺りに柔らかく歯を立てられて上擦った声が漏れた。
 触れられて感じないところなんて最早ないのかもしれない。そんな茹だった思考を巡らせている最中、ふと触れた硬く冷たい感触にああ、と思い出す。
 そうだ、眼鏡――行為の中でもあまり外されることのないそれが、今日は何故だか気になっていた。ゆっくりと体内に含まされていく指の感覚に震えながらも、真琴の瞳を覆うものに意識が向く。
 入り込んだ指が腹側を上向きに擦る。途端に痺れにも似た快感が走って腰が浮いた。大きく身体を跳ねさせた京を気遣って、顔を上げた真琴が見下ろしてくる。その顔にはもちろん、件の眼鏡がある。
 薄く口を開いて、京は自分から唇を誘った。深く重なるキスが心地良い。迎え入れた舌をそっと舐めて吸うと、それに応えるように体内を探る指の動きが大きくなる。継ぎ足された潤滑剤の粘つく音と、舌が絡む水音が混じりあって煽られる。興奮に身を焼かれながら、もっと舌を含もうと近付くが、硬いそれが気になって上手くいかなかった。
「京さん」
「……ふっ、ン……う、ん?」
 指を引き抜き、同時に唇を離した真琴が囁く。その双眸は言葉を失うほど熱く蕩けていて、目を逸らせなくなる。
「眼鏡、外してくれますか」
 珍しく強請るように言われて、京は若干戸惑いながらも手を伸ばした。覆い被さる真琴の両頬に手を添わせて、両手でテンプルを抑えて引き抜く。
 取り払われた眼鏡を丁寧に折り畳むと、真琴はそれを片手で受け取って身体を伸ばし、チェストの上へと置いた。
 何となくその様を見守っていた京に気付いて、真琴が小さく笑い声を漏らす。
「京さんが外してほしそうだったので、少し甘えました」
 含みのあるその言い方に、これも愛撫の中に混ぜられた行為の一つなのだと悟る。焦れていた京にとっては、それを見透かされていたことも含めて少しだけ決まりが悪かった。
「……真琴は、よかったのか」
 思った以上に拗ねた声色になって自分で驚く。言われた真琴も不意を突かれたような表情を浮かべていたが、すぐに唇が緩められた。
「僕も欲しかったですよ。……してくれますか?」
 露わになった瞳と心でそう射貫かれて言葉が出ない。翻弄されている自覚がありながらも元より拒む気など更々なかった。再び真琴の頬を両手で包んで口付ける。今度は無機物にぶつかる感触もない。
 すぐに差し出された舌を懸命に絡めて誘う。同じように身体の中へ戻ってきた指の刺激に腰が浮きそうになりながらも堪えた。
「あ、っ……あ、……っ真琴、っ」
 呼びかけたのとほぼ同時に、身体の中を押し広げていた指が引き抜かれる。つられて漏れ出す潤滑剤の感覚に震える間もなく、いつの間にか準備を整えていた真琴の性器がひたりとくっつけられた。
 随分慣れた行為だが、それでも受け入れる瞬間は身体が強張る。深く息を吐き出す京の耳に寄せられた唇が、いきますよと小さく宣言した。
 括れを飲み込み、固く張り詰めた竿を飲み込んでいく。引っかかる不快感はなかったがかかる圧力は大きく、京はいつも呼吸を忘れそうになっていた。
 根元まで収めた真琴が息を吐く。湿った熱い吐息が耳に心地よくて喉の奥で喘ぐと、気づかわし気な真琴の顔が目の前に広がった。
「……苦しくないですか」
「だ、いじょうぶだから、まこと、もう……っ」
「……っ、わかり、ましたから……っ」
 そんなに締めないでください、と訴える声がどうしようもない切なさと色気に満ちていて堪らない。京は投げ出していた手を持ち上げて真琴の部屋着の裾を掴んだ。先を求めるその仕草に、真琴は京の表情を伺いながら徐々に動き始めた。限界まで広がったそこをじりじりと擦られ、動きに合わせて漏れ出る声が抑えられない。
「っあ、あっ、は、あ、っ……っ、あ……!」
「……っ、京、さん……っ」
 過ぎた刺激に涙すら滲む。何度身体を重ねても変わらない、底の知れない快感が少しだけ怖くもあり愛おしい。けれど怖さはほんの少しだ。
 未知のものに抱える恐怖は、傍らにいる人間によってすくわれる。いつだって、何度だって。
「っう、あ、真琴、あっ、いく、でる、あっ――」
 挿入から一度も性器に触れられないまま、京は振り子の最後のように強く押し寄せた絶頂に抗えず達した。薄い身体と腰が浮き上がり、艶めかしく震える。
 白い肌に勢い良く散った精液を見下ろして、真琴自身も更に固く張り詰めていく。これ以上ないぐらい身体が重なって、京の腰を支える真琴の手に力が入る。
「っは、っ、……っ!」
 体内に感じる射精の気配に、京の身体がまた震える。上り詰めた後もさざなみのような快感が尾を引いて止まらない。
 同様に真琴も深い快楽の中にいるようだった。ゆっくりと身体を離して早々に下半身を始末してはいるが、動きが緩慢だった。
 未だだらりと四肢を投げ出すしかない京の眼前に、指先が下りてくる。言葉を交わさない時間の中でも、あるいは言葉以上に雄弁に思いを語るその、やさしい指先が。

 立てかけられた温湿度計の目盛りを律儀に確認して、真琴が近付いてくる。照明を絞り、先にベッドへ潜り込んでいた京の顔を覗き込んで、その様子を伺っていた。
「暑さ、寒さ大丈夫ですか。湿度は問題ないようですけど、何か喉に違和感は」
「大丈夫だ。ありがとう」
 学んでいる専門的な知識と併せて、以前からこうやって京の状態を細かく気遣ってくれる真琴ではあったが、近頃は特に入念だった。
 一通り京の状態を確認して、ようやく真琴もベッドの中へ入ってくる。行為後の独特な気怠さが身体を包んでいて、いつでも眠りに落ちていけそうだったが、あえて京は寝返りを打った。
「眠れませんか?」
 仰向けだった真琴が京に併せて動く。薄暗い中で何度か瞬きを繰り返すと、向き合った真琴の瞳が見えてきた。落ちてきた髪を真琴の指先がそっとよけていく。
 何か言いたいと思うのに、伝えたいことがうまく言葉にならない。好意と感謝と、今までのことと。あれこれ浮かんでは消える言葉の端を掴もうとする京より先に、やさしい目をした真琴が口を開いた。
「何か言いたいのかなと思いました。何となくですけど」
 黙って頷く京を見て、真琴はひそめた声で言葉を続けた。
「これだけ一緒にいても、僕は京さんのことをそれほど理解できていないんだろうなと思っていました。もっとも、他者というものはそういうものなのかもしれませんが」
 それでも、と区切りを置いて、真琴が強い視線で京を射貫く。
「その努力を止めたいとは思いません。今までも、これからも」
 変化した僕の、変わらない思いです。そうはっきりと告げる真琴の頬に、京も手を伸ばす。いつ何時でも真摯に向き合おうとするその姿勢が嬉しく、支えでもあった。
 これからも――そう、これからもだ。変わったものも、失われたものもたくさんあったが、そう誓い合える今を手に、自分たちは進んでいく。
 飾らない真琴の思いに応えたくて言葉を探す。やっと手繰り寄せたそれはシンプルなものだったが、愛も感謝も、未来への約束をも含めた言葉だった。
 明日の朝も、その次の夜も、同じようにその願いを繰り返せることを信じて。
「――これからも、よろしく」

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