堂々巡り
扉を開けるとその部屋の主は、大の字になって眠り込んでいた。
オレという来客があるにも関わらず、そんなことを一切気にかけないで眠りこける横顔に、最早苛立つ気力も湧かない。なんたってこの男はわざわざやってきたオレに否応が無しにジャンケンをしかけ、あっさりと勝利した挙句買い出しを言いつけるぐらいだ。
飲み物だ何だと重いものばかり次々と口にする男に反論だってした。それでも男は飄々と手土産変わりだとか言いくるめてオレを部屋から出した。
何かあるのかと勘ぐったが結局こんな風に無防備に寝こけている辺り本当にただの物臭のようだった。今に限ったことじゃないが流石に溜息が洩れる。
だったら一緒に来いよと苦々しく呟く。重いんだよ馬鹿。何でもいいってのが一番面倒臭いんだ。それ以外に意味はない。特別な理由なんて。
オレは重いビニール袋を床に置き、黙々と飲み物や軽食を取り出した。全く涙が出るほど献身的だ。 冷えたビールを置こうとして収まるスペースがもう無いことに気付く。
仕方ない、心の内でそう言い聞かせて、手にした缶のプルタブを開けた。 一口煽ると喉がきんと冷え、腹の底がじくじくと温まっていく。買ってきたポテトチップスの袋を破いて、一枚齧った。コンソメと苦いアルコールが交互に舌を刺激する。
こういう時は早く酔ってしまうに限る。そう思ってほんの数口で一缶を空け、次の缶に手を伸ばす。
ベッドでは相変わらず気の抜けた顔が惰眠を貪っていて、何となくそれに背を向けてまたビールを煽る。 酒が体内を巡る感触はあるものの、酔いにはまだ遠い。
ふと顔を上げると、生活感という言葉の真逆をいくような装飾品が目に入って身体の力が抜けた。
何度も、それこそ高校生の頃から何度も見ているのに、未だにその異質さにぎょっとすることがある。慣れることなんて無いのかもしれないと思って、慣れてもおかしくないぐらいにはこの部屋に来ているのだと改めて自覚する。
当然だ。高校時代から数年、ずっとこの部屋の主と関係を持ち続けているのだから。同級生が初々しい恋や華やかな愛に埋もれている間も、自分はこの男と共に日々を過ごしていた。
後悔がある訳じゃない。差し出された手を拒否しなかったのは成り行きからではないし、どんな形であれ男を特別視しているのは事実だった。
それでも周囲と徐々に乖離していく感覚に、言い知れない空しさのようなものを感じずにはいられなかった。だからといって全て終わらせられるかといえば答えは否だ。
それが分かっているから口には出さない。酒と一緒にぐだぐだと腹の中に沈殿させているだけだ。分かってはいる。分かってはいるんだ。
二つ目の缶が空く。ポテトチップスはまだ無くならない。オレは回らない頭で三本目を手に取る。一口飲んで溜息。酔える筈が無かった。
「お前強くなったな」
突然聞こえた声に、自分でも驚くほど派手に肩が揺れた。振り返ると起き上がった部屋の主
が、寝起きのそれとはまた違う様子で目を細める。
何を言うべきか迷っていた。文句、小言、どちらも大した差なんてない。もしくは疑問。 おいアンタいつから起きてたんだよ、そんな尤もな疑問。
「いつの間にそんな強くなったんだよ」
それだけ言って男は小さく欠伸をした。不自然さしか感じない仕草に確信する。どう考えてもついさっき起きた様子じゃない。 じゃあいつから、ひとり言から?
思考と動作を停止させたままオレは男を見ていた。すると男は立ち上がり、オレの手から開けたばかりのビールを奪い取った。反応する間もなく一気に煽って、しゃがみ込んだ男はオレの唇を撫でる。
「酒のことな」
じっと、真っ直ぐ顔を覗き込まれるのが嫌だった。溜めていたどうしようもない感情を引き摺りだされるようで不快だった。どんな時でもこの男はオレに対して容赦をしない。逃げることを許さない。
男は空になった缶を置いて 、しゃがんだままオレの傍らに転がる缶を取った。買ってきた最後のそれを躊躇いなく開け、飲み干す。
アルコールの匂いが強く香る。
「あー、何か酔ったかも」
缶を放り出し、男はさらりと言う。平然と、普段と変わらない表情のまま、一つも揺らがない視線を向けて、酔ったとオレに言う。そんな筈もないのに。
けれどその有無を言わさぬ様子にオレは頷くしかない。男はオレの手を取ると、引っ張り上げるようにしてその場に立たせた。立ち上がる瞬間少しだけ世界が回って、何故かそれに酷くほっとする。
「酔ったから、さあ。言えよ、聞くから」
不躾で命令口調のその言葉が、訳が分からない程胸を抉った。頭が痛い。がんがんと打ち付けるような痛みが酷い。 好意だってまどろっこしく遠回しにしか繕えないのに、言える訳がない。こんな多少のアルコールでこぼしてしまえるほど、柔くはない。
指先が耳に触れ、熱をもったそこを慈しむように挟む。どろどろと粘ついた感情が優しい素振りにかき混ぜられて居た堪れない。いっそ声でも上げてしまいたいのに、酔いが回った頭が鈍く痛んで泣くに泣けない。
伸びてきた腕で身体ごと絡め取られてふらつく。慣れた体温に意識が遠くなる。せめて何か言ってやりたいのに、言葉にならない。吐く息だけが熱い。
「オレはよわくなったなあ」
気の抜けた声が耳元を擽る。少しも酔ってないくせに何を言うんだ。そう言いかけてやめた。男の言いたいことはそうじゃない。きっとそうじゃない。
目の前の身体に体重をかけると、男はじりじりと後ずさっていく。行き着く先はついさっきまで男が寝転んでいたベッドで、つまるところはそういうことだ。
正直そんな気分じゃなかった。それでも立っているのが辛くて、男に引かれるままベッドへ倒れ込む。向かい合ったまま布団に沈む心地良さに目を閉じた。
指が頬に触れて、薄く目を開ける。半ば義務感に駆られて喉元をさらけ出した所で、男の指は離れていった。
「いいよ。今はいい」
今は、って何だよ。そう言いたかったものの、何となく黙ったまま頷いた。すると今度は頭を抱え込むように抱き締められた。軋むような頭痛が、それだけで馬鹿らしい程あっさりと引いていく。
「盾」
あまい声だった。驚くほどあまい声。どこから出してるんだそんなの。聞くたびにいつもそう言ってやりたかったけれど、いつだってそんなこと言える状況じゃなかった。
年齢なんてこの男の前では意味を成さないだろうと思っていたのに、時折あっさりとひっくり返されるのが疎ましい。
「あとでさ、買い物行こうぜ」
宥めるような口調に、小さく擡げた反抗心を押し留めてまた頷く。厄介なのか容易なのか自分でも分からない。ただどうしようもない思いを、上塗りでも何でも遠ざけてしまえるのなら良かった。心細いなんて言えやしない。とうに行き場なんてない。
嫌になるほど、深く潜ってしまっているのだから。
盾。もう一度名前を呼ばれる。なら最初から一緒に来ればよかったんだ。それだけはどうしても言いたくて、抑えつけられた頭を無理やり上げる。
目が合った男が緩やかに微笑む。
「切れてんの忘れてたんだよ、ゴム」
ああ全く、本当に嫌になる。
(そうしてまた堂々巡り)