down
遠路はるばる海を越えて帰国したその男が、真剣な顔つきでノートパソコンに向かい始めてそろそろ2時間は経つ。
しかしながら俺は特に何か言うこともなく、同じ部屋で黙々とキッチンを借り、あれこれ試作していた。
会話があってもなくても、言ってしまえば同じ空間にいなかったとしても、相手の存在だけ満たされるように感じる。
そう思う程には相手を信頼しているし、想ってもいる。だから特別無理を強いるつもりはな
い。まあそれでも、会えるに越したことはないのも事実だ。
二杯目のコーヒーを入れてリビングに向かうと、先程見た光景とほとんど変わらない姿で俺の師匠は液晶画面を眺めていた。
声をかけようか迷って、結局無言のまま熱いカップをマウスより少し離れた所に置く。するとスクロールホイールに置かれた人差し指が不意に持ち上がり、マウスの表面をトントンと叩い
た。
意図は分からないが、呼ばれているのを察して身を屈める。
マウスから離れた右手が滑り、師匠が座るソファの空いたスペースに触れた。同じように指が革張りを叩く。
求められていることを何となく理解して、俺は師匠の隣に腰掛けた。ソファから浮き上がった右手が今度は俺の肩に触れ、それから頭に乗った。くしゃりと髪を乱したかと思えば指に引っ掛けたり、掌で髪の弾力を確かめたり落ち着きがない。
手遊びする右手とは裏腹に左手は器用にキーボードを叩いている。絶対に今俺に触れている右手を戻した方が楽だろうに、哀れな左手の可動域はタッチパッドにまで及びカーソルを強引に動かしている。
思うに恐らく、作業的には一段落ついてはいるのだろう。そうでなければこんな非効率的な行いをする筈がない。
俺はつい笑ってしまいそうになるのを堪えながら、されるがまま頭を預けていた。
手は自由に動き回っているが、相変わらず師匠の視線は目の前に向けられている。
こっそりその表情を伺おうとすると、身動ぎしたのがバレて目が合ってしまった。眼鏡の奥の瞳を細めた師匠に、離れるつもりはないと首を振って示す。
すると頭頂部にあった手が動き、指の腹が髪の中に潜り込んだ。そっと地肌を労わるように摩られて、殊更優しく髪を撫でられる。こっちが驚くほど、優しい手つきで。
背中に走ったそれに気が付かないふりをしようとした。けれど意思に反して、身体はゆっくりと熱を上げていく。
この人は俺のことをその気にさせるのが信じられないぐらい上手いと思う。といっても別にこの人自身にそういう意思はないんだけれど。
それでも一度スイッチが入ったらどうにもならなくて、手を伸ばして剥き出しの首へ触れてみた。
師匠はちらりとこっちに視線を向けただけだ。ただ拒んでいるようには見えなかったから、そのまま顔を寄せて手が触れた辺りに吸い付いてみる。
舌を出してぴたりと肌の上に這わせると、頭の上で細く息が吐かれる気配がした。
無性にキスがしたくなって顔を上げる。液晶画面を眺めていた筈の瞳と視線がぶつかって、無意識に口が開いた。
ぐっと顔が近付きキス出来るんだと目を閉じるが、唇には何も触れてこなかった。代わりに師匠は俺がやったことと同じように首筋へと唇を寄せ、柔らかく吸い付いてくる。温かい吐息が首と、耳のあたりにも引っ掛かって一気に熱が上がった。
そんな風にされたらもう、駄目だ。軽く触れているだけの唇から滑った舌が覗いて、肌を甘く舐められるところまで考えてしまう。自分がやったことをなぞってしまう。
薄く開かれた唇の間から微かに湿った音がする。
それだけで訳が分からないぐらいに興奮して、呼吸が荒く乱れていく。けれど師匠は柔いキスを繰り返すだけで一向に舐めてはくれない。
俺がもうどうしようもない程煽られていることなんて分かりきっている癖にやらない。足りない。
俺は堪らず師匠のシャツを掴んで無理矢理身体を離した。あっさり距離を取る師匠は普段と変わらない表情のまま、興奮しきった俺の顔を眺めている。
「……何だ」
「舐めて、それから口にキスしてくださいよ」
「注文が多いな。どっちかにしろ」
「じゃあなめ――っ、ん」
素直に答えたにもかかわらずその要望は綺麗に無視された。師匠の手が俺の顎を掴み、そのまま隙間なく口を塞がれる。さっきはちっとも出てこなかった舌が今度はすんなり差し出されて、口内を荒らされる。
絡んだ舌を丁寧に舐められて背筋がぞくぞくと震えた。粘膜と柔らかい肉が擦れて堪らなく気持ちが良い。
「ふ、っ、ん……っう、ん、ン」
「……っ」
散々舐め上げた舌を抜き、師匠がまた躊躇いなく離れていく。俺はといえば最早隠せないほどガチガチに固くなった下腹部を持て余しながら、意味あり気に吊り上る濡れた唇をじっとりと見つめた。
「舐めろっつったのはお前だろ」
「な、んで今日そんな意地悪いんすか……」
「むしろ親切だろうが。お前の注文は全部聞いてやった」
なあ?と同意を求めてくる堂々とした笑みには何も言い返せない。
「……これでやんなかったらもうどうしたらいいんすか」
絞り出た声はやたらと掠れているのに熱だけは確かにある。師匠が小さく笑って眼鏡を外し
た。
「やらねえなんて誰が言った」
「だってパソコン――」
言いかけた言葉は再度合わさった唇にさらわれる。
全部まるごと飲み込むようなキスの合間に、いつの間にか黒く光を落とした液晶画面が視界にちらつく。心に残っていた遠慮がその光景で吹き飛んでいく。
「……パソコンがどうした?」
本当にこの人は、俺のことをその気にさせるのが信じられないぐらい上手い。