あわいゆめ

 

 とろとろと溶けるような午後だった。海も穏やかで、戦闘の気配は感じられない。

 一時的に戦線を離れ休息していた俺は、同じく編成から外れ、察するに惰眠を思う存分貪っているであろう相棒の所へ向かっていた。
 戦いに研ぎ澄まされた神経をバターのように蕩けさせる午睡だ。 俺と共に、近頃ほぼ出ずっぱりだったあの妹は、きっとこれ幸いとばかりに布団に包まっているに違いない。
 辿りついた部屋の扉をノックする。少し待つが、返事は無い。仕方なしに俺はドアノブへと手を伸ばした。
 すんなりと開くそれに一つ嘆息してから、部屋へと踏み入った。想像通り、部屋の隅に置かれたベッドの中央が山なりに盛り上がっている。
 傍らに近づくと、菫色の頭がちらりと覗いた。どうやら俯せて寝入っているらしい。 俺の侵入にも全く気付かず、小さな寝息を立てるばかりの妹に、呆れと若干の空しさを覚える。 もう一度だけ溜息を吐き、俺は側の椅子を引き寄せて腰掛けた。
 すると何かを感じ取ったのか、ベッドの中の固まりは小さく唸ると、俯せていた顔をこちらへ向けた。 見慣れた顔が覗いてほっとする。さらさらと髪が流れ、閉じられた瞼の上に重なる。 俺はそれを手を伸ばしてよけ、すべらかな髪質を確かめるように撫ぜた。 指の間を擦り抜ける感触が心地よくて、今度は広げた掌で柔らかく弾む頭頂部辺りに触れる。
 未だ眠ったままの妹の寝顔が、解けるように緩んだ気がして、胸の裡がじわじわと温まるのを感じた。
 優しい羽毛に包まれて眠る妹は、この世の全てのものから解放された、至福の光そのものに見える。 そして俺はその眩しさに、目を眇めることしか出来ない。
 それでも込み上げる感情と与えられた幸福感を堪えきれなくて、俺は殆ど息のようなそれで妹の名前を呼ぶ。
「……龍田」
「なぁに?」
 掠れた声に間髪入れず返ってきたそれは、寝言というにはあまりにもはっきりし過ぎていた。 見ると閉じられていた瞳はぱっちりと開き、唇は緩く弧を描いている。
 俺は思わず後ろへ仰け反り、慌てて触れていた手を退けた。
「っ、たつ、お前起きて……!」
「寝てたわよう。でもとっても気持ち良くて、起きなきゃって思ったの」
 普段よりもう少しゆっくりとした話し方は、確かに寝起き特有のものだった。 龍田は柔らかい布団の感触に頬ずりし、日向に甘える猫のようにくつくつと笑う。
「気持ち良いなら寝とけよ……」
「うふふ、だってぇ」
 弾んだ鼓動が漸く落ち着き、ばつの悪い俺が言う素っ気ない言葉にも、龍田は嬉しそうに微笑む。
 龍田は徐に布団から手を伸ばすと、行き場を失ったままだった俺の手を掴み、自分の頬へと触れさせた。 陽だまりのような温もりと相反する、すべすべとした肌の艶が指を吸い付ける。 思わず身を強張らせる俺に向かって、龍田が少し意地悪さを含んだ笑顔を向けてきた。
「天龍ちゃんに触られるの、好きなんだもの」
 俺の掌に唇を寄せて、龍田はあまく囁く。寝起きの龍田はどこか無防備で、そして危うい。 蜜のような艶でその身をしとどに湿らせながら、言外に様々な意味を含ませる龍田に、 俺の神経はど真ん中から揺さぶられる。
 けれど俺はそれを押し留め、龍田の白い頬を指先で撫ぜた。
「……起こして悪かったよ」
「やぁだ、思ってないくせに」
「思ってるよ」
 段々と意識が覚醒してきたのか、龍田は俺をいつもの調子で茶化してくる。
 しかしそれでも柔らかいままの龍田の笑顔に、留めようとしていた感情が言葉と一緒にするすると解き出されていくようだった。
「お前の寝顔が好きで――見てたかった、から」
 俺の言葉に、龍田は目を丸くした。素直な感情がこぼれ落ちるのはやはり気恥ずかしさがあったけれど、幸福に微睡む龍田にあてられたとしか言いようがない。
自分が今、この上なくだらしない顔をしている自覚はあった。鋭さや気迫なんて微塵もない、それこそ溶かされきった表情だ。我ながら情けなくなる。
 龍田はそんな俺をまじまじと見て、小首を傾げて問いかけてくる。
「……それ、ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ。……そんなすぐ起きるとは思ってなかったんだって」
 流石にそろそろ照れ臭さが勝って、余計に愛想のない言い方にはなったが、きっと表情はまだ緩んだままだ。
 何よりごめんな、と最後にかけた声が甘過ぎた。
 それを言われた龍田が暫し固まり、その後恐らく熱を持ったであろう顔を隠すように押し付ける程だったのだからいくらなんでも察しが付く。
 胸焼けしそうな甘ったるい午後に、姉妹二人して何をやっているんだと冷静な自分が騒いでいる。
 俺は僅かに覗く龍田の頬の赤みを伺いながら、再度行き場を失った手を顔の前で組んだ。 器用じゃない俺の言葉が、龍田にそっくりそのままでいいから、届けばいいと願いながら。
「お前、幸せそうに寝てるから。見てるとなんか、いいなって思う」
 俯せたままの龍田がびくりと身動ぎした。龍田はのろのろと顔を上げると、俺の方へ視線を向けた。 らしくなく火照った頬は、もうそれほど目立たなくなっていて、それに俺はらしくなく落胆する。
「天龍ちゃん、もしかしてばかにしてる?」
「ちげえよ。なんつーか、気持ちが楽になるんだよ。お前の寝顔見てると」
 拗ねたような龍田の口ぶりに、俺は思ったままの感情を言葉にした。 眠る妹の優しい顔は、いつだって俺に代えがたい安心をもたらす。それは昔から――まだ小さな頃から、ずっと傍らにあった安らぎだった。
 目を瞬かせて首を傾げる龍田に、行き場のない気持ちがこみ上げてきて、俺は思わず手を伸ばして柔らかい髪に触れた。
 口にできない思いを込めて殊更ゆっくりと撫ぜると、龍田は蕩けるような笑顔で俺を見つめてくる。
「天龍ちゃんが珍しく甘いわぁ」
「バーカ、俺はお前にはいつも甘いだろ」
「あら、自覚してたの?」
「お前も俺には甘いからな」
 どうせらしくない昼下がりなら、徹底的にそうさせてもらおう。 俺はそんな浮かれたことを思いながら、空気を含ませるように龍田の髪を撫でる。
 心地良さそうに目を細める龍田の、揶揄する言葉も全て耳に優しい。 触れていない方の腕をベッドにつき、龍田の顔を近くから覗き込む。普段より少し水分を多く含んだその瞳を、じっと眺めていると、不意に龍田が口を開いた。
「ねえ、天龍ちゃん」
「なんだよ」
「どんな感じなんだろうね」
 いつもの調子で、龍田はぽつりと言う。 間近で見た龍田の表情は、先程と何も変わらない。それでも瞳の奥に揺れているそれに気付かない訳がなくて、俺は全てが足りないその言葉をあえて補わず答える。
「俺は沈まねえよ」
 頭に触れた手はそのままで、俺は龍田の瞳に語りかける。 龍田は一瞬押し黙り、けれど結局全てを包み隠すふわりとした笑みで頷いて見せた。
「……うん、知ってる」
「お前も沈まねえ」
「もちろんよ」
「龍田」
「なぁに」
 勢いのまま言葉を繋ぎ、今度は俺が押し黙った。俺は黙ったまま龍田を見つめる。
 冷えた想像なんて無意味で無価値だ。それでもただ今俺が龍田に、ただ一人の片割れに、言えることがあるとするなら。
「お前と俺なんだ。例え海の底だろうと、見失ったりするもんか」
 龍田の細い髪に、指を絡ませる。例えその繋がりが断ち切れたとしても、俺達が離れることなんて有り得ない。
 こんなにも添うように息をする俺達を、一体何が断てるというのだろう。 だから、龍田。
「わたしったら、愛されてるなぁ」
「ああそうだよ、何だ今頃気付いたのか?」
 冗談めかして笑う龍田に合わせて、俺も肩肘を張った言葉でやり返す。他愛のない、普段の会話だ。
 気まぐれに龍田の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してやると、龍田はくすぐったそうに首を振り、そうして独り言のように呟いた。
「……ううん、知ってた」
 知らないよ。お前はきっと、俺がどれ程お前に救われているか、知らないんだ。
「天龍ちゃん」
「何だ?」
「名前呼んで?わたしの」
 甘えるような龍田の声に、俺は黙ってその願いを叶えてやる。
「龍田」
「うん」
「龍田……龍田」
 龍田は俺の声をまるで子守唄のようにして、目を閉じる。
 名前を呼んで、髪に触れて、それだけでこんなにも心がざわめくことを、俺は知らなかった。
「もう少し寝るか?」
 うとうとと微睡むような龍田に、俺は抑えた声で問いかけた。
 どうせ今日は出撃しない。龍田の為にあるようなこの柔らかな午後を、溢れる程与えてやりたかった。
 龍田は俺の声に薄目を開け、ゆっくりと口を開く。
「うーん……でも、天龍ちゃん、用事があったんじゃないの?」
 そう欠伸交じりで言われれば、もし用事があったとしてもそれ以上言えなくなってしまうことを、分かっているのかいないのか。
 俺は苦笑をかみ殺し、龍田の頭を撫でながら囁く。
「……いや、何もねえよ」
 嘘ではなかった。俺が龍田を探していた理由なんて、用事と言えるものではない。 それでも直接なんて言える筈がないから嘯くが、もしかしたら龍田は、全て分かりきってとぼけているのかもしれないとも思う。
 眠りの端を行ったり来たりしている龍田に触れる。
 少しの間部屋を埋めた沈黙を何と思ったか、龍田がぼんやりとした声で俺を呼ぶ。
「てんりゅうちゃん、いる?」
「いるよ」
 すぐさま返した声に満足したのか、龍田はふわりと微笑み、またとろりとろりと夢の中へ揺蕩っていく。
 俺はその泣きたくなる程柔らかい空気を感じながら、龍田の寝顔を瞳の奥へ刻み込んでいく。
 名前を呼びたくなるのを堪えて、髪に触れた手を離そうとすると、寝言と現の合間のような龍田の声がした。
「天龍ちゃん、あのね、わたしね――」
 言葉の続きは、夢の中へこぼれていったようだった。
 龍田の為だけのそのあえかな空間まで、それをさらいに行く訳にはいかないから、俺は龍田の言いたかった言葉を思いながら、一人で囁く。
「そばにいるよ、ずっと。  お前が笑う時も、泣く時も。 俺はいつだって――どこだって、お前を見つけるから」
 まるで何かの誓いのようになったそれを、自嘲しながらも俺は思わずにはいられない。
 もう一度だけと細い髪に指を絡め、ままごとじみたそれを終わりにして龍田から手を離す。
 言えない感情に蓋をして、俺は龍田の寝顔をただ眺める。 弾けて消えてしまいそうな午後だから、せめて目覚める時まで。
 この優しく甘い妹に焦がれることを、許して欲しいと願いながら。