期間限定WEB再録「cycle」より
コントローラブル/鳥斉
間延びした教師の声が、教室へ緩やかに満ちていく。
気怠い昼下がりの空気に、鳥束はこっそりと欠伸を 噛み殺した。
何となく視線を彷徨わせると、教卓の近くで寛ぐ幽霊が目に留まる。彼もまた、締まりのない顔を浮かべていた。眠気はおろか怠さすら感じない存在の筈だというのに、妙に俗っぽいのが面白い。生を失っても、元は人だ。感覚や嗜好の全てを無くす訳じゃない。その人間が生きた証はきっと、記憶が消えたとしても、確かにそこに存在している。
彼から視線を外して、鳥束はぼんやりと黒板を見つめた。壁を挟んだ向こう側、座っている筈のその人を思い浮かべる。
捉えどころが無く、向けられる視線はいつも冷えて いた。時折ふっと、消えてしまいそうな気さえするその人に、好きだと言ったのは昨日のことだった。
超能力者がいる。そんな話を幽霊から聞いた時、鳥束は素直に驚いたことを覚えている。
別段疑いは無かった。幽霊の話は基本的に確かであるし、自分自身のこともある。そういう人間がいてもおかしくはない、そう納得していた。ただそれに対して、特に仲間意識のようなものを感じた訳ではなかった。境遇こそ似てはいるがそれだけで、そこに無条件に共感を挟める程、無神経ではないつもりだった。
我欲と、好奇心。そんな単純な理由からその超能力者の元へ赴き、そしてあっさりとあしらわれた。話で聞いた以上にその能力は強く、加えて厄介だった。
彼は鳥束の素性を事前に知った上で迎えた。やってくる男が、己の平穏な生活を脅かす存在になり得るか。それを確認する為に。
扱いに困る程の強大な能力、しかしそのことよりも鳥束は、それを持ち得た彼に興味を持った。何でも叶う力を持ちながら、その男はとても無欲な目をしていた。透視を避ける為かそれほど長く視線は合わないのだが、その印象的な瞳は、鳥束の記憶に強く刻み込まれた。
読めない人だと思った。こちらの心は読まれているのに、彼の中身は一切見えてこない。そう思った時、彼が小さく自嘲めいた笑いをこぼしたこともよく覚えている。
その眼差しが無欲でも何でもないことを思い知ったのは、後になってからだった。彼は全てを諦めていた。達観し、一人遠い所で周りを見ていた。見ざるを得なかったのだ。
その後、彼の学校に転校したのは本当に偶然だった。初日に会うなり有無を言わさず引き摺られ、彼の望む目立たない生活を壊さないようにと釘を刺された。もちろんそんなつもりは元よりなかった。気ままに楽しく、女子に囲まれて過ごせればそれでいいと思っていたし、彼の力に何か過度な期待を寄せることももう無かった。
久々に顔を合わせた彼は、相変わらず遠かった。自宅にいた時よりもずっと気を尖らせ、ささやかな安寧を保つのに必死なように見えた。鳥束はそれを知りつつも、ただ漠然とした息苦しさを思うしかなかった。
それでも多少、鳥束と周りの人間とでは彼の距離感が違っていた。伺い難い彼の思考の中で、唯一推測できることでもあった。
それを好感と取るか、はたまた秘密を共有した以上、気が抜けないから警戒されているだけと取るかは別の話だ。恐らく後者が現実なのだろうが、いずれにせよ彼の中で鳥束の存在が、ただのクラスメイトでは収まらないことは確かだった。
鳥束自身はその関係を、打算を抜きにしても好意的に受け取っていた。あえて不謹慎な言い方をするなら、いつも冷静な彼の表情が予期せぬアクシデントで多少なりとも変化する、それを間近で見られることに、優越感にも似たどこか満ち足りたような感情を抱いていたのだ。遠のいていた彼が、自分と同じ所まで近づいてくる、そんなことに、妙な気持ちの良さすら覚えていた。
そういったある意味では近い関係をいつしか、ひとつの親しい友人同士のものであると擦り合わせていたのかもしれない。恐らく、いやきっと、彼にはそんな意思などないのだろうが。
それから彼とは何度か関わっている。困った時に縋ったり、計らずとも彼に協力したり、様々な出来事があった。けれどその出来事の中に、何か具体的なきっかけがあった訳では無い。それならば口にした好意の言葉は嘘なのかと自問すれば、答えは否だ。その部分だけは否定できるのに、肝心の感情の根源については、酷く曖昧なままだった。
ただ、引き金のようなものならあった。
昨日はそれこそ友人のように帰り道を共にしていた。正確に言うなら、たまたま帰宅する所だった彼を見つけ、何となくそのままついて歩いていた。適当に軽口を言いつつ横に並ぶ。彼は相変わらず、気の無い様子で鳥束の言葉を聞き流していた。
足早に歩く彼に歩調を合わせていると、ふと顔が何かに触れたような気がした。空を仰げばぽつりぽつりと水滴が当たる。降り出した雨はアスファルトを打ち、次第に強くなってきた。
鳥束は咄嗟に駆け出しかけたが、動く気配の無い彼を見て留まった。彼の手には、いつの間にか傘が握られていた。鳥束が力のことに思い至る前に、それを黙って押し付けられる。
有無を言わさないその態度に傘を受け取ると、彼はもう一本の傘を広げた。そして何事も無かったかのように歩き始める。暫くその様をぼんやりと見ていた鳥束だったが、染み込む冷たい水の感触に慌てて傘を開いた。離れていく彼の背中に向かって駆け出す。追いついても、彼はこちらを見ようとはしなかった。
「斉木さん」
鳥束が話しかけると、漸く彼の視線がちらりと動く。見慣れない傘の柄を握り込み、鳥束は口を開いた。
「あの……これ、ありがとうございます」
傘を持ち上げ、小さく頭を下げる。彼はその所作を見た後、僅かに顎を引き頷いた。
ぱらぱらと雨が傘を打つ音がする。鳥束は薄いクリアブルーの傘越しに空を見上げた。くすんだ空と、作り物の青が重なる。むず痒いような、どこか行き場の無い思いが込み上げてきて、気付けば口を開いていた。
「オレ、斉木さんのこと結構好きっス」
声として発する前に伝わってはいたのだろうが、彼は鳥束の言葉に合わせて視線を向けた。暫く目が合う。
鳥束はこぼれ出た思いに自分で驚きながらも、彼の 探るような視線に耐え切れずへらりとだらしなく笑った。
「別に深い意味は無いっスけど。とりあえず、仲良く しましょうよ。ね」
あくまで軽く、いつもの調子で。心がけていることすら読まれているのを知りながらも、鳥束はそんな風に言った。彼はふっと視線を逸らして、結局何も言うことは無かった。鳥束も特に引き摺ることなく、また軽い口調でだらだらと下らないことを話しかける。
そうやって少し歩き、先に彼の家へ着いた。彼は傘を畳むと、鳥束の持つそれに目もくれず、家に入ろうとする。
「あ、斉木さん!」
恐らく借りてもよいのだろうが、一応確認しようと声をかける。彼は振り返り頷いた。そして小さくじゃあな、と唇を動かした。鳥束が何か言う前に、彼は家の中へと姿を消していた。雨の音に紛れて、いつの間にか近くにいたどこかの幽霊が囁く。
「優しい子ね。でもすごく、不器用」
お節介だと跳ね付けるのも忘れて、鳥束は思わず頷いていた。
終業のチャイムが鳴る。微睡むような思考から這い 上がり、小さく息を吐いた。残っているのはホームルームだけだ。それが終われば、傘立てに収めている借り物を返しに、彼の所へ赴くつもりだった。入ってきた担任の話を聞き流しながら、鳥束は昨日の言葉を反芻する。
自分が目立たず、平穏に暮らす為とは言っているが、彼はその実何だかんだと自ら人に関わっていた。決して利己的だったり、冷たい人間だったりする訳ではないのだ。
わざわざ傘を二本移動させ、濡れた服も厭わずに歩いて帰っていた。その気になれば自分だけでも、すぐさま家に帰ることだって出来たにも関わらず。何も知らない人間ならともかく、一緒にいたのはその力を十分に知り得ていた鳥束だったのだから。
好ましいなと、思うのは自然なことだった。元は自分の都合で、殆どがその結果から為ったことだとしても、 内包されている優しさまではその限りでない。現に昨日の彼の行いは、他人に向けた思いあっての行動に他ならなかった。それを指摘してもきっとあれこれと否定されるだけだから、思ったことをそのまま伝えた。そして口にしてから改めて、 ああやはり自分は何にせよこの人を好いているのだと、しみじみ思い知ったのだ。
思い出すと何故か若干の気恥ずかしさが込み上げてきて、鳥束はもう一度深く息を吐いた。やがて担任の声でホームルームの終わりが告げられ、生徒達はばたばたと騒がしく動き出す。鳥束も腰を上げ、彼のクラスに向かう。ドアから教室を覗こうとすると、ちょうど出てきた一人の女子と出くわした。
「あの、すんません。斉木さんいます?」
目が合った彼女は、鳥束に訝しげな視線を向けたが、顔を覚えていたらしい。ああ、と合点がいったように 呟き、柔らかく巻かれた髪を揺らして鳥束の顔を伺う。
「君、転校生の……えっと、みんなの守護霊見てた人?」
「あ 、そうっス。鳥束零太っていいます」
「ふうん……何だっけ、斉木? ごめんね、あたしこのクラスじゃないからよく知らないの」
彼女は気怠げにそれだけ言うと、鳥束の横をすり抜けていく。すれ違いざま、漂う甘い香りと共に微かに、手が触れ合う。思わず振り返ると、彼女もこちらを見ていて微笑まれた。
「またね、鳥束くん」
そこで初めて気が付いた。彼女がとても―とても、魅力的だということに。
去っていく背中をぼんやりと目で追う。暫くそのまま立ち尽くした所でやっと、鳥束は本来の目的を思い出した。
教室を見渡すが、やはり彼の姿は無かった。透明化している訳でもなく、本当にいないようだった。もう帰ってしまったかもしれない。鳥束は急いで玄関口へと向かった。下駄箱に近付くと、ちょうど早足でその場から去ろうとしていた彼を見つける。
「さーいきさん」
声を掛けると彼は、いかにも嫌々といった様子で振り返った。鳥束が近付いていること―何なら、傘を返す為会おうとしていたことすら分かっていたのだろう。
応じたのはただ単に、あまり堂々と無視をする訳にもいかないからだ。その証拠に彼の手にはしっかりと、鳥束が置いていた傘が先んじて握られていた。
「借り物くらいちゃんと返させてくださいよ。オレだってその辺の礼儀は弁えてるつもりなんスから」
肩をすくめて言い募る鳥束を見て、彼は少し居心地 悪げに顔を背ける。別に大したことではないし、お前に気にかけてもらう必要もない。言外にそんな意図を込めて、彼は首を振る。鳥束は彼に近付き微笑んだ。
頑なな態度は、その行いが紛れもない厚意だったからだ。それを分かっているから、あえてそこにはわざわざ触れない。
「仲良くしましょうって言ったじゃないっスか。きちんとお礼が言いたかったってオレの気持ち、汲んでくれません?」
下手に出つつも、少し押し付けがましく口にしてみる。案の定彼は怪訝な顔をした。何故自分が、何故お前に。全く腑に落ちないと言わんばかりの表情に、鳥束は苦笑する。やはり一筋縄ではいかない。どうしたものかと思案してふと、思いついたそれを試しに口にしてみる。
「斉木さん、ちょっと付き合ってくださいよ」
鳥束の思惑を察した彼は、あからさまに訝しげな視線を向けてくる。それに構わず緩く笑って、鳥束は言葉を続ける。
「嫌だな、ホントただのお礼っスよ。おかげで服も鞄も大して濡れなかったし。いやほら、昨日は特に大事なものを鞄に入れてたんで」
具体名は伏せたが、もちろん彼にはその内容が伝わっているだろう。彼は冷めきった目で鳥束を睨め付ける。しかし多少逡巡する素振りを見せたものの、結局鳥束の申し出を断ることは無かった。
適当に目についた喫茶店へ入り、入り口から離れた奥の席へ着く。喫茶店といってもチェーン店のそれで、周りの客層は幅広かった。
鳥束はメニューを眺める彼をちらりと見た。やたら真剣さを湛えているような瞳が物珍しく、純粋に興味を魅かれていた。やがて注文が決まったのか、彼は顔を上げ急かすように鳥束を見た。慌てて呼び出しボタンを押し、ろくに見ていなかったメニューの字を追う。
程なくしてやってきた店員に、適当に目についた飲み物を注文すると、正面から伸びてきた手が写真を指し示す。写っていたのは白いクリームがたっぷりとかかった 褐色のゼリーだった。それともう一つ飲み物を頼んで、彼は満足したようだった。店員が一礼しメニューを下げ、背中を向けた所で、気になっていた疑問を口にした。
「好き、なんスか? コーヒーゼリー」
彼は一瞬鳥束を見たが、すぐに視線を逸らした。妙な間が流れる。その沈黙に段々と、訊ねたそれが聞いてはいけないことのようにすら思えてきて、鳥束は居た堪れなさを感じていた。地雷を踏んだのだろうか。有り得ないとは思うがもしや、何か彼の力に関係しているとか、そういう可能性も無いとは言い切れない。
そんなつらつらと纏まらない思考を散らかしていると、突然正面に座る彼が小さく息を洩らした。何事かと表情を伺えば、彼は唇を僅かに緩ませていた。それで先程の吐息が思わずこぼれた笑い声だったと気付く。鳥束はそれに些か戸惑いながらも、恐らくは行き過ぎた杞憂だったことに一人安堵した。彼はそれに対して笑ったのだ。現に何か面白いものでも見るような目で、鳥束は観察されていた。
あえて視線を外しつつ、鳥束は先程とはまた別の居心地の悪さを思う。心の中ではひっそりと、かなり短絡的だった自分の考えを後悔していた。
すると唐突に嫌いじゃない、そう呟かれた気がしてはっと顔を上げる。彼は素知らぬ顔をしているが、その表情は普段より多少和らいでいるように伺えた。回りくどい言い方はしかし、その分彼の本心をそのまま表しているともいえる。思わず顔が緩むのを感じた。彼はそんな鳥束を一瞥すると、小さく溜息を吐いた。
やがて店員が彼の「嫌いじゃないもの」と飲み物を 運んできた。目の前に置かれたそれを、彼はじっくりと品定めするかの如く眺めている。それからスプーンを手にし、ふるふると震える表面に柔らかく先端を突き入れた。崩れたゼリーを慎重にすくい、口へと運ぶ。鳥束はその一連の所作を何となく見守っていた。
無言のまま咀嚼して、またスプーンを動かす。特別表情に変化は見られないが、淡々と食べ進めていく様は満足しているが故のものだと思いたかった。
自分の分の飲み物を口にして、鳥束は窓の外へと目を向けた。気に入ったのなら何よりだ。礼をさせろと言った以上、そうでなくては意味が無い。
不意に向けられる視線を感じて、鳥束は正面を見た。彼はスプーンを持ったまま、何か言いたげに鳥束の顔を伺っている。
「―ああ、まだ気にしてます? ホントに他意は無いっスよ。だって、友達でしょ」
どうにも色々と腑に落ちないらしい。そう察して、 もう一度さらりと告げる。軽い笑顔を浮かべながらも 鳥束は、実の所自分で言った言葉に違和感を抱いていた。
友達、改めて口にすると何とも妙な感じがする。元は 自分本位の理由で彼に近づいた鳥束が、今度は友達だと口にするのは確かに理解に苦しむ変化だろう。何なら滑稽とすら言える。取ってつけた、もっともらしい大義名分。そんな風に受け取られても仕方ない。鳥束だって何の躊躇いも無くそう思っている訳ではない。
もちろん彼を利用だとか、そういう他意がある訳でもない。ただ単に彼の行動を、好ましいと思ったから。些細なそれでも、彼の優しさが居心地良かったから。その思いにふさわしい関係性を探して、結果そんな間柄を口にしたに過ぎなかった。
「まあ、そういうことっス」
言葉にはしていないが、彼には伝わっている。彼は 砂を噛んだような顔をしてまたゼリーへと視線を落とした。鳥束もひっそりと苦笑して、視線を周りへと向ける。それから暫くはずっと、彼がスプーンを動かす音だけが間を満たしていた。
程なくして彼は食べ終わり、窓の外も日が傾き始めていた。鳥束は伝票を取ると、彼より先に席を立ち会計を済ませた。
少し遅れて彼がやってきた。そのまま外に出て、暫く二人黙ったまま並んで歩く。夕焼けが赤々と照り、目に眩しかった。
「斉木さん」
名前を呼ぶと、彼は視線を鳥束に向ける。どことなく警戒心を漂わせた瞳が、それでもじっと鳥束を捉える。
「また行きましょうよ、今日みたいに」
口にした言葉は、それほどつっかかりもなく響いた。彼はゆっくりと瞬きをして、続きを促す。
「まああの、今度は友達としてなんで、割り勘になっちゃうんスけど」
どうもずれたことを言った気がする。そう思いつつも今更取り消せず、鳥束は気の抜けた笑いを浮かべる。
彼はふっと息をこぼした。思わずその反応に構えるが、彼の表情に剣呑な空気は無かった。拒否の意は無い。 そう受け取った。本当に嫌ならきっと反応すらしない。
彼の言動は基本的に素っ気ないが、気付いてしまえば ある意味分かり易かった。真意はどうあれ彼は、鳥束が向ける思いを無下にする気は無いらしい。それだけでも大きな前進だった。
友達。まだ舌に馴染まないその言葉を、心の内で繰り返す。いつか気兼ねなく口にできるようになるのだろうか。不確定な未来を思いながら、鳥束は彼と並んで歩き続けていた。
取り立てて変わったことは何もなかった。学内で会えば何かしら話すし、下校が重なれば帰路も共にする。 以前とそう特別に、変わったことなど無い。それでも あえて挙げるとするなら、彼の纏う空気だ。
相変わらず掴み辛く、口数も多くは無かったが、それなりに険は取れてきたようだった。無論、容赦なくあしらわれることも多々あったが、鳥束はそれほど気にはしていなかった。
思うに彼は慣れていないのだ。人との関わり合いという行為自体に。自分では上手く立ち回っているつもりだろうが、時折混じる戸惑いのようなそれは誤魔化せていなかった。彼は全てのことを諦めていた。投げ出そうとしてさえいた。しかしそう何もかもを手放せる訳ではない。
事情を知らない―あるいは、知っていようとも向けられる他人の感情。そればかりは彼に介入する権利など無い。だから戸惑う。どうしたらいいか分からなくなる。何を考えているか全て分かるのに操れない。操ってはいけないのだ。それでも受け入れるには重過ぎて、とりあえず無心を思うしかない。その結果が彼の姿勢だ。
尤も、全ては鳥束の憶測でしかない。こうあって欲しい、そんな身勝手な期待かもしれない。言ってしまえば正直どちらでもよかったのだ。無理に決めつけ聞き出して、真意を探る理由もない。ただそういう思いを含めた上で、彼と関われたら良いと思っていただけだった。それならば互いに疲れず、距離感も測り易いだろうと考えていた。
肩入れし過ぎている、鳥束は苦笑を洩らした。当初から自覚はあったが、ここへきて本格的にその気が強くなってきた。まるで片想いの女子学生のそれだ。
―片想い。ふとその言葉を思う。彼はその力の為、誰かに焦がれることも無いのか。いや、と鳥束は思い 直した。そんな不確定なことを考えるべきではない。 人の感情はそれこそ彼の力も、不可侵なのだから。
約束という程ではないが、偶然会った時にあることを告げてはいた。お礼にと行ったきり、結局まだどこへも連れ立っていない。別に特別視していた訳でもないが、一度は貸し借り抜きでどこかへ行ってみようと思っていた。
最近新しく出来た店があるらしい。デザートの種類が豊富で、コーヒーは自家焙煎に拘った一品。鳥束の誘いに、彼は呆れたような視線を向けた。女生徒の話を立ち聞きして知ったきっかけは一応黙っておいたのだが、もちろん彼相手に意味などある筈が無かった。彼は煩わしそうに視線を彷徨わせたものの、それでも結局小さく頷いた。
じゃあ今日の放課後に、それだけ言って鳥束は彼と 別れた。つまるところ、かなり動揺していたのだ。
以前の彼なら相手にしていなかっただろう。前回と違って今度は礼の意味も無く、ただ自腹で付き合わせるだけだ。それこそ、普通の友達同士のように。
やはり彼の中でも多少の変化はあったらしい。鳥束はそれに素直な喜びを覚えていた。分かってはいても拒絶されるより、受け入れられる方がずっと良い。
授業が終わり、鳥束はすぐさま教室を出た。隣のクラスへ向かうと、ちょうどそちらも終わったらしい。人の流れに逆らって中を覗き、机の傍らに立っている彼を見つけた。
声をかけようとして、思わず鳥束は口を噤んだ。
彼の周りにはいつも集まってくる面子がいた。その中の一人の顔には嫌という程見覚えがある。厳密には別人だが、瓜二つの顔をした自分の守護霊を思い出しげんなりとする。
話していることはよく聞こえないものの、状況から察するにその男、燃堂が彼をどこかへ連れ出そうとしている様子だった。彼はそれに至極面倒そうな顔をしている。そしてもう一人、傍らにいる海藤も仏頂面ではあるが、率先して鞄を手にしている辺り、まるきり気乗りしていない訳でもないらしい。
何となく、ただぼんやりと彼らの姿を眺める。すると 鳥束の思考を拾い、彼が視線を寄越してきた。鳥束は 思わず横に首を振っていた。彼は探るような目を向け続けていたが、鳥束が両手で押し留める仕草をすると視線を戻した。やがて意見が纏まったのか、彼は二人に連れられ反対側の扉から出て行った。
彼らの視界に入ることの無いよう、身を隠しかけた 所で我に返る。何故自分がこんな風に気を遣う必要が あるのだろうか。扉から離れ、鳥束は溜息を吐いた。
意図せず思考から消していたが、そういえば彼の周りにはよくあの二人がいた。恐らくはあしらいきれず今の状態、といった所だろうが、それでもやはり周囲の人間とは少し接し方が違うように見えた。傍目には普通の友人同士、違和感も無く見える。ふっと気が抜ける感覚を覚えた。
自分の立ち位置も距離感も理解していると言いながらも、どこか逸脱しているという認識が心の隅にでもあったらしい。それならそれで別にいいじゃないかと鳥束は思い直す。深く考えるようなことじゃない。元々気まぐれのような誘いだったのだから、また気が向いた時に言えばいい。しかし何故か虚脱感が拭えなかった。
約束でもないそれをふいにされた、いやさせたことに気落ちしているのか? まさか、ただの友人同士で―友人?
「鳥束くん」
声を掛けられたことで、混乱しかけた思考から浮上する。鳥束ははっとして顔を上げた。
いつの間にか目の前に、一人の女生徒が立っていた。彼女の顔を見て記憶が蘇る。以前彼に傘を返そうと隣の教室へ来た時、話しかけた人だった。
「何してるの? ぼーっとして」
「え、ああ……いや、別に。何も」
歯切れ悪く言いながら、鳥束は誤魔化すように笑う。何を誤魔化したいのかは、自分でもよく分かっていなかった。
「そうなんだ―ね、鳥束くん今から暇?」
「え?」
彼女は不意に一歩鳥束へ歩み寄ると、小さく首を傾げて言った。見た目は大人びているのに、その仕草が妙に幼くてどきりとする。柔らかく艶やかな唇が緩く弧を描く。甘い香りが、ゆっくりと確実に体温を、上げる。
「あたしすごく暇なんだよね。ちょっと、いい?」
女の子らしい綺麗な手が鳥束を招いた。微かに触れ合った感触を思い出し喉が鳴る。鳥束は殆ど無意識に頷いていた。
含みのある誘い方をされたものの、鳥束が期待した ようなことにはならなかった。
彼女は鳥束を連れ出し、当てもなくだらだらと歩かせた。時折立ち止まりはするが、寄り道という程長居はしない。心底暇を持て余しているように見えた。
鳥束は多少拍子抜けしながらも、隣を歩く彼女を盗み見ることで気分を持ち直していた。ちらちらと覗く白い肌、鎖骨。溜息を吐きたくなる程魅力的だった。
「何?」
本当に小さく嘆息してしまって、彼女がちらりと鳥束を伺う。
「え、あっその……何でオレなのかなーって」
言葉に詰まり、藪から棒にとってつけた言葉を口にする。彼女は案の定きょとんとした目で鳥束を見た。
「暇そうだったから、じゃ駄目?」
「あ、いや、駄目とかそんなのないっスけど」
「だよね。何となく鳥束くん、あたしと同じ感じがする」
そう言って微笑まれると、どうしたって胸がざわめいてしまう。彼女のその、何かを含ませるような接し方は恐らく意図的なものだ。意図的だがしかし―深い意味は無い。分かっていながらも、反応してしまうのだからどうしようもなかった。それを性と呼ぶか、業と呼ぶかは 本人次第だ。
鳥束がつられて笑い返すと、彼女は満足げに頷いた。 ふわりと踊るように髪が揺れる。今度は何を見つけたのか、少し早足でどこかへ近寄っていく彼女を見つめながらふと思う。
欲にかまけてあまり考えていなかったが、こういう普通の過ごし方も、好いている人間なら楽しいかもしれない。高揚と、少しの気恥ずかしさを覚えながら鳥束は差し掛かった角を曲がった。立っている彼女の背を見つけ近付きかけて、前方から感じる視線に気が付く。
「ん? お? おめーシュゴレー見られるヤツじゃねーか!」
見間違い、もしくはそれこそ他人の空似であって欲しいと瞬きをするが、生憎とそのどちらでもなかった。
出くわしたのは先程見送った筈の燃堂と海藤、そして二人と一緒に出て行った、彼だった。
「何やってんだ? あ、おめーもラーメン行くのか?」
「おい、止めとけよ!」
気安い調子で話しかけてくる燃堂を海藤が制する。 海藤は気まずそうな顔で鳥束と、傍らにいる女生徒を 交互に伺う。恐らく気を遣われているのだろうが、もちろんそんな遠回しな言い方で燃堂に伝わる筈がない。尤も別に遠慮される謂れも無いのだから、鳥束は全くと言っていいほど気にしていなかった。それよりもだ。
二人の後ろにいる筈の彼の様子を、鳥束は複雑な思いで想像する。出来れば会いたくはなかった。決まりが悪いのもあったが、またあの厄介な混乱がぶり返すようで気が気ではなかった。
「どーも、こんにちは」
鳥束が何と返すべきかと思案している間に、隣の彼女が口を開いた。海藤が戸惑ったように彼女を見て、燃堂はむしろそれでやっと連れの存在に気が付いたようだった。
「お? ……何だおめーデートかよ!」
「馬鹿、声がでかいぞ!」
燃堂は大げさに驚き、それをまた海藤が窘める。何だかんだと仲が良いのだろう、そう呑気に思っていた所で、彼女がごく自然な動作で腕を絡めてきた。柔らかく触れる肉感的なそれに小さく息を飲みながらも、鳥束はつとめて何でもないように振る舞う。
「――まあ、そういうことっス」
「おー、そりゃ邪魔して悪かったな。よし、ラーメン行こうぜ相棒! チビ!」
「誰がチビだ! ……ったく、じゃあな」
やいやいと言い合いながらも二人は歩いていった。 そして後ろにいた彼も、鳥束の横を過ぎる。視線は一瞬だけ合った。しかしそれは恐ろしく無機質で、今までで一番彼を遠く感じた瞬間だった。侮蔑も関心も、思いの全てが抜け落ちたような瞳。彼は鳥束に目を向けたが、鳥束を見てはいなかった。擦れ違う他人の一人、そんな認識しかなかった。何かを失った。そんな漠然とした喪失感が鳥束の心を埋めていた。
三人が去った所で、彼女は絡めていた腕を解いた。 鳥束は思わず彼女を見たものの、言葉は続かなかった。
「ごめんね」
唐突に謝られてぽかんとする。彼女はいたずらが見つかった子供のように、少し控えめに笑った。
「鳥束くん、困ってるみたいだったから。ちょっと調子に乗っちゃった」
そう言われればもう言葉が無い。事実困っていたのは確かだったのだから、彼女の勘ぐりもあながち間違ってはいない。迷惑だと思った訳でもなかった。
ただ―ただそれでもこの、息苦しいような空しさは何だとも思う。あんな空っぽの瞳を向けられて、向けさせて、どうしてこんな思いになるのだと叫びたくなる。彼は分かっていた筈なのだ。彼女と鳥束の経緯も、鳥束の戸惑いも、全て。それなのに何故許容しない? どうして突き放す? 彼の心が分からない。彼が、分からない。
「別にデートじゃなかったのに、ね」
彼女の言葉にまた意識が浮き上がる。鳥束は彼女を見た。少し切れ長の瞳が、長い睫毛と共に瞬く。腰がじわりと熱く、重くなる。ゆっくりと自然な動作で、鳥束は彼女の手を取った。
「今からデートにしたいって言ったら、駄目っス、よね?」
振り払われても仕方ない、その時はその時だ。そんな風に思いながらも、鳥束は彼女の手を握ったまま、瞳を見つめて言った。
彼女は首を傾げて、楽しげに微笑む。そして整った綺麗な指先で、鳥束の手の甲を撫ぜた。
「駄目とかそんなの、ないよ」
痺れるような欲情の後に、彼女の声が耳を擽った。
恋人と呼ぶのかは分からない。けれど情の有無はさて置き、鳥束を拒むことなく接してくれる女性が出来たのは事実だった。
彼女とはたまに時間を合わせ、一緒に出歩いた。大したことはしていない、お互いただ暇を潰すように、だらだらとぶらついただけだ。軽い遊び友達の一人。 恐らくどちらもそんな認識だった。
最初こそ意味あり気な文句を口にしたものの、それに ついて改めて言及することも、されることもなかった。 ただ周囲の反応は違っていた。特に隠していた訳でもないから、自然とその関係は広まっていく。様々な噂が飛び交っていた。
以前からあらゆる意味で女生徒に積極的だった鳥束はさて置き、どうやら彼女自身もなかなかに好き放題やってきたようだった。
『あたしと同じ感じがする―』
その言葉も、今となっては酷い皮肉だった。
その日の放課後、鳥束は玄関で彼女を待っていた。 壁にもたれながら、行き交う生徒―主に女子へと視線を向ける。
例えば彼女が恋人だったとしたら、こんな軽率な真似はそう易々と出来ないのだろうか。それはそれで面倒だなと、鳥束は身勝手な考えを抱く。結局の所自分は、誰かに思いを向けるには何か欠き過ぎているのかも しれない。分かったようなことを思って逃れながら人の流れを眺めていると、その中に見覚えのある髪色がちらついて目を見開く。
近づいて来たのは、彼だった。
あの件以来、彼とは話していなかった。意図的に避けられているのを感じていたし、鳥束自身も顔を合わせる気にはなれなかった。
鳥束の真意は伝わっているだろう。その上であえて何を言葉にすればいいのかとも思っていた。思い出すと胸につっかえるような感覚を忘れたかった。一方的に突き放され、自棄にもなっていた。あの空しい目で見られることに耐えられなかった。
彼はゆっくりと、鳥束がいる方へ歩いてくる。鳥束は視線を逸らしつつも、じりじりとした思いでそれを待つ。やがて彼は鳥束の前を通り過ぎた。至って普通に、何事も無かったかのように。そのあまりの呆気なさに思わずしっかりと彼を見てしまうが、目が合う筈が無かった。
頭に血が上るのを感じた。大雑把で、極めて自己中心的な感情だった。それでも抑えられなかった。
鳥束は彼に歩み寄ると、靴を取ろうと伸ばしていた その手を掴もうとした。もちろんそれは察知した彼にかわされるが、視線は否が応でもぶつかる。
「何、なんスか」
行き場を失った手が下駄箱を叩く。派手な音が鳴り、周囲の視線が一気に集まる。彼はそれを心底嫌がるように眉を潜めた。こんな時でも彼の思いは鳥束ではなく、その行動に向いている。吐き気がする程の苛立ちが込み上げてきて、鳥束はそれを抑え込む為に声を押し殺す。
「ねえ、何なんスか。言いたいことあるならはっきり 言って下さいよ、わざとらしく前なんか通っちゃって。当てつけか何かっスか?」
鳥束がいることを分かっていながら彼は、わざわざ 玄関にやってきた。散々避けておいて今日になって、 いきなり前を通り過ぎるなんて行動に出てきたのだ。 その不自然さに気付かれていることも承知している癖に、彼は何も言わない。―いつだって彼は何も言わない。言ってはくれないのだ。
ざわざわと人気が多くなり始め、彼は視線をうんざりしたように彷徨わせる。こんなに近くで話しているのにまだ遠い。鳥束は唇を噛み締めた。下駄箱についた手を握り込む。
「アンタいったい、どこ見てんスか……オレはずっと、アンタ見て話してんのに」
痛いほど拳を握り締めて吐き出す。彼は鳥束を見ない。そのまま踵を返そうとする彼に、気付けば声を荒げていた。
「言わなきゃ分からないんスよ! オレは分からない、アンタとは違う。アンタは何でも分かるからいいだろうけど、オレにはひとつも分かんねえんだよ!」
彼は動かなかった。そして動かないまま鳥束を見た。その瞳は冷たく、息を飲む程の拒絶に満ち溢れていた。お前こそ何が分かる。彼の纏う空気の全てが、そう叫んでいた。高ぶった感情が一気に冷えていくのを感じる。
彼は鳥束から視線を外すと、今度こそ振り返りもせず 玄関から出て行った。握り込んだ掌が、遅れてきた痛みを今更訴え始める。終わりだと思っていた。具体的に何がどうということではなく、確実に全てが終わったことだけを察していた。いつかの喪失感とは比べ物にならない。
僅かに開いていた扉も閉じてしまった。残るのはもう、何も無い。
彼らを遠巻きに見ていた周りの人間も、暫くすれば また何事も無かったように騒ぎ始める。鳥束は下駄箱から靴を取って履き、歩き出した。どんよりとした重たい空から少しずつ、雨が降り始めている。次第に強くなり始めた雨は、制服も鞄も全てを水浸しにしていく。
傘は無かった。差しかけてくれる人は元より、いない。滲む視界の中、鳥束はただただ歩き続けていた。
水を吸い、重くなったズボンを引き摺るようにして 歩いていた。雨は止むどころかどんどん激しくなる。 遠くからは雷の音すら聞こえていた。俯いた顔からは最早雨か汗か分からないものが滴っていた 。服はともかく、鞄の中身はもう使い物にならないかもしれない。それすらも今はどうでもよくて、鳥束は足を止めることなく進んでいた。
「鳥束くん」
雨音に紛れて、誰かが名前を呼んだ気がした。耳の奥がぼうぼうと響いていてはっきりしないが、もう一度聞こえたそれに振り返る。
「酷い顔―約束、破るからだよ」
立っていたのは、黙って置いてきた筈の彼女だった。大きな桃色の傘を持った彼女は、ずぶ濡れの鳥束を見て微かに笑った。
唐突に芽生える時、性欲と愛情はどちらが先なのだろうか。そんな不毛な考えを、鳥束はぼんやりと抱えていた。
外は相変わらず雨が降っていた。
今日は両親が遅いの、何度も懸想した台詞を、まさか本当に聞くとは思わなかった。濡れた服を言い訳に、なだれ込んだ知らない家で裸になった。この間まで名前も知らなかった同級生の、甲高い喘ぎ声を聞いた。手を噛む癖を知った。
鳥束はゆっくりと身体を起こした。まだ下着しか身に 纏っていない。部屋の主は不在で、室内は雨と、エアコンの音だけが聞こえていた。
長風呂になると告げていった彼女の背中を思い出す。白く、艶めかしい曲線。思い出すとまた下半身が反応しそうで、鳥束は彼女が置いていった乾いた制服を着込んだ。
そのまま立ち上がり、まだ湿っている鞄を持ち上げる。うるさい雨の音に辟易するが、長居は出来ない。深く考えずとも分かる最低の行為だが、今は彼女と話したくなかった。
何も考えず、何も思わず肌を重ねていた時は良かった。清々しい程の自分勝手に、乾いた笑いが洩れる。
鳥束は部屋を出た。見知らぬ家を一人でうろつくのは流石に気が引けて、足早に玄関へと向かう。ぐっしょりと濡れて膨らんだ靴に構わず足を突っ込んだ所で、背後から物音が聞こえた。
「帰るの?」
振り返り、濡れた髪を拭く彼女を見つめる。随分と早い長風呂だと言いかけて止めた。彼女の目は、鳥束の帰宅を予想していたように見えた。
「それ、持って行っていいよ」
無言の鳥束にそれ以上何も言わず、彼女は玄関に立て掛けてある傘を指差した。彼女が差していた桃色のそれに、鳥束は黙ったまま視線を向ける。手に取りかけてふと、その見覚えのある色―誰かの髪色にどきりとして固まる。
それを彼女に悟られたくなくて、鳥束は静止した手を無理矢理横の ビニール傘へ伸ばした。彼女は少し首を傾げたが、何も言わなかった。
「ね、鳥束くん」
そのままドアノブに手を掛けた所で、彼女の呼ぶ声がした。鳥束はゆっくりそちらを向きながら、そういえば彼女はずっと―それこそ、互いが裸になっても、鳥束くんという呼び名のままだったことを思い出していた。
「今日行けなかった所、また行こうよ。ね?」
行けなかった所、彼女が言ったその場所を、鳥束は思い出せなかった。正直言えば、そんな目的があったことすら曖昧だった。しかし流石にここできょとんとしたような顔は出来ない。そこまで非道にはなりたくなかった。だから自分の記憶はさて置き、とにかく頷こうとした、その時だった。
不意に彼女の言葉が蘇る。最近出来た新しい店。デザートが多くて、コーヒーが美味しい喫茶店。
鳥束は洩れそうになる声を必死で飲み込んだ。そうだ、あそこだ。あの日誘って結局、行けなかった店。鳥束が彼を誘った店だった。
行き場の無い感情が込み上げてくる。叫んで、暴れ出したいような気分だった。彼が鳥束に近づいたのは気まぐれなどではなかった。嫌がらせなどではなかった。彼は知ったのだ。鳥束が今日そこに連れられて行くのを知っていた。だから彼はやってきた。
それはつまり―つまり、まさかいや、分からない。何せもう聞くことも出来ないのだ。言ってはならない ことを言った。彼を、深く傷付けた。
絡まる思考を抱えて、鳥束はその家から逃げるように出た。結局彼女には頷くこともしなかった。最低の男のまま、鳥束は振り返らず歩いていく。ビニール傘が薄暗い空を透かす。一時だけの温もりは消え、身体はまたすぐに冷えていく。足は自然と帰路へと向くのに、どうしようもない悔いだけがただ心を留まらせる。
初めて人の内に触れた日は寒く、降り続く雨はいつまでも止まなかった。
夢を見ていた。途中から夢と気付いて、けれど目が 覚めることは無かった。
小さな子供がいた。子供は鳥束を見ると目を伏せた。何かを躊躇っているように見えた。鳥束は子供に近付き、丸い頭をそっと撫でた。子供は顔を上げる。幼い瞳が、鳥束をどこか遠ざけるように彷徨う。堪らずその子供を抱き締めた。びくりと震える身体を柔らかく包み込む。何故か大丈夫と言ってあげたかった。大丈夫、オレは大丈夫だから―だから。
ゆっくりと意識が浮上する。重い瞼を開け、鳥束は窓の外を見た。外はどんよりと暗いが、恐らくもう朝は来ている。脳裏には、夢の内容がはっきりと焼きついていた。
鳥束はしばらく呆然とする。もちろんあの子供に見覚えなどない。あるのはただ、言葉にならない虚無感だけだった。身体を起こし、何もない空間を見据える。何もかもが酷く空しかった。まとまらない考えのまま、鳥束は支度を始めた。
学校に着き、借り物の傘を傘立てに入れる。ついこの間も、同じようなことをしていた。もう随分と昔の記憶にも思えるが、もちろんそんな筈がない。いい加減天気予報を気にする習慣をつけよう。何なら、幽霊に聞いたっていい。鳥束はそう一人決意しながら、廊下を歩く。
だらだらと怠惰に時間は過ぎ、また今日も一日が終わった。鳥束は立ち上がり、彼女を探す。傘を返す以外の用は無かった―何となく、彼女とはこれきりだろうなとも思っていた。生々しい、彼女の肌の感触をまだはっきりと覚えながらも、鳥束は押し寄せる空虚さと共にそう感じていた。
途中彼のクラスを通り過ぎた。鳥束は殆ど無意識に 目を向け、見慣れた後姿を見つける。
ホームルームが長引いているらしい。何か書き物をさせられている彼は、鳥束の存在など気にも留めようとはしなかった。彼の視線はもう、自分に向くことはない。万が一向いたところでそれは、もう。鳥束は苦味を嚙み締めて、彼から視線を逸らした。
探していた彼女はトイレの前に一人で立ち、ぼんやりと空を見ていた。鳥束が近付くと、はっとしたように顔を向け、そして微笑んだ。
「ありがとう。傘、持ってきたっス」
「気にしなくていいよ。そのまま置いといてくれたら いいから」
「え 、でも……」
「いいよ」
そう流すように言われ、鳥束は思わず口ごもる。きちんと貸し借りを消し、この関わりを整理したかった―そんな心情を、見透かされている気がした。
「それとも、お礼してくれる?」
そう言うと意味あり気に唇を緩ませ、彼女は小首を 傾げて見せる。お礼という単語に鳥束が何と応えたものかと思っていると、突然彼女が鳥束の腕を引っ張った。呆気にとられている間に引き摺るようにして連れられたのは、目の前の男子トイレだった。
臆することなく進んでいく彼女に狼狽えながらも、鳥束はいつの間にか中へ足を踏み入れていた。ちょうどそこにいた男の幽霊が、入ってきた彼女を見てぎょっとする。彼女は個室へ鳥束を押し込めると、自分も中へと入り後ろ手に鍵をかけた。鳥束はただ黙ったまま立ち尽くすしかなかった。
「こういうの、嫌い?」
彼女は緩慢な動作で制服のボタンを外す。開いた服の間から見える白い肌に、昨日の記憶が一気に蘇る。彼女の甘い匂い、柔らかな肢体、滴る水、汗。重くなる腰を察したかのように、彼女は鳥束の内股へ手を伸ばした。
細い指が、形を辿るように撫ぜる。吐いた息は恐ろしく熱かった。空いた手で彼女は鳥束の腕を掴み、肌蹴た自分の胸へと触れさせる。心地良い滑らかな感触が、 指に吸い付くようだった。
「あっ……」
小さく彼女が洩らした声に、抑えようのない欲情が 込み上げる。鳥束は触れた指を彼女の下着の中へと潜り込ませた。心地よい弾力が触れ、そのまま揉みしだく。
触れたまま動かなくなった手を退け、前を寛げる。扉を背にして立つ彼女に近付き、スカートを強引に捲り上げた。
「や、んっ……」
屹立したそれを腿に擦り付けながら、制服をより肌蹴させていく。二度目となればもう手慣れたものだ。そんな冷静な思考と、反応する下半身が酷く矛盾していた。
彼女は首を振って身を捩るが 、もちろんそんなものはポーズだ。だからわざわざ構うことなく、鳥束は淡々と手を進めていく。そしてふっと冷めた感情を思う。あれほど求めていた行為が、二度目にはどうしてこんなに味気なく感じるのか。鳥束は深く考えることを止め、昂る下半身にだけ意識を集中させる。
「ねえ……」
腰を撫で擦っていた鳥束の髪を、彼女が引っ張る。 彼女は両手を広げると、まるで子供のように抱擁されるのを強請った。乞われるがままに腕を回しかけて、何かが頭を過った。子供―そう、子供だ。夢で見た子供、鳥束は抱きしめた存在を思い出す。そして忘れていた既視感に辿り着いた。
あの子供は彼だ。鳥束が目にしたことの無い、目にする筈の無い幼い頃の彼。先程盗み見た彼の姿と子供の顔が重なる。大人びて、躊躇いを含んだあの眼は紛れもなく、彼のものだった。
大丈夫。夢の中、口にした言葉の続きを思い出す。それは鳥束が彼に言いたかった、ずっと口にしたかった、唯一無二の本心だったのだ。
斉木さん。鳥束は心の中で呟く。このトイレから程近い教室に、まだ彼が居ることを願いながら。下着をずらし、胸を弄り腕に噛みつく。首筋に触れ指を入れて撫ぜて、その全ての行動を逐一脳内で繰り返す。彼女の声が鼓膜を揺らした。
斉木さん、聞こえてるんでしょう。最低な行いを自覚しつつも、鳥束は止めなかった。彼にもう一度見て欲しかった。どんな感情でも構わない、嫌ってくれたっていい。自分がいることを認めて欲しかった。何もな ような目をこれ以上、向けて欲しくなかった。
オレは他人だ。でもただの他人じゃない。あなたの力を知っている、そしてあなたを好きだという、ただ一人の他人なんだ。
「あっ、ダメはやく、いれて……っ」
彼女が焦れたように腰を揺らす。しかし摺り寄せられるそこに素直に誘われることはなく、鳥束は押し付けられる避妊具を苛々とポケットにねじ込んだ。そして指でぬるつく内部を弄りながら、空いた手で反応しきった自分の性器を擦る。込み上げる煮詰まった快感の中でも、鳥束が思うのは彼のことだけだった。彼に近付きたかった。内に入り込むことを許して欲しかった。言葉が欲しかった。それを自覚しないまま彼を、傷付けた。
下世話な方法で他に逃げても、救われる筈が無かった。鳥束が求めていたのは彼だけ、彼との深い繋がりだけ だったのだから 。
「や っ、あっ、やぁっん……!」
抑えきれない嬌声を上げて、彼女は身悶える。それでも流石に周りに聞こえるとまずいと思ったか、思い出したように手で口を塞ぐ。鳥束は構わず指を這わせた。斉木さん。手を動かす。斉木さん。滴る粘液を擦り付けて暴く。斉木さん―頭の芯が焼き切れそうだった。殆ど自慰のような交わりに笑ってしまう程気が昂ぶる。びりびりと強い刺激が腰から上り、その勢いのまま手の中へ吐き出した。彼女はすすり泣くような声を上げながら、小さく身体を震わせていた。鳥束が指を離すと、糸を引く体液が彼女の足を汚した。
鳥束は大きく息を吐き、無言で手と下半身を清める。それをぼんやり見ていた彼女も、のろのろと自分の身支度を整えだした。彼女の顔は見られなかった。萎えたそれからこぼれる残滓を、トイレットペーパーで拭って捨てる。好き放題の挙句達した。しかしその間際に考えたのは、いやむしろ最初から、考えていたのは彼のことだった。初めて彼女と身体を繋げた時から、心にあったのは彼のことだけだった。女の身体に挿げ替えることで誤魔化していた。女がいたから、彼から離れたと思い込みたかった。本当は違う、その真逆だ。魅力溢れる女の、倒錯的な誘いに惹かれたんじゃない。惹かれることで彼から逃げたかった。心に在り続ける彼から、逃げたかった。
「ねえ」
俯き悄然としていた鳥束を、抑えた声で彼女が呼ぶ。気怠げな特有の色気を纏った彼女は、ただ微笑を浮かべていた。
「好きな子いるんでしょ」
真っ直ぐな視線を向けられ、鳥束は黙って頷く。鳥束の反応に彼女は小さく笑い、扉の前から退く。
「そうだと思った」
呟かれたそれに嫌味な響きは無く、それどころか優しささえ含まれているようで鳥束は戸惑う。酷い仕打ちをし、適当な言葉をつくろい、それでも彼女は鳥束を責めない。彼とはまた違った意味で分からないその人は、魅力的な笑顔と共にその全ての種明かしをする。
「言ったでしょ、あたしと同じ感じがするって」
鳥束はその笑顔に含まれた、行き場を失った心に初めて気付く。その人もまた、どうしようもない思いを抱えていた。誰かを思い、誰かを重ねている。誰かの影を、他人に求めているのだ。
鳥束は何かを言おうとしたが、結局言葉にならずに止めた。言葉にしても、何の意味もないような気もしていた。
人の気配が無いか扉に張り付き、耳を澄ます。先程の騒ぎで幽霊もいつの間にか消えていた。鳥束は扉に手を掛け、外に出ようとする。
「鳥束くん」
名前を呼ばれ、鳥束は顔だけそちらを向いた。
「またね」
そう言って、小さく首を傾げる。最初に会った時と 全く変わらない笑顔で、彼女は最後の別れを告げた。
扉を開き、慎重に足を踏み出す。べたついた手を洗面台で洗い流してから、トイレを後にした。
一度大きく息を 吐き出してから、鳥束は彼のクラスへと向かった。行為の名残が身体を重くし、まとわりつく倦怠感を振り払うように足を早める。
結局最後まで、呼ばれていたのは苗字だった。それが少女にとっての一つの線引きだったのかは分からない。そしてきっと、永遠に分からない ままだろうとも思う。
飛び込むように彼のクラスへ入るが、既にホームルームは終わり、室内は閑散としていた。鳥束は迷わず玄関に向かう。何としても会いたかった。逃げられているとしても、何としても。
玄関にも彼の姿は無く、鳥束は靴を引っ掛けるようにして履き、飛び出した。既に瞬間移動をされている可能性もあったが、それなら直接家まで行ってやろうと決めていた。最早怖いものなどない。躊躇うことなど、何も。
斉木さん。近付く彼の名前を呼びながら走る。もっと 早くこうしていればよかった。もっと早く、彼だけに聞こえるように呼べばよかった。息が上がり、全身の血液が沸騰する。もう無理だと立ち止まりかけた所で、道の中央に立ち尽くす彼を見つけた。
「斉木さんっ!」
荒い息で吐き出した声は、全く響かなかった。掠れるようなそれが離れた彼に届く筈がない。それでも彼は、振り向いた。聞こえているから。
鳥束は彼に近付く。それでもまだ距離はある。しかしそれ以上鳥束は近寄らず、乱れた呼吸を整えるように息を吐く。言葉にできるように。
「この間は……酷いこと言って、すんませんでした。 あとその、さっきのも」
彼は鳥束を見たまま動かない。たださっきの、とぼかして口にした部分には、あからさまな嫌悪感を含んだ眼差しになった。やはり聞こえていたのだ。罪悪感と居た堪れなさを覚えながらも、鳥束は視線を逸らさなかった。
「本当にオレ、何も分かってなかったっス。自分のことも、あんたのことも……分かった気に、なってただけでした」
自分だけが伝えていると思い込んでいた。彼には全て伝わるからと高を括り、そのくせ自分の本心は分からないと逃げて何も言葉にしなかった。そんな自分の行いを、今になって思い知っていた。
「オレだってあんたを見てなかった。あんたに何も言ってなかった。だからちゃんと、言わせてください」
理由づけて誤魔化すこともせず、鳥束は思ったことをそのまま、はっきりと声にする。
「オレ、あんたと友達にはなれません。なりたくも、ない」
口にした言葉に、彼は目を伏せた。そして黙ったまま鳥束に背を向ける。それ以上、何も聞きたくないとでも言うように。今すぐこの場から消えて、聞こえる心の声からも逃れようとするかのように。
「斉木さん!」
嫌な予感がした。鳥束は思わず彼の手を駆け寄って掴む。それでも彼はこちらを見ない。掴んだ手が、微かに震えたのを最後に、視界が変わった。
何かを考える余裕も無く、行き着いたのはどこかの 玄関だった。あまりの唐突さに思考が追い付かないが、すぐにその意味を理解する。家の中はしんとしていて、人の気配は感じられない。唯一の住人は背中を向けた まま、まだ鳥束を見ようとしなかった。彼は鳥束から 離れようと掴まれている手を引く。指先に力を込めそれを阻み、鳥束は懇願するように言った。
「友達になんか、なれる訳ないじゃないっスか……だってオレ、あんたに認めてほしい。内に入ることを許してほしい。オレを特別だと思って、言ってほしい。あんな何でもないような目でもう、見てほしくないんスよ」
初めは些細な好意で、それが友情になるのだと思っていた。けれど行き着いた先は違っていた。そんな距離で収められない程、彼に近付きたいと思ってしまった。 近付かせたいと思ってしまっていたのだ。
「斉木さんだってそうだ。逃げようと思ったら逃げられるのに、オレに付き合った。さっきだってあんな所に立ってた。オレに―何か応えてくれようとしたんじゃないんスか」
逃れようとしていた手の力がふっと抜ける。彼は鳥束を振り返った。瞳にちらつく影が、夢の中の子供と重なる。大丈夫、続けたかったその先も分かっている。
大丈夫―オレの心なんていくらだって見て構わない。躊躇わなくていい、諦めなくていい。もう覚悟は出来た。全部あなたに曝して、捧げる覚悟が出来たから。だから。
「あなたの全部も、オレにください」
酷い手段を踏んで、辿り着いた言葉は呆気なく。どこか愛の告白にも、似ていた。
鳥束はゆっくりと手を離した。彼は自由になったその腕をぶらりと下げて、まるで迷子のように彷徨う瞳を 向ける。揺らぎ、今にも倒れてしまいそうなその身に 思わず、手を伸ばしていた。
もう一度彼の手を掴み、思い切り引く。思いの外あっさりと、けれどぴたりと重なった身体に、心臓が貫かれるような衝撃を覚えていた。
少し下に見える頭を、鳥束は呆然と見つめる。体温が 触れ合い、混じり、じわじわと温まっていく。彼の顔は見えない。ただ回された腕にうっかりと泣きそうにすらなって、今度こそ堪えられず掻き抱いた。息が苦しかった。
頭の隅で危惧していた違和感なんてまるで無い。むしろ彼とは最初からこうなるようになっていたんじゃないか、そんなセンチメンタルなことすら考えていた。彼が小さく息を洩らす。馬鹿馬鹿しい、そう言われているような気がした。確かに馬鹿馬鹿しかった。こんなにややこしく複雑に巡り巡って、どこが必然だといえるだろうか。
鳥束は名残惜しさを感じながらも、彼の身体をゆっくりと離した。彼はじっと鳥束を見ている。何度も瞬きをして、それでも視線を逸らさない。鳥束だけを見ていた。
また引き寄せてしまいそうになるのをぐっと堪えて鳥束は微笑んだ。やっと近づけた体温は離れ難く、胸が締め付けられる思いだったが、これ以上触れているとそれこそどうにかなりそうだった。
こんなのは、矛盾している。不意に目を伏せた彼が そう呟いた気がした。何が、と聞きかけて止める。彼の中の葛藤が、その瞳から滲み出ているようだった。
彼はずっと遠い所にいた。何も要らない、必要にならないと口にして、事実そう思ってきた。だから自分の不可解な感情に戸惑う。分かっているのにどうしようもない、鳥束の思いに戸惑う。
「多分、簡単じゃないんスよ。心とか、そういう曖昧なものって」
彼に言った言葉の筈が、どこか自分自身に向いているような気もしていた。鳥束は彼を見つめる。先程は痛いほど刺さった視線が、今は床へと落とされている。彷徨う、躊躇う視線。けれど逃れることはしない。そんな矛盾を孕んだ彼が堪らなく、どうしようもなく、愛おしかった。
立ち尽くしていた彼が突然、不意に手を伸ばして鳥束の首に触れた。そのまま引き寄せられ近くで目が合う。 唇が小さく、しかしはっきりと名前を呼ぶ。焦がれていたそれに目の奥がじわりと熱くなり、もう留められなかった。
触れたのは一瞬だった。けれど一度触れれば戻ることは出来ない。最初は恐る恐るだった行為が、段々と確かめるように長くなっていく。彼とキスをしている。そのあまりの現実味の無さに、鳥束は何度もその部分を食んだ。触れては離れ、息をする間もなくまた近付く。冷えていた彼の唇が温まっていく。気付けば身体がまた重なり、腕を回せばそろそろと彼の手が伸びてくる。いつの間にか落ちていた鞄を、彼が蹴った。
他人の家で、玄関口で。咎める冷静な自分の声は聞こえながらも、最早何の静止にもなりはしなかった。扉に凭れ掛かるように後ずさる彼に合わせて、その身を囲う。薄く開いた口内へ舌を忍び込ませれば、彼の指先が強く鳥束に食い込んだ。
「斉木さ、ん……」
口を開く間も勿体ない、しかしそれでも名前を呼びたい、そんな矛盾した思いを抱えながら、鳥束は囁く。彼の顔を両手で挟み、鼻先を擦り合わせる。彼はレンズ越しに水気を含んだ瞳を向けた。固い眼鏡と何度かぶつかるが、煩わしさは無い。目の前にいるのが紛れも無く彼なのだと感じられる、そんな風にすら思っていた。
そのまま顔を上げさせて、鳥束は少し高い位置から口づける。彷徨う舌を呼び込んで結んで、息も出来ないほどに深く交わる。身体に触れる彼の手に力が入り、喉奥から引き攣るような声が聞こえた。
身じろいだ彼の肘がドアに当たり、少し大きな音が 響く。鳥束はそれでやっと多少の落着きを取り戻した。際限無く続けてしまいそうなその触れ合いを止め、彼の唇から離れる。互いに呼吸が荒かった。普段は息一つ乱さずどんなことでもやってのける彼が、今はただドアに身体を預けて立っている。傍から見れば酷く滑稽だったが、少なくとも鳥束はそれどころではなかった。
再び現れた冷静な心が、留まれと叫んでいる。このまま向かう先はもうそこしかなくて、しかしそんな所まで進んでいいのかと躊躇っていた。思い上がりの可能性だって十分ある。全てを寄越せと言ったものの、それは決してそんな直接的な意味合いだけを表していたのではなかった。それは本当に、確かだった。
頭の中に、つい先ほどの記憶が過る。乱れた女との行為。少しも気まずさを覚えていないと言えば 嘘になる。それが後ろめたさになっていないといえば、嘘に。
不意に刺さる鋭い視線を感じて、鳥束は彼を見た。 ドアから離れて真っ直ぐ立った彼は、濡れて赤く色づいた唇を動かす。
矛盾してるんだ、お前も、僕も。
だからもう、全部、全部くれ。
掠れた声が眩暈を呼ぶ。今まで目にしたどんな誘い文句より甘美な言葉に、縺れ合うように部屋へなだれ込んだ。
彼の部屋に入るのはそれこそ、最初に尋ねた時以来 だった。まさかあの時、次に訪れるのがこんな経緯とは夢にも思わなかった。ずっと捉えられなかった彼の瞳は、今は鳥束だけを見ている。流れのまま勢いでベッドに倒れ込み、彼は見上げるようにして鳥束の顔を伺っていた。
鳥束は彼の髪に触れ、緊張で小さく震える指を隠す。 毛先で遊び、地肌を撫で、耳の裏側を擽るようにして 辿る。そのまま首筋に流れて、くぼんだ鎖骨を柔く押した。
過ったほんの少しの躊躇いも捨てて、シャツのボタンを外す。上着は部屋に入ってすぐ落としていた。乱雑に散らかる衣服が生々しく、背筋がざわめく。露わになった彼の胸元に指を置き、鳥束は彼の顔を伺いながら唇を寄せた。
湿った肌が吸い付いてくる。唇だけで胸を這い回り、外気に触れ立ち上がった部分に触れた時に舌を出した。軽く息を呑んだ彼が顔を背ける。それでも視線は外さずに、鳥束は尖らせた舌で形をなぞるように円を描く。歯を立てかけて踏み止まり、濡れそぼったそこを丸ごと含んでじゅっと吸い上げる。
舌で触れたまま反対側に移って同じように弄り、開いた手でシャツから腕を抜かせた。くたりと力を抜いて自分のシャツの上に寝そべる彼は、倒錯的で現実味が薄く、それでも酷く頭を痺れさせる。
唇で熟れた部分を優しく挟むと、時折喉を鳴らすような声が聞こえた。快感を、覚えているのだろうか。鳥束はよく伺えない彼の顔を 見つめながら探り続ける。
弄り倒した胸から離れ、薄い腹部をなぞりへそを通り越す。彼の肌は柔らかくそれでいてしっとりと温かで、手で触れるのも舌で撫ぜるのも心地良かった。鳥束は犬のように彼の身体を舐め、時折歯を立てた。もちろん甘噛みのそれだが、固い歯が触れる度彼の腰が居た堪れないように揺れるのが堪らなかった。
下腹部まで下りた所で、指が彼のズボンに触れる。ここに触れてしまえば後は一直線だ。今ならまだ踏み 止まることだって出来ない訳じゃない。
鳥束はじっと彼の顔を見た。背けた顔のまま視線だけ 向けられる。彼に拒否の意思は無い。本当にすべて寄越すつもりなのか。別にこんなことじゃなくたって、オレは。
口にしかけた言葉を飲み込んで、ズボンのホックを外す。彼の吐息が鼓膜を揺さぶった。膝元まで引き下ろして、下着越しにゆっくりと触れる。気がかりだった嫌悪感は無く、それに安堵して鳥束は指先を忍ばせていく。
直接的な刺激を受け、彼のそれは徐々に形作られて いく。鳥束は彼の顔に視線を向けた。彼は相変わらず 横を向き俯いたままだったが、その唇は強く噛み締められていた。ぐらり、と視界が揺れる。それが言葉にならない程の興奮だと悟った頃にはもう、乱暴に残った衣服を取り去っていた。零れるように飛び出た性器を掴み、丁寧に触れる。遠く離れた所にいるような彼でも、こんな所まで特別ということは無いらしい。当然と言えばそれまでだが、鳥束は素直に感動していた。
滑りを帯びた先端から馴染ませるように上下に擦る。行き場のない彼の手がもどかしくシーツを掴む。その手を上からそっと包み込むと、彼と目が合った。
は、と小さく震えた息が洩れる。熱い吐息に誘われるようにして身を乗り上げ、鳥束は唇を吸った。誘い出した舌を擦り合わせながら手を動かす。舌先を吸うのに合わせて指で先端の割れ目に触れれば、くぐもった声が思わずと言った風に洩れ出した。その声ごと唾液も全部飲み込んで、鳥束は唇を放した。
こんなにキスが心地良いなんて知らなかった。手の動きはそのままにぼんやりと思っていると、彼がふっと視線を逸らす。照れか、はたまた同じことでも考えていたか。追求したい気もあったがとりあえずは止めて、その先の行為に集中する。
達するところが見たいと思っていた。しかしそれを 察した彼の憮然とした表情に折れて、鳥束は指で含ませる筈の部分を慎重に押す。何度か揉み解すように縁へ 触れ、指の端を引っ掛ける。彼は細く息を吐いていた。
ぴたりと閉じたそこに入る余地などあるのだろうか。突き放されている、以前のざわざわとした虚無感が 重なって、鳥束は思わず唇を噛む。滑りが足りないのだ。そう思って辺りを見回すが、適したものなど見つからなかった。手際の悪さに頭を抱えたくなる。仕方なく湿らせた指でゆっくりと侵入を深くする。傷つけたくなかった。都合が良い文句だとしても、それだけは避けたかった。
第一関節まで飲ませた所で、彼の顔を見る。彼は鳥束を見て小さく首を振った。拒絶か、そう取って指を抜きかけるが、彼の内股がそれを阻むように閉じられる。彼はもう一度首を振った。彼は少しだけ身体を起こし、鳥束に向かって手を伸ばした。じっと伺う鳥束の顔に触れ、ヘアバンドを掴む。剥ぎ取るようにそれを頭から抜いて、 彼はまた身体を沈ませた。力の抜けた手が、ヘアバンドを床へと落した。
「斉木さん」
堪らず鳥束は名前を呼んだ。ずっと無言のまま行為を続けていた所為で、声は酷く掠れていた。未だ萎えてはいないそこをしごきながら、引っ掛けていた指に力を入れる。
軋むような、肉が引き攣れる感覚に怯えながらも徐々に潜り込ませていく。やがて一本の指がようやく収まった。彼は息を荒くし、その違和感に耐えていた。固さを失いつつある手の中のものに極力優しく触れて、鳥束は狭い内部を撫でる。柔らかく、そして熱く締め付けられる感覚に喉が鳴った。今までは彼の、普段とかけ離れ過ぎた姿にただ昂ぶっていたが、初めてあからさまな欲情を意識する。
ここを、許される。ぶわっと背筋が逆立つような興奮だった。鳥束は唇を舐め、内部を慎重に探っていく。なるべくゆっくりと広がるように抜き差しをしようとするが、濡れないのだからそうは簡単にいかない。どうしたものかと無駄に焦りを感じていると、ポケットの中で擦れる感触に気が付いた。そっと彼の中から指を抜き、親指と小指だけでそれを引っ張り出す。小さな袋に包まれた避妊具を目にしても、彼は特に表情を変えなかった。
本心は分からない。無論今更取り繕ったところで仕方がなかった。確かにそれは人に―あの女生徒に押し付けられたものだ。鳥束はそれ以上深く考えることをやめ、封を切る。予めジェルを纏ったそれに指をつけ、滑らせる。そしてもう一度奥まった場所へ押し込んだ。
指一本分は何とか入る。鳥束は入念に指先をぬるつかせてから、他の指も含ませた。ぐっと押し込まれる感覚に彼の腰が引く。歪に広がったそこが切れないようにと動かす。彼が小さく声を洩らした。
上擦ったそれが耳の中に反響する。背を伝い、腰が 震え、奥歯を噛み締めて湧き出す興奮を抑え込む。早く、早く。鳥束はどうしようもなく焦れていた。ただそれでも動きを激しくする訳にはいかないから、もう片方の手で彼の昂ぶりを取り戻させる。少しでも感じて欲しかった。全裸に剥かれ押し倒され、彼がどんな思いでその全てを晒そうとしているのかと考える度、強くそう思っていた。
自分が彼を、どんな思いで欲しているのか、何とか伝えたかった。行動で、言葉で、自分の全てで。
大きく膨らんだそこから、そっと指を抜き出す。前を寛げ、空いていた避妊具を取る。わざわざ手で刺激を与えずとも、容易に被せられるぐらいには、既に反応しきっていた。
掌には汗が滲んでいた。鳥束は彼の足を掴み、持ち 上げる。日に焼けない内股を柔らかく噛んで、腰を押し付けた。
先端はさほど突っかかりもなく入る。括れの部分をじわじわと含ませ、少し動かす。彼はされるがままの姿だったが、じっと鳥束の顔を見ていた。この段階に なって視線をぶつけてくる彼に小さく笑い、鳥束は息を吐きながら押し込んでいく。ゴムの部分に残っていたぬめりが多少狭さを和らげるものの、苦しいことに変わりは無かった。
半分ほど潜ったところで、身を乗り出して彼の唇を 舐める。促す前に舌が覗き、ざらつく表面を撫で合う。手で触れるそれと同じように撫でると、彼の足が鳥束の腰を蹴った。どうやらこれに弱いらしい。そのどさくさに紛れて残った部分も一気に埋めた。肌と下生えが擦れる感触に唇を離す。
中に入っていた。紛れもない、彼の中に。鳥束は暫し 呆然としてしまう。見下ろした彼は、疲れたように長い息を吐いた。何か言いたいのに、うまく言葉に出来ない。胸が苦しかった。確かに満たされている筈なのに、新たな欲望が次から次へと噴き出してくる。
腰を強請りながら、鳥束は彼を見ていた。眉を顰め、苦しさに耐えながらも彼は鳥束の背に手を伸ばす。次第に滑りが良くなり、動かす感覚を短くしていく。粘性のある音が聴こえ、腰がまた甘く重みを訴える。
「さ…っ、いき、さん……」
顔の横についていた手で頬を撫でると、彼はこわばった表情を少しだけ緩めた。腰の動きに合わせて、彼のものを抜く。引き抜こうとすると縁がぎゅっとまとわりつき、泡立ったジェルが淫猥な音を出した。鳥束は息を吐いてその快感に耐え、がくがくと腰を揺さぶった。吐息に混じって、抑えきれない彼の声がこぼれる。断片的で言葉にならないその声が愛おしく、狂おしい程に興奮を掻き立てられる。彼の体温が欲しくて、鳥束は繋がったまま強引に彼の身体を起き上がらせた。
力の入らないその身を膝に乗せ、抱きかかえる。胸に唇を寄せて、今度はゆるゆると波打つように中を刺激した。彼は鳥束の肩に手を置いて揺られている。少し低い所からその顔を見上げると、彼の細い指先が 鳥束のシャツに触れた。ボタンを外し、肌蹴させ下へと落とす。そういえば自分は何も脱いではいなかった。
そんなことに今更気が付いて、鳥束は剥き出しの上半身を彼に擦り付けた。体温が交じり、よりはっきりと彼の温もりが感じられる。彷徨っていた彼の手が鳥束の背中に触れる。隙間なく身体が重なる。
彼の屹立したそれが腹に当たり、ぬるぬると滑る。汗か、先走りか分からない。いや、どちらもだ。彼の体液が、自分の汗と混じっている。
「さいき、さん……っ、は……っ」
言葉になるのは名前だけだった。鳥束は彼の腰を掴み、なだらかだった動きを早めていく。彼が小さく首を振る。声が抑えられないのが嫌なのか、鳥束の肩に顔を預けて逃れようとする。鳥束はそうさせまいと、俯く彼の口へ指を滑り込ませる。唾液がたらりと垂れ、あ、と気の抜けた声がした。非難するような視線に、鳥束は悪びれもせず笑った。堪んない、そう呟いたのか思っただけなのかはっきりしなかった。それでも彼がその一言にびくりと身体を震わせたのは、よく分かった。
限界が近い、他人事のように思いながら鳥束は腹に 触れていた彼のものを掴む。頬に触れて顔を引き寄せ、唇を塞ぐ。覚えたての彼の性感を煽りながら、掠れた息も情けない声もすべて飲み込む。頭も身体も焼け付くように熱く、快感と高揚で意識が飛びそうだった。
せり上がる欲に動きがどんどん激しくなる。達しそうになる熱を逃がしたくて、鳥束は唇を舐め合ったまま目を開けた。
至近距離で、彼と視線がぶつかる。その瞳を見た瞬間、耐え切れず彼の中へと吐き出していた。肉の壁が吸いつくように狭まり、それこそ声が洩れそうになるのをぐっと堪える。彼の背中が小さく震えた。鳥束は舌を飲ませたまま、まだ達していない彼のものを抜き上げる。柔らかく唇に歯を立て、きゅっと手の中の性器を締め付けると、彼が喉の奥で鳴いた。控えめに放たれたそれが生暖かく、指を濡らした。
暫くの間そのままだった。もうずっとこの状態から 動けないかもしれない。そんな馬鹿なことを考えていると、彼の身体が身じろいだ。抱きかかえた彼を見上げる。
弄り過ぎて唇が赤く熟れていた。鳥束は労わるように 指先で触れ、口付けたくなるのを堪える。ゆっくりと 腰を上げさせ引き抜くと、乾ききっていないジェルが 彼の内股を汚した。とりあえず手近にあったティッシュを取り、彼の体液もすべて拭っていく。彼はだらりと身体を投げ出していた。
疲れや痛みとは無縁の彼が、裸のまま横たわっている様はやはり現実味が無い。彼でさえ制御できない感覚―例えば、快感といったそれがあるのかもしれない。鳥束のそんな思考に、彼はぎろりときつい視線を寄越した。
あらかた清め終わったが、べたつく感触は拭いきれない。鳥束は脱ぎ落された服を拾い、起き上がった彼にとりあえずシャツを羽織らせた。気怠そうに袖を通す彼を眺めながら、自分も衣服を整える。忙しなかったが致し方ない。
勢いのままの行為に及んだものの、ここは紛れもなく彼の自宅だ。彼が分かっているとはいえ、いずれ両親が帰宅する。その前に自分で出来るだけ、自然な状態に 戻しておきたかった。
「斉木さん」
ボタンを留めている彼を呼ぶ。その指を捕まえて絡ませ、問いかけた。
「全部、渡せましたか」
彼は瞬きをしてふっと息を洩らす。伏せがちだった瞳が鳥束を見て、穏やかな色を浮かべる。
もらったが、足りない。
やっぱり矛盾してるな。唇を緩ませる彼に向かって、鳥束は微笑んだ。
「オレもそう、言おうとしてたんです」
眠気を誘う教師の声が、相変わらず教室の中を満たしている。
鳥束は窓へと視線を向けた。曇り空が重たく視界を埋めている。じっとりと湿気を含んだ空気がまとわりついて煩わしい。教師の号令で今日も一日が終わり、鳥束はだらだらと教室を出た。行き交う人の波とすれ違い、玄関を目指していく。
下駄箱の付近は人で溢れていた。その間をすり抜けて、鳥束は靴を履き扉に近付く。するとよく見る幽霊が一人近付いて、鳥束に声をかけてきた。
「あーあ、夜から降るって話だったのにねえ。お兄さん、傘持ってきてないでしょ」
俺たちは関係ないからいいけど。そう言って笑う幽霊に、鳥束も小さく微笑み返し、傘立てへと近付いた。濃いブルーの傘を掴むと、幽霊がおっと声を上げる。珍しいねえ、感心したようなその口ぶりに、鳥束はそっと囁いた。
「天気予報、見るようになったんスよ」
鳥束の笑みに、幽霊はどこか違和感を覚えながらも 笑い返した。重苦しい空の下、降り続く雨に向かって足を踏み出す。玄関を出てすぐ傍で、クリアブルーの傘が揺れた。
「行きましょうか」
声をかけると、傘から覗いた顔が頷く。彼が歩き出すのに合わせて、鳥束も歩み始める。
「雨、ずっと降ってますね」
そう言った自分の顔が、天気に似合わず晴れやかな ものであることに、鳥束は気付いていた。そしてその顔を、見ていない筈の隣にいる彼が、知っていることも。
鳥束も彼の顔は見ていないが、想像は出来る。視線は合っていない。けれど見ているものが互いである、そう確信している。
「ゆっくり行きましょう、ね」
呟いた言葉は、雨音の中でもよく響く。身体を冷やさない静かな雨は、こんなにも心地良い。
穏やかな空気のままずっと、許されている内はずっと、彼の近くにいたいと思った。
「混んでないといいっスね、あの店」
鳥束が言うと、彼が大きく頷く。その仕草に笑って、 少しだけ歩調を早めてみたりする。
並んで歩く二つの傘は、雲に隠された空と同じ色をしていた。
お初にお目にかかります /海斉
いつの間にか、正直何が何だかよく分からないぐらいに好きになっていた。横に並びたい一心で追いかけていた思いは、どんどん突き進んで留まることを知らなかった。
友情から大きく外れた感情だったけれど、大切なのは最初からずっと変わらない。傍にいる彼を大事にしたい、より近しい存在になったのなら猶更、そう思っていた。
ベッドに腰掛けたその人をこっそりと伺う。手元の文字を追う眼鏡に覆われた瞳、器用そうな手。普段の毅然とした立ち振る舞いも、時折柔らかく緩められる表情も全部好きだった。もちろん見た目だけじゃない。だけどこんなに近い距離にいるのだ、どうしたってその普段よりくだけた姿に目がいってしまう。
引き結ばれた唇に視線を移したところで、海藤は一層強く胸がざわめくのを感じた。思い出すのはとても口にはできない、しかしある意味至って健全な、肌を重ねるその行為だ。
囁きのように洩らされる吐息。密やかで甘いそれが聞こえる度に、息が出来ない程緊張と興奮を覚えた。
もっと聞きたい、そう思って顔を見上げると決まって唇を噛まれてしまって、それを宥めるように口づけるのが常だった。抑え込む姿も堪らないものがあるけれど、それでもたまにはもう少し、声を。
そんな行き過ぎた思考に沈んでいると、ふとその人と目が合う。慌てて視線を逸らしたものの、かっと体温が上がるのは避けられなかった。どことなく刺さる視線が剣呑なのは、よからぬことを考えていたのがばれた所為か。分かりやすい反応をしてしまったと自分でも思う。
恐る恐る顔を上げれば、呆れたような彼が目に映る。薄く開かれた唇から小さく聞こえた溜息に、性懲りも無くどきりとしてしまってもうどうしようもない。
「……斉木」
半ばやけくそな思いで名前を呼び、身を乗り出す。
ぐっと迫るように顔を近づけても避けられない。些細なことに何度だって浮かれてしまう。首を傾けて唇を寄せた。温い体温が重なって溶ける。一度触れてしまうと抑えることを忘れてしまう。閉じられた唇の間に舌を乗せ、少しだけ押し込む。そろそろと口が開かれ、誘われるままに中へと忍ばせる。
温かくて柔らかい口内で舌先を結べば、一瞬で眩暈にも似た快感が奔る。早々に口づけを解き、海藤は引き出した舌で唇を舐めた。濡れて魅惑的に光る様がいやらしい。
彼の好きな所は多々あるが、いつもは慎ましやかなその口元が、自分の行いで変化する姿は本当に愛おしいと思う。熱を孕んだ吐息、水気を含んで赤く色づいた姿、彼の深い所を許されている証の様で、それを思うだけでいつも心地よい幸せに包まれていた。
海藤は顔を離すと、人差し指で彼の唇に触れた。少しだけ熱が上がっているのがまた愛おしい。内部の心地良さを思い出して背筋が震える。何となく、指先を隙間に引っ掛けてみる。斉木は特に抵抗しない。ただじっと海藤を見つめていた。そのまま口の中へ人差し指を含ませていく。やがてぬるりと、舌の先が柔らかく触れた。海藤ははっとして指を引き抜こうとした。勢いのままの行動に理性がやっと歯止めをかける。舌でもなく、指だなんてどうかしている。そう思って退こうとした指の腹を、不意に斉木の舌が撫ぜた。
「さい、き……っ」
脳天まで痺れるような刺激が奔り、自分が酷く欲情していることを思い知る。海藤は指でそっと舌を押す。湿った音と、微かに震えた息が鼓膜を揺さぶる。浅く抜き差しを繰り返しぬるぬると下唇を探れば、唾液が唇の端を汚す。それをすくい上げるようにして今度は中指も押し込んだ。二本の指を銜えた斉木の姿は恐ろしく倒錯的で、だらしなく開かれた口元にはどこか幼ささえ感じられた。
少し侵入を深くしても、やはり拒否はない。それどころか温かくて柔い粘膜は、誘い込むように心地良く脈動している。飲み込めない熱い息がこぼれて、興奮が伝わってくる。ああ確かに相手も昂っているのだ、そう思った瞬間、海藤の手は彼の下腹部へと伸びていた。
少しだけ形を持ち始めているそこを探るように服の上から丁寧に撫ぜる。反対の手は未だ口の中で、その動きに合わせて舌に触れていた。自分のものは最早確かめるまでもない。
張り詰めたそれが窮屈で忙しなく前を緩めた時、斉木の唇がきゅっと窄められた。指が柔く唇に挟まれ、それと共に舌が下部に張り付く。吸い付かれるようだと思った瞬間、ちらりと一つの欲望が頭を掠めた。その行為で連想してしまうのは正直仕方がないと思う。ただ口に出すのはいくらなんでも駄目だ、やり過ぎだ。
そう自戒して目を伏せ、斉木の前にもう一度手を伸ばしかけるが、それよりも先に彼の手が海藤の性器に触れる。ぎょっとして斉木の顔を見ると、いつもと変わらない表情がそこにはあった。ただ目が合った瞬間銜えたままの指をじゅっと音がするほど吸われて、見かけに反して普段よりずっと興奮していることを悟る。
そんな風にされると、抑えかけた欲望がまた頭を擡げてくる。すっと伸びた指先が昂りきったものを下着から引きずり出すべく触れているのを見下ろして、海藤はふやけそうに濡れた指を漸く口から抜いて囁く。
「……舐めてくれるのか?」
主語を抜いた問いかけだったが、斉木には伝わったようだ。ベッドから下り、斉木は腰掛けた海藤の前に座る。当然だがあからさまな位置に顔が来て、興奮と羞恥がない交ぜになって酷く落ち着かなかった。寛げた前から固いものを取り出し、斉木は直に触れた。
二、三度確かめるように擦ってから顔が近づけられる。弄りきった唇はまだ潤って濡れていて、奥歯を噛み締めて漸く達してしまいそうな欲情に耐えた。最初に舌が触れ、その熱さにびくりと腰が戦慄く。伺ってくる斉木の視線には首を振って先を促した。大きく開けられた口がゆっくりと確実に飲み込んでいく様を、海藤はどこか他人事のように眺めていた。
―あの口が。普段の閉じられている様や微笑む時の控えめに緩められる姿。好物の甘味を味わう光景が次々と思い返される。そんな彼の口が、自分のものを。信じられないような出来事だったが、聞こえ始めた水気を含んだ音が、それが現実であることを訴えていた。
「……っ、は……」
他の経験など無いから上手い下手は分からない。尤も斉木の行為が著しく下手だったとしても、恐らく興奮は収まらなかったに違いない。彼の口に侵入している、その事実だけできっと、今のように際限なく昂ってしまうだろう確信があった。
もちろん直接的な気持ち良さが薄い訳では無い。指で触れただけでもあんなにも魅力的だった場所に、敏感な部分を丸ごと包み込まれて、快感を覚えない訳がない。水分を塗り込めるように上下に動かれるのは堪らないし、ぐっと窄められ中の締め付けをきつくされれば、今にも吐き出してしまいそうにさえなった。
俯いた斉木の口元は唾液と粘液でべたべたに汚れ、熱を持った唇が側面を食むように締めてくる。海藤は思わず手を伸ばして斉木の頬に触れた。労わりを込めて撫でさすると抜き上げる動きが弱まる。指先を顎の下に回すと、意図を察してくれたのか視線がぶつかる。その思った以上の強烈な光景に、ごくりと喉が鳴った。
限界が近づいてくる。じわりと口内に滲む感触で斉木も感じたらしい。より強く圧迫されながら、唾液と共に滑らせるように擦られる。顔を引かれ、先端だけ唇で挟まれ吸い付かれる。込み上げる感覚に腰を引き急いで口から引きずり出した。いつの間にか傍らにあったティッシュペーパーを取って先を覆う。溢れ出たそれをこぼさないように受け、海藤は深い溜息を吐いた。
びりびりとした快感がまだ残っていた。斉木は海藤の行動をじっと見ていた。汚れた紙を捨て、海藤はその濡れた唇を親指でそっと拭った。
「……大丈夫、か?」
訊ねると、小さく頷かれた。海藤は床に座ったままの斉木を立たせて抱き締めた。堪らなかった。性欲だけじゃない、彼へ向かう全ての思いが溢れて、止まらなかった。
「すきだ」
身体を離し、視線を合わせて伝える。斉木は一瞬困ったように眉を顰めたが、海藤の肩を掴んでいる手に力が入ったのを感じる。離れ難い、互いにそう強く思い合っているのが分かる。海藤は迷わずその手を取って引っ張った。倒れ込む彼ごと後ろに身体を投げ出して転がる。ベッドのスプリングが柔らかく緩んで、顔が近付く。
「斉木」
彼の身体に覆い被さって唇を舐める。名前を呼ぶと、眼鏡越しの瞳が少し優しげに緩められた。
ひっそりと、けれど確実に進む行為に、空気も濃密に湿っていく。何とか侵入を許された斉木の内部を強請りながら、海藤は深く息を吐き出した。
広げられたそこは人工の液体で粘ついた音を立てている。使われた液体も避妊具も、彼とこんな関係になってから初めて手にした。もちろん隠し場所には色々と工夫を凝らし、最新の注意を払っている。面倒だが万が一にでも母親の目に触れた場合を思えばずっとましだった。
そんなどうでもいい内容に海藤が思考を散らせていると、真下から小さく喉を鳴らす音が聞こえた。しどけなく身体を横たわらせている斉木は、視線が合う前に顔を背けた。その姿がとても愛おしくて、海藤は顔を擦り寄せるように首元へ埋めて腰を押し付ける。すきだ、と再び続けた言葉は声にならなかった。胸が苦しくて息が詰まって、どうにかなりそうだった。
彼となら何だっていい、どうなったって。そう思いながら顔を上げてゆるゆると奥を探る。斉木は背けていた顔を少しだけ海藤に向けた。切なげに細められる瞳を見て、身体の中心から熱が上がっていく。すぐにでも達してしまいそうだった。
決して激しく動いてはいないものの、緩やかに上り詰めるように高められていた。それは相手も同じようで、腹の間に挟まれた彼のものも、先端を濡らして張り詰めきっていた。手を伸ばしてそれを包み込み、擦り上げながら中にも刺激を与えていく。次第に体液が手を濡らす程滲み始め、海藤は斉木の耳元に唇を寄せて呟く。
「出そうか?」
僅かに顎が引かれたのを見て、海藤も頷く。擦る手の動きを少しだけ強め、吐き出させようと促す。斉木はどこか居心地悪気に腰を揺らせた。先程の行為で海藤は一度出している。だから先に彼だけをと思ったのだが、それが気になるらしかった。
「いいから……ほら」
締め付けをきつくし、抜き上げると斉木は目を閉じた。瞬間とろとろと先端から体液がこぼれ、海藤は斉木の腹を汚さないようにと手で受ける。また同じように手を拭ってから斉木を見ると、不意に入ったままの下腹部に力が入れられて思わず呻く。
「っ……斉木」
意図的なその行動にも悪びれず、斉木は面白そうに唇を緩めた。意趣返しのつもりだろうが、元はといえば彼のしてくれた行動が最初だ。このままいくと終わりがないんじゃないか? そんな風に思いながらも、その微笑みがやっぱり愛おしくて、海藤はつられて照れ笑いながら口付ける。
「本当に、好きだ」
三度目の言葉は今日一番の甘さを湛えて、シーツの間へ溶けていった。
日は落ち、濃い空気が僅かに残った部屋で、二人並んで寝そべっている。後始末はもう全て終わったけれど、気怠さは抜けないし、まだもう少しだけこうしていたかった。
斉木は目を閉じていた。恐らく眠ってはいない。その穏やかな様子を眺めながら、海藤は一人まどろみのような心地良さを思う。切ないような幸せが指先まで身体を温めている。ふと泣き出しそうにすらなって、海藤はそれを堪えるように抑えがちに心の内で呟いた。
―ありがとう、と。その曖昧な感謝の言葉に、聞こえる筈がないのに斉木が不意に目を開けた。至近距離で視線が絡まり、そして解ける。近付いた彼の唇が、柔らかく触れた。すぐに離れていった唇を緩め、斉木は微笑んだ。紡がれた言葉が耳を擽り、心を溶かす。
ああ本当にこんな幸せ、そうは起こり得ないだろう。海藤は満ち足りた思いを噛み締め、初めての感情を愛おしく胸に抱えていた。
お初にお目にかかります /窪斉
吊り橋理論というものをご存じだろうか。
ミステリーやサスペンス、ホラー等でよく描かれる、危機的状況下における緊張、高揚を恋愛感情のそれだと錯覚する現象だ。自らの生命が脅かされ、子孫を残さねばという生理的動機でも説明がつく。といっても、何も創作物の中だけの話ではない。現実でも似たような状況に遭遇し、そのままカップルになることもある。―もちろん、成立後の関係については対象外だが。
とまあ成り行き上説明はしたが、今やその内容は知れ渡り、いっそよく見るシチュエーションの一つと言っても過言ではない代物になっている。何故その使い古された用語を持ち出したか。それは僕がその状況に直面しているからに他ならない。いや、正確には「それらしき状況」だ。
ああもちろん、僕自身の話じゃない。危機的状況なんて僕にはまず起こり得ないし、そもそもそんな心理現象で感情が左右される程、事は簡単じゃない。僕にはある人間の行動が、吊り橋効果の結果と断言していいものなのか分からなかった。何か相応しい言葉を探すなら確かにそれなのだが、いまいちピンと来ない。だからその内容をきちんと整理し、改めて考えれば結論が出るかと思ったが、無理だった。そんなこと冷静に考えるようなものじゃない、だがそういう訳にもいかないのだ。
そう、そういう訳にはいかない。何故ならそれらがもたらすのは、僕にとって大変由々しき事態だから。
刺激の強い映画を見ると、決まっていかがわしい気配を纏う。窪谷須亜蓮という男のその厄介な性質に、僕が振り回されるという事態だ。
「よし、帰るか斉木」
授業が終わるとすぐ、当然のように海藤が傍らにやってきた。僕はいつも通りそれをさらりと流して立ち上がる。
「なあ、今日はどうだ? また借りてきたんだけどよ」
海藤の後ろから近づいて来た男に、僕は咄嗟に身を固くする。その男、窪谷須は手に持ったレンタルショップの袋を掲げ、海藤と僕を交互に見た。
「そうだな、何があるんだ?」
「ホラーとホラーと、あとホラーだな」
「ホラーしか無いのかよ……」
「違えよ、サイコホラーにスプラッタホラー、最後のは和製ホラーだ」
そう言って 何故か得意気に胸を張る窪谷須に、海藤はげんなりした顔を向ける。今までの価値観をひとまず除けて、周りのごく一般的な感性に身を寄せようという彼の努力は理解できる。しかし未だ手探り状態が続いているのか、その選択には偏りが多い。
彼が借りてくる映画の数々はそれほど大衆人気を外していないものの、バランスという面はあまり考慮されていなかった。おそらく店の特集コーナーをそのまま引っ張ってきているのだろう。この前はSF作品が目白押しだった。そしてその結果今日も例によって例の如く、出来上がっているのは立派なホラー映画傑作選だ。
海藤は頷きながらもやはり不安気だ。友人に合わせたい気持ちはあるが、根本的にそういったジャンルが苦手なのだから致し方ない。 視線を彷徨わせ、やがて僕を見る。ほら来た、僕はさっさと教室を後にしようと鞄を取った。しかしそうはさせまいと間髪入れずに声で遮られる。
「なあ、今日も斉木の家で観てもいいか?」
海藤の縋るような目と脳内の声に、僕は黙って立ち尽くす。僕に帰られて二人で観るより、人が多い方がまだいい。そんな訴えが伝わってきた。
だったらそれこそ誰だって、僕じゃなくたっていいだろう。その辺りにいる燃堂でも連れて行けばいい。そう思ってさっと周りを見回してみるが、忌々しいことに今日に限って珍しく、あの男はさっさと帰宅したらしかった。
僕は筋違いな恨みを燃堂に抱きつつも、聞かなかったことにして立ち去ろうとする。
「駄目か、斉木」
足を止め、振り返った先の男と目が合う。眼鏡で隠されてはいるが、その奥の瞳はとても鋭い。
僕はこの男の視線が正直苦手だった。鋭く射抜かれるようでどうも居心地が悪い。思考は読めている筈なのに、何故か不安を煽られる気さえする。流石は「元」不良の気迫といった所だろうか。
男はじっと視線を逸らさない。結局、折れたのはまたしても僕だった。僕は目を伏せ、二人に近付く。
「ありがとな」
貫く視線が親しげに和らぎ、僕はそれに、居た堪れないような思いを持て余していた。
じわじわと迫るような恐怖よりも、暴力的な描写が目立つ方がまだ怖さは抑えられるだろう。
そう考えた海藤が選んだ作品を見始め、一時間程経っていた。
正体不明の凶悪殺人鬼が無作為に次々と、あらゆる道具で残虐の限りを尽くしていく。確かに恐怖よりもその凄惨な描写に慄くような作風だが、海藤の顔はしっかりと引き攣っていた。
その隣の窪谷須は画面に集中しながらも、どこか冷めた思考で息を押し殺して隠れる主人公を見ていた。性質は異なるがどちらかというと好戦的な男からすれば、成す術も無く逃げ惑うしかない人々に納得がいかないのだろう。
僕個人の意見としてはそれほど悪くない作品だと思っていた。抑えるべきところは抑え、外すところは外す。終わりの無い追跡者の妄執は湿っぽく狂気に満ちて、何より役者達の鬼気迫る演技が素晴らしかった。物言わぬ狂人の言葉より雄弁な仕草、そしてその恐ろしさのあまりたどたどしく意味の解らないことを口走る演技などは最高だ。是非他の作品も観てみたい、そう思わせる名演、怪演だった。
しかしまあ、それはあくまで僕一人が抱いた感想であって、他の二人と同一では無い。片方は陰鬱とした暗い雰囲気に持ち前の素養を刺激されながらも、唐突な襲撃に身体をびくつかせないよう必死だ。そしてもう片方はおどおどと泣くばかりの登場人物に、最早見当違いの苛立ちを募らせている。これ程意見が分かれるのだから、やはり創作物は面白い。
そんな少々ずれたことを考えながら振り回される鉈の動きを追っていると、場にそぐわない単調な電子音が鳴り響いた。海藤が慌てたようにがさごそと鞄を探り始める。唐突なその音に身動ぎしてしまったことを隠す為動きが派手だ。
目当ての携帯を見つけ、液晶を睨む。視覚的に入ってきた情報は脳を経由し当然僕にも届く。だから僕は今後の展開を察し、床に視線を落とした。
海藤の動作に気付いた窪谷須が再生を止める。フルスイングされた鉈が丁度血飛沫をまき散らす瞬間で、無残にも物語は停止する。
「悪いな、ちょっと野暮用だ。先に帰らせてもらう」
「お、そうか。じゃあここで止めてまた今度観ようぜ」
「い、いや。気を遣わなくていい。他にも色々借りてるんだろ?」
「まあそうだけどよ」
「じゃ、またな」
そう言うとそれ以上の言葉を遠ざけるように立ち上がり、海藤は部屋を出ていった。胸の裡で、有無を言わさず呼びつけてきた母親に抗えない不満と、苦手なものを見続けなくて済んだことへの安堵が複雑に渦巻いている。
玄関近くで買い物に行こうとしていた僕の母親と鉢合わせ、丁寧に礼を言っているのが聞こえる。僕はいっそテレパシーで母を引き留めようかとも思ったが、その理由に詰まりそれこそ面倒なことになりかねないと留まった。
やがて二人が家を出たことにより、図らずもこの家は僕と、もう一人の男のみという空間になった。扉を閉める音が聞こえて、僕の隣にいる窪谷須は眺めていたレンタルショップの折り込みチラシから顔を上げる。
「よし、観るか」
躊躇なく再生ボタンを押すその様には、燃堂や灰呂のそれとはまた違った強引さがあった。
僕はちらりと時計を見る。確か上映時間は二時間程だったから、あと三十分弱で終わる筈だ。窪谷須は再度繰り広げられる、赤々と染まる惨状をじっと眺めている。仕方なく僕も画面に目を移した。
物語は佳境に入る。殺人鬼の狂気は頂点に達し、立て続けに周囲の人々が襲われていく。淡々と、しかし鮮烈に描かれる暴力。追い詰められる恐怖。窪谷須が小さく身じろいだ。そしてふと、僕を見る。
その瞳は普段と変わらない。鋭く、ともすれば射殺さんばかりの眼差しだった。しかしもちろん僕には関係ない。関係ない、のだが―
行動を予期していても、避けられないのはどういう場合だろうか。僕はそんなことを冷静に考えながら、伸びてくる手を見つめていた。窪谷須の指が頬に触れる。画面からは相変わらず悲鳴と怒号が聞こえている。そんな中で男は、僕の頬を柔らかく撫で上げた。
男の思考はもちろん筒抜けだった。その下半身が性的に兆し始めていることも、そして対象として僕を見ていることも、分かっていた。しかし考えが読めても、その内容が理解の範疇を超えていれば混乱する。僕はひどく優し気に触れてくる指を、どうやって押し退けるべきか思案していた。
「斉木」
指先が、ゆっくりと唇に移動する。弾力を確かめるように触れられて身体が強張る。やはり起こってしまった。
いつだったか、今と同じように映画を見ていたのが最初だった。パニックアクションの超大作で、ヒリヒリするような緊迫感が印象的だった―いや、それはどうでもいい。海藤はトイレに立って席を外していた。何れにせよ今と同じように、僕はこの男と二人きりだったのだ。
男の興奮にはもちろん気が付いていた。しかしその昂ぶりに多少場の空気にそぐわないものが混じっていたとしても、特に何も思わなかった。生理現象といえばそれまでだし、そういうこともあるのだろうと気にも留めなかった―それが、自分に向けられるまでは。
窪谷須はさり気なく熱を冷ますべく、近くにあったペットボトルを取ろうとした。僕の身体のすぐ前に手をつき、身を乗り出す。僕は反射的に距離を取ってやり過ごそうとした。それが裏目に出た。動いた拍子に、立てていた膝が窪谷須の下腹部に触れた。途端に身体を硬直させて、窪谷須は僕を見る。羞恥を感じるのはあくまで相手の方だというのに、何故か僕の方が酷く居心地の悪さを思っていた。
元々それ程遠くなかった距離が縮まり、驚くほど自然な動作で腕を掴まれる。予期しているのに避けられない、この時もそうだった。
顔が寄せられ、互いの眼鏡がぶつかりそうな程に近付く。眼差しは相変わらず鋭利で、興奮の影など傍目には少しも見えない。ただ僕には、その奥にちらつく行き場を求める熱が伝わってきていた。
「……避けねえの」
至近距離で、窪谷須が問いかける。流れるような動きで僕の目の前に迫る男は、唐突に至極まともな戸惑いを口にする。勝手に踏み入っておきながら、避けないのかとはどういうことだ。強引なのかそうでないのか、よく分からないその態度に、僕まで混乱してくる。
尤も多少の混乱はあるが、許容している訳ではない。だから今の内にと距離を取りかけた所で、窪谷須の背後から低い獣の唸り声が聞こえた。画面の中では、獰猛な肉食獣と人間が生死を懸けて争っている。捕食か、狩りか。心拍数を押し上げられる展開に、窪谷須は唇を舐める。
「斉木」
顰められた声に身体が固まる。こんなのはどうかしている。異質極まりないし、荒唐無稽で無意味だ。突き放すなり心中に訴えかけ諭すなり、それこそ何とでも出来た。しかし僕は動かない。動けない訳じゃない。断じて違う。ただ純粋に、この男が僕に何をするのか、興味を抱いていた。
最初に訪れたのは、小さな痛みだった。窪谷須は僕の首元へ顔を埋めると、まるで獣のような仕草で剥き出しの肌を、噛んだのだ。
触れていた唇から手を退け、窪谷須が近付く。僕は居た堪れない回想から浮かび上がり、僕の肩へ手を置き屈む男を見上げる。あの時はそこで終わり、戻ってきた海藤を何食わぬ顔で二人して出迎えた。そしてその後も、何事も無かったようにその出来事を流した―しかし、今日は。
以前のように、首に寄せられた顔が触れる。ふ、と息がかかる感触に、身じろいでしまいそうになるのを堪える。窪谷須は尖らせた舌で 何度か探るように皮膚を押してくる。
その間も映画は再生を続け、息を殺して身を隠す主人公の、荒い息遣いを流している。画面から伝わるにじり寄る恐怖。突如派手な音を立てて扉が開き、主人公はびくりと身体を跳ねさせる。それにつられるようにして、窪谷須が尖った歯を遠慮なく立ててきた。
刺さる固い異物感は、言葉にできないむず痒さを伴う。もちろん痛みなどではない。だからこそ余計に、性質が悪い。
窪谷須は顔を上げないまま、片手で器用にシャツのボタンを外した。開かれた胸にぴたりと手が添えられ、そのどうしようもない熱さにまた戸惑う。大きく開かれた掌が肌を滑る。荒れた大きな手が、存外丁寧な仕草で動くのを、半ば他人事のように見下ろしていた。
それこそ獣の本能のように、窪谷須は僕の肌を噛む。次第に首だけでは飽き足らなくなったのか、肌蹴ていたシャツから肩を出し、胸の辺りまで唇を下ろす。心臓に程近い場所を歯で辿られる感触は妙な心地がした。
男が与える刺激は、あらゆる意味で僕の理解の範疇を超えていた。そしてそろそろと忍び寄るように、未知なる倒錯的な欲へ僕を引き摺りこむ。時折掠める息は熱く、乱れきった脳内も興奮一色で染められていた。それは直接的な部分に触れても変わらない。
下腹部に手を掛け、下着ごと全て引き下ろそうとした所で窪谷須は徐に顔を上げた。眼鏡越しの瞳が僕を捉える。昂ぶった思考の中に、ノイズのように不安が混ざる。
―相変わらず表情が変わらない。
……それは悪かったな。
―やっぱり不快なのか?
厄介なことにそうでもないのだ。
―その澄ました顔をどうにかしたい、このままだと壊して、しまいそうだ。
拾い上げた一言に、僕は思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。壊す? ああ全く、冗談じゃない。この世界の一体どんな存在が、僕を壊せるというのだろうか。
僕は窪谷須に向かって手を伸ばした。突然の僕からの行動に、窪谷須は構えるように身を固くする。それでも視線は外さない男の、瞳を覆う眼鏡に触れる。そしてそのままそれを取り去り、丁寧に畳んで机の上へと滑らせた。窪谷須はぽかんとした顔で僕を見ている。
尖った視線を多少和らげていたものが無くなり、どことなく剣呑な空気が漂い始める。それでも呆気にとられたままの表情がおかしくて唇を緩めた。壊せるものならやってみればいい。込み上げる背筋を這うような感覚が、とうとう殺人鬼と対峙した主人公のそれと重なる。
僕は伸し掛かる男の下腹部に足を差し入れた。脛の辺りで軽く膨らんだ部分を圧迫すると、窪谷須の視線がすっと鋭くなる。歪だったが、覚えるのは確かに愉悦だった。
ずれかかっていた下の衣服を全て取り去り、窪谷須は先程とは打って変わって荒っぽい手つきで触れてきた。下半身を剥き出しにされても僕は顔色を変えない。もちろん、酷く間抜けな格好を晒している自覚はあった。
窪谷須は露わになった部分を掴む。突然の刺激に少しだけ腰が引ける。やわやわと揉み込むように指が動き、次第に熱と、ぬるついたものが滲み出してくる。控えめに鳴る粘着質な音が、殺人鬼が立てる騒音に重なる。
ほとほと滑稽な姿だったが、持ち上げた太腿に噛み付く男の頭には、そんな感想は無かった。ぐっと腰が重くなる感覚には正直それほど覚えがない。しかし意味することは理解できるし、これだけでどうにかされたとは言えないだろうとも思っていた。そしてそれは男の中でも同じだった。
触れていた指が後ろに回り、ぬめりを押し込むように撫ぜる。意図している状態になるには、どうしたってまだ準備が足りない。しかしその手はめげることなく触れてくる。やはり潤滑分が足りないのだ、やがてそう思い至って窪谷須は徐に身を屈めようとするが、それは流石にと押し退ける。ややあって、入りかけていた指がするりと中へ潜り込んだ。こんなことの為に力を使う日がくるとは。流石に少し頭を抱えたくなったが、とりあえずは傍らに追いやっておく。
極めて変則的な方法によって埋められた指を、窪谷須はそうとも知らずそろそろと動かす。殆ど言葉も無く淡々としていた空間に、初めて僕の少しだけ乱れた息が流れる。もちろん痛みなどは無い。だからといって凄まじい快感がある訳でもないのだが、内部にある他人の存在を自覚した途端、あの震えるような背徳感にも似たそれが込み上げてきたのだ。僕はふとテレビに視線を移した。傷付き、ついに追い詰められた主人公。もう駄目だという所で主人公が動く。機転を利かせ、一世一代の反撃に出た瞬間、窪谷須の顔が遮った。
「……見ろって、こっち」
窪谷須は苛立った感情を露わにして僕の耳を噛んだ。押し込まれた指がばらばらに動き、耳の中を熱い息で擽られる。余所事に気を取られているのが気に入らない。そんな至極分かりやすい恨み言が伝わってきて動揺する。嫉妬にも似たそれは、今まで感じたことの無いものだった。
顔を上げた窪谷須は、放り出された鞄からビニールの小袋を取り出した。中の物を寛げたそれに被せ、広がった部分にぴたりと触れさせる。目が合って、暫し固まる。窪谷須は口を開きかけた。しかしその背後から獣の咆哮じみた絶叫が聞こえてきて、それに急き立てられるように中へ押し入られた。
伸し掛かられている為画面で何が起こっているのかは分からない。きっと主人公の反撃が効いているのだろうが、下腹部の圧迫感に気を取られてそれどころじゃなかった。窪谷須は狭さを確かめるように腰を浅く揺すると、じわじわと根元まで押し込んできた。荒い呼吸は更に乱れ、一切着崩していないその肌には汗が滲んでいる。
手の甲で首元を拭い、窪谷須は焦れたようにシャツのボタンを寛げた。何度か挿抜を繰り返して、動きが多少滑らかになる。すると太腿辺りに添えられていた手に力が入り、腰を浮かすように開かれ持ち上げられる。
下生えが触れるほど差し込まれた膨らむ熱を、徐々に早い動きで擦りつけられる。骨と骨がぶつかり軋み合う。窪谷須は込み上げる射精欲を堪えながら、掴んでいる足に唇を寄せてくる。身体の芯から揺さぶられ乱される感覚に、徐々に快感が滲む。絶え間なく打ち付けられる熱の濁流に意識が攫われる。
「……っ、は……っ」
抑えがちに洩らされた吐息と共に、これ以上無理だという所まで押し込まれる。突き刺すような衝撃に多少腰が引けるが、逃がさないとばかりに引き寄せられる。
浮いた腰を抱え込まれ、寸分の隙間もない程下半身を密着させられる。萎えていたそれを労わるように揉み込まれれば、流石に背筋が少し震えた。
ゆっくりと優しく擦り上げられながらも、埋め込まれた性器はがつがつと激しく動く。ぼやける意識の中、汗を滴らせる窪谷須から目を逸らし、画面を捉えると伸びてきた手に顎を掴まれる。強制的に顔を向けられ、その苛むような視線に晒される。
窪谷須は手探りでその辺に放られたリモコンを取ると、僕を見たまま後ろ手にテレビを消した。一気に静まり返った部屋の中、冷静な思考が囁く。男の興奮を駆り立てたものはもう無い。だからここで終わせることだって有り得なくはない。壊してみろと煽っておいて何だが、僕は最早殆ど投げ出されるような気持ちで力を抜いた。しかし未だに持ち上げられている顎はそのままで、視線からは逃れられない。
「やっとこっち、見たな」
掠れた声が小さく呟いて、傾けた顔を寄せられる。酷く馬鹿馬鹿しいのだが、何故か咄嗟に食べられる、と思った。近付いた唇はそれこそ食むように僕のそれに触れてきたので間違ってはいないが、それでもどこか居心地が悪い。
滑り込んできた舌と合わせて身体の中も抉られ、思わず手に力が入る。男の冷めない興奮と、そして何故か喜々とした感情に気付いてしまった。こんな状態にまで縺れ込んでおいて、今更といえば今更だった。僕の気を散らせていたであろうものが無くなって、窪谷須は安堵すらしている。全くもって、これでは本末転倒どころの話じゃない。
「……いいか?」
唇を離し、息が触れる距離で囁かれる。主語どころか言葉の殆どが欠けているが、もちろん僕には伝わっている。いや、考えていることが分からなくたって想像はつく。緩やかに動き始めている腰以外に、承諾を得たいものなんて恐らくない。僕は熱の篭もるその目を見た。収まるどころかより一層荒ぶった欲がちらつく。いっそ暴力的ともいえそうな衝動に、誘い込まれるような愉悦を覚える。
焦れたように少しずつ腰が引かれ、抜け出つつあるものが身体の内に擦れる。上向きに強く押し付けられた瞬間、下腹部が僅かに痺れ、喉の奥から引き攣った声が洩れる。
「う……っ」
狭まった内部に窪谷須が呻く。身体の変化なんて容易に出来る筈なのに、どういう訳か上手く力を調節出来ない。
与えられる感覚に、少しずつ飲まれ始めている。他人の手によって、何かが変えられ始めている。息を吐き、窪谷須が再度侵入してくる。大きく揺するような動きが小刻みになり、またあの骨と骨がぶつかる音がする。今度はもう他に聞こえるものなどない。ただ乱れた吐息と、生々しい液体が滑る音だけだ。屈んで顔を近づけてきた窪谷須に舌を誘い出され、温い粘膜を重ね合わせる。
掛けたままの僕の眼鏡がぶつかる。緩々と擦り上げられた先端からは絶えず体液が滲み、男の固い指先を濡らす。口内にも下腹部にも奥の奥まで差し込まれ、思わず腰が揺れる。爪先がぴんと突っ張り、浮遊感にも似た堪え難い衝動が込み上げてくる。吐き出す息も漏れる声も全て飲み込まれて、引き出される。全てを晒されて、粉々にされる。壊される。
閉じていた目を開け、僕は窪谷須を見た。強い眼差しが一瞬柔らかく緩み、張りつめていた僕のそれを暴こうと力が込められる。全身に力が入り、指先まで血流が巡る。強い快感に目の奥が白んで、反応する間も無く達した。
少し遅れて下腹部に違和感が走る。どくどくと血流のように滾るそれで、同じように相手も吐き出したことをはっきりと感じる。窪谷須はゆっくりと顔を上げた。髪は乱れ、ずっと触れ合わせていた唇は赤く湿っていた。手を伸ばして男は僕の頬に触れる。探るように撫ぜた後で、親指が唇を拭う。最初に触れられたのも唇だった。そんなことを思いながら、居た堪れない思いをまた誤魔化していた。
てきぱきと動く窪谷須の甲斐あって、母親が帰宅する前に身支度は整えられた。僕はぼんやりと身体を投げ出してその様を眺める。ふと傍らにテレビのリモコンを見つけ、何の気はなしに電源を入れてみた。健気に再生を続けていた物語は案の定既に終わっていた。黒い背景に延々と流れるエンドロールが寂しい。そのままじっと見続けていると、振り返った窪谷須が僕を見た。
「……悪かったよ」
ぽつりと謝られ、僕は思わずその顔をまじまじと見る。男の謝罪は、僕の観賞を遮ったことに対してだった。確かに続きが気になるといえばそうだったが、いやそれ以前に、先程の行為について何も言及してこないことに違和感を覚えていた。曲りなりにとはいえ合意の上だったのだから、別に謝罪が欲しい訳じゃない。しかしまあ、何というか、さらりと流されるのも多少拍子抜けてしまう。その上男の中ではその根本の衝動と、先程の映画が一切結びついていないようだった。興奮を覚えたのは確かだが、それに関連する要素があったなど、考えてすらいない。
僕は何とも言えない思いで、黙ったまま画面に視線を戻す。今後の為にも自覚は必要だとは思うが、そこまで肩入れする義理も無いだろう。手が付けられなくなる前に対処出来ればいいな、そうひっそりと思いながら英字を追う。
「斉木」
呼ばれればそちらを向くしかない。けれど窪谷須が言わんとしていることを察して、僕はその視線から逃れていた。
考えなかった訳じゃない。ただあまりにも短絡的で、流石にそれは無いだろうと思っていたのだ。全ては映画の描写の所為、多少強引でも、そうしておけば丸く収められるのに。
「なんつーか……俺もよく分かんねえんだけど」
それならそのままにしておけばいいものを。懇願も空しく、窪谷須は控えめにもう一度僕の名前を呼ぶ。ゆっくりと向けられる視線に応えれば、例のあの、見透かすような強い眼差しに捉われる。こうなればもう、逃げ場なんてない。ああそうだ、だから嫌だったんだ。
「欲しくなった」
噛み締めているのは強い敗北感だ。完全敗北、反撃の余地も無い。行動ではなく対象を求められてしまった。偶発的だという逃げ道も捨てて、わざわざ、僕に向かって。
気付いた時には跡形もないほど、僕は確かにこの男によって、根本から壊されていたのだった。
結局のところ男のそれが、吊り橋理論たる何かからきていたのかどうかは分からない。真意がどうあれ、それをどんな形でも容認したのは僕自身の行いであるし、最早そこに理由を求めた所で致し方ない。売り言葉に買い言葉じゃないが、これでは喧嘩っ早いあの男のことを言えない。煽って仕掛けたその行動を思い返して、僕は人知れず溜息を吐く。何せもう、一度も感じていなかった気恥ずかしさを今になって思うのだ。全く本当に入れ込み過ぎた。元とはいえ不良相手に、壊せと煽るなんて正気じゃない。
僕はひっそりと溜息を吐く。 下校のチャイムが鳴り、海藤と燃堂が近寄ってくるのが分かる。立ち上がりかけた所でもう一人、その二人より先に男に声を掛けられる。
「斉木」
眼鏡に覆われた瞳は、相変わらずきつく鋭い。しかしその心の内に棘は無い―それどころか。
「今度また観ようぜ―二人で」
小さく、抑え込まれた声と共に、瞳が揺らぐ。
ああ本当にこんな面倒、そうは起こり得ないだろう。
持て余す厄介な感情を抱えながら、僕はそう不快ではない、追い詰められる未来をはっきりと予感していた。