降り続けるそれは想像よりずっと悠々と宙を舞っていた。
 水分を含んだ重たいものばかりではないと知ってはいたが、実際に目の当たりにすると暫し見惚れてしまう。
 身をすくませる冷たさなど感じさせないような軽く美しい結晶。鉛色の空から絶えず落ちてくるその白い粒に、指先で触れる。
 下り立った北の地で初めて出会ったのは、掌で払い落とせてしまう乾いた雪だった。

 踏み入れた自分のものではない客室でその人と対峙した瞬間、空気が薄く研ぎ澄まされるような感覚を覚えた。
 規則的に揺れる車内の中、一人立つその男の輪郭は、澄んだ空気に霞んで霞んでいるように見えた。
 師匠、と呼びかけると、振り返った四宮は眼鏡の奥の瞳を一瞬物言いたげに細めて、創真をとらえた。
「……ご無沙汰してます」
「ああ」
 互いの乾いた声が、二人きりの部屋にぽつりぽつりと落ちる。
 それきり続かない言葉の端を引き寄せるように、四宮が一歩足を踏み出して声を出した。
「遠月って所はつくづく騒々しい場所だな。お次は連帯食戟ときた」
「そうっすね。本当、次から次へとって感じっす」
「まあ、何度も言うが俺の店に関しては中村薊なんぞ端から関係ねえがな」
 きっぱりと断言するその姿は尊大なように見えて、こちらに少しの心配も与えないようにと気を配っているようにも映った。
 ただそれが実際にそうなのか、自分が相手に対して一つの変化も見逃さないようにと気を向け過ぎているが故かは分からない。
 あながち考えすぎている訳ではない、そう思いたいと考えながら四宮を見ると、まともに視線がぶつかってつい戸惑う。
 再び広がる息の詰まるような沈黙に、重ねて四宮が口を開いた。
「痩せたか」
「それ俺が言おうとしてたっす」
「……そうか」
 ぎこちない会話に調子が狂う。
 久々に姿を見て、互いに記憶の中の存在と擦り合わせようとしている――だけではない。
 相手も距離を計りかねているから会話が続かない。分かってはいる。
 それでも二人きりでいるこの空間からは離れがたい。分かってはいる。分かってはいるのだ。
 掴み損なった縁がまた繋がった時、大人はどんな顔をするのだろうと創真は考えた。また繋がって、そして以前と同じように、相手も自分のことを見ていたとしたら。
 無意識に盗み見た一番近くにいる大人はまるで参考にならなかった。
 男はまるで先程覗き込んだ鏡のように、自分と同じ表情を浮かべていたから。
「幸平」
 たった一言、相手に名前を呼ばれただけで、身体に自然と力が入る。否応がなくぶつかる視線に息を飲む間もなく目の前の男は近付いてきた。
 腕が、伸びてくる。
「……っ、」
 広がった腕が静かに抱き寄せる。触れる衣服の感触、覚えのある匂い、何よりその細身ながら自分より厚みのある身体を感じて、一気に頭の中が相手のことで埋め尽くされる。
 言わねばならなかったこと。また胸を借りる礼に加えて、身体に変わりはないかとか自分は極めて健康だとかそんなこと。言いたかったこと。頭の片隅にはいつだって相手がいて、師としても、先を行く同士としても、その存在は自分を確かに支えていたこと。
 思いが交錯して言葉にならない。
 脳から指示を受け損ねている両腕は、眺めるしかなかった背中を抱き返すことも出来ずに垂れ下がっている。
 結局言葉も行動も何も返せないまま、近付いた時と同じように身体が静かに離れていく。
 力強く触れられた感触は鮮明に残っているのに、体温を移す間もなく、名残は何も残らない。肩先から滑り落ちる粉雪を思い出していた。
「幸平」
 言葉もなく立ち尽くす創真を、四宮がまた呼んだ。
 何かを噛み砕いたその声に、胸の奥でわだかまっていた言葉が取り繕えないまま滑り落ちていく。
「……何も残らねえ訳じゃないのか」
「あ?」
「いや、ひとり言っす。多分どっかでは分かってて――つーかもう、そんなことはもう、よく
て」
 見据えた先の男に向かって、創真は告げた。
「会えてよかったっす。師匠に――四宮先輩に」
 伝え切れない程の感謝と信頼と、伝えることのない思いを込めて言葉にする。
 何でもないような一瞬の触れ合いに、鼓舞と、労りと、終ぞ言葉にしなかった思いを込める相手に、応えるように。
 答えを口に出した瞬間、自分でも驚くほどすんなりと理解が出来て創真は驚く。
 再び繋がったその時は、その縁にただ感謝を伝えればいいのだと――感謝を伝えたいのだと思った。
 僅かに目を見開いた四宮の表情が珍しくて笑いかける。創真の微笑みを見た四宮は、悟ったように唇を引き結び、後ろを振り返った。
 流れていく車窓越しに、白い波がうねっている。吹き付ける雪の中を走る寝台列車は止まらない。
 やがて行き着く終点があったとしても、歩みを止める理由にはならない。また更にその先の地点へ向かう。
 人との縁を、料理を通して繋ぎながら。料理人として生きるということはそういうことだ。
 もう一度創真を見た四宮の顔は、以前と変わらない、先を行く者の顔だった。
 足を踏み出した四宮は創真の横を通り過ぎかけて立ち止まり、伸ばした手で軽く肩を叩いた。視線が一瞬だけ重なり、すぐに離れて、先を行く者らしく四宮は部屋を出ていく。
 すれ違いざま、一言だけを残して。
「――待たせんなよ」
 振り返った先の背中に向けて頷く。こぼれていくだけだとばかり思っていた肩先にかかる思いに答えるべく、深く息を吐く。
 少し間を空けて出た部屋を振り返ることなく、創真も歩き出した。