液晶画面に触れようとして、指が彷徨う。ためらいがちに選んだ名前を眺めるだけで、胸の奥が微かに疼くような気がした。


　灯りを絞ったベッドの上、私は一人膝を抱えて、表示されている画面をただ見つめていた。
　夜も更け、そろそろ眠らないとと思うのに、何となく気が張っているような感覚が抜けなくて落ち着かない。温かい飲み物を飲んで、好きな曲をかけて、心は安らいでいるのに、何かが引っかかっている。
　満たされないような、もどかしいような何か。絶対的で、それ以外では埋められない何か。

　――否、本当はその何かに気付いている。

　こぼれ落ちた溜め息は、自分でも驚くほど物憂げなものだった。言葉にしてみればひどく単純なその思いは、今の私にとってはそう容易く口にできるものではなかった。
　もう一度小さく溜め息を吐いて、液晶に浮かぶメッセージのやりとりを見つめる。
　最後の会話は音楽の話だった。ライブの後、自分なりの改善点をいくつか挙げた私にあの人が意見をくれて、それからいつものように良い歌だったと言ってくれた。
「……聴きたいな」
　思わず声が漏れる。あの優しい、凪いだ海のように心落ち着く声が聴きたかった。あの人が私の声を求めてくれるのと同じくらい、私も彼女の声が好きだった。まっすぐ見つめて、まるで秘密を打ち明けるように、そっと私を呼ぶ声が恋しかった。
「……葵依」
　特別な関係になっても、私はなかなか足を踏み出せずにいた。元々そういった性格であることも関係しているが、あの人に対して隠し切れない遠慮があるのも確かだった。
　自分を特別だと受け入れてくれた人に、寄り掛かることに対する恐れ。もちろんあの人はそんな私の思いも察して、焦らなくていいと応えてくれるけれど、いつまでも怯えている訳にはいかない。
　相手が踏み込んでくれているのだから、私もそれに応えたい。

　一度深呼吸をして、私は手の中のスマートフォンを握り直した。寝ていたら、改めて謝ろう。起きていたら――その時は。
　メッセージを打ち込み、一拍置いて送信する。

　――夜にごめんなさい。
　送ったメッセージの下に、そう間を置くことなく返信がきて、私は鼓動が大きく跳ねるのを感じた。

　――大丈夫。どうしたの？何かあった？
　――ごめんなさい、何もないの。起きてるかな、と思って。

　そう返したところで、それ以降の返事を考えていなかったことに気づく。もちろん望んでいることは一つなのだけれど、いきなりそれを言葉にするのもためらわれる。かといって気の利いた言い回しを思いつく訳もなく、私はどうしたものかと途方に暮れてしまう。

　既読はついたものの、葵依の返信は来ない。困らせているのか、もしかすると寝てしまったのか。
　一人動揺する私の目に、その予想外のメッセージは前触れなくぽんと飛び込んできた。

　――良ければ、少し電話で話さない？

　まさか余計な心配をかけてしまったのだろうか。
　言葉を交わせる喜びと、言い知れない不安が入り交じりながら、それでも恐る恐る了承する。程なくしてかかってきた着信に応じると、一番に聴こえたのは、どこか嬉しそうな私の好きな声だった。
「ごめん、椿」
　思ってもみなかった相手からの謝罪に面食らう。ただその謝る声が最初に聴こえたとおり、少し喜びを含んだものだったから、何か意図があるのだろうとは察せられた。
「自分から言ったのに、気が回ってなかった。ごめん」
「えっと……」
「何もなくても連絡してほしいって、私が言ったのに」
　こういうところだよなあと、照れたように笑うその声に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
「でも、連絡してくれて嬉しかった。……ありがとう、椿」
　込み上げたそれが、思いとなってこぼれ落ちる。抑えきれない感情が溢れて止まらない。
　今すぐその優しい目を見つめて、感謝を直接伝えたかった。けれどそれは叶わないから、ありったけの思いを注ぐように伝える。
「私も、嬉しかった。葵依の声が聴きたかったから……だから、ありがとう」
　自分の心のまま、取り繕うことなく伝えた言葉に、身体の芯から指先までが穏やかな熱で満ちていく。
　普段より鼓動が早く、胸が詰まる感覚もあるのに、ほっと落ち着く心地良さも寄り添うように存在していて不思議だった。
　くるしくて、せつなくて、でもあたたかい。何にも代え難いその感情は、彼女だけに預けられる唯一のものだった。
「葵依は……寝るところじゃなかったの？」
「そうなんだけど、ついさっきまで作業していてたからかな、ちょっと寝付けなくて」
　気を抜くと、勢いに任せてあれこれ言ってしまいそうになるのを堪えながら、電話越しの声に耳を傾ける。
　言葉通り葵依はほんの少し前まで曲の調整をしていたらしく、良い形に持っていけそうだと笑った。少し掠れた声に疲れを感じて、反射的に罪悪感を覚える。
　そんな私の気持ちをさらうように、楽曲の話をしていた葵依が小さく欠伸をした。照れて笑うその、耳を擽る声がどこか幼くていとおしい。
「椿と話していたら、安心して眠くなってきた。椿の声には安眠作用もあるのかな」
「ふふ、どうかしら。もしそうだとしても、クラブでは縁のない作用ね」
「そうだとしたら、できれば皆の前では披露しないでいてほしいんだけどな」
「そうね、皆が眠ってしまったら困るもの」
「――うん、でも、そうじゃなくて」
　他愛ない冗談の言い合いに、真剣な声が混ざる。
　どきりとして思わず背筋が伸びる私の耳に、温度の変わった葵依の声が響く。
「そういう椿の声は、私がひとり占めしたいから」
　やさしい声の中に、はっとするような火が揺らめいている。
　はっきりと言葉にして表された思いの強さに軽い眩暈を覚えた。こういう不意打ちはある種この人の専売特許といえるようなものだったけれど、まったくもって慣れる気がしない。
「DJとしては狭量かな」
「……そういうところ、ずるい」
　狼狽えながらも苦し紛れに呟いてみれば、葵依は小さく笑ってごめんと返してきた。そして普段と変わらない自然な口ぶりで、更にとんでもないことを言い出した。
「ねえ、椿。今度一緒に寝てみない？」
「一緒にって……えっ！？あ、あの、それは……！」
　唐突に放り込まれたその発言に言葉が何も出てこない。一緒に寝るとは、言葉通り取れば睡眠を共に取るという意味だ。ただ一般的に特別な関係である者同士が共に寝るということは、つまり――そこまで考えたところで、かっと全身が熱くなる。
　たとえ直接的な意味を含んでいないとしても、葵依と二人だけで眠るなんて――否が応でも高鳴ってしまう胸に、手元のシーツを握り込むことしかできなかった。
「……あっ、えーと、そういう意味じゃなくて。いや、そういう意味じゃないっていったら語弊があるか……」
「ご、語弊って……！」
　何も言えない私に、珍しく焦りを滲ませながら言葉を繋げた葵依は、けれどすぐに言い直し
た。
　わざわざ語弊がある、と含みを持たせた理由に、また鼓動が跳ねる。完全な否定は葵依の気持ちと反している。そう、正面切って告げられて今度こそ固まってしまう。
　自分だけが過剰に反応しているのだろうか。気恥ずかしさに居た堪れなくなった私を、葵依が呼ぶ。

　――今回に限っては、直接の意味じゃないよ、本当に。
　困ったような、甘えるような声に射抜かれる。今までに聞いたことのない、感情を揺さぶる真摯な声音が鼓膜を揺らした。
　私だけが熱を感じているのではないのだと囁かれている。
　そんな言い方をされて、平然としていられるほど、私はあなたに焦がれていないのに。
「眠る寸前まで、椿と一緒にいられたいいなと思って」
　とどめの言葉に唇が震える。
　つい会いたいと言ってしまいそうになるのを堪えて留めた。一度口にすれば、どうにもならない思いを更に持て余してしまうから。
　息を吐き、波打つ心を何とか静めて答える。
「か、考えておくから」
「ありがとう」
　気を張った私の答えにも、葵依は満足げに笑ってくれた。

「そろそろ寝ようか。付き合ってくれてありがとう、椿」
「こっちこそ……葵依と話せて、嬉しかった」
「うん、じゃあまた」
　名残惜しさよりも、満ち足りた気持ちの方が勝っていて寂しさは薄い。
　直接顔を合わせて話す機会を待ちわびる私を、葵依が電話越しにすくい上げてくれる。また今度、ゆっくり。そうやってごく自然に約束をくれるから、私は幸福な眠りに身を委ねられる。

　寝具へ潜り込み、スマートフォンに耳を寄せる。まるで隣で囁かれているようだと思いかけ
て、落ち着いていた熱が再びぶり返しそうになるのを感じて振り払う。
　目を閉じ、ずっと求めていたその言葉を待った。私をあたたかく抱く、唯一の声を。

「おやすみ、椿」