Come on my hero
扉を開けると、そこにはベッドの上で立ち尽くしている斉木がいた。
Come on my hero
「さ、いき……?」
俺は手にした飲み物もそのままに、じっと立ったままの彼へ恐る恐る話しかける。 彼はちらりと横目で俺を見るが、すぐに足元へと視線を戻してしまった。
俺はそれに情けない程ショックを受けてしまって、回らない頭で必死に答えを探す。
――そうだ、俺はずっと必死だった。恋人どころか友人すらまともに作れず、今更取り繕った体裁を壊す訳にもいかなくて、中途半端にもがき続けていた。
そんな俺が彼に、斉木楠雄という人間に好意を抱き、あまつさえそれを受け入れてもらえるなんて、殆ど夢みたいな出来事だったのだ。今でこそ少しずつ、人間関係も広がりつつあるけれ
ど、変わるきっかけになったのは間違いなく、彼の存在だ。
少し近寄り難く、受け取り方によっては冷たくすら見えるような彼。そんな彼が、俺の誘いに乗り、自ら僕の部屋へ来てくれるだなんて。文字通り必死の思いが繋がったとはいえ、現実味が無さ過ぎて未だに少し怖いくらいだ。
本当に、夢みたいな――いや、でもこれは夢じゃない。だから俺はその現実を守る為に、例えみっともなくったって、頭を働かせなければいけないんだ。
「えっと、どうかしたか……?」
とりあえず、未だ足元を見たままの斉木に向かって声をかける。しかし今度はこちらを見ようともせず、やはり身動ぎ一つせず固まったままだった。
そのあまりの頑なな空気に、俺まで動いてはいけないような気になってくる。しかしいつまでも棒立ちのままいる訳にもいかない。 とにかく飲み物だけでも机に置こうと、一歩踏み出したその時だった。俯いたままだった彼が、俺が動きかけた瞬間こちらをきっと睨み付けてきた。
鋭い視線にびくりと身体が跳ねる。彼はじっと俺を見た後、結局また元の様に視線を逸らせてしまった。 何が何だか分からない。分からないけれどこれはあまりに、辛過ぎる。
特に何もしていない筈なのに、彼のさっきの行動はまるで、俺の接近を拒んでいるかのようなそれじゃないか。
目も合わせてもらえず、近付くことさえ許されないなんて。意識しないようにしていた冷たい思考が、じわじわと忍び寄ってくる。 嫌われた。まだ想像でしかないそれを、言葉にするだけでも息が詰まりそうになる。こんな思いは知らない。――それこそ、彼を思い始めた時ですら、ここまで苦しさを覚えることは無かったのに。
思い合って、繋がってからの方がずっと、――ずっと、辛いだなんて。
こんな思いをするぐらいなら、言葉になんてしなければよかった。弱気な心が囁き始める。籠ってしまえ、苦しいことなんて全部捨てて、逃げてしまえと。
俺は堪らず俯く。抱えたままだったトレイが今になって重くなってきた。ぼんやりと飲み物の入ったカップを見つめていると、ふと隣の、器に盛られたコーヒーゼリーに気が付いた。
――そうだ、彼の好きなもの。それを頬張っている時、彼の表情が柔らかく緩むのが嬉しく
て、彼が来る日は必ず用意するようにしていた。
嬉しそうな彼を見るのが嬉しかった。けれど何より、彼の好きなものを知れたことが一番、嬉しかったんだ。
何があったのかは分からない。だけど分からないからと言って、せっかく向き合えた彼から逃げたら何の意味もない。 俺は伏せていた顔を上げる。すると丁度こちらを見ていた彼と目が合った。
彼の視線に先程の鋭さはなく、代わりに何かを訴えているような印象を受けた。そして彼は小さく、首を振る。
それは拒否ではなく、恐らくは否定の意味だ。もしかすると彼は俺の落ち込んだ様子を見て、フォローをしようとしているのかもしれない。しかし彼は相変わらず、俺のベッドの上で直立したままだった。
――ベッド、そうだ、彼はどうしてベッドの上にいるのだろう。冷静になって初めてその疑問を思った時、視界の端で何かが動く気配がした。
「ん?何か今――」
言い終わる前に、彼は弾かれたように床を見た。そしてまた硬直してしまった彼の視線を、俺も追いかける。
「うわっ、虫、か……!?」
そこにいたのは、手の指より少し長いくらいのムカデだった。その虫から一切目を離さず立ち尽くしている彼に、全てを理解する。
俺はトレイを隣の棚へ置くと、すぐさま部屋を出た。そして殺虫剤、袋、掃除道具、目についた必要そうなものを全て取り、一目散に駆け戻る。
扉を開け、彼が見つめている床へ近付くと、俺は彼に背を向けたまま勢いよく殺虫剤を振りかけた。そして手早く片付け、床を拭き取る。 念入りに掃除を済ませたら要らなくなった全てのものを抱え、再度部屋を出た。帰宅した母に咎められないよう元あった場所に綺麗に返し、何もかもを処分し手を洗い、漸く俺は部屋へと戻った。
部屋へ入ると、彼はベッドを下り、窓を開けていた。満ちていた殺虫剤の臭いが、風に紛れて薄くなっていく。
目が合うと、彼は何か言いたそうな素振りを見せたが、俺はそれに構わず置いていたトレイを持った。
やっと机に置くことの出来たそれから、カップと彼の好物を取る。
「さ、食おうぜ」
そう言って笑うと、彼は珍しく驚いたような顔をした。俺はつやつやとしたゼリーを、彼がいる方に寄せる。黙ったまま腰を下ろす彼に、僕も黙ったままスプーンを渡した。
――彼が俺を嫌わず、二人並んで座って、彼の好物が食べられる。そんな幸せが今、ここに変わらずあるのだから、それでいい。それがいいんだ。
君の大好きな幸せがそこにある。だからもう、下世話な話なんて要らない。そうだろう?
スプーンを持ったままだった手が、ゆっくりとゼリーをさらう。口に運ばれ、微笑む彼の顔を思い浮かべていると突然、伸びてきた手が俺の首を引き寄せる。
カチリ、と固い音を立てて、スプーンが俺の歯に触れる。口に飛び込んできたほろ苦いゼリーを、呆気に取られたまま咀嚼する。 ぶつかるように運ばれたそれがきっと、彼なりの感謝と――証拠、なのだと気付いた瞬間、生クリームの甘さに気付いて、それがずっと甘く感じられるような気さえして。
吹き込んだ風が、少しだけ上がった体温を冷やかすように部屋を通り抜ける。 俯いたまま黙々とスプーンを口に運ぶ彼と同じく、俺も手元のゼリーに柔らかく、それを突き刺した。