ちょっとした話

 

 特別意識して気にかけていた訳ではない。深く考えなければ、思いもしなかったようなこと
だ。それに、はっきりとしたことは何一つ、ない。
 その時オレは授業中で、窓際の席から眼下のグラウンドを眺めていた。理由はもちろん体操着姿で汗を流す他クラスの女子を楽しむ為だ。他の意図なんてある筈が無い。
 身体のラインが普段よりはっきりと見て取れる様に目を細めながら、オレは一人一人の動きをつぶさに観察していた。だらしなく緩む口元を手の甲で抑えて眺めていると、ふとこちらを見ている人間に気付いてどきりとする。
 冷ややかな視線は明らかにオレの不埒な行いに対して向けられている。 これほど離れた距離でまさか、などと普通なら考えるが、相手はそんな常識から軽く逸脱した
 存在なのだから致し方ない。 試しに小さく手を振ってみた。すると相手はそれはそれはつまらなさそうな顔でオレを綺麗に無視し、視線を逸らす。
 これ幸いとばかりに、オレも喜々として視線を女子の集団へ戻した。何かしている訳じゃない、向こうだって別に咎めている訳ではないのだ。元よりそれほど興味だって無いだろう。不真面目な授業態度に関しては言い返す言葉も無いがそれはお互い様だ。チームプレイの真っ最中だというのに、向こうだって棒切れのように突っ立っているだけなのだから。
 しかしまあ、これ以上不要な考えを巡らせているとそれこそ余計な反感を買いかねない。筒抜けの思考を放り投げて本来の欲求に集中する。
  汗でぴたりと張り付くショートパンツを追う。二つの豊満な膨らみが揺れる度オレの視線も上下する。 その素晴らしい光景にふっと、水を差すように過るものがあった。
 オレは視界にちらつくその影に目を凝らす。 周りと比べて彩度の低い姿は、もうこの世にはいない存在であることを示している。幽霊であり守護霊でもある人型ではないそれを、オレは何度か目にしたことがあった。
 サッカーボール程のコロコロとした丸い身体を揺らしながら、小型犬の霊が彷徨っていた。その犬は本物のサッカーボールを追いかけて尻尾を振り乱している。
 生きている頃と全く変わらない習性は微笑ましいと言えなくもないだろう。全くもってそそられはしないが。
 落ち着き無く男子生徒のサッカーに紛れはしゃいでいたその犬は、突然何かを見つけたようにある方向を目指して走り出した。犬は一目散にグラウンドを駆けていく。
 本来の役目を思い出したのかもしれない。そう思いながら犬が駆けていく方向に目を向ける
と、そこにいたのは守護されている人間では無く、先程から殆ど動いていない様子の、冷たい視線を寄越してきたあの男だった。
 犬はその人の足元に近付くと、ぐるぐると何度か周りを巡り、そしてその小さな頭を愛おしげに彼の足へ擦り付けた。振り回された尻尾が千切れていきそうな程揺れる。
 今すぐにでも引っ張っていきたいとでも言わんばかりに飛び跳ねている。
 オレはその異質な光景を半ば呆気に取られつつ眺めていた。思い出されるのは、いつぞやの廃ビルでの出来事だ。はぐれていた守護霊の犬を抱きかかえた彼。
 オレには警戒心を剥き出しにして吠え立ててきたくせに、彼に対してはやけに従順だった。その時は特に深く考えなかった。守護している人間との親密度が影響しているのか、単にウマが合うのか、もしくはただオレが嫌われているかその辺りだろう。そう思って気にも留めなかった。
 しかし今のこれは明らかに何かがおかしかった。 人間だろうが獣だろうが霊にだって意思は存在する。明確に嫌悪や守護対象に向けられる敵意を感じない限り、大抵の霊は自らの意思に従
う。思うに、あの犬は彼のことが好きなのだろう。
 守護霊と言っても、別に本人の一部になるとかそういったものではもちろんない。もしそうだったらなんてことは正直考えたくもない。当人とは根本から異なる存在だ。
 しかし守護霊がその対象から離れた場合、何らかの不幸として影響が降りかかるのは事実だ。
 生死に関わるような重大さは無いにしろ、そういった程度の繋がりではある。
 何が言いたいか。少し離れた所で、息を切らしながらもボールに追いつこうとしている守護対象を見る。彼と守護霊の距離はそれほど離れてはいないが、すぐ傍らにいる訳でもない。
 一切ボールに詰め寄れないのは恐らく彼の身体能力の所為だから関係ない。そもそも重要なのはそこではない。
 汗を流す彼とは違い、つまらなそうに立ち尽くす男。少しでも楽しませたい、笑顔にしたい。守護対象から離れてまでそうすることに意味があるとするなら、それがその当人の望むこと――幸福に繋がると、霊自身が感じ取っていると考えるしかない。
 オレは何とも言えない思いで、相変わらずじゃれつかれている彼の姿を見る。頭に浮かんだある想像に、自分で恐れ戦いてすぐに打ち消した。とはいってもこの葛藤だって、彼には聞こえているのだろう。もしかするともう意識すら向けていなくて、拾いそびれている可能性もあるが、こちらを見向きもしない姿からは何も読み取れない。
 そう、彼には何だって分かる。だからオレがあれこれ考えたって意味など無いし、そもそもオレだって興味はない。オレが興味を持つのは薄着の少女たちが派手に動く光景だ。オレはそう思い直して、彼らから視線を逸らす。
 そしてその白く瑞々しい肌に意識を集中しかけた途端、不条理にも授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
 思わぬ状況に気を取られていた所為で消化不良だ。オレは歯軋りしながら校舎へと戻る少女たちを見つめる。それに混じる、小さなチワワの影。
 息も絶え絶えな守護対象者の傍に戻ったその犬は、隣を歩く人の顔をじっと見上げている。もちろん、彼がその視線に気付くことはない。オレにしか見えない瞳を、それでも犬は一心に向けている。 見えなくても、聴こえる何かはあるのかもしれない。しかしその事実を知るのもやはりオレで、押し寄せる息苦しさから逃れるように視線を外す。
 何にせよ、忘れてしまうに限る。鞄からこっそりと取り出した紙製の女体に意識を向けて、あらゆることを遠ざける。全ては憶測、しかもオレには何の関係も無い。
 忘れるしかないだろう。それにこの燻った欲求を早い所、彼女たちで補ってしまいたい。わだかまる居心地の悪さに泣きそうにすらなりながら、オレは分かりやすくあからさまな欲に身を投げ出した。


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