徒桜

 

 身を締め付けるような冬も終わり、気付けば草木が萌える季節となっていた。
 麗らかな春の陽気は心地良く解け、庭の緑を喜ばせる。世の喧騒とは全く無縁の安らぎはしかし、ほんの少しのきっかけで失われる危うさをも秘めている。

 かつて将軍と呼ばれたその身を柔い陽光にさらして、その人は季節の移ろいを肌で感じていたそれは即ち、時の流れでもある。歴史の幕を自ら引いたその日からもう、季節は一巡りしようとしていた。
「失礼いたします」
控えめな声と共に、静かに人の気配が近付いて来る。その人は身動ぎ一つせず、庭を見ていた。
「お伺いしていた一件、調べて参りました。――宜しいですか」
「……ああ」
 反応を見せない姿に、戸惑いを含ませて尋ねられる。その人は緩慢に頷くと、初めてやってきた人間の顔を見た。
「申し上げます。その名、坂本龍馬という男ですが――やはり以前ご報告した通り、京にて討たれたとのことです」
「そうか」
「しかしながら新しい情報が入りました」
「――何だ」
 視線を足元へと落していたその人は、死の事実だけで終わらなかった報告に思わず目を見開く
「はい。坂本龍馬と名乗る男は死した後、京の――」
 しかしやがて何かを察したように顔を伏せ、その先を遮るべく首を振って黙らせた。
「いや、もういい。手間をかけさせたな」
「……宜しいのですか」
 戸惑いを滲ませる男に向かって、もう一度首を振る。
 男はそれにすぐさま表情を消して頷くと、深々と頭を下げてから部屋を出て行った。
 その人は溜まっていた息を吐き出すと、流れゆく雲をじっと見つめた。雄大な空はどこから見ても、誰が見ようとも姿を変えることなくそこに在る。 将軍として仰いだ青にも、今の空にも変わりは無い。
 根付いた階級を取り払う――あの男、坂本龍馬と名乗った男は言った。無くなった仕組みに混乱を極めるのは、階級に甘え、あぐらをかいてきた人間だけだとも。
 虐げられてきた者、あるいはその生まれをただ受け入れるしかなかった者達にとっては、確かに要らぬ心配だった。身分を強いられてきた彼らはしかし、広がる空の青が変わらぬこともよく知っている。失うことに怯えるだけの人間たちよりずっと自然に、生の本質を知っている。

 向けられた刃の切っ先のように鋭く、真っ直ぐに刺さった瞳を、あれからその人は何度か思い出していた。いつかあの男と空の下、隔たり無く言葉を交わしてみたいと。
 男が語るこの国の未来をその口から聞きたいと思っていた。
 坂本龍馬、そう名乗った男の行く末を、その人は人知れず探していた。最初に入ってきた話では、土佐を離れた坂本はその後、京の近江屋で死に果てたとのことだった。
 ――既に死んでいる可能性はもちろん、考えた上で探ってはいた。しかしその経緯は実に複雑で、それまでの足取りを含め、掴み切れない部分が多くあった。
 その人は少しでも詳しく探ろうと、引き続き人を使い、足を辿っていた。
 そして今日、死亡以外の別の情報が手に入ったのだった。だが結局、話の先を耳にすることは無かった。
 考えられるのは一つ、死した坂本龍馬は別人で、その人が相見えた男は生きている。
 例えば――名を変えて。

 庭の木々を揺らす春の風が、緩やかに部屋を満たしていく。その人は深く息を吐いて心地良さを噛み締め、目を閉じた。方法はいくらでもあった。もっと早くその消息を掴むことも、今どこで、何を見ているのかも、知ろうと思えば容易かった。しかしその人はそうしなかった。言ってしまえば、小さな賭けのようなものだった。
 死んだままとされて動かないならそれも良し、もし名を変えて生きているとするならそれまでだ。そこに最早求めていたものは無い。 その人が会った男はあくまで坂本龍馬であり、男が残したのもその名だった。あの場で男が口にした名前、この国に生きる一人の人間として、未来への展望を語った口から出た名は、それが紛うことない真実であると告げていた。
  男の覚悟を、その人は汲んでいた。だから求めるのはその名の男だけでいい。例えそれが今はもう、繋がらない糸だとしても。

  目を開けると、変わらぬ一人の部屋がそこには広がっている。 風は変わらず柔く、ささめく木の葉の音に紛れて、椋鳥の囀りが聞こえて目を向ける。
  数羽の小鳥が寄り添う枝の木は桜だ。 しかしその花は早くに散り、所々緑が目立つようになっている。何れ散りゆくのは避けられぬ事実だが、その早さを憂わずにはいられなかった。
 根元に落ちた花弁と、掴みかけた男の名を重ねる。儚さを思うなら確かに似通っていたかもしれない。しかし男の目は次の春よりもずっと先を見据えていた。今にも瓦解せんとするこの国を危ぶみ、急くことを望んでいた。 徐に腰を上げ、その人は庭へと下りた。高い枝で鳴く小鳥を驚かさぬよう慎重に近付き、落ちた花弁を拾い上げる。 二度と見えることのない男に別れを告げ、そして一度も会うことのない男の未来を祈る。
  
 得たものを失って、あの時とは違う立場で向き合いたいと、願った時には遅かった。叶わぬ再会に未練は残るがそれ以上に、男の強い意志が焼き付き、心へと刻み込まれている。 一春の花のように過ぎた男が描いた明日を、変わらぬ空の下見届けんと、かつて将軍と呼ばれたその人は胸を張る。


 ――明日ありと 思う心の 徒桜