悪魔の夜

 

 集中している空気が伝わってきていたから何も言わなかった。
 こういう時は距離を置いている方がいい。浮かんでくるメロディー、書き立てる詩。その一つ一つと向き合っている時の男には、何を言っても余計にしかならない。

 練習終わりに流れのまま部屋に寄って、一緒に食事をした。
 その後何となく上の空になっていた男は、案の定俺に背を向けて、曲作りに没頭している。
 月夜は創作意欲が湧くらしい。今夜も例に漏れず、煌々と月明かりが差し込む窓辺で一人、 男はギターを抱えている。
 時折手元の紙に書いたり、ノートパソコンを引き寄せて打ち込んだりする姿は、 研ぎ澄まされた集中力と感性によって、どこか浮世離れした空気さえ感じさせる。
 俺はその隔絶された世界を乱さないように、少し離れたところで雑誌を読んでいた。
 部屋は薄暗い。それでも俺には手元の文字を読むことができる目が備わっている。
 静かに ページを捲る俺を包むように、男が爪弾くギターの音がしている。

 明かりの少ない部屋は、時間の感覚を曖昧にさせる。
 俺が気付いた時には、夜はかなり進んでいた。ギターの音もいつしか止まっている。
 雑誌から顔を上げた俺は、窓際へと視線を向けた。ギターから手を離した男も、計ったように俺を見る。
 指に引っ掛かった六弦が、夜の静けさにたゆたう低い音を、ぽつりとこぼしていった。
 男はギターを傍らのスタンドに置くと、俺の方へ近付いてきた。
 立ち上がった男の背後からは、相変わらず淡い月の光が差し込んでいる。
  座っている俺の目の前に腰を下ろすと、男は少し陰りを帯びた瞳で俺の顔を伺った。言葉は一つも無い。それでも何故か言いたいことがわかるような気がしていた。
 瞳の奥には、微睡みと渇きが広がっている。最中は感じられなかった疲れがまとわりついているのだろう。
 今にも四肢を投げ出して眠ってしまいたい。そんな堪えきれない微睡みがそうやって現れている。
 もう一つの渇きは――おそらく、やってきた俺に対する欲だ。話がしたいとかもっと間近で顔が見たいとか、そんな欲望。もっとも、それ以上の意味が込められていることも伝わってはきている。
 男はそんな衝動のせめぎあいの中にいる。自分でもどちらをどう優先すべきか判断できずに悶々としている。
 判断できるほどの余裕がないぐらいには疲れている。ということはつまり疲れが優先されるべきなのだが、思考は混沌としていてそこに気付く余地はない。
 柔い空気をさらして、俺に視線を向ける男に、俺は堪らなくなって手を伸ばした。
 緩んだ眦に触れて、労りを込めて撫でてやりたくなった。もういいから、目を閉じて ゆっくり休もう。
 しかしそれは叶わなかった。男は俺が差し出した手を捕まえて鼻先にあて、何かを乞うようにじっと見つめてくる。もちろん欲しがっているものなんて決まっていたけれど。
 広げた手のひらに、温かい呼気がかかる。湿ったそれを飲み込むように貪って舌ごと引きずり出してやりたい。
 こめかみを焼く衝動はうなじを辿って背骨に渡り、腰に沈殿する。煮立った肌と尖る爪が戦慄く。押し止めた飢えが唸り、その誘いに乗ってしまいたいと欲望が囁いている。
 それでも。
「……疲れただろ、寝ようぜ」
 俺の言葉に、男は一瞬目を見開き、それから小さく頷いた。
 捕らえられていた手を返してもらい、指の背で男の目元を撫ぜる。心地好さそうに目を細めた男は、もう一度首を縦に振った。
 それを合図に俺は立ち上がり、座っている男を引っ張り上げてベッドへと誘う。
 それほど広くないベッドの端、背を丸めて横になった男が、布団をかけようとした俺に向かって手招く。
 呼ばれなくてもそうするつもりだったが、求められる行為はいつだって俺の心を掴んで離さない。
 俺は男の傍らに寝転んで、背中に身体をぴったりと寄せる。
 ダサいダサいといじっているTシャツの柄も、 目に入らないと落ち着かない。それでも今向けられた背に満足しているのは、程近い体温と、潜り込んだ俺に嬉しそうに笑う声が聞こえたからだ。
 睡魔が男を連れていくまで、そう時間はかからないだろう。
 分け合う体温を肌で感じながら、燻ることなく収まっていた熱を思って、俺はひっそりと笑みをこぼす。

 悪魔に理性を選ばせるなんてお前ぐらいのもんなんだぜ、リーダー。