23時52分、オレはテレビ局の廊下を早足で通り過ぎていた。
　23時56分、駆け出しそうになるのを堪えて急ぐ。スーツの下は汗だくだ。
　23時58分、殆ど小走り。運良く誰とも擦れ違わないのをいいことに、脇目も振らずに部屋へ向かう。
　――7月7日、午前0時。
　飛び込んだ楽屋にいた我らが蒼希彼方は、下着姿でアフロのかつらを被ろうとしていた。

「――何、やってんだ」
　振り返った彼方はオレの姿を見て黙ったまま頭を掻いた。
　手にしたピンク色のアフロを名残惜しそうに机に置いてから、あっけらかんと答える。
「えっと、サプライズを」
「何で祝われる方が仕掛けてるんだ……」
　オレの至極真っ当な指摘も、彼方にかかれば意味を成さない。コイツはそういう男だ。
　案の定彼方は当然だと言わんばかりに胸を張っていたが、ふとオレの汗ばむ顔を伺って意味あり気に笑ってみせる。
「やっぱり、祝いに来てくれたんですね。田中さん」
「……ああ、おめでとう。彼方」
　そう言ってたった今、また一つ年をとった彼方は、パンツ一丁でオレの祝福を受け取った。
「でも何もそんなに急いで来なくてもよかったのに」
「仕事中とはいえ、トップアイドルのお前が誕生日に一人って訳にはいかないだろう。収録、押してるらしいな」
「セットの不具合とかでちょっと。――あっ、でもそれならリーダーはいいんですか」
「アイツは今日オフだよ。カウントダウンするから邪魔すんなって釘まで刺された」
「そうなんですか」
　頷きながらも、彼方は含みのある笑い方をやめない。
　彼方の言わんとしていることなどとうに分かっていたし、それが的外れでないことも認めていた。けれどやはり自分の中でのオンだとかオフだとか、そういう線引きが頭の隅に引っ掛かっていた。
　オレは迷って、それでも結局溜息を吐いて降参した。
　突然のトラブルで事務所に戻らざるを得ず、日付が変わるまでに何としてもと彼方の現場に戻ってきた。そんな風に切羽詰まった様子で、文字通り楽屋へ飛び込んだオレの胸中は正直取り繕いようがない。
　それに何より今日は、彼方の誕生日だ。
「……まあ、職権乱用だけどな」
　オレは潔く本心をさらす。どうしたってそっくりそのまま言葉には流石に出来ない。それで
も、彼方には伝わったようだ。
　彼方は途端に満足気な表情を浮かべて、机の上にあった飲みかけのペットボトルを差し出してきた。当然彼方が口を付けたそれを、オレは躊躇いなく飲み干す。走り疲れてひりついた喉が癒されていく。緑茶のくせに妙に後味が甘かった。
「そうだ、田中さんへのサプライズが上手くいかなかった代わりに、このまま収録に戻るってのは！？」
「だから、お前が仕掛けてどうするんだよ」
　再度アフロへと伸びかける手に、空になったペットボトルを返して窘める。
　すると彼方は子供のように唇を尖らせて、持たされたそれを机に転がした。 一つ年を取っても根っこの部分はそうそう変わらない。 その幼さにほっとさせられながらも、時折強い焦燥を覚えていることはもちろん、言える訳がなかった。
　いくらなんでもいい加減服を着させようと、ハンガーにかけられた衣装を取ろうとした時だった。背後からノックの音が聞こえた。
「すみませーん、蒼希さんお待たせしました。収録再開しまーす」
　オレは衣装を掴み、そのまま彼方へと差し出す。促されるまま、手早く着替えた彼方を眺め、目立った乱れが無いかどうか確認する。
　スタイリスト泣かせなのは相変わらずだが、それでもある程度目を光らせ、見送るのがオレの仕事だ。
「じゃ、いってきます」
「彼方」
　身支度を整え、楽屋を出ようとする彼方を呼び止める。 不意を突かれた彼方がきょとんとしてオレを見る。
　オレはその背中を一度だけ柔らかく叩いた。
「その、何だ。ボケたいなら後で聞くから、我慢しろ。サプライズでも何でもツッコんでやるから」
　オレの言葉に、彼方はとってつけたように眉を寄せ、訝しむ視線を向けてきた。
「……田中さん、流石に下ネタが露骨すぎません？」
「バカ、違う！　あーもうとにかくしっかりな！」
「田中さんをそこまで走らせたんだから、ちゃんとやりますって」
　彼方はそう言うと、背中に触れたオレの手をとった。
　緩く繋がれたそれはすぐに離れて、オレは思わず大きくなった声で部屋を出ようとする彼方に呼び掛ける。
「待ってるからな、彼方」
　頷いた彼方の背を見送って、オレは机に転がるペットボトルを拾い上げた。ゴミをまとめて、彼方が残していったピンクのアフロを彼方の鞄の上へ被せる。

　0時20分、明日の彼方のスケジュールは午後から始まる。
　オレも楽屋を出て、撮影が行われている彼方の現場へと向かいながら、捩じ込んだその時間を少しでも彼方が長く過ごせるようにと考える。
　彼方が好きなように。 そう、あくまで彼方が好きなように。
　もちろん何かしら声がかかれば別だが――それとオレの午前の予定にゆとりがある事実は全
然、いや、あまり関係ない。