有利が熱を出した。
　健康バカで筋肉バカの弟にしては珍しく、かなりの高熱でここ二、三日寝込んでいる。
　普段の風邪なら熱は出てもそれ程上がらず、身体が資本のスポーツマンにあるまじき失態と、ウイルスではなく自分の健康管理不足の所為だと悔いていた。
　その有利がここ暫く、部屋から出ていない。ベッドからも起き上がれていないようだった。
　心配だった。心配するなという方がどうかしている。 医者の診断も伝え聞いて、快方へ向かっていることを承知していても、不安だった。
　けれどもうお互い子供じゃない。 あまり過度に構うのもよくないと己に言い聞かせて、部屋には立ち入らなかった。
　看病する母親に様子を聞いては、隣の自室で一人、弟の部屋に向かって壁によりかかった。何をするでもなく、ただ一人、弟のそばにいるように、そこにいた。
　夜中、じっと息をひそめると、静かな廊下を伝って弟の早い、荒い呼吸が聞こえた。 瞬間今すぐにでも部屋を飛び出して、有利の隣に行きたいと足が動きかける。
　それを必死で自制して、壁にもたれて立ち尽くした。
　昔からだった。有利が身体を壊したり寝込んだりすると、いてもたってもいられなくなる。 まだ幼い、小さな子供だった頃。一人で眠るのが心細いからと、母でなく自分の手を握った弟。 小さな手を握ってやって、名前を呼ぶ。ゆーちゃん、大丈夫。お兄ちゃんがいるからね――
　遠い記憶に馳せていた思いを引き戻し、軽く閉じた瞳を開く。 そこにあるのは夜の闇といつもの自分の部屋だけで、幼い弟も、自分も、いはしない。
　いつから違ってしまったのだろうか。 時間が作る自分と弟の新しい関係。それを大切に思いながらも、昔の記憶を忘れることは出来ない。
　すべて変わらずにいられるものなどない。何もかもが変わっていく。分かっている、分かっているのに、俺は。
　自分と、弟の部屋とを隔てる壁に手を添える。この僅か数十センチの距離ですら、今の自分には超えることが出来ない。超えてはいけない。
　食い込む程に壁に爪を立てた。弟の息遣いは、変わらず荒い。朝には薬が効いていることを願いながら、有利を思う。
　待ってほしいなんて言える筈がなかった。踏み出すことも戻ることも出来ない足は、そこにとどまるばかりだった。それでもまだ眠りたくない。小さな手が、俺を求めていなくとも。

　その手の温もりが忘れられなくて、俺はまだ子供のままでいる。