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「寮長が好きなんです」

 相談がある、と約束を交わした後の寮の一室で、二年生の彼は"俺"にそう告げた。
 顔を合わせたのは、他人が容易に訪れない場所――俺の自室だった。
 私的な内容だからできれば人のいない所でと前置きされた時点で、どんな相談かと身構えてはいたが、正直なところ面食らってしまう内容だった。
 彼が言う寮長とは、言うまでもなく我らがハーツラビュル寮の長、リドル・ローズハート以外にいない。そして彼が口にする好きという言葉は――彼の真剣な顔と、きつく握り締められた拳を見る限り、単にその寮長を敬愛するという意味ではないことも明白だった。
 俺はどう反応したものかと逡巡し、結局嫌味に見えない程度の穏やかな笑みを用意した。今にも震えだしてしまいそうな寮生に向かって、なるべく落ち着いた声で話しかける。
「そう、なのか。それで……何だ、気持ちを伝えたいとか、そういうことか?」
「は、い。いずれはそう、思っています」
「なるほどな。いやしかし、こんな言い方は何だが、なぜ俺にそれを?」
「相談しておいた方がいいと思ったからです。……正しくは、伝えておいた方がいい、と」
「俺に?それはまた――」
 どうして、と言いかけて、突き刺さる少しだけ物騒な視線に言葉を飲み込む。もしごまかされてくれるのならそのまま貫き通そうと思ったが、そんな浅ましい俺の逃げを、彼は認めてくれないらしい。
 彼も言うように、相談と聞いてはいたが内容はどちらかというと、彼がリドルを好きだという宣言だった。そしてそれを伝えるのは本来ならばそのリドルであり、無関係の俺ではない。つまるところ彼は俺が無関係ではないと思っている。更に重ねるならば彼は俺のことを、好意を伝えるにあたって障害になり得ると思っているのだ。
「……そういう話なら、俺から言えることは特にないな」
「それは本心ですか」
「本心だよ」
「じゃあ僕が寮長に――リドルに、好きだと言っても構わないと?」
 取り繕われていた真面目な表情が、噛みつくそれに変わっている。俺は心の内に波立つものを感じながらも、それを抑え込めて困惑を滲ませ首を振る。
 意図的に変えられた呼称は挑発だ。彼だって本心では、そんな安い煽りに俺が乗っかってくるとは思っていないだろう。けれど徐々に興奮しつつある頭は、最早言葉を選んでいられない様子だった。俺が少しでも動揺を見せればそこを突く、そんな勢いが伺えた。
「いち個人の感情に口を出す権利なんて誰にもないだろ。あとはお前と、リドルの問題だ」
 しかしながらあくまで冷静に。一般論を語るように淡々と、言って含めるように返す。重要なのは自分と相手の思いであって、第三者は二の次だ。
 俺自身にスライドしかける思考を自然に引き戻して彼に語り掛けると、次第に落ち着きを取り戻した彼と視線がぶつかる。まだ疑わし気な目つきだったが、俺の表情に変わりはない。いつもの副寮長のそれだ。
「分かりました。お時間をとっていただいてありがとうございました」
「いや、それよりもうすぐ消灯だ。早く戻った方がいい」
「はい、失礼します」
 存外あっさりと折れてくれた彼は律儀に頭を下げて踵を返した。俺も続いて彼と一緒に一度廊下へ出る。もう一度頭を下げてから廊下を歩きだす背中を見送って、俺は深く息を吐き出した。 「参ったな……」
 室内に戻り、そのまま扉に背中を預けて呻いてしまう。
 こぼれ出た言葉は切実な響きをもって、一人きりの部屋に吸い込まれていく。
 腹の底がじくじくとざわついて落ち着かない、居心地の悪い気分だった。頭を埋めるのはおそらく彼が、今部屋に戻りながらも考えている存在だ。こめかみの辺りに鈍く重い感覚を覚えて、眼鏡を外して顔を押さえつける。
 無意識に唇が動く。名前を呼びかけて、ついさっき覆い隠した感情の吐露など、あまりにも罪深い気がして押し込めた。 『お前と、リドルの問題』――間違いない。当然だ。一般論として、語るなら。けれど事実はそれだけじゃない。
 彼が想う唯一の存在は、俺にとっても唯一だったからだ。  結論から言えば、俺はリドルに自分の気持ちを伝える気はそもそもなかったのだ。
 それが唯一の感情だと自覚したのは、リドルの生命が脅かされたあの一件の後だった。俺は自分の選択の結果、彼を永遠に失いかけたという事実に打ちのめされていた。どういった過程を踏もうが、最終的にリドルが満足するならそれでいい。
 過去の関係から備えたそんな諦観によって、リドルの本心をどんどん遠ざけていることにも気付かずに、目を背けていた。
 それがどうだ、行き着いたのはリドルの暴走で、俺は目先の安寧のために彼自身を壊しかけたのだ。本末転倒どころの話じゃない。
 後輩の飾らない言葉に気付かされた。これからの俺に必要なのは、結果的に俺たちを遠ざけることになっても、相手と真剣に向き合う心だ。あの時差し出した苺のタルトに残されたのは後悔だけじゃなかった。一歩踏み出す勇気も、あの一皿には確かに添えられていた。
 しかしながらその覚悟と気持ちを伝えることはイコールにはならなかった。抱えたものを降ろして、漸く本当の意味で寮長として立とうとしているリドルにとって、わだかまりが解けたばかりの俺の思いは枷になり得るかもしれないと考えていた。俺に応えられないという事実でまた思い悩むかもしれない。あるいは未だ動揺の残る思考で、頷かせてしまうかも。
 ――今思えば、俺自身もまだ整理がつかず、対等に向き合いきれていなかったのだろう。指摘された先回りする悪癖のようなものだ。告白そのものをするかしないかはもちろん、時期をみるのは重要だとは思うが、必要以上にリドルの受け取り方を慮るのは違う。
 しかし俺は考えた結果、自分がNRCに在学している間は今のままの関係でいることに決めた。このまま時が経ち、俺が昇給して学外に出て、卒業したその後。もしまだ繋がりが解けていなくて、リドルにも特定の相手がいなければ。その時は気持ちを伝えるつもりだった。自分の感情はともかく、相手を取り巻くすべてが変わっていく中で、紙のように薄い確率だけを抱えて過ごしていく。欲がないと言えば綺麗な話にも見えるかもしれないが、結局のところ俺は怯えていただけだった。
 そしてそんな俺の怯えは、他ならないリドルによって引きずり出されることになる。
 訪れた俺の自室で、リドルは意を決したように固く強張った表情で、『キミの気持ちが聞きたい』と告げた。揺れないまっすぐな瞳は俺を正面からとらえて離さなかった。椅子をすすめることも忘れて俺はその真剣な顔に魅入っていた。覚悟を決めたリドルの顔は強く、言葉を失うほど綺麗だった。
 取り繕う表情も、逃げる言葉もあれこれ思いついたが、結局どれも手に取らなかった。逡巡する俺の背中を、もう一人の存在が蹴りつけた気がした。目の前の愛おしい唯一の存在を、今すぐに抱きしめたいと願ってやまない俺が。
 本当にいいのか、と尋ねる言葉を押し込めて、聞きたいと言った気持ちの意味を確認する。
俺がお前を、どう思っているかということでいいんだな?
 リドルは黙って頷いた。みっともなく狼狽する俺をよそに、彼はやはり凛とした表情のまま
――少しだけ頬を紅潮させて、俺の怯えを粉々に砕いてみせた。
「ボクはキミが、特別な意味で好きなのだけれど」
 そんな経緯で、結果的に互いの気持ちを繋げることができたが、もちろんその事実を公にすることはなかった。元来リドルも俺もそういった個人的な内容を外に出す性質ではないし、俺たちはハーツラビュルの寮長副寮長でもある。寮内に余計な波風を立てるのは本意ではなかった。それは互いに確認しあって決めたことだ。
 もっとも、不要な混乱を招かないため、といった理由も確かに一つではだったが、俺にとってはそれだけじゃなかった。
 リドルと俺のことが広まって、誰かがリドルに対して”行き過ぎた"想像を働かせることがないようにしたかった。ただでさえ人目を引くリドルだ、可愛げのある懸想程度ならまだしも、口に出さないのをいいことに好き放題されては堪らない。隔絶された寮生活という環境である以上、避けられるリスクはなるべく遠ざけておきたかった。
 これに関してはリドルにも言っていないことだが、知らず俺の狭量な心に付き合わせている部分があるという事実には、正直少しだけ後ろめたさを覚えている。と言いながらも、譲るつもりはなかった。
 そんな俺の独善的な感情はともかく、前提として俺たちの関係は誰にも知られていなかった。
 例外として唯一同学年のケイトだけはどことなく察している様子だったが、はっきりと明言していないため何かを取り立てて言ってくることはなかったし、俺もそのスタンスに乗っかっていた。
 知られていない以上普段の生活に変わりはない。変化があったのは消灯前の時間と、休日だけだった。俺たちは今までと同じ態度で接して、その限られた時間の、扉一枚隔てた空間の中のみでほんの少し変わったひと時を過ごした。もどかしく思う時がまるでないといえば噓になるが、二人きりの時のリドルの、心から安らいでいると伝えてくる表情が、俺の心を隙間なく埋めた。満たされていた、言葉にならないほど。
 そんな満たされた生活に何かが入り込むとするなら、考えられることはそれほど多くなかっ た。互いに恋人がいることを伏せている状態で起こり得ること。重ねて言うがリドルの存在は何かと目を引くのだ。リドル個人に言及するような噂話や雑談も何度か耳にしてきた。加えて例の一件から多少まとっていた雰囲気が柔らかくなったこともあり、好意的な意見も多く聞こえてきた。それ自体は喜ばしい。喜ばしいこと、だが。
 はっきりとした好意を抱き、それを伝えようとする者が現れた。当然といえば当然の出来事であり、俺自身危惧していたところではあったが――いざ実際に起こってみると、思った以上に頭の中は混乱しきっていた。

「おはよう、トレイ――顔色が悪いね、体調でも悪いのかい」
 なかなか寝付けない一夜を過ごし、重く圧し掛かる倦怠感を抱えながら食堂へ向かったところだった。  朝一番で顔を合わせたリドルはいつも通りの爽やかな様子で、澄み切った青空のように眩しかった。俺は反射的に目を眇めてその姿を見る。しかしながらリドルは俺の異変にすぐ気が付いたようで、輝いていた表情を不安に曇らせた。
「おはよう。なかなか寝付けなくてな、少し寝不足なだけだよ」
「無理は禁物だよ、もし辛くなったら早めに休むといい。キミはいつも我慢をしがちだから」
「ありがとう。……ああ」
「何だい?」
 リドルの向かいに腰を下ろし、整えられた食卓をぼんやり見ていると、ふと感じるものがあって思わず声が漏れた。俺のこぼした小さな声に、リドルは敏感に反応を示す。
「いや、リドルにそう言ってもらえるだけで、大丈夫になってきたなと思って」
 気怠さと夕べから残る腹の底の重たさが、並ぶ食事を遠ざけていた。そんなあまり湧いてこなかった食欲が、温かな感情と共に湧き上がってくるのを感じて、自分の単純さに少し笑ってしまう。リドルの瞳が、言葉が、俺に向けられていることに安心する。
 しかしながら、疲労が完全に取れていなかった頭はやはり働いていないようだった。不用意とも言える発言に慌てたのは、言葉を失ったリドルの反応に気付いてからだった。言った内容ももちろんだが、自分でも分かるほど声が甘かった。近くに人がいないとはいえ、誰かに聞き咎められたらと思うと冷汗が噴き出す。
「なに、を……」
 言っているんだ。何とかそう呟いて、スプーンを持ち上げたリドルはしかしそのままの状態で固まっている。一拍置いて何事も無かったかのように食事を始めようとしているが、スープ、サラダと移る視線がほんの少し泳いでいた。小さくいや、悪かったと返して、それ以上言葉が出てこない俺はといえば、無理やりリドルから視線を逸らすしかなかった。
 朝の食堂に似合わない、妙に生温い空気が流れてむず痒い。いくら気が緩んでいたとはいえ失態だった。リドルに申し訳が立たない。
 後悔に沈む俺に、探るようなリドルの視線がちらちらと向けられる。やはりもう一度きちんと謝った方がいい。そう思い直した時だった。
「リドル寮長、副寮長、おはようございます」
 背後から聞こえた声が誰のものか、振り返らずとも分かった。昨夜寝入ろうとする前に耳にして、脳裏から離れなかった声だからだ。
 俺の後ろから現れた昨日の彼は、意図的なのか何なのか、俺の隣に立ち、そのままテーブルを挟んだ状態でリドルに話しかけた。
「寮長、朝からすみません、少しよろしいでしょうか」
「何だい?」
「実は前回の魔法薬学の課題で結果がよくなくて、もしよろしければ少しお時間をいただいて、勉強法など伺えればと思ったんですが」
「魔法薬学?ああ、確かに前回は少し難しかったね。何度も言うけれど勉強は積み重ねだよ。だけどまあ、相談程度なら多少協力できるかもしれない」
 リドルの答えに、彼の表情がぱっと明るくなる。俺は横目でその様子を見とめながら黙って水を口にした。冷えた液体が喉を潤し、それに少しだけ心が落ち着くのを感じる。
「ありがとうございます。それではさっそくで恐縮ですが、今日はお時間ありますか」
「部活動が終わってからか、消灯前なら構わないよ。場所は談話室でいいかな?」
「分かりました。では消灯前に少しよろしいですか?それとあの、実は僕どうしても集中力に欠けるところがあって、それでなかなか理解が追い付かないところもあるのかなと……」
「集中力……なるほど、それなら談話室は適さないかもしれない。キミさえよければそちらの部屋に行こうか?」
「本当ですか……!そうしていただけると嬉しいです」
 やられたな、と思った。もっと慎重に事が運ばれると思いきや、吹っ切れた彼の言動は存外勢いづいたものだった。 進まない食卓を見下ろしながら聞き流していた会話があまりにもスムーズで人知れず舌を巻く。事情を知っている傍から聞いていればなかなかにあざとい誘導だったが、結果的に上手くいっているのだから文句のつけようがない。
 彼は悠々と俺の眼前でリドルを自室に招いてみせた。
「それじゃあまた後で」
「よろしくお願いします」
 隣で丁寧に一礼をしてから、彼はその場を立ち去った。人が増え、段々と賑やかになる食堂で一人、俺はぼんやりと思考に沈む。
「……トレイ?」
「――え、ああ、何だ?」
「どうかしたのかい、ぼーっとして……やっぱり具合が悪いんじゃ」
「いや、大丈夫だ。悪いリドル、ちょっと先に行かせてもらうよ」
 気づかわし気なリドルの顔に、重ねて言いたいのに言葉が出ない。結局俺は張り付けた笑顔で首を振り、席から立ち上がった。 物言いたげな視線を振り切ってその場を離れる。足早に食堂を出て、当てもなく廊下をただ歩く。
 流石に態度が硬かったかもしれない。後で謝らないと。――後、とは。彼がリドルを部屋に招いた後の方がいいのか、それとも――
 自分でも驚くほど混乱する頭を持て余して立ち止まる。行くなと言えばよかったのだろうか。そんな権限がどこにある?彼は自分の寮の長で、なおかつ同じ学年の成績優秀者であるリドルを純粋に頼っているいるだけだ。たとえ下心があったとしても、それが彼を遠ざける理由になるとは言えない。何故彼がその可能性に思い至ったかははっきりしないが、俺は彼とリドルの間において障害にはなり得ない。俺が自分でそう言ったからだ。
 結局その日は、どうにも重たい身体を引き摺ってなんとか一日を終えた。まとわりつく疲れで頭が重い。消灯まではまだ時間があったが、早々に入浴を済ませ、歯を磨いてベッドに入った。目を閉じて睡魔を呼び寄せようとするが、思考は徐々に脱線していき散らかっていく。
 ――リドルに、言えばよかったのだろうか。お前のことを好きだという人物がいて、彼はその内気持ちを伝えるつもりでいる。その事実をリドルに伝えれば、この圧し掛かる不穏な感情は収まっていたのだろうか。自分の感情の落としどころが見つからなかった。
 リドルを信じていない訳でも、彼なりに筋を通そうとしたであろう、件の二年生を疎ましく思っている訳でもなかった。満たされない何かに呻いている。結局のところただ俺は、腹を括ったと思い込んだだけで、何も覚悟をできていなかったのかもしれない。
 自分自身にうんざりと溜息を吐いて、深く息を吐き出す。昔何かで読んだ呼吸法を試すべく、意識して息を整えていると、少しずつ身体の力が抜けていくのを感じた。
 眠るしかなかった。起きていたら絶対に考えてしまう。今頃あいつを特別に思う、俺ではない人間の部屋に招かれている、リドルのことを。

 赤く塗られた薔薇と、整えられたテーブル。なんでもない日のパーティーは本日も滞りなく行われていた。もちろん卓の中心には俺が作ったケーキが鎮座している。今日のケーキは赤く色付いた実をナパージュで更に輝かせた目にも鮮やかな一品――つまるところ、苺のタルトだ。深い意味はない。否、深い意味はあったがそれ以上に、殆ど反射的ともいえる選択だった。少し前に買い出しに出た際、ちょうど良い果実を見つけて買ってあったのも幸運だったと言える。
 最初のピースをサーブされた我らが寮長は、綻ぶ顔を隠し切れない様子だった。リドルの持ち上げたフォークが先端を削り、ほろりと崩れる苺とタルト生地をすくい上げる。一口食べて、大きな瞳が更に大きく見開かれて、柔らかく緩む。その瞬間を見るのが何より好きだった。
「いかがですか、寮長」
「今日も素晴らしいね。お疲れさま、トレイ」
 隣に立ち、そのどこか誇らしげな顔を特等席で見られるという事実に胸がじわじわと温かく熱を持つ。言葉はなくとも、心が通じ合っているのが分かる。それで十分だ。
「寮長、よろしいですか」
 リドルを挟んだ反対側から声が聞こえた。リドルがフォークを置くのと同時に、俺も意識的に心の中のスイッチを切り替える。
「度々お付き合いいただいてありがとうございます、おかげさまで少しずつ要領が掴めてきた気がします」
「大したことはしていないよ。キミにもともとできる能力があっただけのことだと思う」
「いえ、話を聞いていただけてとても……気が楽になったので。それでその、大したものではないのですがお礼をご用意したので、出来れば今日お部屋に伺ってもいいですか?」
 穏やかな表情で彼の言葉に耳を傾けていたリドルの表情が変わる。思ってもみなかった申し出に困惑を滲ませて、寮長は頑として首を横に振った。
「お礼なんて結構だよ。何か対価を得るためにキミの助けになろうとした訳じゃない。寮長として、できることはすべきだと思ったからそうしたまでであって」
「おっしゃることは重々承知しています。それでもどうしても僕の気が済まないので受け取っていただきたいんです。散々お世話になった寮長にこんなことをお願いするのは心苦しいですが、どうかもう一つだけわがままを聞いていただけないでしょうか」
 殆ど泣き落としのそれにリドルは眉をひそめた。そしてごく自然な動きで、反対側の隣に立つ俺を 見上げる。何も知らないリドルは、今までにない出来事に戸惑っているようだ。
 無理もない、以前の冷たく張り詰めたリドルだったなら、こんなことは起こり得なかった。
 リドルは俺に助言を求めている。副寮長の俺に対してか、親しい間柄の俺に対してか。公の場なのだから前者だろうが、もしかしたら入り混じっているのかもしれない。
 俺はどう答えていた?副寮長としての俺は、リドルの幼馴染としての俺は、どうやって。
「……ここまで言ってくれているんだ、ありがたくもらっておいてもいいんじゃないか?」
 自分の言葉が、思った以上に普段と変わらない声音で安堵する。リドルの瞳が探るように見つめてくるが、俺は用意した苦笑いの表情でそれに応えた。
 多少の虚勢はあったが嘘はなかった。どういった形であれ、リドルが他人に気遣われている姿を見るのは嬉しい。何度も言うが以前のリドルなら有り得なかったことなのだ。その変化を喜ぶ心はたしかに存在する。
「では今回だけはいただこうかな。でも今後は不要だよ。他の寮生にも伏せておくように。余計な話が広まっても困るからね」
「ありがとうございます……!それではまた、後ほど伺います」
 深々と頭を下げた彼は、満足そうに胸を張りつつ去っていった。リドルの手元には、一口だけ味わわれてそのままだったタルトと冷めた紅茶が残されている。カップに口をつけるリドルに、タルトを食べる前に新しい紅茶を用意してくるとだけ告げてその場を離れた。
 離れたところでちょうどポットを傾けていたエースに声をかけ、新しいカップに注ぐ。片手間にスタンドからクッキーをつまみ上げ、ぽいと口に放り込んでから、エースはのんびりとした口調で呟いた。
「本日もなんでもない日のパーティー無事終了っすね」
「……ああ、そうだな」

「トレイ、少しいいかい」
 後片付けを終えて領内に戻り、それぞれが自室や談話室へ向かう道すがら、近付いてきたリドルは徐に俺を呼び止めた。もの言いたげな表情に先ほどのやりとりの件かと少し身構えるが、リドルの言葉はまったく別の内容だった。
「……その、今日の夜、キミの部屋に行ってもいいかな」
 伺う視線は普段のものと少し違う。若干の躊躇いを含んだその物言いは、単に用がある時のそれとは違う。リドルが言わんとしているのは、恋人同士としての時間についてのことだ。
 突然の誘いだった。彼の一件から暫く、俺からは誘っていないし、リドルもそれこそ彼のことも含めて忙しいのか、声をかけてこなかった。
「それは構わないが……いきなりどうしたんだ?」
 俺の反応に、何故かリドルは一瞬ひどく傷ついたような顔を見せた。
 何か気に障ることを言っただろうか。自分の答えを反芻するが、明確な理由に思い至ることができない。俺が戸惑っている間に、リドルは自分の気持ちを覆い隠して、取り繕うように言葉を重ねた。
「キミの様子が最近何だか、いつもと違うようだから。少し気になっただけだよ、余計な詮索だったね」
「いや、そんなことはない、んだが……ありがとうな、気遣ってくれて。本当に何でもないん だ」
「それなら、いいよ。足を止めて悪かったね、それじゃあ」
 苦く微笑んだリドルはそれ以上何も言わず、俺を追い越して廊下を歩いていった。足早に消えていくその背中に、後悔とも焦燥ともつかない感情が込み上げて心がささくれ立つ。
 俺は何をやっているんだ? 何がしたいんだ。
 一つだけはっきりと分かるのは、リドルにあんな顔をさせていい訳がないということだけだった。
 沈んだ表情が焼き付いて離れないまま、俺は消灯前の時間を使ってリドルの部屋の前まで来ていた。
 約束はしていない。夕食を終えて今まで、どうにもタイミングが合わず話すことが出来ていなかった。それでも日を跨ぐ訳にはいかず、結果的に押し掛けるような形になってしまっていた。  とにかく顔を見て謝ろうと思っていた。素っ気無い態度をとったこと、言葉が足りなかったこと、全て。
「リドル――俺だ。少しいいか?」
 扉越しの呼びかけに、リドルは少しの間の後応えてくれた。開いた先にいたのは、未だ制服のままのリドルだった。流れ込む部屋の匂いがいつものリドルのそれで、途端に込み上げる恋しさに息がつまる。自分のものと変わらないその部屋が、甘い記憶と重なって特別な空気となって心を揺さぶる。
 無言で部屋に招き入れられるが、俺は扉を背にして立ったままでいた。それ以上足を踏み入れるのが、何となく憚られた。
「さっきはその、悪かった。お前が気にしてくれたのに、よくない態度だった」
「……気にする必要はないよ。先に立ち入ったことを訊いたのはボクの方だ」
「そうじゃない、立ち入ったこととかそうじゃなくて……お前の気持ちは嬉しいんだ。俺の調子が悪そうだとか、そういうことに気をやってくれるお前のことが、俺は――」
 言いかけた俺の言葉の先を、リドルは待っている。そこに続く言葉なんて一つしかなかった。俺が何度も繰り返して反芻して、リドルに伝えてきたことだ。
「俺は」
 その瞬間、背後の扉が小さく音を立てた。それがノックの音だと気付く前に反射的に身体が動く。一歩踏み出し、少し前にずれた俺の後ろからもう一度、控えめなノック音と共に声がかけられる。この数日ずっと耳にしてきた声だ。
「寮長、すみません今よろしいですか」
 迷うリドルの瞳が俺をつかまえる。俺も迷っていたが、ここで断った場合の後のことを考えると無難に対応すべきだと思った。見咎められた場合の対応の方が厄介だ。黙ったまま頷く俺をみとめて、リドルは俺を追い越して扉を開けた。
「ありがとうございます、遅くなってすみません。先程言っていたこれがお礼、で……」
 身を隠すことも考えたが、変に工作するより堂々としていた方が後々面倒を抱えずに済むと判断した。緊張を隠せない面持ちで早口に言った彼は案の定、リドルの背後にいる俺を確認した途端口を噤んだ。不自然なほど硬直した彼だったが、すぐに表情を戻して俺に小さく頭を下げた。居心地の悪さを感じながら俺もならう。
「あの、これです。よろしかったら。僕の地元で人気のお菓子なんです」
「ああ、ありがとう。キミの出身は輝石の国だったね。わざわざ送ってもらって、何だか申し訳ないな」
「覚えていてくださったんですね……!そうなんです、地元の果物をふんだんに使っていて評判なんです」
「ありがとう、ご家族にもよろしく伝えてくれるかな」
「もちろんです、それでその、もう一つお話が……」
 俺の存在に一切触れずにいた彼の目が、一瞬ちらりとこちらに向く。その仕草と言葉で、俺は彼が何を言わんとしているか察した。掌に力が入る。
 気持ちを伝えるつもりだろう。彼は恐らく最初からそのつもりで、それは俺の存在の有無で左右されるような意志ではないということだ。だから俺に視線を寄越したものの、席を外せとは言わない。彼はそれぐらい強い気持ちなのだと訴えている。――言われる相手が、この状況をどう思うかはさておき。
「寮長が好きなんです」
 俺に告げた時と同じ言葉が、まったく違う熱を持って響く。緊張で震える声と、それでも堂々としていようとする強張った表情が胸に刺さった。彼の好意が特別なものであると、心の底から訴えかけてくるような姿だった。相手にも、きっとその気持ちは伝わっている。
 言われたリドルの表情は伺えない。俺はその自分より小柄なその背中をただ見つめることしかできなかった。一瞬の間の後、リドルが僅かに身じろぐ。振り返るかと思ったその顔は結局彼の方に向けられたままだった。
「……好き、というのはつまり、キミがボクのことを、という意味かい?」
「そうです。あの、もしよければ、お付き合いをしてもらえたらと……すみません突然。迷惑、ですよね」
「……そう、だね。少し驚いたかな。こういうことは一般的に、相手と二人でいる時に言うものだと思っていたから」
 そこで初めて、リドルが俺を見た。瞳の奥が僅かに揺れている。動揺が隠し切れない様子だった。
 リドルの言う通り、第三者がいる状態での告白というものはそれほどよくあることじゃない。言う側はともかく、言われる側はそういったデリケートな話を他の人間に聞かれたくないと思うこともあるだろう。強い感情を表したいのか、俺に対する拭いきれない疑念からくる威嚇か、そのどちらもか。いずれにせよ、その点で彼は配慮に欠けているといえた。
 彼の意図が分からないリドルは、困惑するしかない。まだ二人きりの時に打ち明けられたのならそれなりの対応もできたのだろうが、この異質な状況がリドルを混乱させている。彼の言動を訝しみながらも冷静な顔で、俺とのことを伝える訳にもいかないからあくまで副寮長の俺に戸惑いを投げ掛けたのだろう。ただそれは彼にとっては致命的だったのだ、恐らく、何よりも。
「副寮長にも許可は得ています」
 広がる沈黙を切り裂く言葉だった。俺を見たリドルの視線に何を感じ取ったのか、彼はまるでそれが大義名分であるかのように声を上擦らせて言った。
「……許可?」
 聞き返すリドルの声は冷え切っていた。彼に向き直ったリドルは、淡々とした口調でその意味を問う。
「許可、というのはどういう意味かな。キミがボクに好意を伝える許可?もしくは、今ここで伝える許可かな」
「リドル、それは――」
 掠れた声で呼びかけるがリドルは振り返らない。ぴくりとも動かない背中に、今は俺の言葉に耳を貸さないという強い意志が覗いた。ぞっとする勢いで血の気が引き、俺はそれ以上何も言えないまま口を噤むしかなかった。
「好きなんです、寮長。リドル、僕は――」
「キミの気持ちは分かった。返事は改めてさせてもらってもいいかい。今日はもう遅いから部屋にお戻り」
「……わかり、ました」
 興奮で言葉が乱れ、上滑りする彼の態度をきっちりと制して、リドルはそのまま一緒に廊下へと出て見送った。
 程なくして戻ってきた相手に、俺は伝える言葉が見つからず立ち尽くしていた。こちらに視線を向けるリドルは途方に暮れたような顔をしている。俺の言動に打ちひしがれているようでもあった。誤解をされた、いや、これは本当に誤解なのか。
「……許可というのは、どういうこと?キミは、このことを知っていた?」
「……相談を受けていた。お前のことが好きだと、それで――」
「どうしてボクに言ってくれなかったのかな」
 もっともな問いかけだった。最初からリドルに話しておけばよかったと、今になって思う。そうしていれば少なくともこんな風に、何度も傷付いた顔をさせていなかったかもしれない。
「彼に対してフェアじゃないと思ったのもある。それにお前に対して前向きな感情が向けられているのも嬉しかった。だから俺が、余計な茶々を入れるのも変だと、思って」
「何だいそれは」
 苦々しくリドルが呟く。心底絶望したといった口ぶりだった。俯いたリドルは力なく首を振ると、ひとり言のようにぽつりとこぼした。
「心を許してくれていると思っていたのは……ボクだけだったのかな」
「リドル」
「ごめん、ボクもキミも少し頭を冷やした方がいい。おやすみ」
 それだけ言うと、リドルは俺の隣を通り過ぎて洗面所へと消えていった。残された俺は血の通わない指を強く握り込み、重い足を引き摺ってリドルの部屋を出た。
 廊下に出た瞬間、誰かと出くわすようなことがあったら厄介だなと思っていた。それぐらい自分自身の顔が酷いことも分かっていて、俺は足早にその場を離れる。
 何もかも間違っていた。そんな強い後悔だけが頭を占めていて他には何も考えられない。鉛のような身体を無理やり自室に押し込めて、俺はいつかと同じように扉に背を預けて呻いた。
 大切にしたい人を傷付けた。その事実が重く圧し掛かって心が軋む。頭を冷やそうと言ったリドルの冷え切った表情と、俺にだけ見せてくれる柔く緩んだ笑顔が交互に浮かぶ。
 唯一無二のリドルのことを思うなら、俺がその唯一の人に、自分の素直な気持ちを言わなければなかったのだ。

 一日が経ち、俺は前日と同じように約束をしないまま、消灯前の時間を使ってリドルの部屋の前にいた。迷って、結局だまし討ちのような手段を選んでしまった。取り返しがつかなくなる前にとにかく動きたい一心で、祈るような思いのまま扉を叩く。拒絶される可能性も考えてはいたが、それでも止まれなかった。
「リドル、俺だ。開けてくれるか」
 掠れた情けない声だった。程なくして、扉が開けられる。俺と同じく、リドルも未だ制服姿のままだった。顔つきは強張っていて、くつろいでいた様子はない。俺は無言で部屋に招き入れられた。
 背後で扉が完全に閉まったのを確認してから、頭を下げる。
「ごめん、悪かった。全部俺の責任だ。散々理由をこね回して結果お前を……傷付けた」
 傷つけたと。口に出した瞬間、隙間風が入るように心が冷え込んだ。大切に思うあまりに傷付けた、など、ていのいい言い訳でしかないのだ。俺は結局自分自身の本音が伝えられなくて焦れていただけだった。
 気付かされたのは、外ならぬリドルの言葉だった。心を明け渡せられていないことに、リドルは気付いていたのだ。
「……ボクも、ごめん。キミを傷付ける言い方をした。キミがボクを思ってやったことだと、知っていて……」
 頭上から悲しい声が聞こえてくる。思わず顔を上げた俺は、声と同じように悲しい目をしたリドルに向かって手を伸ばしていた。肩に触れ、拒む気配を感じられないことを確認してから抱き寄せる。久しぶりに触れたリドルの温もりに胸の奥があたたかく熱を持つ。おそるおそる回した手に力を込めて、その身体を強く抱いた。上ってきたリドルの手が、俺の背中に触れる。引き寄せられるその感覚に、熱い思いが込み上げてきて言葉にならなかった。
 暫くそうして黙ったまま抱き合っていた。重なった体温が心地よくて、擦り切れたように痛む心が宥められていく。このままずっと、離さないでいられたらいい。そんなどうしようもない思考に浸っていると、背中にあったリドルの手が持ち上がり、俺の頬に触れた。
 促されるまま身体を離して、リドルの顔を見る。やさしい指先が俺の肌を擽り、微かに開いた唇が俺の名前を呼ぶ。俺も同じように両手で顔を包み込んだ。
 じっと見つめてくる瞳の上、瞼が少し腫れぼったいような気がした。
「……疲れた顔だな。押しかけて悪かった」
「大丈夫だよ。いろいろあって――なかなか思ったように休めなかっただけだから」
「……ごめん」
「キミは謝ってばかりだね。もういいよ、それに……嬉しかった」
 穏やかな声でリドルが囁く。
「勝手だけど、キミが来てくれると思っていたから嬉しかった。キミの言葉が聞きたかったん だ」
 もっとも、来なければボクから行くつもりだったけれど。そんな風に言って笑うリドルに、呼吸を止められる。伝えたいことはいくつもあったが、そのすべてが一言に集約されていく。昨日言えなかった、その言葉に。
「好きだ、リドル」
 親指が唇の端に触れる。見つめた先のリドルが小さく頷いて、唇を重ねた。柔らかい感触に軽く眩暈がする。何度か触れ合わせるだけのキスを繰り返して、伺うように舌先を唇の間に滑り込ませた。俺の意図を汲んでくれたそこが緩く解けて、そのまま侵入を深くする。ぬるりと入り込んだ舌をそっとリドルのものと触れ合わせて絡めれば、漏れ出す吐息が徐々に甘く熱を持った。
「トレ、イ」
 合間に俺を呼ぶリドルの声も甘い。もっと聞きたくて一度唇を離すが、追いかけてきたリドルにつかまってまた塞がれる。強請る唇に吸い付かれて再び深く口付けた。渇いた心を埋めるようなキスが心地よくて愛おしくて、けれど満たされない気もしていた。
「リドル」
 呼びかける声に余裕がない。俺を見つめるリドルの瞳も甘く揺れている。それでも流石に性急すぎると身体を離しかけた俺を、リドルは躊躇うことなく引き寄せた。
「そばにいて、ほしい」

 もどかしい思いを持て余しながら、二人で身体を清めてベッドに沈んだ。際限なく込み上げてくる強い感情に、どこかためらいがちになる俺の手を引くのはやっぱりリドルだった。
 少し日が開いた行為にリドルは時折辛そうな顔を見せたが、俺が引こうとすると首を横に振った。結果的にもつれ合うようにして身体を繋げていたものの、渇いてどうしようもなかった心が満たされる感覚に、俺は言葉にならない幸福感を覚えていた。
 張り出した俺の性器が、懸命に広がろうとするリドルのそこへ容赦なく侵入していく。熱い息を吐くリドルの瞳に、どこか不安を滲ませるような気配を感じて、俺は見下ろしたその顔を問いかけた。
「痛いか」
「……っ、だい、じょうぶ……っ、あ、す、こし、かんがえて、た」
「……何を?」
 圧迫感に震える身体に覆い被さり、頬や瞼に口付けながら更に訊く。言いたくなければそれでもいいし、話したいことなら何でも聞きたいと思っていた。伸びてきたリドルの両手が俺の頬を包み込む。強請られるまま行き着いた唇にキスを落とすと、リドルは掠れた声でぽつりと呟い た。
「自分達で決めたことだというのも、キミの気持ちも分かっている、のに……」
 何を言わんとしているか分かって、俺は堪らず息をのんだ。
「それでも……さみし、かった」
 感じ入ったそれではない、心を締め付ける涙が、堪えるように大きく見張られた瞳からこぼれ落ちる。
 一度溢れた涙はぽろぽろと流れて、リドルの頬とシーツを濡らしていく。呆然としながら肩を震わせるリドルに、頭がどうにかなりそうなほど胸が痛くて苦しくなった。こんな顔をさせたい訳じゃない。お前を泣かせたい訳じゃないのに。
 手を伸ばして、傍らに置いていたタオルを引き寄せる。そっと押し当てて濡れた目元を拭うが、涙は止まらない。ごめん、ボク、どうして。自分で感情が制御できないリドルのか細い声に、謝らないでくれと懇願する俺の声も震えていた。
 不意に伸びてきたリドルの指が頬に触れる。眼鏡のない俺の目元に、同じように指先を寄せ て、リドルは微かに笑った。
「……キミも泣いてる」
 言われて俺は、高ぶった感情が現象として外に出ていたことに気付いた。込み上げる居た堪れなさに反射的に自分で拭いかけて思い直す。
 リドルが俺だけに本当の気持ちをさらしているのに、俺だけ取り繕うのはフェアじゃない。変わらずやさしい指先が滲んだ涙をさらっていくのを待って、俺はその手をそっとつかまえて自分の頬に触れさせた。
「……そうだな、俺もさみしかったよ。お前が好きだって、リドルが……好きでいてくれるのは俺だって、言いたかった」
 悲しいよりも、辛いよりも、一番初めに心を埋めた感情だった。心が通じ合っていると分かっていても、嚙み合わない行動に傷付かない訳じゃない。
 そしてそれを癒せるのはお互いだけだ。
「すきだよ、トレイ。キミがすきだ、だから――」
 今だけはそばにいて、はなれないでほしい。
 訴えかける瞳は甘く優しいのにまた涙がこぼれ落ちて、俺は堪らなくなって何度も頷いた。  指を絡めて、寄せた唇でこぼれ続ける涙を拭う。
 知っているよ、リドル。お前が抱えている不安に俺は気付いている。期限のある学生生活と離れた学年、先の見えない未来。いずれ俺たちが向き合わなくてはいけない、お前の家族のこと。いつだってお前は強く俺の隣に立ってくれているけれど、そんな不安の嵐に飲み込まれそうになる時があるのを、俺は知っている。
 知っているのに、今すぐに何もしてやれない自分がもどかしかった。こうやって隠れるようにお前の思いをすくい上げてやることしかできない自分にどうしようもなく苛立った。
 それでも、少しでもそんな不安を薄めたくて身体を寄せた。けれど二人きりでいるのに、お前を近くに感じるほど、今日はひどくせつなくなる。
 涙に濡れながら交わすキスは塩辛くて苦しい。でも離れるともっと飢えて苦しくなるから、息を奪うように深く口付けた。リドルのさみしさが少しでも俺に流れ込むように。俺もお前と同じ気持ちだと伝わるように。
「トレイ、とれい、……っう、あ、あ、あっ……!」
「リドル、好きだ、好きだ……っ、おまえが、……っ」
 快感と感情の暴走で泣きじゃくるリドルを抱き締めて緩やかに揺さぶる。縋るように伸びてくる腕を引き寄せて、背中に回させた。
 泣いてほしくはない。けれどリドルがむき出しの思いをさらしてくれることを嬉しくも思う。  こんな風に乱れて甘えるのも俺だからだ。だから同じように俺も相手に気持ちをさらして、ぐちゃぐちゃのまま寄り添う。
「とれい、もう、あ、うっあ、ぁ、あ……っ!」
「……っリドル、っ、う、……っ」
 肩を抱いて、ぴたりと身体を重ね合わせて達した。互いの腹部辺りに濡れた感触がある。達したリドルの性器が身体の間で震えていた。
 萎えた自分のそれを抜き、避妊具だけ始末して、しゃくり上げるリドルを抱き締めたまま暫くベッドに沈んでいた。
 初めて身体を繋げた時よりもずっとリドルは泣いていて、俺はあの時以上に好きだと何度も繰り返した。徐々に冷えていく身体の熱を繋ぎとめるように何度も囁いた。震える声で、何度も。
 疲れ切ったリドルの身体を濡れた温かいタオルで清めて衣服を整え、二人ベッドの上で寄り添う。リドルは部屋着に着替えていたが、俺は脱ぎ捨てた制服を適当に着ていた。
 気だるく四肢を投げ出すリドルを横目で伺う。ぼんやりと視線を宙に浮かせるその、目元が赤く腫れていて胸が痛かった。
 視線に気付いたリドルは小さく笑ったが、俺は黙ったままその身体を抱き寄せた。溜まった感情を涙と共に吐き出したリドルの顔を正面から見つめる。やがてリドルが小さく口を開いた。
――トレイ、聞いてほしいことがある。そう言った声は真剣なそれだった。
「彼には……本当のことを伝えてもいいだろうか」
 リドルが彼と言ったのはもちろん、好意を伝えてきたあの彼だろう。なんとなく察してはいたが、リドルが自分と同じようなことを考えていたことに安堵する。相手に対して誠実でありたいと思う気持ちに嘘はなく、けれどこれ以上お互いの心をすり減らすことも避けたいのが本音だった。
 そう、本音だ。少し前なら覆い隠していた本音。けれど今なら伝えられる。どうしたいのか、どうすればいいのか。
「考えよう、リドル。どうしたらいいのか、二人で」
 頷くリドルの視線は、揺れることなくまっすぐ俺に向けられていた。

 数日後、寮の廊下で彼を見かけた。特に変わった様子もなく、彼は他の寮生と話しながら歩いていた。 やがて彼は向かってくる俺の姿に気付いたが、周りと同じように軽い挨拶だけで何も言わなかった。俺も変わらず冷静にそれに応える。
 あの後リドルが彼とどんな話をしたのか、どういった結論になったのか、実のところはっきりとは知らない。ただリドルが彼にどんな答えを返したかだけは知っている。
 付き合っている人間はいないが、心に決めた人がいる。だから誰の思いも受け入れられないし、たとえ訊かれたとしてもその相手に対しての言及は一切しない。
 丸きり嘘でないその事実を口にすることで、互いの心の平穏を保ちつつ、気持ちを伝えてくる相手にも誠実な対応を返すことができる。苦し紛れといえばそうだが、悪くない折衷案だとも思っている。
 ――ままならないことに嘆くだけではなくて、より良い方法を探していきたい――キミとの未来が見たいから。
 迷うことなくそう言ってくれたリドルの思いに恥じないよう、俺も前を向いていたい。リドルと共に。
 結果俺たちの思惑通り、リドルの言い分はある程度の効力を発揮した。発揮した、ものの。
 ハーツラビュルの寮長には結婚を決めた相手がいると"多少"の尾ひれがついて広まることになったが――それはまた別の話、だ。


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